初めから勢いに任せ食べ続けたテイルは早々に白旗を上げ、人並みにしか食べないユールはそれでも弟より後に食器を置いて口元を拭っていた。兄弟は最後まで食べ続けられなかったが、しかし机を占領するほど用意されていた料理の数々は、今や骨や空になった皿を残してすべてが平らげられている。
 膨れた腹を擦るテイルがよく食べるなと感心を通り越して半ば呆れるほど、まるで吸い込むように肉を食らっていったのはデクだ。兄弟が残した半分弱はデクの胃にすべて収まっている。
 人より巨体な分もとより食べる量は多いほうだったが、しかしこれほどまでに腹に詰め込んだのは久しぶりだ。もう水の一滴も入りそうにないとデクが呻けば、そりゃそうだろうとユールの呆れた顔が向けられる。
 無理をするなと途中でユールには止められていた。彼の予想通り、デクの腹は破裂しそうなほど、膨らんだ胃が喉まで押し迫っているように感じられるほど苦しいが、しかし決して無理などしていなかった。食べたいという欲求に正直に過ごしているうちに気がつけば目の前の料理すべてが消えてしまっていたのだ。身体の限界に気づけぬほどに、終盤ではすっかり冷めてしまったはずのそれらが美味しいままだったせいだろう。
 椅子にふんぞり返るよう凭れていたデクの傍らで、ユールは食べ終えた食器を重ね片づけ始めた。それに気がつきデクも背を浮かしたところで、兄の手伝いを始めたテイルに止められる。

「デクはゆっくりしてろよ。片づけはおれたちがやるからさ」
「だが」
「おまえみたいなデカブツにうろつかれたらかえって邪魔だ。おまえん家みてえにでかくねえんだよ、この家は」

 そういうわけにもいかないと、テイルの制止の声も聞かずデクが立ち上がろうとしたところで、奥に皿を置きに行ったユールの声だけが届けられた。
 確かに狭い家の中で自分のような者が動いていれば、むしろユールたちの行動の妨げになるだろう。
 納得したデクは申し訳なさを感じながらも、片づけは兄弟に任せることに決めて再び背もたれに寄りかかる。一息ついているところに、早くも食器を流し台に運び終えたテイルがやってきた。
 少し前まで腰かけていたデクの右正面の席に座り、満面の笑みをデクへと向ける。

「久しぶりに肉にありつけたし、兄貴とだけじゃなくてデクとも一緒に食えたから楽しかった!」
「――楽しかった?」
「ああ!」

 思いがけないテイルの言葉に、デクはこの家に来てからもう何度目かになる目の瞬きを見せた。
 初めは夢中で肉に食らいついていたテイルだったが、やがて腹にゆとりがなくなるとそれを誤魔化すように口数を増やした。そこで楽しげに語られたテイルの日々の日常や友人との間に起きた出来事、兄ユールとの喧嘩の内容をデクはしっかりと記憶している。だがそれだけだ。
 デクはそれほど会話に参加しなかった。ただ耳を傾け、稀に相槌を打った程度である。ユールのように聞き返してやったり、自分の話をしたり意見を述べたりするもなかった。いつもの愛想の欠片もない声で、ああ、低く返すばかりだったはず。
 きっとテイルはつまらないと思っているのだと想像していた。兄とだけの食事であれば他人であるデクに気を使わなくて済んだだろうと。しかし食事を終えたテイルが口にした言葉も態度も、デクの予想とは正反対に満ち足りたものである。

「また一緒に食おうな」
「――いい、のか?」

 長い前髪の裏から窺えば、テイルはなにを聞いているのだとでも言いたげな、さも当然だという顔で頷いた。

「もっと巨人族の話聞かせてくれよ。巨人ってあんまりに里から下りてこないんだろ? おれの周りさ、デク以外に巨人族知ってるやついないんだ。ああでもデクは半分が巨人なんだっけ。あ、それにな、机! 今度学校で机を作る授業があるんだ! 木を削るところからやるらしくてさ、なんかコツとかあったら教えてくれよ」

