あばんじゃさん

Twitterで仲良くしてもらっているあばんじゃさんよりネタを提供していただき、小説を一本書せていただきました!
(提供というより勝手に共感し、書き手として申し出ただけですが……)

テーマはずばり“人外”!
言葉の通じない化け物と、それとともに過ごさざるをえない少年のお話、人外×人間になります。

化け物は今回、妖狐にお相手していただきます。
舞台は(似非)平安。あまり作品にそれらしい雰囲気はないですが、平安時代あたりをなんとなく想像して読んでくださると大変助かります!

同じ人外好きの皆さまに楽しんでいただけるような作品めざし頑張らせていただきましたので、どうぞよろしくお願いいたします

登場人物

主人公:雅(みやび)
貴族の三男坊(末っ子)の、十五歳。
幼い頃に男子に恵まれなかった叔父のもとへ養子として向うも、馴染むことができなかった。
血の繋がった二人の兄は本来の親元にいる。

人外(相手):妖狐
八尾の化け狐。
二尾と四尾、黒狐の同じ化け狐を従えている。


 

【ともに歩むは】

 本当だったら、今頃おれは元服を済まし、ひとりの男として国に尽くしていくはずだった。野望などない。ただ、そこそこの地位にしがみつき、そこそこの人生を送り、そして何事もなく天寿を全うさえできれば。荒波にもまれることなく、平坦な生を歩んでゆければ、それだけでよかったのだ。
 どう足掻いたところで、所詮おれは人々を見下ろせるほど高いところへはゆけない。身丈に合わぬ高望みをし、些細な油断で地に落とされるよりも。己の能力に見合った場所にいた方がよほどいい。
 それが、幼い頃から胸に抱いていたおれの人生だった。山も谷もとくにはない、平坦な道が続くばかりのもの。
 決して、無謀な夢など抱いていない。だからそれはなんの問題もなく現実へとなるはずだった。たとえ“弟”が生まれたとしても、それだけは揺るがないはずだったのだ。
 それなのになぜ、おれはこんな場所にいるのだろう。
 身体の芯まで染み込んだ寒さに震え、縮こまらせていた身体をさらに丸くし、膝を抱えた。水気を含んだ衣は土にも汚れ、ただでさえ無駄に重たいものがさらに邪魔に思える。
 尻の下には敷くものなど、木の床さえなく。かたく、少し湿った地だけで。今座る場所から少し手を伸ばした先も土壁ばかりが囲っていた。
 ここは、山の側面に掘られた洞窟のような場所だった。おれが隅にいるから壁に手を触れられるだけであって、空洞はとても広い。村の食糧庫と同じぐらいだろうか。それだけでなく縦もあり、一番高いところで三間(約3.6m)ほどはあるだろう。それほど巨大な洞穴だった。おれのような人間がひとり入ったところで、狭まりを覚えるほどもない。大の字に寝転がったところで、その広さに溜息をつけたことだろう。
 だが、ここにいるのはおれだけではなかった。
 じっと自分の素足を見つめていた視線を、少しだけ逸らす。それだけでその存在は目に入った。
 白い、塊だ。長い毛に覆われ、呼吸をするたびに大きく身体が動いている。その存在がこの広いはずの洞穴の半分を埋めていた。そして、おれが隅で縮こまる原因でもある。あれが立ち上がればこの高い天井といえども足りず、頭がぶつかっていた。
 ――あれは、化け物だ。
 おれは息を殺し、僅かばかりしか離れていないそれを見る。すると、おれの視線を感じたのか。それまでだらりと地に散らばっていた、毛先にゆくにつれ朱に染まる“八つ”の尾がゆらりと揺れながら立ち上がる。それと同時にゆっくりと持ち上げられた顔が、尾先と同じ朱色で文様を作る顔がこちらに向き、つつじのような色をした二つの瞳が、じっとおれを見つめた。

 

 

 元服を迎えるにあたり、おれは養子に出された先でなく、実の父のもとで儀を迎えることになった。
 おれの成長を見るためもあるのだと父上はおっしゃったが、単に父上と、そして兄上方がおれの顔を見たいというのが理由だと、こっそりと届けられた母上の文により知った。その頃はまだ、あくまで自分のもとでやらぬかと父上から話が上がっているだけだったのだが、おれにその話が持ちかけられた時にはすでにある程度の準備を整えていたそうだ。父上がどれほどおれの元服をよろこんでいただけているのかが窺えた。
 だが、義父はあまりいい顔をしなかった。それもそうだろう。今おれは父上の息子でなく、義父の義息だ。血の繋がりこそないがしかしそこの長男である。義父のもとで元服を迎えるのが当然だ。
 だからおれは、当然のように父上の申し出を断った。事情を配慮した上で、父上も一度はそれを承諾してくれたのだ。だが――その断りの文を送り、月の満ち欠けが一周した頃。養父の方から、父上のもとで初冠をすればいいと言ってきた。
 その理由は、今養母の腹にいる子が男子である可能性が高まったから。おれの元服の儀が行われるあたりに生まれるその子がもし男子であるならば、それが正真正銘の義父家の“長男”となる。何ももう義息であるおれにこだわる必要などないのだ。だからこそ体裁も気にせず、おれがどこでふらふらとしよともどうでもよくなったというわけだ。
 だがおれにとってそれはよい知らせになった。別に長男の地位にこだわっていたわけでないし、平穏な人生さえ送れればそれで構わない。だからあえて養父の決断に意見せず、ありがたくと父上のもとで元服を迎えることになったのだ。
 そして初冠の儀が目前と迫り、おれは離れた父上のもとへ旅に出た。迅速に行動するため、供は三人に留め、馬での移動を選んだ。荷物は最低限でよいからと馬の背に乗ることにしたが、道中これといった問題も起きず、着々と目指す場所へと距離を縮めていく。
 そして、もう間もなく父上のいらっしゃる国へたどり着こうとしたとき。事は、起きてしまった。
 途中道に迷い、おれたちは次の宿に日落ち前に到着できなかったのだ。仕方なしに松明を灯して夜道を急いた。
 夜とは、獣どもの動き出す時だ。だがそれだけでなく、あやかしの動く時でもある。どちらにせよ危険な時刻であるには変わりなく、おれたちは馬の歩調を速めたが――すでに、あるあやかしの縄張りへと足を踏み入れてしまっていた。
 それに気づいたのは、一番後ろを歩いていた男と馬の悲鳴が響いた時だった。
 驚きに歩を乱す馬を宥め後ろに振り向けば、すでに馬もろともその存在はなく。それまでいたはずの場には未だ火を灯す松明が落ちているだけ。
 息を飲むおれたちに届いたのは、骨が折れる音。ぐちゃぐちゃと、締りのない口が何かを食らっている音。ちらちらと落ちた炎が照らす地に、微かに見えるその影。
 逃げなければ。本能はそれを理解していた。しかし、身体が凍りついたように動かない。ただ手綱を強く握るばかりで、つう、とこめかみに汗が流れる。
 他のふたりも同じようで、ただ“それ”がいるのであろう闇を見つめ息を飲んでいた。
 不意に影が、炎が揺らぐ。

