「ぶにゃっ」
「うわっ」

 主従が声を上げたのはほぼ同時で、チィは顔面をぶつけた衝撃で背中から本を落としてしまう。それが後ろからの突撃によろけたノアの足元に滑り込んでしまった。
 本の角を踏んでしまったノアの身体が大きく傾く。

(まずい――!)

 転ぶ、と思った先にはチィがいた。あいたた、と呑気にぶつけた鼻を押さえていて、落ちてくるノアに気づいていない。気づいていたとしても、猫としては致命的に鈍いこの使い魔では避けきれないだろう。
 自慢ではないがノアだって運動神経はかけらもない。しかしこの時ばかりは散りくずをかき集めて全力で身体を捩じった。そのせいで本を放り出してしまったし、きっと受け身もとれないが、小さな使い魔を押し潰してしまうよりはよほどいい。
 使い魔は主となる魔術師の魔力に依存しているため、心臓が止まってもすぐに蘇らせることができる。だが蘇生させるのはなかなかに手間だし、それに押し潰してしまって何かぶちまけるような事態になってしまっては片づけも大変だ。そうならなくても怪我は免れないだろうし、痛い痛いと騒がれても困るから、それならいっそ自分が怪我をしたほうがよほど楽なだけだ――と緊迫した状態であるのに、むしろ冷静に状況を判断している自分に少しだけ笑えてしまう。
 しかしどんなに思考ても状況が改善するはずもなく、むしろ視界に自分が放り出した本が見えたことにより、事態は思いの外問題が大きくなったことに気がついた。
 せいぜい打ち身でしばらく腰を痛める程度だろう、と思っていたが、あの重たい本の雨の打撃を受けてそれで済むとは到底思えない。

(これは予想よりも遥かに甚大な被害が出るのではないだろうか――)

 息をのんで、どうしようもないままただ無意識に身体を強張らせる。

「ノア!」

 突如として目の前が暗くなり、次の瞬間、全身に衝撃を受けた。
 背中が床に叩きつけられ息がつまる。
 はっと大きく開いた口だけでなく顔面を叩きつけられるような痛みを感じたが、何故か直撃を免れるはずのなかった後頭部との間に何かが挟まったように衝撃が吸収されて、思いの外柔らかく床に受けとめられた。

「っ、たた……」

 ひどく打ちつけた顔に手を回そうとするが、覆い被る何かが邪魔して指先がぶつかった。
 痛みに顰めていた目をよく凝らすと、目の前にヨルドの顔があってぎょっとする。

「ノア、怪我はない?」

 ヨルドはいつもの笑みは消し去り、心配そうにノアの顔を覗き込んだ。
 いつもは軽く掻き上げて後ろに流している黒髪は乱れて、肩から落ちた一房がするりと頬を撫でる。

「な、な……っ」
「うん、驚いたね。無理もほどほどにしないとだめだよ」

 誰のせいでその無理をすることになったんだ! と咄嗟に返そうとしたところで、もふりと再び視界が塞がった。

「ごめんにゃさいノアさま~! チィのせいです!」

 もふもふとした温もりを感じる鼻先から声の振動が響いてくる。
 どうやら気が動転しているチィが乗り上げているようで、そうとも気づかず喚き散らした。

「え~ん、ノアさまの意識がにゃい~っ!」
「チィ、上に乗ってちゃノアも応えられないよ。まあ、それはおれもか」

 ノアに覆い被さっていたヨルドは、チィを抱き上げながら身体を起こす。そのとき初めて、頭の裏に差しこまれていた手が抜かれていき、床に打たないようにとヨルドが守ってくれたことに気がついた。

「はにゃせー! ノアさまー!」
「……うるさいぞ、チィ。少し黙れ」
「ノアさま!」

 上半身を起こしたノアに、ヨルドから解放されたチィが飛びつくように張り付いた。
 またもごめんにゃさいと鳴くので、宥めるためにその背を撫でてやる。
 引き剥がしてやってもよかったが、こうしないといつまでも落ち着かないためだ。放っておきたいところではあるが、このキンキンとした鳴き声を聞き続けることは避けたいので仕方がない。
 チィを落ちつけている間に逡巡し、状況を整理する。そうするとまたもヨルドに助けられたという結論しかなく、ノアは深く溜息をついた。

「……すまなかったな」

 不本意ではあるし、それが表情に出て険しい顔になっている自覚もあるが、最低限の礼儀知らずにもなりたくないのでしぶしぶ謝罪の言葉を口にする。
 助けてくれと頼んだ覚えはなく、自ら勝手に巻き込まれに来たのだし、そもそも事故の起因は彼にあるのだが。
 少なくともヨルドのおかげて頭を打つことだけは免れたことも事実だ。
 それなりに勢いよく倒れ込んだので、挟まれた手は痛むだろう。それに、倒れたときにどこかぶつけたのか、彼の唇が切れて血が滲んでいるのも多少   良心が痛まなくもない。
 自分でも謝罪をするのは珍しい自覚があり、ヨルドも驚いたように目を瞠る。だがすぐに優しく目尻を下げた。

「おれのほうはこれくらいどうってことないよ。それより、ノアに怪我はない? 痛むところは?」
「ふん、私だってこの程度なんてことはないさ」
「本当ですか!?」
「ちょ、チィ……」

