デクの父は巨人族で、母は人間だ。しかしそれぞれがその種族の普通、とは言い難い特徴を持っていた。
 巨人族である父ユグは、成人をしてもなお成長盛りの巨人の子供ほどしかない低身長で、対して母メリアは人間では周りの男を軽く越してしまう、当時は女ながらに町一番の長躯だったのだ。
 身体の大きな男ほど頼りとされ、誇らしいこととされる巨人族で、ユグは周囲からも家族からも蔑まれていた。やがて爪弾き者にされる居心地の悪さから里を抜け出て、一人で宛てもない旅に出たのだ。そして様々な土地を巡り、その途中で立ち寄った土地、今デクが暮らしている町で将来の妻となるメリアと出会った。
 巨人族では子供ほどしかないとされるユグであるが、人間とは比べるべくもない。三メートルほどの背は人間側からしてみれば見上げなければならないほどで、いくら長身とされていたメリアとて、ユグからしてみればしゃがまなければ目線が合わない。
 メリアは成長を終えた自分よりも大きい人は初めて見たと驚き、無邪気に喜んでみせたという。山に籠りあまり人前には現れないという巨人族という物珍しさもあり、彼女は積極的にユグに話しかけた。
 多くを語り合った二人はそれぞれ背に悩みを持つ者同士相談をし合ったり、そんなことでなくても他愛のない話をしたり、いつしか友と呼べる間柄になっていたそう。
 ユグは寡黙で顔も厳つく、常に真一文字を結ぶ口元に到底親しみやすさはなかったと彼を知る町人は言う。だが誰しもが、顔には似合わずおおらかな心を持ち、困っている人がいれば黙って手を貸すような、わかりづらくも実直な男だったと言葉を続けた。
 口下手であったユグが周囲から外見に反する内容を見てもらえたのは、ひとえにメリアの存在あったからだ。
 一切無駄口のないユグとはまるで正反対に位置するかのように、メリアは話好きの人懐こい、絶えず笑みを浮かべているような実に明るい女だった。周囲は皆メリアの放つ明朗な雰囲気にのまれ、たとえ暗く落ち込んでいたとしても、彼女を眺めているうちにやがては根負けしたように頬を緩めるのだという。
 大の男でさえ悠々とその影に覆えてしまえるほどの巨体を持つユグの傍らには、いつも幸せげに微笑むメリアがいた。黙っていればむすりと不機嫌そうな凶悪な面をする巨人族の男に町人たちはなかなか慣れずにいたが、常に快活な女が懐き、その隣で屈託なく笑んでいるのだからと、時間をかけながらも皆それぞれがユグを受け入れたのだ。
 ユグは、人間よりは大きな身体を持つ己に物怖じすることなく、周囲と同様に接してくれるメリアが眩しかったのだろう。巨人族では小柄だったという理由で煙たがられていた。しかしメリアは種族が違うというにも関わらずいつもユグを気にかけ、話しかけもしてくれた。もしユグが人間で、人間たちのなかで馬鹿にされるほど背が低かったとしても、きっとメリアは今と変わらず笑いかけてくれていたのだろうという確信すら抱くほどに、いつしか彼女を信頼していたのだ。そしてメリアもまた自分を女と扱ってくれるユグに、誰しもに平等に優しい彼に心惹かれていった。
 彼らが友となり、そして互いに恋するようになるにはそう時間はかからなかった。
 ユグは放浪の旅を終えて町に根差すことを決め、それから二年経った二人の出会いの日にユグは彼女に婚姻を申込んだ。このときばかりはメリアも絶えず浮かべる笑顔を消し去り、顔をくしゃくしゃに歪め涙しながらも頷いた。それからさらに二年後、町中に響くような産声を上げ、二人の子、巨人と人間の間の子であるデクが生誕したのだった。
 今はもうユグもメリアもこの世にはいない。デクが八つの時に先に父が、その後を追うかのように母が、同じ流行り病にかかり亡くなっている。