「っ、逃げ――」
「うわあああああ!」

 咄嗟に出たおれの声など掻き消されるほどの絶叫と共に、またひとり、闇の中にさらわれる。
 今度は先程のように短く途切れず、助けを求める声と共に食らう音が耳に届いた。

「雅(みやび)さま、馬を!」

 唯一残った従者がおれの肩を叩き、我を取り戻させる。手にしていた松明など放り捨て、それに従いもう振り向くことなく馬を走らせた。
 従者も並走しおれと共に逃げたが、ふっと突然隣から姿を消す。それと同時に聞こえた、みっつ目の悲鳴。けれど今度こそおれは、馬を止めなかった。
 歯を食いしばりながら、更に速くと馬を走らせる。遠くなる悲鳴に頭痛を覚えるほどの恐怖がこみ上げた。
 あれは、三人で満足しただろうか。もうおれを追ってなど来ないだろうか。
 そう、頭に思いめぐらせた時だった。馬が突然倒れ、おれは宙に放り出されたのは。

「ぐっ――」

 地面に叩きつけられ、強く腕を打ち付けてしまいうつ伏せにうずくまる。
 その間にも馬の悲鳴がおれの耳に届いた。だがこれ以上、動けない。
 薄らと開いた視界の中、見てしまったのだ。月の下に照らされたそれの姿を。大きな口から馬の脚を飛び出した、その禍々しい存在を。
 おれの上半身ほどもある大きな牛の頭に、それに見合うだけの細く長い脚を持つ蜘蛛の身体。ぎょろりとした金色の瞳。
 残忍で、獰猛な、人を食らうあやかし。牛鬼がそこにいたのだ。
 ひゅ、と喉が鳴る。
 逃げなければならない。なんとしても、この化け物から。それなのに闇に光る金色のまなざしから目を逸らすことができない。
 やつはむしゃりむしゃりと馬を食らいながらもじっとおれを見つめていた。やがて馬の悲鳴が掻き消されても。やがて尾を歯に絡ませながらも蹄まで食らっても。その目はおれを捕えたままだった。
 ――きっと、逃げ出してももう遅いのであろう。おれが背を向けた瞬間、やつは飛び掛かってくるだろうし、たとえ立ち向かったとて、打ち倒すなど嗜み程度のおれの剣術の腕では不可能な話だろう。
 だが。

「――っ」

 今にも抜け落ちてしまいに震える足を奮い立たせ、おれは立ち上がる。するとやつは咀嚼するのを止め、中途半端に開いた口から誰の者ともわからない血をしたたらせた。ぞっとする姿であったが、それでもおれは前を見る。
 出発前に養父に授けられた短刀を懐から取り出し、刀身を抜いて鞘を投げ捨てた。それは地をからからと鳴らしたが、おれも、やつも、そこへ目を向けることはない。
 おれではあの化け物に、牛鬼には勝てぬ。いや、勝負にもならずあっさりと頭から飲み込まれてしまうかもしれない。だが、大人しくそうなるつもりなど毛頭ない。せめて目玉のひとつでもくり抜いて、おれを――おれたちを襲ったことを後悔させてやる。
 奮い立つ己の意志とは裏腹に、両手で握る短刀の先は震えていた。血の気などとうに失せており、指先の感触などない。しかし、一度やつへ向けたものを背けるつもりなどない。
 不意に、月に雲がかかり、辺りは完全なる黒に染められる。その時、おれは駆け出した。
 視界は墨を被ったように、すべてが黒い。しかし、その中で牛鬼の双眸の金だけがはっきりと光を放っていた。それ目がけ、それだけを狙い、駆けながら短刀を構える。
 ――だが、それがやつの目を抉ることはなかった。それよりも先におれの肩が牛鬼の歯に裂かれ、その痛みに短刀を握りしめたままのた打ち回る。

「ぐ、ぁああっ」

 熱した鉄を当てられたように痛むそこを手で押さえつければ、衣がじわりと血に濡れ、おれの掌を汚した。
 再び月が顔を出し、おれたちをほのかな光で照らす。視界の端では牛鬼がおれの方に六本の細い蜘蛛の脚を動かし向かってきているのが見えた。
 荒い息を吐きながらどうにか身体を起こすも、立ち上がることはできない。痛みにどうしても意識はそこへ移り、牛鬼を映すこの目は霞がかかりはじめる。
 もう、だめなのか――強く瞼を閉じたその時、突然びゅおっと風が吹いた。髪が、聞こえた牛鬼の悲鳴に合わせ舞う。
 驚きに目を開くと、そこにはそれまでいなかった、新たな“化け物”が存在していた。
 牛鬼の大きさなどゆうに超えた巨体の影に覆われながら、おれはただ呆然と、それを首が痛むほどに見上げる。
 こちらに背を向け、四肢を地につけしっかりとそびえるそれは白かった。しかし足先やここから見える耳の先などは朱に染まり、身体の内側にゆくにつれ薄れていっている。揺らめく太い八尾も八本とも同じように色づいていた。
 不意に目の前のそれが僅かに身体をずらすと、首を曲げておれに振り返る。顔には毛先と同じ朱色で彩られた文様のようなものが浮かび、大きくさけた口には、おれを襲っていたあの牛鬼が、突如現れた化け物の牙を腹に刺して足先だけでなく全身を痙攣させていた。
 暗がりだからか、血のような色に見える瞳を化け物はおれに流すと、それまで口に咥えていた同じ化け物をばくりと丸のみしてしまう。
 狐を大きくしたような姿をするそれは、しかしその巨体といい、目といい、八尾やその色といい。本来、生き物は食らえぬはずのあやかしを食らうことといい。――確信をもって、やつも牛鬼と同じ“あやかし”であるといえるであろう。恐らく妖狐だ。
 すでに馬四頭、人間を三人も食らった牛鬼があっさりと、新たに登場した化け物に命を絶たれてしまった。
 八尾の妖狐は口の端についた牛鬼か、それともやつに食われた者の血か。誰の者ともわからぬ赤を舌でなめとる。その時、道の脇に続く森の木々が揺らめいた。
 あれの目はその方へ向けられ、おれも同じようにやつの視線を辿るよう、そこを見る。その瞬間黒い塊が森の中から飛び出した。その姿を確認したおれは、無意識にひっと喉を鳴らす。
 それは、先程化け狐が食らったあれと瓜ふたつの、二匹目の牛鬼だった。二匹で狩りをしていたのか。
 ぎぎぎ、歪んでしまった戸を開けるときのような声を上げながら、化け狐に襲いかかるもう一匹の牛鬼。鋭い牙の覗く口を大きく開かせ化け狐に食らいつこうとする。だが歯が触れるよりも先に、化け狐はするりとそれを避けて、先程の牛鬼にしたように、もう一匹の牛鬼の蜘蛛の腹に同じように噛みついた。
 代わりに牙を受けた牛鬼は暴れるも、解放されることはない。留めと言わんばかりにさらに顎に力を込められ、抵抗が弱くなったところでやつも丸呑みにされた。
 いびつに膨らみ嚥下される妖狐の喉を、何もできず見つめていると、ふとやつの目がおれに向けられる。
 すう、と細まるそこが何を語っているか、おれにはわからない。わからないから、たとえ牛鬼が消えたとして、恐怖までもが消えることはなかった。
 まだ左手で掴んでいた短刀を握り直す。化け狐の視線がおれの顔からそこへ移った気がした。
 血が足りないのか。息をすることさえ苦しく、短刀を握る手には力が入らない。だが自らを奮い立たせ、どうにか刃先を目の前の化け物に向ける。
 しかし、覚悟の上で構えた短刀はあっさりと化け狐の前足で弾かれてしまった。大した力は使われていなかったろうが、それとの体格差もあり、何より力の入らない手からはあっさり、頼りにしていたものが遠くへいってしまう。
 今度こそ食われるのだろうと、おれはついに諦め地に寝そべった。腹を上にし、肩口の傷は抑えたまま両足と空いた片手を放り出し、正面に来た星々を見つめる。
 まだ血は流れていた。痛みに脂汗が噴き出て、意識が鈍っていく。霞む視線の先で、あの化け狐の顔が映った。
 首を傾げるように、不思議そうにこちらを眺めている。
 ――そこで、おれの記憶は途絶えた。