 主人の無事を喜ぶチィの勢いに押され、また後ろに倒れ込みそうになったのをどうにか堪えた。
 ヨルドの手前強がったものの、背中の痛みは未だに引かず、顔面もまだじんじんとしている。また倒れ込んだら呻き声のひとつくらいは上げてしまうかもれない。チィだけならともかく、この男に弱みを見せるなどしたくもない。
 とはいえ犬のように顔に飛びつこうとするチィがばたばたと暴れるので、その振動に身体の痛みが揺さぶられる。

「……本当に大丈夫か?」

 思わず顔をしかめたノアに気づいたヨルドが手を伸ばしてくるのが視界の端に映る。
 わざわざ触れられる必要などない。虫を払うように叩き落としてやろうとして、ふときらりと光るヨルドの手首を目が向かう。
 ヨルドの指先が届くよりも早く、ノアのほうからその腕を掴んだ。

「き、貴様! これは……!」
「え? ――あれ、なんだろうこの腕輪。こんなものつけた覚えはないけど……ああ、ノアも同じのがついているね」

 ヨルドは首を傾げると、ノアの手首にも同じように装着されている滑らかな金の腕輪を見つけた。
 何かが彫り込まれているわけでもなく、宝石を埋め込むような華美な飾りのない素朴なそれは、二人の腕で控えめな美しさを見せている。

「ノ、ノアさま……それってもしかして……」
「 ――言うな、チィ。まだそうと決まったわけじゃない。そんなはずはないんだ……」

 互いに身に着けた覚えのない金の腕輪。それはここ五日間に嫌と言うほど睨み合った例のあの腕輪で間違いなくて。それが何故いま、二人の手首にしっかりと収まっているというのだろう。
 困惑するヨルドの腕を握り締めたまま、ノアは必死に思考を巡らせた。
 まず思い返したのは、婚約腕輪の装着方法だ。魔術を組み込むため、間違って取りつけてしまわないように手順を設けた。正式な方法は依頼主の王の意向に合わせるつもりだが、その前に誤りが起きては大変なので、ノアのほうで暫定的に決めていたものだ。
 簡単ではあっても、そう条件が満たされることがないように決めた装着手順。それは、腕輪の上で触れ合いながら口づけを交わす、というものだ。
 相手に触れるなら、抱き合うでもただ手を繋ぐだけでもいい。どこかしらで少し素肌を重ねるだけでよかった。それに加えて、婚姻を交わす約束をする二人なら口づけくらいするはずだからとそれにしたのだ。これなら万が一腕輪の上で触れ合うことがあっても、口づけまで至ることはまずないと考えた。
 場合によってはノアが仮に定めたこの手順を王が受け入れることもある。手直しするの少ないほうがいいと浪漫的な彼の趣味に合わせてた結果だった。
 つまりはノアとヨルドが腕輪をつけるには、腕輪の上でその儀式的な行為をしなければならないということ。しかし倒れ込んだときに接触があったことは理解できるが、少なくとも彼と口づけをした記憶などまったくなかった。

(――いや待て。顔面の衝撃は、本の面が落ちてきたものとばかり考えていたが、それはおかしい……)

 チィが落とした本を踏んづけて倒れた直後、ノアの視界が隠れた。おそらくそのときにヨルドに庇われたのだろうが、顔面に衝撃を受けたのはその後のこと。
 しかし、それならノアの顔面に本が落ちてくるの不自然だ。
 本が落ちてくる前に、目の前にはヨルドの顔なり身体なりがあったから視界が遮られたはずだ。それなら本が落ちる先はヨルドでなければおかしい。なのに何故、ヨルドの頭に当たらずノアの顔に落ちてきたというのか。

「ノア、本当に大丈夫なのか?」

 黙りこくったノアに声をかけたヨルドの口元を見る。二人が会った時点ではなかったもので、先程の一騒動後に出来た真新しい傷からは血が滲んでいる。
 どこかにぶつけたのだろうが、ノアを庇った彼が背後ではなくどうして顔に傷を負っているのだろう。

「その、口の傷……」
「……ああ、ごめんね。ノアも、痛かっただろう。血が出てる」

 払い落とす間もなく伸びた指先が、そっとノアの下唇に触れた。

「やっぱり痛むんだろう? 救護室に行って手当してもらおう。他にも怪我がないか、ちゃんと診てもらったほうが――」

 指先が当たるとちりっとした痛みが走り、そこに傷があることを知る。そして思いつきたくはない、けれどもそれしかない真実を見つけてしまった。
 二人で倒れ込んだあの時、ヨルドとノアは互い顔をぶつけていたのだ。だからその勢いで当たった口元が傷を作り合った。そして不幸なことに、二人の下には婚約腕輪が落ちていて、条件を満たすことになった――。
 信じたくはない。信じたくなどないが、一連の出来事を証明するよう、二人の腕には腕輪が滑らかな光を放っている。
 ヨルドの腕を掴んだまま立ち上がったノアは、険しい表情で彼を見下ろす。

「……――急ぎ陛下のもとへ行く。ついてこい」

 ただならぬ気配を感じ取ったのか、ヨルドは理由を尋ねるでもなく、それ以上何かを告げることもなくただ静かに立ち上がった。
 
 
◇ ◇ ◇ ◇ ◇


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