 彼らが傍から消えたのは十年以上も昔のことである。デクは両親の記憶はまだらにしか残してはおらず、今ではもう彼らの顔も曖昧だ。見ればいつも泣き出していたという今のデクとそっくりだという父の凶悪面も覚えてはいない。
 彼らのその声も、あの手の大きさも、触れ合った温もりも、かけられた言葉たちも。そのほとんどが遠い過去のもの。だが唯一、はっきりと覚えているものがある。
 周囲の沈鬱な気配も吹き飛ばしてしまったという、明るい母の笑顔。それだけはいつも目を閉じれば蘇ってくる。デク、と柔らかに呼んでくれていたことを、その声音は思い出せないはずなのに頭の奥底に記憶しているのだ。
 容姿も性格さえも父に似たデクは、いつか母のような笑顔の素敵な女性に巡り合えたらと願っていた。孤独に追いやられ旅に出ていた父を母が受け入れたように、自分のことを理解し、それでもいいのだと言ってくれる人が欲しかったのだ。
 町の妙齢の女たちは、デクと目を合わせるだけで微笑を浮かべるどころか怯えたように目を背ける。二言三言話すとすれば壮齢の主婦たちであり、デクの両親を知る彼女らがたまにおすそ分けだと料理をくれるときくらいなものだ。そもそも同性が相手だとしても滅多なことでは会話はない。
 巨人族の血を半分だけ引く身体。しかし、それが表れる長躯が人々を遠ざける理由ではないことをデクは自分自身のことながらに理解していた。背が高かったとして、生粋の巨人族であり、デクよりもさらに長身の父が受け入られていた事実が、この町には確かにあるのだから。
 外見のせいなどではない。町人たちはなによりデクのこの性格に寄りつかないのだ。
 無口であまり愛想をよくすることもできず、そのせいでなにを考えているのかわからないと薄気味悪がられ、恐れられている。もう少し口がうまく回ればせめて友の一人ぐらいならばいたかもしれない。だが今やっている生き方しか知らないのだ。これから学び始めようとした矢先、それを教えてくれるはずの両親が相次いでいなくなってしまった。
 なにも、町人の全員でなくていい。これまで通り皆から恐れられてもいい。
 自分を愛してくれる人が、笑顔で迎え入れてくれる人が、たった一人いてくれればいい。父が見つけ出した、母のような人がいてくれれば。
 常に不機嫌そうに見えた父。けれども本当はいつもご機嫌で、顔には出ないまでも母とともに心の内で実は笑っていたのだ。母にはきっと、誰にも見えないはずのその父の笑みが見えていたのだろう。
 デクは今、笑っていない。隠されているその心の中もいつだって表情と同じく凍りついてしまっている。誰かがそこに温もりを与え溶かしてくれるのを待ち続けていたが、その相手は一向に現れる気配もない。
 ――それならば。一度くらい、試してみてもいいのではないだろうか。魔女からもらった矢に願いを託してみても、許されるのではないだろうか。
 本来の目的地であった川に口を開かせた水袋を沈める。水に浸かった右の手首がやけに冷え、やがて緩やかな流れに感覚を切り離されていくように錯覚した。だが左手で握る矢はその存在を決して見失わせはしない。
 矢の効果は人の心を操るものである。あの女が本物の魔女で、この矢に魔法がかけられていたとするならば。そうなのであればデクは、本当に愛を得られるのだろうか。
 道具が本物だったとしても、効果が表れたとしても、相手に生まれる恋心だけは偽りのもの。魔法にかけられただけの相手が真にデクを愛することはない。
