14

 
 途中で合流したロウェルに抱かれ、暁月の君は目的の場所に辿り着いた。
 外へと続く回廊では人除けがされていて部外者が足を踏み入れないよう見張りが立っていたが、呪術師である暁月の君と王の側近であるロウェルの姿を見るなり敬礼をして道を空ける。
 そのまま足を進めようとしたロウェルを、暁月の君はいつになくかたい声音で制した。

「銀の側近どの。ここまでで大丈夫です。下ろしてください」

 いつもであればなにかと理由をつけてなかなか手放してはくれないのだが、それほど歩くこともないからだろう、ロウェルは頷き、横抱きしていた暁月の君の足をそっと地面に下した。
 ロウェルから離れて、暁月の君はゆっくりと歩み見張りの間を縫うように進むと、程なくして一枚の壁のように身を寄せ合っている兵士たちの背中が見えた。
 人の気配を感じたか、声をかける前に一人が振り返り慌てたように壁が割れて道が開く。
 その先で一人の男が厳しい顔で腕を組んで立っていた。ロウェルたちに気がつくと、礼をする。

「宮廷呪術師、参りました」
「お待ちしておりました。こちらが現場になります」

 この場の指揮をとっていた小隊長の男が向けた指先を辿るように示されたその場所に顔を向ける。すでにその状況は報告を受け理解していたが、改めて肌身で感じたそのおぞましい気配に肌がざわめいた。
 口元が隠れそうなほどに深く被るフードの下で、思わず顔が歪む。

「……なんてことだ」

 そう口数が多いわけでもない無口なロウェルさえも、目の当たりにした惨状に思わず口先に言葉を落として沈黙した。
 庭師の道具をしまう倉庫と高い城壁との間にある隙間のような細い道には陽射しも入らず、昼間といえども鬱屈した雰囲気があった。もとより淀む気配を一層強めているのは、遠くからでも匂っていた鼻をつく強烈な鉄錆びの匂い。桶に溜めた水をまいたかのように一面を赤黒く濡らしている、人の血だ。

「私どもが駆けつけたときにはすでに、このありさまで……」

 血など見慣れているはずの小隊長ですら、この悲惨な現場には顔から血の気が引いている。その隣に立つまだ幼さの残る若い新兵など、ふっと息を吹き掛けただけでも倒れてしまいそうなほどで、哀れなほどにか細く震えていた。
 それも仕方のないことだろう。おびただしいほどの血が敷かれているこの場所には、その血の持ち主であったのであろう者の肉片が千々に裂けて辺りに散乱しているのだから。どれも指先ほどしかなく、もとが身体のどこであったかも判断がつかないほどに細かくなり、原型を留めているものは見当たらなかった。
 はたして元は一人だったのか、それとも二人か、それ以上か。それすらも判断かつかないありさまだ。

「………何名ですか?」
「は?」
「何名、犠牲になりましたか?」

 直視するには異様な景色を目の前に放心していた小隊長は、暁月の君から再度問われて表情をかたくした。

「……二名です。状況を確かめようと最初に接触をしようと近づいた二人が、まるで、何重にも斬撃を受けたかのように……刃物の嵐に飛び込んだように裂かれました」
「そうですか」

 小隊長と会話をする傍ら、壁際に座り込み、色を失くして震え上がっている一人の兵がいた。身体の右半分を彩るように散ったその赤い色は恐らく、犠牲になった二人の血なのだろう。幸いにも彼は命を落とす距離まで近づきはしなかったものの、同僚の死を間近で見つめてしまった。見開いたままの瞳は虚ろで、介抱する仲間の声が届いていないようだった。その姿だけで、人間が引き裂かれたという様子の恐ろしさが伝わってくるようだ。

「これ以上、誰も近づいてはなりません。この場には強力な呪いがかけられています。近づくだけで発動します。対象は無差別で、無闇に近づけば巻き込まれます。踏み入ればわたくしでも助けられません。決して、わたくしよりも前には出ないように。――銀の側近どの。あなたも後ろへ」
「ですが」
「わたくしならば問題ありませんから」