 

 

 

 目が覚めたらおれは今いる洞穴の中、あの時の化け狐とともにいたというわけだ。
 あの化け物は一度おれをじっと見ると、また顔を地に伏せ目を閉じた。しばらく様子を窺い、動き出さないことを確認してからそろりと膝を抱えていた身体を崩す。
 右手を伸ばしたところあたりの土壁に目を向ければ、そこにはおれが石でつけた傷が三本残っている。そこに新たに一本つけたし、洞穴のただひとつの出入り口を眺めた。中から見えるのは緑ばかりだが、重なり合う葉の隙間からかすかに差し込む光で、おれは一日の時の流れを把握している。夜が明けたことを確認したら壁に傷をつけるようにしているため、新たに足された縦の線はつまり、今日で四日目ということを表している。
 もう四日、というべきか。それともまだ四日、なのか。今のおれには判断がつかず、ただ疲れ果てた身をゆっくりと土壁に預け、深く息をつく。天を仰いでも見えるのは土の天井で。ここに連れてこられてから一度も一面の空を見ていない。それどころかいつも身体を丸め、己のつま先を見つめるような一日だ。
 だが、きっと。きっともうじき、誰かが助けに来てくれるだろう。
 もとよりおれは元服の為、父上のもとへ向かっていた。だいたいではあるがたどり着く日をあらかじめ文にしたため届けてあるから、きっとおれがいつまでも自分のもとへ来ないことを訝しんでくれるだろう。そうすれば父上は捜索隊を出してくれるはずだ。それでおれは捜索隊の面々と生きて合流を果たし、そして父上のもとへ行くことが叶う。きっと。
 それまでの辛抱だ。うまくあの化け狐の機嫌を損ねないようにし、食われないよう気を張り続ければおれは助かる。
 だが、そう思い込んだとしても、おれの気分は一向に晴れなかった。
 すぐ傍らに、恐ろしい妖狐の存在があるというのが大きいが、なにより、本当に助けが来るかどうか。
 この化け物に連れてこられ、四日が経っているのだ。まだ捜索隊さえ組まれていないどころか、おれが化け狐の巣に連れ込まれているなどということは考えもしていないことだろう。異変に気づき、隊が組まれ、そして助けが来るとして。それはいったい、いつになるのか。
 どれほどおれは待てばいい。どれだけあの妖狐を睨み、しかし目が合えば食われぬようにと逸らして身を縮こめ。いつまで、こんな場所にいなければならないんだ。
 鬱屈とした気分は降り積もり、思わずおれは小さく溜息を吐く。無意識の自分の行動に気づき慌てて開いた口を噤むが、もう遅い。
 眠りについたはずのあの妖狐が、寝そべり伏せていた顔を僅かながらに上げおれにつつじの花の色をする目を向けた。それだけでびくりと身体が震えてしまい、そのことを情けないと自身に恥じ入る前に、ただでさえ隅にある身をさらに土壁に迫らせる。
 あれは度々、今のようにじいっとおれを見ては、また顔を逸らして目を閉じるのだ。何を考えているのか、一切読めぬその目がいつ豹変し獣の性を宿すかわからず。刀も何も持たぬおれはただこうして怯えるばかりだ。
 これまでのように妖狐はしばらくして一度目を細めると、再び地に顔を伏せる。それからさらに時間を置き、ようやくおれは少しずつ強張った身体から力を抜いていった。
 強い虚脱感。感じる薄ら寒さに、膝を抱え、小さくなる。洞穴の中はひどく冷えていた。動いていないが当然腹は減り、喉の渇きに、ひどく家が恋しくなる。この際、義父のもとでもいい。見知らぬ他人のもとでもいい。人などいなくてもいい。
 温かみなど与えてくれなかった義理の親であったし、いつもひとりであったが、それでも屋敷の中は温かく、食べるものはある。
 この洞穴には、なにもない。ただ目の前在るのは、牛鬼という化け物を丸呑みできる、化け物だけなのだ。

 

 