わかっている。わかってはいるが、だが一時の夢であったとしても、騙されたいと思ってしまった。偽りでもいい。確かな好意を向けられてみたいと、矢を手渡されたとき期待してしまったのだ。
 自分が思っていた以上に孤独を抱えていたらしい心は、掴んだ矢の存在に落ち着けず、いつまで経っても川底に沈めた手を引き上げることができなかった。
 ときは経ち、ついに指先がふやけ始めた頃にようやく手を引き上げる。すぐに水袋の口を締め、ぽたぽたと落ちる水滴をそのままに川に背を向けて歩き出した。
 作業場へと続く道を進みながらも、やはり考えるのは矢のことばかり。その思考は、これが本当に不思議な効果を得ることができる品物であるか魔女の言葉を信じるべきか、ではなく、この矢を誰かに使ってもよいものなのだろうか、という悩みに占められる。
 本来であればあまり人を疑わずその言葉通りを受け入れるデクにとって、不信を抱かれてもなお毅然とした魔女の態度に、虚言かもしれないという疑惑などすでに吹き飛んでしまっていた。
 行きは長い寄り道をしたがため、川に辿り着くまで相当の時間をかけてしまったが、何事もない帰り道はあっという間に通り過ぎてしまう。
 もうじき作業場がある開けた場所が見えてくるというところで、ふと話し声が聞こえてきた。聞き覚えのある柔らかな声にデクは一度足を止める。
 デクは視力が然程よくない代わりに聴力が優れている。巨人ならば皆そうで、彼らの血を継ぐデクにも備わっている特性であった。
 広くから音を拾える耳で男女二人の声を捉える。片方はデクが作業場から去ったときに眠りについたユールのものだ。そして、もうひとつ。それはあの人のもの。
 止めた足をそろりと動かし、道から逸れて本来出るべきところより離れた場所から森を抜ける。道を辿った先の出口には会話をする二人がいるからだ。
 二人からは死角になる民家の影に潜み、彼らがいるのであろう場所を覗き込む。少し距離があり、デクの視界にはようやく男女の姿が滲んだように映った。
ぼやける世界の中では、積んだ木材に背を預け眠っていたユールは立ち上がっており、その手前に一人の小柄な女が立っていることだけがわかった。なにより見えなくとも彼らの声だけはしっかりと聞こえている。
 どうやら一昨日ユールが働く理髪店を利用した女、リエルが、そのときの感謝を改めて伝えているらしい。
 ユールは軽く右手を振り、気にするなと優しげな色を声に溶かす。きっとデクに見えないだけで表情まで温和なものへと変わっているのだろう。
 女子供には紳士的であり、目上の者への礼儀を持ち、同世代の者にもユールは愛想がよかった。誰とでも打ち解けられる彼は町では評判の青年である。そんなユールは何故かデクにだけややつらく当たるのだ。ときに辛辣な言葉をかけてくるも、しかしデクの他にそのような態度をとる相手はいない。
 今だってデクだけがよく知らない顔でリエルと向かい合っているのだろう。彼が浮かべる表情を想像してみるも、いつも見る嘲笑じみたものしか思い浮かばなかった。
 彼になにかしてしまったのだろうか、と過去を掘り起こしてみたこともあった。だが接触したのは一度だけ、両親が亡くなってしばらく経った頃のことだったと思う。
 そのときユールがなにかに怒っていたような記憶はあるが、当時のことはひどく曖昧であり、自分からなにもしていないはずではあるが自信はなかった。少なくとも十年以上経った今も口悪くされるような理由ではなかったはずである。どんなに振り返ったところで、ユールが何故デクにだけ睨むような視線を送ることもあるのか、結局わからずじまいのままだ。
 ぼやける視界の中、不意にユールが背後の森へと振り返る。それにリエルが小首を傾げた。