 食事の前にデクの仕事を教えたからか、テイルの目に尊敬の色が滲む。初めて向けられる眼差しにやはりデクは狼狽えるばかりだった。
 真っ直ぐで純粋な視線は面映ゆく、デクは逃れるように真横を向く。そのときテイルが、あっ、と声を上げた。
 ちらりと目だけを前に戻せば、自分を指差すテイルの姿が映った。

「そういやデク、その髪ひ――」

 テイルの言葉が途切れる。いつの間にか背後に回っていたユールがテイルの口元を掌で塞いでしまったからだ。
 突然のことに怯んだテイルは数秒瞬きさえ止めていたが、やがて自分を抑える正体が兄だと悟ると暴れ出した。だがテイルの抵抗など慣れているのか、ユールは上から振り回される手を抑えつけ、平然とした顔をデクへと向ける。

「もう帰んだろ。水汲みに行くついでに途中まで送ってやるよ」

 食事も終えたしあまり長居しては迷惑だろうとデクも考えていたところだった。いつそれを切り出せばよいのかわからずにいたため、ユールの言葉に小さな感謝を抱きつつ頷いた。
 その間にもテイルは顔を真っ赤にして暴れ続け、鼻の穴を膨らませて荒く息をつく。ぱっと解放されるとすぐさま振り返りユールに噛みついた。

「なにすんだよ!」
「うるせえな、おまえがぎゃんぎゃん騒いでっからだろ。それよりさっきも言った通り水汲んでくっから皿洗っとけよ」
「はあ!? んなことよりっ」
「んなこと? おい、料理作ったのが誰だかわかってんのか。そんで、おまえは自分が食った皿運んだだけだよな? つーか、皿洗いは誰の役割だって約束したっけか?」
「う、うぐ……っデク、約束だかんな、後で絶対コツ教えろよ!」

 いつの間にかデクとテイルの間に約束が交わされたことにしつつ、まだ未成熟な細い肩を怒らせたテイルは、足音を大きく鳴らしながら奥へと向かってしまった。
 ユールに口元を塞がれる前、テイルはなにかを言いかけていた。しかしあの様子ではそれはすでに忘れられてしまっていることだろう。気にはなるが、なにを告げたかったのだとわざわざ追いかけるわけにもいかず、ただ消える背を見送る。だがテイルは一度壁に身体を隠すと、すぐさま顔だけを戻し兄を見た。

「なあ兄貴、デクまた飯に誘ってもいいよな?」
「あ?」

 すぐに返された低いユールの声音に、咄嗟に次に続く拒絶の言葉をデクは想像した。
 いいわけねえだろ、とでも言われるだろうか。それとももっと辛辣な拒否を聞かされるだろうか。そしてそれにテイルは、それもそうか、とでも続けるのだろうか。
 顔をわずかに強張らせるも、少し前にテイルが告げた言葉のように、ユールもまた後ろ向きのデクにとって想定外の言葉を返した。

「誘うならこいつの都合考えろよ。あんま無理ばっかり言うんじゃねえぞ。それに、肉目当てに呼ぼうとすんなよ?」
「別に肉がなくたってデクがいりゃそれでいいよ」
「へえ、そうかよ。……教えを乞うのはいいが、こいつに必要以上に宿題手伝わせたりしてみろ、拳骨だかんな」
「わ、わかってるよ! それじゃデク、またな。気をつけて帰れよ!」

 兄の拳の味がすでに染みついているのか、テイルはぐしゃりと顔を歪めながらもデクに別れの挨拶を残して顔を引っ込める。

「――ああ」

 もうそこにテイルの気配はないというのに、デクはしばらくしてからぽつりと返事をした。
 たった二文字の短い言葉。同じ音の続くだけのもの。それなのに返すのに時間がかかった。それなのに、本当にその言葉でよかったのか疑問を抱く。しかしデクには今の返しが精一杯だった。
 本当はなんと返すべきだったのだろう。どう言えばしっくりときたのだろう。
 現状を忘れ考えあぐねいたデクがユールの存在を思い出したのは、奥でテイルが洗い始めた食器同士がかち合う音が聞こえてからだった。
 いつの間にか下げていた目線を持ち上げれば、壁に背を預けて腕を組んでいたユールと目が合う。
 寄りかかっていた身体を起こしたユールは、玄関に身体を向けて顎で先を示した。