 
 土壁に預けていた身体がずり落ちそうになり、おれは目が覚めた。
 どうやらいつの間にか眠っていたらしく、身体が固まったように痛む。相変わらず妖狐が視界におり、肩を回すことさえできずその鈍い痛みに顔をしかめた。
 ふと気づくと、おれから少し離れた場所、それでも手を伸ばせば届くところに山のように多種の果物が積み上げられていた。その隣には損傷の激しい使い古されたお椀があり、そこには水が並々と注がれている。
 それを目にした途端に、目覚めたばかりのおれの腹はきゅうと締め付けられた。からからに乾いていた口からは絞り出されたよう涎が溢れ、つややかな果物たちにごくりと喉を鳴らす。
 そっと顔を伏せながらに妖狐を窺うと、おれが最後に見た姿と、いつもしている体制と変わらずそこにいた。
 もう一度積まれた果物に目を向け、なるべく物音を立てないようそっと、それに手を伸ばす。山を崩さぬであろう場所にあるものをとり、やつの様子を見つめながらそろりと一口かじる。名は知らぬがみずみずしく甘みの強いそれは美味く、気づけば夢中になって食った。
 ひとつ食い終わればまたひとつに手を伸ばし。自分でも呆れるほどの勢いだったが、それでも山のように積まれたそれは僅かに高さが減ったくらいでまだ残っている。しかし次第に腹が満たされおれの手は、我に返ったように止まった。
 いつのまにか視界から外していた妖狐を改めて警戒しながら、最後にお椀をそろりと持ち上げ、中に入る水をすべて飲み干す。椀の側面が泥で汚れていようが、この際気にならなかった。
 ふう、と一息ついておれはそれを元の場所に戻し、それから残った果物の山から下したままの腰を引きずるようにして離れる。
 その時じりじりと身を引きずる音が聞こえたのか、妖狐が閉じていた目を開け、こちらに向く。おれをしっかりと捕えると、顔を上げ、出口の方へ視線を向けた。
 おれもつられるよう妖狐の視線を辿り洞穴の口に目を向ければ、そこから二匹の狐が顔を出す。姿は妖狐そっくりだが、大きさはおれよりも少し大きいくらいと小さい。
 狐にすれば十分大きいが、なにせやつらもおれの目の前にいる馬鹿に大きい化け狐と同種の、あやかしだ。やつらにしてみればまだ子どもの部類に入るのだろう。
 二匹は八尾の妖狐と視線を交わらすと、するりと足音も立てず洞穴の中に入ってきた。そこでようやく尾の先まで姿が見える。片方は二尾、もう片方は四尾だ。四尾の方が二回りほど二尾よりも大きい。
 やつらはするすると洞の中を歩くと、おれが離れた果物の山のところまで行き、その手前に二匹並んで腰を下ろした。そのまま頭を下げ、二匹揃って果物に食らいつく。
 おれにとっては山ほどの量も、人を丸呑みできそうなほど大きく口の開けることのできる化け物には、それが二匹ともなるとむしろ物足りないほどで。目を細めその姿を見つめていたが、あっというまに食い終えてしまう。
 最後に口の周りについた汁を舌でなめとり、その後一度おれの方に視線を向けたが、そのままおれまでばくりといくことはなく、洞穴の中から出て行った。その時、水の入っていたお椀は二尾に咥えられ持ち去られる。
 二尾と四尾の気配が完全に消えたことを感じ、おれはゆるゆると全身から力を抜いていった。
 洞穴の中にはまた、あの八尾の化け狐とおれだけになる。一度は増えた化け物の数がまた戻っただけで、何より残っているのは一番身体が大きなやつだ。恐らく、あの二尾と四尾を従えているのだろう。結局は一番油断ができない相手が常に傍にいる。
 まだ気を緩めるわけにはいかない。そう、わかってはいるのだ。しかし一度眠ってしまったとはいえ、身体はまだ泥に浸かっているかのように重たい。腹が満たされたためか、再びゆっくりと足先からまどろみの心地よさが広がっていく。首を緩く振っても、抗うことができそうもない。
 ――また眠ってしまえば、食い物が、飲み物が用意されているのだろうか。
 船をこぎながらおれは、まだあれが傍にいるというのに、呑気にそんなことを考えた。
 おれが疲れに負け眠ってしまったのは、先程が初めてではない。もともと長旅の疲れもあり、妖狐に攫われた時にはすでに身体は眠りたいと訴えていたのだ。気づけばこの洞穴にいて、あれがいて、精神も随分すり減った。身体が自らを癒そうと動くのは、当然のことであろう。
 だからおれは、あの化け物が傍にいるにも関わらず、一度眠ってしまったことがある。先程のことではなく、その前にだ。
 それから目覚めれば、山のようにされた食い物と、あの欠けたお椀に入れられた水があった。はじめはあれの食糧だと思い、おれの傍に置かれていたこともあり。おれはあの山と同じ道を辿るものと思った。だから半ば意地のように、あてつけのように、その果物の山を食ってやったのだ。
 本当は単に腹がすいていただけで、それに耐えられなかっただけだ。しかし、やはりあの化け狐の腹の立つことをひとつしてやろうと思い、食ってやった。あの時おれは目覚めたばかりで頭が働かず、そんな大胆なことをしたわけだが。今となっては考えなしだったと顔が青くなるようなことだ。
 だからこそきっと怒った化け狐はおれを食らうであろうと思ったのだ。しかし、あれはおれが食料を食い漁る姿を見ても、椀に注がれた水を飲み干しても、ただその姿を眺めるばかりで何もしてはこなかった。
 腹が満たされ我に返ったおれが、残した山から離れ土壁に身を寄せ縮こまれば、先程のように二尾と四尾の同じ化け狐の仲間が現れた。そして残ったものをすべて食ってからお椀を咥え、早々と洞穴の中から去っていったのだ。
 一度目に眠ってしまって、そして起きてからも、二度目もまったく同じことが起きた。ならば、三度目もまた何かあるかもしれないと期待してしまうのは、しかたのないことだろう。
 そこでひとつ、考えてしまう。
 もしやあの食い物は、おれのために用意されたものであるのだろうか、と。
 あの妖狐は、少なくともおれが起きているときにはほとんど寝ていて動かない。それどころか、食べているところも初め出会ってしまったとき牛鬼を食らってからというもの見ていない。
 もしかしたら二尾と四尾を使っているかもしれないが、どちらにせよ、おれが寝ている間に何かしら行動をしているのは間違いないだろう。そして食い物と飲み物を、用意している――だが、もしおれのためだとして、それはなぜだ。
 この身を食らうためにこのねぐらである洞穴に連れてきたのだろう。ならば、なぜ食事の面倒など見る必要がある。
 単なるおれの思い過ごしであるのか、まだ二度しか起きていないことでは判断はつかない。
 目を閉じる寸前、妖狐がこちらにじっとあの瞳を向けている気がした。

 

 

 