「どうしたの、ユール」
「いや……ただ水汲みに行ったにしては遅せえなって」
「ああ、デク――彼、少し休んでいるのよ、きっと。いつも身体を使う仕事なんですもの、どこかで疲れて寝ているのかも」

 リエルの声音が少し曇ったのがわかったが、それでも小さなあの口から名を呼ばれたことにデクは思わず息をのんだ。そして戻らぬ自分を思いやってくれる言葉に心がざわつく。
 そんな少し離れた半巨人の様子など知らぬユールは顔を前に戻した。

「あいつがさぼりね……ま、いいけどよ」

 どこか納得していないようだが、ユールは顎先で頷いてみせた。

「ねえそれよりも、そろそろお店に戻るんでしょう? わたしも途中まで一緒に行ってもいい?」
「別に構わねえよ。ただおれはもう少しここにいるけど」

 話題はすぐに逸れ、二人は淀みなく和やかな談笑へと戻る。デクは一人、浮き足立った心を抱え彼らを、リエルを眺めた。
 きっと笑っているのだろう。ユールが話す困った客の話題を聞く彼女の肩は揺れ、口元を右手で隠している。
 花屋で働くリエルはデクとユールと同い年の女だ。いつも控えめながらも愛らしい笑みを口元に浮かべており、柔和な雰囲気を纏っている。実際おっとりした性格で少し抜けており、美人とはいかないまでも愛嬌のある顔をしていた。幼い顔立ちで、ふっくらとした頬は朱が差しやすく、さらに身長は後ろ姿を見れば子供と見紛うほどで、実に男どもの庇護欲を掻きたてるような人物である。
 リエルに密かに好意を抱く男は決して少なくはない。そしてデクもそのなかの一人であった。
 確実な恋心を抱いているわけではない。愛らしい、とは思うがそれまでだ。だが彼女を見ていると気分が落ち着かなくなり、つい目で追おうとしてしまう。少なくとも気になっているのは確かだ。
 見かける度にリエルはいつも笑顔だった。誰と話していてもその表情で、だからデクは、ずっと昔から彼女に憧れを抱いていたのだ。だがデクの前でだけ、消えるといかないまでもわずかに彼女の顔は曇り、戸惑いが生じる。それまでの自然な笑みでなく取り繕ったような無理なものに姿を変える。それが悲しかった。
 自分の前でも皆に見せるように微笑んでほしい。自然なそれを見せてほしい。そう、いつも願っていた。
 デクが望む顔をユールの前で見せるリエルから目を落とし、持ち上げた左手を見る。そこに握られる矢に込める力をわずかばかり強めた。
 これを使えばきっと、願いは叶うだろう。彼女はデクに笑いかけてくれる。
 どんな自分勝手にリエルを巻き込もうとしているか理解していた。だがこうもしないと彼女に話しかけることすらろくにできない自分に、母のように笑んでくれる相手は現れないだろう。
 少しの間でいい。一度でいい――だから。
 唇を引き結び、デクは一度大きく深呼吸をした。
 魔女はこの矢を実際に射る必要はないと言った。矢尻を相手に投げるでも、単に触れさせるだけでもいいと。そしてそれで傷つく者は出ないとも。
 実際デクも矢先を握ってみたが、光るほどに研がれたそれは強く握り締めても不思議と痛みはなかった。確かに掴んでいる感触はあるものの、力を加えてもそれ以上にはならない。リエルに矢が当たったとして痛みを与えることはないのだ。
 彼女は見かける度に誰かとともにいて、それは町中であることが多い。周囲に人が大勢いるのがほとんどなのだが、今はリエルとユールの二人だけだ。周りに障害物も少なく風も吹いてはいない。それを考えれば今はこれ以上ない絶好の機会だ。
 これを逃せばきっと、もう好機は訪れないだろう。
 顔を上げれば二人はまだ会話を楽しんでいた。だがその内容はもはやデクの耳には届かない。聞こえてはいるが、高鳴る心臓が言葉として認識することを阻んでしまう。
 生唾を飲み込み、二人に気がつかれないよう、一歩踏み出し半身を建物の影から出す。頑なに握り締めていた左手を緩め、利き手に矢を持ち変えた。
 詰めていた息に気がつきそろりと吐き出す。空気を吸い込み、また吐いて。
 手にした矢を顔の脇で構える。決意が鈍らぬうちにとリエル目がけてそれを投げた。
 半巨人の手から放てた矢は勢いをつけ、まるで本当に弓を使用したかのようにリエルへ一直線に飛んでいく。

「――あ」

 思わずデクの声が漏れる。だがそれは、投げたことへの後悔からではない。魔法の矢を放ったとほぼ同時、ユールが動き出したからだ。
 座ろうか、と彼は言った。そしてリエルの背後に積まれている、少し前まで自分が背を預けていた木材を示し先に歩き出す。立ち止ったままのリエルを左に避け、デクから見て彼女を影に隠してしまう。
 デクの焦りなど知らぬよう、もはや止まらぬ矢はユールの左腕に突き刺さった。

「ん?」

 腕に矢が刺さったにもかかわらず、ユールは痛がる素振りも見せず、ただなにか感じたものに自身の身体へ目を落とす。しかしそのときには忽然と矢は消え、なんの変化もないユールの腕だけが残された。
 幸か不幸か、リエルから矢は見えず、立ち止ったユールに不思議そうに声をかける。それにユールは首を振り、彼らは目的通りに積まれた木材へ並んで腰かけた。
 そこへふらりとデクは顔を現す。
 それまで楽しげに笑んでいたリエルはデクを見つけるなり顔を強張らせるも、すぐに平然を装い、腰を下ろしたばかりのはずのそこから立ち上がった。

「デク、お帰りなさい。休憩から戻ってきたのね。それじゃあユール、お仕事の邪魔にならないようわたしは行くとするわ」

 最後にお仕事頑張ってね、とそれぞれの顔を見て、リエルは足早にこの場から去っていった。
 残されたデクは兢々とユールに目を向ける。だが目線は合わず、彼の目はデクの服へと向けられていた。