「行くぞ」
「……ああ」

 てっきりデクの家で着替えを待たせてしまったときのように、遅い、の一言がぶつけられるのだと想像した。ユールはデクと違ってあまり悠長な性格ではない。むしろ気忙しいほうだろう。しかし動き出すのが遅かったデクに怒気を孕んだ様子は微塵もなく、ユールはデクが立ち上がるところまで待つと先に歩き出した。その後に続きデクも肩を縮めて狭い扉を通る。
 人間用の大きさにとられた枠に引っかかって出るのが遅れる。ようやく顔を上げた頃には、先に外に出ていたユールといくらか距離が開いてしまっていた。ユールは立ち止ってデクを待つような様子はなく、ただ前だけを見て進み続けている。
 追いつくべくいつもよりも大股で一歩を踏み出しながら、デクは再び考えを巡らせた。
 何故ユールは待ってくれたのだろう。デクがなにかを考え出したときっとわかっていたはずなのに。着替えの時間も、家から抜け出るときもそれほど待ってはくれていないのに、何故先程はただ見ていただけだったのか。苛立ちもなにもなかったのか。
 歩幅の広いデクはすぐにユールに追いつき、あとはいつものようにゆっくりと彼に合わせて後ろを歩んだ。
 今日のことで、ただでさえよくわからなかったユールがますます理解のできない人物になってしまった。はたしてユールはデクのことを嫌っているのだろうか。蔑み、疎んでいるのだろうか――だがもしそうであるならば、わざわざ家に招いたりするのか。また来ることを承諾するのか。いくら用があるとはいえ、途中まで道は同じとはいえ、ともに歩むだろうか。
 向かい合っていないからこそじっくりと後ろ姿を眺めれば、ふとその両手が空いていることに気がついた。ユールは水汲みのついでに外に出てきたはずである。それならば桶のひとつでも手にしていなければおかしい。
 うっかり忘れてしまったのだろうか。もしそうであるなら教えてやらないといけない。今ならまだ家からそれほど離れていないからすぐに戻れるだろう。
 ユールが一歩を踏み出す度に緩く振られる手から顔を上げ、声をかけようとしたところで口を閉ざす。前から初老の男が一人、デクたちのほうに向かって歩いてきていたからだ。
 デクはただでさえ緩めていた足取りをさらに遅いものにし、不自然がないようユールと距離をとる。いつもであれば人が前から来ても正面を歩き続けたが、今日ばかりはそれとなく左端に避けた。
 通り過ぎようとする男ばかりに気を取られ、目の前に枝が伸びていたことに寸前まで気がつかなかったデクは、目線を戻したときには迫ってきていたそれを慌てて手で払う。揺れ動いた枝が葉を鳴らした。
 音を聞いたユールがようやく振り返り、デクを見るなり眉を顰める。

「おい、いつまで後ろ歩いてんだ。ていうかなんでそんなに端にいんだよ。ただでさえでけえんだから枝が当たってんじゃねえか」

 本来の人間の背に留まっていれば、道に飛び出してはいても人に当たらないようにと整理された枝が当たることはない。だがなにせデクは規格外だ。歩いているうちにまたも前に枝が来て、再びそれを手の甲で払い避ける。
 ちらりとユールへ目を向ければ、彼は振り返ったまま、それ見たことかと言わんばかりの表情を浮かべていた。