 この洞穴に連れてこられ、七日が経った。それほどなら、まだ父上はおれに起きたことなど知らずただ訪れるのを待っていることだろう。
 おれが眠るとやはり、食料と水が傍らに置かれていた。それを食い、残ったものは二尾と四尾が現れ残さず平らげていく。
 ただ寝ては、目の前にあるものを食べて。そしてじっとして妖狐を気にしながら過ごし、再び眠りつく。この七日間、その繰り返しだった。他にはなにもない。
 そんな中少し変わったこといえば、八尾の妖狐が時折洞穴から出てどこかへ向かうようになったくらいだろうか。出ていくときはまばらで、何を目的に向かっているのかはわからない。帰ってくる時分にもばらつきはあり、外に出てすぐに戻ってくるときもあれば、早朝出かけ夜が更けてから帰ってくるときもある。
 それはおれにとっての好機だと考えた。あれがいない間、なるべく長く離れている隙を狙えば、もしかしたら今いる山を下ることができるかもしれないと。そうしておれは、今朝早くに化け狐が洞穴から出て行ったとき、行動しようと決意したのだ。
 やつがようやく洞穴の半分近くを埋めてしまう巨体をのそりと動かし外に行ったときに、あれの気配が完全に断たれたらおれも外に出ようと画策した。まずは日を浴び、精一杯背伸びをしようと、そうはやる気持ちを押さえ、出口から一歩を踏み出そうとしたとき――見張り役と言わんばかりの顔で、二尾が顔を出したのだ。いつも共に現れるはずの四尾はいなかったが、たとえ一匹でも立ち上がればおれの背丈に届くほどの体躯に敵うはずもない。
 じっと睨まれるように見られ、おれは慌てていつもいる隅に身を寄せ、震えた。
 そんなおれの様子を見つめながら、二尾は出口をふさぐように身体をそこで寛がせるものだから、おれの計画など嘲りの中に消えていく。
 二尾の出現にどくりどくりとなる心の臓をぎゅっと握りこぶしで押さえつけながら、そっと、出口に悠々と身体を横たえる存在へ目を向けた。すると、あれもおれのことを見ていたのか視線が合ってしまう。そのまっすぐな瞳に、おれは慌てて目を逸らした。
 ――八尾の妖狐がいないとき、この二尾とだけになるのははじめてだ。
 八尾の妖狐とともにいるときよりもはるかに、いつ襲われるかわからない不安や恐怖が胸に迫る。二匹が化け物であるということに変わりはないのに、それなのに。初めて八尾の妖狐を目の前にした時のような恐れが抜けない。いつ襲い掛かられるかわからない。
 自身の身体を抱き締め縮めていると、ふいにぶしゅんっと二尾の方から音が立つ。続けてもう一度、似たような音がして、おれはそろりとあれへ目を向けてみた。
 するとさらにもう一度、二尾はくしゃみをしていた。頭を大きく振りながら、その後に後ろ脚を使って頭を掻く。その姿は、大きさや尾の数が違うだけで、それさえなければただの狐のように見えた。
 しかし、くありと欠伸をした際に大きく開いた口から覗く歯はやはり鋭く。おれの肌にもやすやすと突き刺さりそうなほどで、ぞっとする。
 ふと、眠たそうに目を瞬かせた二尾がおれを見た。ぴんと両耳を立たせ、じいっと。
 それは――獲物を前にしているというよりも、おれが何かわからず興味を抱いているような、そんな目をしている気がした。化け物の考えなどわかりはしないが、幼子が見るものすべてに目を輝かせるような、それに通じるものがあったように思えたのだ。だが、そんなものはやはりおれの思い込みに過ぎない。
 獣と人は違う。相手が化け物であるならば、なおのこと。
 目を逸らし、膝に顔を埋めても、ずっと二尾の目はおれに向けられていた。

 

 

 

 間もなくして八尾が帰ってくると、二尾はさっさと洞穴から出て行った。
 あの時からさらに三日経った頃。おれの中にはもう、八尾の化け狐がいなくなったとして、自由になれるかもしれない、といった考えはなくなっていた。なぜならばまた八尾が出ていくことがあれば、二尾がやってきて入り口をふさいでしまうからだ。その時四尾は八尾についていく。
 二尾はいつもじっとおれを見るばかりで、出入り口から離れようとはしない。鼻息を荒くすることもなく大人しくしているものだから、次第にあれへの警戒心も薄れていく。とはいっても、ほんのわずかだが。
 さすがにこんなにも長い時を化け物どもの傍で暮らさざるをえない状況下で、さらに向こうはいつも寝ていたりと、敵意や欲を見せたりしないのだから、少しずつではあるが嫌でも慣れてしまう。まだ到底気を緩めることはできないが、初めのころのように無意識に身体が強張ることはなくなった。
 ――いや、正直に言えば、そう己に言い聞かせる方がうんと楽だったのだ。いつまでもいつまでも気を張り詰め、隅で震えているよりも。まだやつらはおれを襲わないだろうと、そんな淡い期待で自身の心を宥めてやる方が。
 既におれの定位置となりつつある洞の隅で、不意に感じた寒気にぶるりと身を震わし、抱えていた膝を更に寄せ、熱を少しでも保とうとする。けれど既に指先には感覚が鈍っていた。
 今も二尾が身体を置く洞穴の入り口を見れば、しとしと降る雨粒が見えた。雨が降り出したのはつい先程だったが、ただでさえ肌寒かった洞穴の中は更にうすら寒くなってしまう。今では吐く息でさえ白い。
 しかし、おれが暖をとれるものといえば、牛鬼に襲われた道の途中で身に着けていたものだけ。泥だらけで端は裂けているは、何日も着続けることで着心地があまりにも悪くなっているは。更には自分の流した血が染みついてさえいる。この寒さから身を守るには、あまりにも心もとない。しかしこの穴から抜け出せぬおれにはそれで満足するよりほかはなく。
 目の前で寒さなど知らぬと言わんばかりに呑気な寝顔を見せる二尾の化け狐が憎たらしく、その皮を剥いで身に纏ってやりたいと恨み事を胸の内で延々と垂れ流す。――しかし、そろそろそれにも飽きてしまった。
 ここではすることなど何もない。書を読むこともできなければ、蹴鞠などして暇を弄ぶこともだ。唄はもともと得意としないため、むしろ離れることができたのだけはよかったと思えるが、明星(あけぼし)を連れ鷹狩に出ることさえもできぬ。
 ここに連れてこられてすぐは眠りもままならず、おれも弱り切り、意識がもうろうとしていてあまり感じることはなかったが。多少体力も回復した今、起きている時間に何をすべきかわからなくなってしまった。
 寝るのが一番だろうが、ここにきてからというものそもそも寝てばかりだったのだ。そうずっと目を閉じ続けられるものではない。かといってやはりやることはない。
 しかたないか、と思い、おれは二尾に気づかれぬようそっと息を吐いた。
 しかし、やはり寝ようと考えても今すぐそれをすることはできない。今おれを見張るのは、二尾の妖狐だからだ。若い妖狐は依然おれに興味を抱いているようだった。そんなところへ眠ってしまえば、何をされるかわかったものではない。
 だから寝るのであれば、八尾の化け狐の前でと決めている。あれとて信用は到底できないし、二尾や四尾の前でよりはいいだろう、くらいの微々たる差である。しかしその些細な差が命取りにもなりかねない。
 結局はここで、化け物の前で眠らなければいいだけの話だ。だが眠らずにいられるなどできはしない。それこそ、化け物の領域だからな。
 やつの、八尾の前で意識を落としての眠りにはもう仕方ないと諦めた。それに、そうしなければなにも食えず、飲めずであるし。
 ――結局今できることは、ただじっとしていることのみ。
 少し身体を揺らして熱をとりながら、ただぼうっと、己のつま先や土壁に作ったここで過ごした日数分だけの傷を眺めたり、寝ている二尾を観察したりと、過ごす。
 それからしばらくして八尾の化け狐が帰ってきた。
 奴はいつもより入り口に寄り、まるでそこを塞ぐようにして身体を横たえる。あれでは雨に毛が濡れるのではないか、と考えたが、すぐにそれは内心で頭を振るって飛ばした。やつのことなどどうでもいい。
 だがそのおかげで外気が入り辛くなったのか、それとも洞穴の半分の大きさもある化け狐の存在がそうさせるのかはわからないが、先程よりは若干寒さが薄れた気がした。
 次第に指先にも熱が戻った頃、おれは妖狐の様子を窺いながら、そろりと横になる。
 相変わらず冷たくかたい地面であったが、それにすら慣れはじめてしまった自分に、無意識に自嘲がこぼれそうになった。
 無理矢理目を閉じてしばらく。眠気はなかなかやってこなかった。それもそうだろう、もとより眠くなどなかったのだから。それでも少しでも体力を取り戻そうとも考え、自然と眠りに落ちるのを待つ。
 その時だ。不意に、妖狐が立ち上がったのを気配で悟る。そこで目を開ければよかったが、むしろ反対にさらに深く瞼を閉じた。
 足音は立たなかったが、化け物は確かにおれの方へ歩み寄ってくる。やつが近づいた分だけ、おれの心の蔵は早鐘を打った。
 ついに、食われてしまうのだろうか。そう思うと腹の底から冷えていく。やつに気づかれぬようぎゅっと拳を握り、どんな結末に転がるのか、ただそれを待つ。
 ――ふんふん
 おれの身体ほどもある妖狐の顔が、その鼻先がおれに寄せられると、匂いをかがれた。やつの鼻が空気を吸いそして吐く度に、微かに頬に風を感じる。
 おれの身はもはや岩のようにかたまっていた。
 もう一度首筋辺りをかがれてから、それから妖狐は何事もなかったかのように、再び足音を忍ばせながらおれのもとから去っていった。それを気配で感じたおれは、うっすらと瞼を持ち上げる。
 狭い視界から見せたのは、妖狐の後ろ姿だった。再びいつも寝る場所よりも入り口に沿うような場所で腰を下ろすと、やつは眠る体勢に入る。
 その時ようやくおれの全身からは力が抜け、どっと汗が噴き出た。ばくばくと胸を鳴らしながらしばらく薄めで化け狐の様子を窺うが、しかしやつはおれのさざめく心など素知らぬような寝顔を見せていた。
 さらにもう少しの間観察し、おれに手を出す気など今はないのだと悟り、ふう、と小さく息を吐く。
 いったい、なんだったのだろう。
 先程の妖狐の不可解な行動が身体に負担を強いたのか、それで疲れたのか。おれはいつしか眠りについていた。