「おい、おまえその服……」

 唸るような声にデクも自身へ目を落とせば、腹にべったりと血がついていた。黒い服で色は判断がつかないが、濡れているし、捲ったデクの腕に血が掠れているのと、漂う匂いを嗅いでわかったのだろう。
 テイナスを運んだ際、彼の傷口から溢れた血が服に付着してしまっていたのだ。他に気をとられすっかり失念していた。
 内心では未だに狼狽する心を抱えながらも、表情には微塵もそれを滲ませないまま、デクはなりゆきをさらりと説明した。
 普段であれば、別に、の一言で片づけてしまっていただろう。ユールに話しているうちに、ようやく自分がひどく動揺してしまっていることを悟った。
 魔女に出会ったことには触れず、森の道中で拾った傷ついた鹿をただ川辺に運んでやったのだと、多少事実を変えて自身が纏う赤について伝える。
 話に耳を傾けていたユールは、聞き終えるといつものように鼻で笑った。

「はっ、どんくせえな。それなら服を汚さないよう頭を使えばよかったろ。抱えなくても運びようだって色々あんだろうが」
「――そうだな」

 いつもであれば返事すらしないが、気が動転しているからか思わず返してしまう。それに驚いたのは他ならぬユールで、わずかに緑の目を見開かせていた。だがすぐに目を鋭くさせつつ腕を組む。

「昼休憩とっとと入って着替えてきちまえよ。おまえみたいなのが血だらけの服なんて着てたら、誰かをぶん殴ったんじゃないかって勘違いされちまうぞ。親方たちだって気が気じゃねえだろうよ」
「そう、だな」

 ユールが言葉を連ねていく度に、デクは自分を落ち着かせていく。
 いつも以上に覇気のないデクを怪訝そうな眼差しを向けるも、それ以上ユールがなにか告げようとすることはなかった。デクの脇を通り、挨拶もないままに町中へと向かう。恐らく仕事に戻るのだろう。
 デクはユールに指摘された通り、自分が暴力を振るった果ての返り血だと誤解されたのならば敵わないと、仕事現場からそう遠くない場所にある自宅へと向かった。
 思いがけず帰路に就くことになりながら、デクは呆然としながらも足を動かす。
 矢は確かにユールの腕に突き立てられ、そして姿を消した。その間に瞬きなど一度もしなかったのだから見逃すわけも見間違うわけもない。だが魔法の矢を受けた当の本人にまるで変化は見られなかった。
 人の心を変えてしまう矢。それを使った人物に対し、使用された相手は慕情を抱くようになるという。そうであるならばユールはデクに恋をしなければならない。だがユールはデクだけに向ける態度を改めることなく、いつものようにきつい言葉を投げかけられもした。
 本来人がいいとされる男が、はたして好意を寄せるよう仕向けられたデクに対し、普段見せる態度のままであるのだろうか。
 魔女はすぐに効果が現れるだろうと言っていし、それらを語った瞳に偽りはないように思えた。しかし現実ではユールはユールのままである。
 ――騙されたのか。
 ぽつりと、心の中で呟く。
 やはり人の心を変えることができるなどという都合のいいものは、初めから存在などしていなかったのだ。それもそうだ。そんなものがあったとするならば、この世のすべてがあの魔女の意のままになることだろう。
 事実を受け入れればようやく平常が戻ってくる。いつも丸くなっている背を心なしかさらに曲げ、デクは歩き続けながら身体に似合わない小さな溜息をひとつつく。
 心の中には残念がる自分と、安堵する自分がそれぞれ両片隅に混在していた。だがすぐに思い改める。
 そうだ、人の心を身勝手に操っていいはずがない。これでよかったのだ。これまで通りであるべきなのだ。
 自身に言い聞かせるよう、内心で似た言葉を幾度も繰り返す。だが早々にあの場を去ったリエルの姿がそこから消えることはなく、また矢を受けたユールになにかしら害が起きていないか後々になって不安を覚える。しかし今回の事情を説明するわけにもいかず、真っ向から身体の異変など尋ねることはできないだろう。
 影から様子を見るだけ、それならばしても許されるだろうか。
 デクはユールのことを深く考え、そして心配する。巻き込んでしまったせいではあるが、彼のことをこれほどまでに思うのは恐らくこのときが初めてだった。