「おい、早くこっち来いよ。無駄に長え足してなんでそんな鈍足なんだよ」

 ついには足を止めてしまったユールとの距離をなるべくゆったりと詰めながら、もう視界には映っていないあの男を気にして後ろに視線を流す。見えはしないが、振り返ればすぐそこにいることだろう。ならばきっとユールがデクに話しかけるのを聞いていたはずだ。
 ユールが声を放ったのは男が二人の脇をを通り過ぎてからだが、内容が明らかにデクを示すものだとわかっただろう。なによりこの道には今三人しかいない。自分が話しかけられたのでなければもう一人に声をかけたのだと推理することなくわかるはずだ。独り言に片づけるにしてはユールの声ははっきりしすぎていた。
 一体なんのためにわざわざ歩調を変えて他人を装ったのだろう、と内心で溜息をつきながら再度前へ目を戻すと、いつの間にか腕を組んでいたユールが険しい表情で立ちはだかっていた。
 デクが手の届く場所まで来ても歩みを再開させる様子はなく、どうすべきかわからないままとりあえずデクも足を止める。
 首を痛めるほど見上げなければならない身長差のデク相手に、ユールは真正面からぶつかってきた。

「おまえまさか、おれがおまえと歩いているとこ見られたら変な噂たつかもしんねえとか、思ってねえ?」

 沈黙をデクは返す。だがそれこそがデクなりの肯定だと、少なからずこれまでに関わりのあったユールは悟ったのだろう。ユールの表情に厳しさが増し、その一方でデクの胸には困惑が広まった。
 何故ユールが不機嫌そうな表情になってしまったのか、理由がまったくわからない。ユールが指摘した通り、デクは彼のためを思い距離を置いたのだ。人からあまり好かれていない自分とともに行動している姿を見られてしまえば、ユールに迷惑がいくのではないかと心配してのことだ。たまたま今日は食事に誘われただけで、それなのに普段から付き合いがあると勘違いされるのはユールも我慢ならないだろうと。

「おれといるところを見られると、後々なにか言われるかもしれない。それはおまえも困るだろう」

 自分ではたどたどしくなったと思った声も、傍から聞けばいつもと然程変わらない。
 出だしが多少掠れただけのそれでありのままの真意を伝えれば、はあ? と怒気混じりに返される。

「んなの知るかよ。言わせたいやつには言わせとけばいいだろ。勝手な妄想する勘違い野郎を相手する義理なんざねえよ」

 きっぱりとした言葉に動揺したのは大男のデクだった。

「それも、そうだが……噂はすぐに広まる。もし今後、変な目で見られたとしても、おれは責任を持てない」

 どんな噂話が流されるかデク自身よくはわからない。だがきっとよくないものであろう。それによってユールにどれほどの変化があるのか。はたしてほんの少しのことか、それとも周囲から一線引かれてしまうほどかそれさえもわからない。なんにせよ変化が伴ってしまうのであれば、元から噂など立たないように振る舞えばいいだけのことだとデクは考えたのだ。しかしユールはそもそも始めからが気に入ってはいなかったようだった。

「おまえ、自分が変だって思ってんのかよ? そうだな、その猫背はみっともねえよ。それだけは治せ。背はしゃんと伸ばして胸を張れ」

 突然持ち出された猫背のことにデクは目を瞬かせた。
 確かにデクは自身の長身を気にし続けた結果、顕著な猫背となってしまっている。そのせいでよりいっそう気味悪がっている人たちがいると知っていた。治さなければいけないと自覚しつつもずるずるとそのままにし続けていたことでもある。
 戸惑うデクに気がついているのかいないのか、ユールは相も変わらぬ様子で続けた。