 

 

 

 雨は降り続いていた。目が覚めたときおれは喉に違和感を覚え、いつものように用意されていた小汚い椀に注がれた水をまず一口すする。しかしそれでもその違和感はとれない。
 寝起きだからか肌寒さもあり、それゆえか食も進まず。食えるうちに食っておかなければと頭では理解していたが気持ちも身体もおいつかず、初めにとった実をひとつ食べきったところですぐに横になった。
 ひどく身体が重く感じる。これまでの疲れがまた顔を出したのだろうか。寝ていれば、治るだろうか。
 そう思いながら眠りにつくも、再び目を覚ました時には状況は悪化していた。
 喉の痛みから堪えようと思っても咳が出る。八尾の視線がおれに向けられていることがわかっていたからすぐにでも止めようと努めるも、さらに激しく出るばかりだ。再び用意されていた水を少しずつ飲むも、喉の渇きや痛みは癒えることはなかった。
 頭も痛む。身体はもはや泥を纏ったように重たく、指先を動かすことさえ億劫だ。吐き出した息はやけに熱っぽい。しかし、身体は寒さに震える。
 袂を寄せながらおれは、自分が熱を出したのだということをようやく判断できた。そんなこともすぐに思いつかなかったほど、意識も濁っている。
 再度咳き込み、しかし感じたとあるものに息を飲む。
 悪くした身体より、咳に阻まれる息苦しさより、なによりおれを苦しめたのは――牛鬼によってつけられていた、左肩にある傷の痛みだった。
 これまでそこは常に痛みを抱いていた。しかし、あえてそれが苦しいのだと思い込まぬようにしていたのだ。ずっと身体を動かすことなくじっとしていたため、実際そこまで痛むことはなかったし、おれ自身気遣って身体を動かしていた。しかし、咳をするたびに大きく揺れる背に、肩に、傷口は大いに影響される。
 止めることのできない咳、それに痛む傷口。それに呻き、さらに咳は出てきて――堂々巡りもいいところだ。
 己の額に手を触れてみると、そこは驚くほど熱を生んでいた。おれの手が冷えていることもあるだろうが、それにしても。
 このままではまずいかもしれない。そう思いながらも、いつしかおれは気を失うように意識を手放した。

 

 

 上の衣が暴かれる感覚がして、おれははっと目覚める。仰向けに寝転がっているため、自然と頭も上を向いていたが、開いた視界にはあの妖狐の顔があった。

「ひっ……」

 ろくに考えられぬまま本能が動き、逃げようとするも、そのまえに前足で右腕を押さえつけられた。体重はかけられないが、おれを拘束するだけの力をそこに込める。

「は、なせ……っ」

 おれは右腕に触れる大きな足を左手で押すも、微動もしない。そこへおれの意識が持って行かれている間に、やつの鼻先は腹の方へ移っていた。
 そこでようやくおれは、妖狐が衣を脱がせていることに気づいた。すでに腹まで肌が露わになっていて、肩も大きく露出している。
 わけもわからぬままがたがたと身体を震わせていると、不意に妖狐と目が合った。
 つつじの花の色をした、化け物にふさわしい生き物は持ち得ぬその瞳に。おれは目を逸らす。
 今度こそ本当に食われてしまうのだろうか。やはり妖狐はおれが弱るのを待っていたのか。
 ぎゅっと唇を噛みしめたその時、左肩の傷口がぬめりのある暖かいものに舐められる。驚いて振り向くと、そこには妖狐の顔があり、傷口にはやつの舌が伸びていた。
 やつにとっては、おれの傷など豆粒のようなものだろう。そこを舌先で何度も何度も舐め上げる。その度に走る痛みに声にならぬ悲鳴を上げるおれなど気にも留めずに。
 あえて触れぬようにしていた、傷。見ることさえ恐ろしく一度も上を脱いで確認さえしようとしなかったそこだったが、這う舌に思わず目を向けてしまった時、見えてしまう。
 その傷の程度は、おれが思っていた以上に酷い有様だった。化膿し、見るにたえないそれ。自身にできた傷といえども、おれであったら触れるのさえ恐れるようなそこを、決して清潔とは言えぬそこを、妖狐は何度も舐める。
 それはまるで、獣が自分の傷を舐めて癒すように。おれの傷を癒そうとしているように、見えた。
 ゆっくりと、押さえつけられている右腕に目を向ける。そこはやはりおれを傷つけようとする意志は見られず、むしろ抵抗されるのを押さえるためのように思えた。
 わからない。化け物の考えることなど、何も。何も、わからない。だが――
 おれは、おれの右腕を押さえるやつの左腕にそっと、顔を寄せた。