 暁月の君に対してやけに心配性となるロウェルは承服しかねる様子だったが、呪術が相手となると国王をもっとも近くで守る剣の腕前も役には立たない。
 日々鍛練を積み重ねる兵士でさえ、呪術という目に見えない災いの前では無力だ。しかし剣を振るうことのできない細腕であっても、呪術の専門家である暁月の君ならば、見えぬ災いとて対抗しうる力を持ってる。
 自分が対処できる領分にないことを渋々認め、並び立っていた暁月の君の隣から一歩後ろにさがった。
 それに倣ったか、それとも暁月の君がなにか仕掛けることを察したか、周囲の兵たちも恐れるように距離をとる。
 自分と並ぶ位置に人の気配がないことを確認して、懐から小瓶を一本取り出した。
 瓶の蓋を空け、中身を手のひらに垂らす。魔除けの花とされるシュカの種子と花びらから抽出した香油だ。とろりとした琥珀の液体から、ふわりと優しい花の香りが広がった。
 瓶を手にしたままの薬指の先につけて、額の中心、両目の下、顎、鼻先の順に香油をつけていく。
 最後に両目を閉じた目蓋の上に同じようにつけると、ふわりと花の油が淡く光を放つ。
 しかし、その光を知る暁月の君にだけだ。皆が暁月の君の背後に立っているから物理的に見えないというわけではなく、力なき一般人の目には光が見えないのだ。
 厳密にいえば暁月の君自身も実際に発光する様子を見ているわけではない。今なお閉じる目蓋の下に瞳があったのならば、視界でも確認することはできただろう。
 薄い目蓋の裏にあるのは、かつて自分が有していた瞳に似た色をしているだけのただの石だけだ。両目ともに埋め込まれた義眼ではものを見ることはできず、ゆえに暁月の君は盲目であった。
 しかし彼の目はかつてあった瞳だけではない。視力がなくとも、心のうちで読み取ることのできる気配が、ものの形、場所、距離を正確に教えてくれる。そのため物にぶつかることもなく歩くことができるし、人それぞれが放つ気配の違いから相手の判別もできるのだ。
 シュカの香油は魔除け――呪いを退ける力を持つだけなく、内なる力を高める効果がある。暁月の君の場合、普段はぼんやりと心の目に映る物の気配がより鮮明に、そしてそれまで見えなかったものが見えてくるようになる。
 より鋭利になった感覚で目の前の様子を探れば、今にもどす黒い赤に飲まれそうになる弱々しい青いもやが見えた。
 この国で青いもやを纏う者、それはただ一人。突然ガルディアスのもとに姿を現し、今もなお正体不明の青年である直人だけだ。
 人の肉片が散らばり悪臭ただよう悲惨なこの場所の中心に彼はいた。手足を拘束され乱された衣服の様子から、何が行われたのかは明らかだ。あまりに血の飛散がすさまじく、近づくこともできないため怪我などの様子を見ることはできないが、まだ生きているということだけは感じ取れた。しかし彼の足元に転がる者はもう生きてはいないらしく、生命の残滓がそこにあるだけだ。それももうまもなく消えてしまうだろう。
 この現場が発見されてからある程度時間が経過しているが、周囲の騒動の最中でも直人が目覚める気配はない。
 ただ、こんこんと眠り続けている。――すべてを拒絶する呪いの中心で。
 よく見えるようになった暁月の君の持たざる瞳には、それまで血のもやのように辺りを包んでいたものもより鮮明に見ることができるようになっていた。
 手を伸ばせば触れそうなほど近く、あと一歩でも踏み込めば巻き込まれて引きずり込まれるであろう、それは呪いの嵐だった。
 小隊長の言っていた、兵が刃物の嵐に飛び込んだように裂かれたというのもあながち間違えていない。まさにすべてを拒絶する呪いは近づく者を傷つけるために、常人には見えない鋭い刃となって直人を中心に激しく渦巻いていた。そこに不用意に近づいてしまったがために、嵐に巻き込まれた二人の命は散り散りにされてしまったのだ。
 ひどく攻撃的で、一切他者を寄せ付けず排他的だ。こんなにも強力な呪いは、長らく呪術に携わり研究を重ねてきた暁月の君でさえも見たことがなかった。
 何人も受け入れないこれだけ強固な呪いをどうやれば生みだせるのかさえ、予測すら立たない。
 ただひとつわかることがあるとすれば、それはこの呪いが直人を守るものであるということだけだ。
 常人の目には映らず、感じることもできない嵐のような呪いは直人を中心として巻き起こっている。台風の目の中にいるように、触れれば引き裂かれるそれに直人だけは影響を受けておらず、引き裂かれるのは中心でただ眠り続けている直人に近づこうとする者だけ。まるで直人を守るための呪いで編まれた籠のようだ。――もしくは、閉じ込めるためのものなのか。
 誰が、何のために。これほどまでに強力で恐ろしい呪いを直人にかけたというのか。それほどの実力者がいることさえ正直信じがたいことではあるが、今は次々浮かび上がるばかりの疑問を追いかけている場合ではない。
 今は眠っている様子の直人であるが、大量の血に直人のものが混ざっているとも限らない。早く清潔にしてやらねばならないし、なにより、彼をとりまく青いもやが少しずつ小さくなっているのが気がかりだった。
 この国の守護たる色でもある清浄な青。もし、あれがすべて消えてしまったら。その時こそ彼はどうなってしまうのか、暁月の君には検討もつかない。ただ恐らくはなにか変化が起きるということだけならわかる。それがよい方か、悪い方向に転がるかは未知数だ。
 目の前の嵐は吹き荒れ続け、衰える気配はない。たとえこの先何人の命を飲み込もうとも落ち着くことはないだろう。