「だけど、それ以外はいい」
「――いい、のか?」

 無意識に返していたデクの言葉に、ユールは浅く頷いた。

「ああ、むしろ別に悪いところなんてねえだろ。どうせそのでけえなりを気にしてんだろうけどよ、おまえはそのまんまでいいんだよ。人より身体がでけえからってなんだ」

 ついにデクは言葉を失った。
 これまで誰もデクの背に触れてきたことはなかった。古くから町にいる人々はもとより巨人の父がいたことで慣れていたからだろう。他はなにを考えているかわからないデクに話しかけられなかったり、恐れていたり、腫れものには触れぬように、そんな理由で誰も口にはしてこなかった。
 ユールだけだ、デクをデカブツと呼ぶのは。鈍足だと、根暗だと、どんくさいと、面が悪いと。正面切って告げてくるのは彼だけだったのだ。
 町の人が影でデクの噂をしていることは知っていた。よく音を拾う耳が嫌でも教えてくれた。そこでならばよくデクは罵られていたが、皆は真っ向から言ってはこない。ユールだけが影では言わぬ代わりに直接伝えてきていたのだ。
 デクにとってはどちらも同じものだった。真正面から言われようが、影でひそひそと噂されようが、言葉の裏を考えず大抵の物事を額面通りに受け取るデクは、やはりそのままの意味を汲み取る。だからこそユールはあまり自分を好きでないと思っていたのだ。自分のこの巨体を嫌っているのではないか、と。
 しかしユールはデクに、そのままでいいと言った。ただの椅子に座ることも躊躇うような身体だとしても、誰とも目線が合うことがないとしても。
 デクの思い描いていたものとはまるで違う言葉をユールは並べていく。

「人よりでかくて死ぬのか? できることがなくなっちまうとでも?」

 極端な台詞に緩慢に首を振れば、何処か満足げに緑の目は眇められ、そんなわけねえよな、と口の端が持ち上がる。すぐに小さな笑みは消え去るも、力強い声音は続いた。

「おまえはその身体のおかげでおやっさんたちに感謝されてんだろ。一人でも重たい荷物持てちまうし、高いところには梯子がなくても腕伸ばしただけで届いちまう。前におやっさん言ってたぜ、色んな手間が省けて助かってるって」

 初めて聞かされることにデクは戸惑った。親方のグンジとは仲が悪いわけでもなければいいというわけでもない。職場の仲間としての距離をほどよく保っている程度で、雑談もほとんど交わすことはなく、稀に話しかけられることがあるくらいだ。そのときも親しげな笑みを浮かべてくれるがすぐに立ち去ってしまう。そんなグンジが自分に感謝しているなど知る由もなかった。
 デクは身体に見合う怪力を持っており、重たい荷物を運び慣れた男どもでも二、三人がかりでなければ持ち上げることさえできない一際重量のあるものでも、たった一人で担ぐことができてしまう。腕を伸ばしただけで地上から三メートルの高さにも優に手が届き、足場など必要とすることは滅多にない。
 普段は世間話をしないような仲間たちでも、仕事の効率を考え、デクの巨体が生かせる場面では惜しみなくそれを利用してきたし、デク自身もそうすることが当たり前だと思っていた。当然という考えだったからこそ、感謝されているなど知らなかったのだ。
 決してユールが脚色した話などではないだろう。ユールはデクに正面から突っかかれるような男で、彼が影で噂をしている声など聞いたこともない。嘘はあまり好かない様子で、だからこそ自分がグンジから直接聞いた言葉をそのままデクに伝えているのだろう。
 ――感謝されている。この、半分巨人の血が流れる身体が。誰かの役に立っていた。
 これまで気がつかなかった事実を晒され、デクは呆然とする。そんな様子を見ていたユールは溜息をひとつ零した。

「そりゃ、そこまででかけりゃ不便はあるだろうよ。でもちゃんと役立ってることだってあんじゃねえか。それに一度でも救われることがあんだったら誇ってやれよ。そんな背ぇ丸めて自信なくしてんじゃねえ。ほら、しゃんと伸ばしてみろよ」

 ユールの声に支えられるよう、これまで落としていた肩をゆっくりと持ち上げた。少しの差だが視界が高くなり、デクを見上げるユールの首の角度もさらにきついものになる。
 きっと、息苦しいだろう。そうデクは高い位置から見下ろし思うのに、けれどもユールは笑った。

「それでいいんだよ。そっちのほうが気持ちいいだろ?」

 ふわりと風が吹き、長いデクの髪をそよがせながら過ぎ去っていく。誰も浴びていない清涼な風が頬を撫で、ようやくユールの言葉の意味に触れた気がした。
 いつも伏せていた目を持ち上げると、いつもより少しだけ高い位置から世界を見渡すことができる。だが今見えるものこそが本来デクが見られるものなのだ。
 なんの変哲もない道。人々が踏み固めた地面の脇には草が生い茂る大地が広がり、目の保養にと町の女たちが植えた花々が彩っている。少し先には多くの建物が並び、奥のほうではぼやけてはいるが幾人もの姿が見えた。
 遠くに見る風景は目線の高さが変わったところで変化はない。そのはずだが、デクは妙にすっきりした気分でそれらを眺める。
 口も開かずただじっと背筋を伸ばして町の中心を見つめるデクに、多くの者が見ている視点の位置からユールは言った。