「――っ、ぅ…………」

 柔らかい毛は触れ心地がよく、温かい。触れる舌も傷口に痛みを与えてくれるが、それでも何か気持ちいいものを感じた気がする。

「ぅ、ぅっ……」

 唇を噛みながら、声を殺す。しかしそれでも情けない声は零れてしまう。やはりこの身だけでなく、心もそうとう参っているようだ。
 殺しきれぬ声にいら立ちながら、鼻を啜る。喉の痛みに咳き込みながら、息をそろりと吐き出す。
 一度動きを止めたやつは、じいっとおれのことを上から覗きこんでいた。けれどおれは妖狐の腕に、目元から溢れるものごと顔を押し付ける。
 恐ろしい。やつが、妖狐が、恐ろしい。でも、それでも。久しぶりに感じた温もりは、あまりにも心地よすぎた。
 今だけだ。今だけ、この化け物に、この身を預けよう。食われたらそれまでのこと。諦める。だから、今だけ。
 再び傷口を厚い舌でなめられながら、おれは嗚咽を殺し、ひっそりと泣き続けた。

 

 

 

 ある時から、妖狐は怪我をして帰ってくることが多くなった。胴の方は傷口が長い毛に覆われ見えないが、足先の毛は短いためその抉れた傷がはっきりと見える。何か、鋭いものでやられたらしいということが窺えた。傷の大きさからして、八尾と同等ほどの大きさの相手ではないだろうか。
 しかし、その傷口から血は流れていなかった。鉄くさいにおいはするし、身は抉れて肉が見えているが、一滴もないそれは毛を汚していない。だがその代わり、赤い靄のようなものが妖狐の身に纏わりつくように浮遊していた。それは時が経つにつれ薄まっていき、やがては完全に晴れる。気にはしたもののおれの身体に影響はないようだったし、深く考えはしなかった。
 赤い靄についてはなんなのかわからなかったが、やつは化け物だ。生物とは違いもはやあの身には血など流れていないのかもしれないと、そう、最初は思っていた。だがどうやらそれはその通りというわけでもなければ、やはりやつらは化け物でもあったらしい。
 というのも、八尾についていく四尾も同じく、よく怪我をするようになった。はじめの頃は八尾だけが傷を負って帰ってきたが、日が経つにつれ、四尾にもそれはでき始めた。そしておれはようやく、八尾が怪我をして帰ってくると周りに霞む“赤い靄”の正体を知ったのだ。
 それは四尾の傷を見たときだった。八尾と違い、やつは傷口から赤い血を流していた。だがそれは、溢れ僅かに傷口から垂れた頃に、すうっと靄に変わってしまう。赤い、八尾が纏うものと同じ靄だ。それは四尾の身体の周りに漂い、しばらくすると消えていく。完全に靄が晴れた頃には、四尾の傷からも出血が止まったようだった。
 その光景を見てようやく、おれは八尾の周りにある赤い靄の正体を悟ったのだ。あれはやつの血だということに。どういうからくりかは知らぬが、本来生き物であれば流れゆく血が、やつらのものは靄へと変化するようだ。四尾が一度水のような血を流すのは、まだあれがあやかしとしては半端な者ということを示しているのだろうか。
 ともかく、やつらが化け物であることには変わりない。妖狐らの周りに漂う血の靄を見ては、そのにおいがしては、あまりの不気味さにおれは身を縮めた。
 血は流れていないが、八尾は周りに浮かぶ靄が消えるまで丹念に傷口を舐め続ける。それが自分の舌が届かない首などであれば、二尾や四尾にさせていた。
 二尾はそれが心配らしく、二匹が帰ってくるなりその周りをくるくる回って切なげな泣き声をあげる。おれはただその様子を見つめるだけだ。
 血を血として流さぬような化け物とて、情はあるということなのか――自ら八尾たちに身を寄せていく二尾を見て、おれは思う。
 あの化け物たちのつながりなど知らないが、仲間であることには違いないだろう。だから、怪我をして帰ってきたら心配するのだろう。
 それは当然のことであるのに、妖狐どもがその当然をしているだけで違和感を覚える。それはやはりおれが、あれらのことを所詮は化け物と思っているからだろうか。
 今日も八尾が作ってきた頬の傷を、血の靄が晴れるまで二尾と四尾が舐め、それが終わると二匹は離れていく。そのまま洞の外へ出て行った。
 二匹が去った後に妖狐は一通り己の毛を舐め整えると、その場に立ち上がる。一度ぶるりと身を震わすと、そのままのしのしとおれのもとまで歩み寄り、身を横たえた。その時におれを腹に挟むようにして丸くなる。
 毛玉に身を寄せられ、さらにはそれに鼻口を圧迫されたおれはもぞもぞと最小限に動き、辛うじて呼吸できる場所を確保した。化け狐の身体に埋まりながら、微かに匂う生臭い血に思わず眉間が寄ったが、しばらくすると嫌でもそれに鼻が慣れていく。そうしてからようやく、おれは目を閉じた。
 あの日――おれが、妖狐に傷を舐められたあの日から、妖狐は夜眠る際、今のようにおれを包むように丸くなるようになった。なぜかはわからない。これまで近づいてこようともしなかったというのに。
 はじめは化け物に触れているということだけでも恐ろしく、身が震え歯の奥が鳴ったものだが、今ではやつの温もりが、多少なりともありがたい。
 洞の中は寒い。最近では雨の日も多く、よく冷えるのだ。薄い衣しか羽織っていないおれと違い、やつは毛に覆われた塊だ。多少獣臭さが目立つが、血の匂いに慣れてしまうように、それと同じようおれの鼻は慣れ、今では温もりが優先される。
 幾度考えようとも、化け物が何を考え、何を狙っておれに身を寄せるのかわからない。そもそも、なにか考えがあってのことなのかさえ怪しい。しかし、わからないままではあるが利用できるのであればしてやろう。
 だが、決して心を許すつもりはない。いつ頭から飲み込まれるか。すぐにでも逃げ出せるよう身体の力は抜かずにいた。
 ――しかし、そう思いつつも、おれはいつも獣の身を己の身体に纏わせると、ゆっくりと眠りに落ちていく。眠るものかと意識を研ぎ澄ませたとて、温かく、柔らかなその場所は、化け物の身の内というのに心地いいものがあった。
 やつが息を吸う度、おれを乗せた腹は膨れ上に動き、それを吐き出せば萎み、この身も落ちてゆく。その感覚を辿るように、おれの意識も浮上しては沈むを繰り返す。
 襲いくる眠気に抵抗しつつ、真白の毛にうずもれながら土壁を見た。下がる瞼のせいで霞む視界で見えるものに、小さく溜息を吐く。
 半月が経った。救いの手は、未だ影すら見えない。

 

 