(トゥルカ。わたしに力を――)

 お守りのように、勇気づけてくれるその名を大切に口にして、ゆっくりと深呼吸をした。
 息を吐いては吸い込み、数度繰り返して気持ちを整え、暁月の君は懐からひとつの宝石を取り出した。
 暁月の君が肌身離さず持ち歩き、長い歳月をかけて力を溜め込んできたものだ。それを重ねた両手の中に握りしめる。

 ――わたしはあなたを傷つけない。

 そっと一歩を踏み出しながら、暁月の君は心のなかで語りかける。

 ――わたしはあなたを助けたい。

 また一歩踏み出し、おぞましい死の呪いに近付く。

 ――わたしはあなたを守りたい。

 直人に近付くとどこからか巻き起こった風を孕んでふわりと衣が膨れる。身体に幾重にも巻き付けられた細い金糸が重なりあって、しゃらりと音が鳴った。
 足がすくむほどに強大な力を前に、ついに暁月の君は膝をつく。両手に力をいれて、神に祈りを捧げるように願った。

(どうか……どうか……閉ざさないでください。あなたのためにも、哀しき赤の王のためにも、どうか未来を捨てないで)

 おぞましい呪いに圧倒されて、肌からは玉のような汗が吹き出ていた。きつく握りしめた両手が、力をこめるあまりにぶるぶると震える、いや、本当は全身が震え上がっているのかもしれないが、ひしひしと感じる呪いを前に感覚が曖昧になっていく。
 本当ならば、今すぐにでも逃げ出してしまいたい。すべてを放り出し、そして、そのまま高いところから飛び降りれたら。兵たちの腰に携わる剣で胸をひとつきできたら。呪いの影響か、普段では思いもしない恐ろしい行動に出てしまいたくなる。頭がおかしくなりそうだ。
 それでも暁月の君は願い続けた。
 どうか、どうか――ただ一心に、彼のために、そして自分の命よりも大切な赤髪の主のために願い続けて、どれほど経っただろうか。
 強ばりうまく動かせなくなってしまった指先をどうにかほどくと、不意に身体が傾いた。そのまま地面に倒れこみそうになったところを脇から伸びてきた腕に支えられる。

「……近づいてはなりませんと、そうお伝えしましたのに」
「解呪が成功したことはわかりました。もう大丈夫なのでしょう」

 しっかりと暁月の君を抱え直したロウェルは、そのまま腕の重さなどないように立ち上がると、平然とした様子で血溜まりのなかに足を踏み入れた。
 背後で、誰かがあげた悲鳴が聞こえる。ロウェルたちが引き裂かれる悲劇を想像したのだろう。しかし現実ではなにも起こらず、直人の傍らで歩みを止めた。
 暁月の君をしっかりと抱え込み、血溜まりに触れぬよう注意を払いながらロウェルはしゃがみこむ。

「ただ、眠っているだけですね」

 呪いの最中でも、それが解かれても、直人は目を閉じたままだ。まるで自分を守るかのように丸くなり、あの嵐のように他者を拒絶するように。

(この先、彼の行く道に安寧はあるのでしょうか)

 直人に何が起きたのか。何故呪いに囲われていたのか。誰がその呪いをかけたというのか。それを知った彼は、何を思うのか。他の者より見えざるものを見る能力に長けていたとしても、先見の力はない暁月の君の瞳に未来は映らない。
 直人の確認が済んだことを察したロウェルは言葉もなく立ち上がり、踵返した。
 暁月の君が到着した時点では姿のなかったはずの救護班が、ロウェルたちとすれ違い直人に駆け寄っていく。
 頭上で短い指示を飛ばす声を聞きながら、暁月の君は彼の腕に抱かれたままそっと意識を手放した。

 
◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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