「誰もないものねだりはするもんなんだよ。だからそう思うのは間違ってねえ。自分にないんだから欲しがって当然だ。だけどよ、それで折角自分が持ってるもん腐らせんなよ。おまえは今のおまえなりにいいところは沢山あんだから」

 ざっと地を蹴る音がしてようやくデクは下に目線を戻す。その頃にはすでに歩き出していたユールの背が遠ざかりつつあった。
 ゆったりとした足取りでそれを追いかける。もう背を丸めることはなかった。
 まだそれほど距離は開いておらず、歩幅も違うユールにはあっさりと追いつく。だがデクは先程のように後ろにつくのではなく、空いているユール右隣まで移動して、そこから歩調を合わせゆったりと歩んだ。ユールはなにも言わずに隣にいることを許してくれる。
 ――この身体でもいいのだと思っていた。自分が生きるために役立っているからと。だがそれはそう自分に言い聞かせていただけにすぎなかったのだろう。
 役には立っている。だから、無意味に大きいだけではないのだと。きっとこの身体には意味があるのだと、そう信じていたかった。でなければ周りとはかけ離れた大きさを持っているにはつらかった。
 励ましてくれる人はいない、ならば独りで耐えるしかない。だから自分自身に呪文のように唱え続けたのだ。
 悪いのは自分の中身だ。身体も顔面も関係ない。それは間違ってはいない。だがもし、少し背が高いだけの身体であったのであれば。もし皆と同じ目線に立てたのならば。そうであったならば、もしかしたら今とは違った自分になれていたのかもしれないと、そう思わずにはいられなかった。
 きっとデクは、自分ではない他人に認めてもらいたかったのだ。
 たった一人でいいなどと押し殺していた。しかし本当はずっと、皆にその身体でもいいじゃないかと言ってもらいたかった。存在している意味はあるだろうと受け入れてもらいたかった。だがどうやらそれは、全員ではないにしろ、デクが気づかぬうちに叶っていたらしい。
 ユールが、そのままでいいと言ってくれた。親方たちが感謝していることも教えてくれた。下ばかり顔を落として周りを見られていなかったデクは、それをようやく知ることができたのだ。
 誰よりも広いデクの胸の内に、生暖かいものが注ぎ込まれ満たされていく。
 ――そうか、おれはおれで、いいのか。これが、おれなのか。
 ぽつりと心で呟いた言葉が傍らのユールに届くことはない。
 再び風に吹かれ、攫われた毛先が舞い上がる。清々しく気持ちがよかった。
 もう何年も町中で背筋を伸ばすことなどしてこなかったから、背を伸ばしたデクの姿に道行く人は驚くかもしれない。だがそれでいいと思った。それに、もしまた丸まって歩く姿をユールに見つけられたとしたならば、きっと背中を思いきり叩かれてしまうことだろう。
 しゃんと歩け、と。本来なら優しげに見えるはずの垂れた目尻に似合わぬ強い光を纏った瞳で、そう睨んでくるのだろう。
 想像すれば鮮明に思い浮かぶ姿に堪らずデクは微笑した。物静かなそれを、振り返らず歩き続けるユールが知ることはない。

「――ありがとう」

 随分と遅れてしまった感謝の言葉をユールに伝える。その頃にはデクの笑みはすっかり消え去り、色の読みづらい瞳でただ傍らの存在を見下ろすと、ちらりと勝気な緑の目が向けられた。

「礼を言われる覚えはねえな」

 上から見るその横顔は素っ気ないものだった。憐れみも、慈愛も、正義感も見えない。ただ真実を言っているだけだという真っ直ぐな眼差しだけがそこにあった。