 寒気がし、おれは目を覚ました。手を伸ばしても毛の感触はなく、触れるのは土ばかり。ようやくおれは八尾の化け狐が傍らにいないことを理解した。
 これまで、おれが起き出すまで寝ていたやつがいないことを疑問に思いつつ身体を起こし、洞の口に目を向ける。
 今日もまた二尾が見張り役をしているのだろう、と思っていた。だから、そこを見たのだ。しかし実際洞の口でおれを見つめていたのは、見たことのない新たな化け物だった。
 そいつは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、一度睨むように目を薄めおれを見て、すぐに顔を下して眠る体勢に入る。
 やつの気に触れぬよう、おれはそっと頭を動かし様子を窺った。
 出入り口に寝そべっていたのは二尾ではなく、黒い狐だった。とはいってもその尾の数は六尾あり、四尾より大きい巨体だ。化け物に違いなく、色が違うだけで恐らく八尾の仲間なのだろう。
 眉間から左頬に一直線の傷跡があり、古いものであるようだが相当深かったらしく、そこは生々しくはげて露わになっていた。その傷のせいか、先程の視線のせいか。白い三匹の妖狐たちに比べ獰猛に見える。
 無意識におれは息を飲み、じっと身動きせず黒い妖狐の様子を見ていた。するとやつはそれまで閉じていた目を突然開けると、素早く立ち上がりおれの方へ身体ごと向かせる。
 思わず息を飲むと、やつは口を大きく開け、鼻には皺を寄せ恐ろしい表情を見せた。

「……っ」

 恐らく、威嚇、されているのだろう。
 おれは座り込んだまま身体を後ろに退かせ、少しでも目の前の妖狐から距離を取る。そもそも壁際にいたため、後ろというよりも横にずれた形ではあるが、おれにとっては大差ない。
 さらに下がりようやく化け物の納得いく距離がとれたのか。やつは何事もなかったように同じ場所にまで戻ると再び丸くなった。しかしおれはろくに体制を整えることもできないまま、妖狐から目を逸らしたまま、唇を噛む。いつの間にか掻いていた冷や汗がただでさえ冷たくなった身体を、容赦なく追い立てた。

 

 

 

 しばらくして、八尾の妖狐がいつものように怪我をし、血の靄を纏いながら帰ってきた。連れ添うように四尾と二尾も姿を現したところで、黒狐は立ち上がる。それから八尾に向きじっと会話をするように見つめ合うと、そのまま洞から去っていった。
 完全に、その尾の先まで見えなくなって、気配も消えたところで、おれはようやく深い息を吐いて全身から力を抜く。
 冷える指先をこすりあわせていると、ふと視線を感じ、そこへ目を向けた。するとじっとおれを見る八尾と目が合う。すぐにおれは顔ごと逸らすも、まだ妖狐がこちらを向いたままなのを視界の端で確認した。
 なぜ見られているのだろう、と思うものの。しかしおれの身体は震えることもなければ、かたくなることもないことに気が付く。
 あれほど、ここに連れてこられたときには――
 自身の変化に気づき、戸惑いを覚えたおれは、その元凶ともいえる存在に完全に背を向け目の前にきた土壁を睨むように眺めた。そこにはおれがつけた跡がいくつもあり、その数だけやつらとともに過ごしてきたという証でもある。それだけ、助けを待っているという印でもある。
 そっと、手を伸ばした場所にあるへこみを指先でなぞる。しばらく意味もなくそれを繰り返し、考えることすらやめてぼうっとしていると、いつの間にか八尾の妖狐が背後に迫っていた。
 おれが振り返りやつの存在を認識すると同時に、妖狐はいつものようにおれを腹に巻き込むように丸くなる。
 その温もりからか、しばらく冷えていた身体も全身が包まれ熱を取り戻した。
 黒狐のせいで緊張の糸を張り詰めていたこともあるのだろうか。どっと疲れを覚えたおれの瞼はそろりそろりと下がり始める。
 落ちる直前に、おれは心の中で言葉を繰り返した。
 ――ただ、暖をとるため。どうせ抵抗したとて、この化け物の力に敵うわけもない。しかたなく、こうせざるをえないのだ。だから、おれはこいつの傍らで寝なくてはならないのだ。
 そう言い聞かせなければ、何かが壊れてしまいそうだった。

 

 

 

 黒狐が洞穴の番をすることが多くなり、八尾たちはその日のうちに帰ってこないこともあるようになった。
 やつも基本二尾と同じように、出入り口でじっと眠るだけだ。しかし、おれが少しでも身動きをすればすぐに不機嫌そうに睨んできた。
 特に冷え込む朝に、その寒さに耐えきれずくしゃみをしただけで、その鼻っ面に皺を寄せ今にも牙を剥きそうな勢いで不愉快だと訴えられる。黒の化け狐はおれが置物のようにじっと呼吸すらせず大人しくしていることを望んでいるようだ。
 やつが番をしているときは、決して食事も飲み物も用意されることはなかった。二尾の時は、おれが眠ってしまえばいつものように何かしら用意されていたが、そもそも黒狐の前で眠ることさえできない。
 寝てしまえばそのまま寝首をかかれてしまいそうな、そんな気がするのだ。むろん他の妖狐たちの前でなら安心できるというわけではないが、やつがおれを快く思っていないのは明らかだ。
 だから眠たい目をこすりながらも、寒さに身を震わしながらも、おれはただじっと待つしかない。
 ――時々、わからなくなる。果たしておれは、どちらを待っているのだろう。
 そんな疑問さえ持ちたくないと、おれは抱えた己の膝に額を付け、黒狐の気に障らぬようそろりと息を吐く。
 腹が減った。喉が渇いた。身体が、頭が痛い。ぼうっと、靄がかかっているようだ。
 いったいいつまで、こんな暮らしが続くというのか。
 泥だらけの衣。未だうずく肩の傷。感じる虚脱感。望みを捨てなくてもよいのかもわからぬ希望。言葉さえ通じぬ化け物ども。増えるだけの土壁の傷。
 いつになったら、迎えはくるんだ。

 

 

 

 ついに、八尾の妖狐が洞から離れ、帰ってこないまま二日が経った。
 その間黒狐も時折ふらりと外に出ることはあってもそう間もなくして帰ってきては、洞の口の先に寝そべる。おれが休まるのは、そのふらりとやつが出ていくほんのわずかな一時のみ。
 空腹に、喉の渇きに、眠気に。頭の痛みに視界を霞ませながらも、おれは一度も身体を横にすることなく、黒狐に警戒し続けていた。
 そんな身体もいい加減限界を迎えようとしていたその時、ついに八尾たちが洞穴に戻ってくる。無意識に身体の力が抜け、気づけばおれは、やつに手を伸ばそうとしていた。
 しかし白いやつの身体を彩るように漂う、いつもよりも濃厚な赤い靄が視界に入り、慌てて手を止める。目を逸らし、おれは己の右手を諌めるように左手で握りしめた。
 なにを、しようとした? 手を伸ばし、それから? それからどうするつもりだったんだ。
 無意識の行動に、自分自身に恐れを抱いた。疲れているのだ、そう言い聞かせても、身に起きた衝撃は冷めやらない。
 何度も同じ質問を内で繰り返す。何をしようとしていたのだ、と。しかし、答えは一向に出てくる気配はなかった。
 ふとやつらに振り返ると、ようやく鈍っていたおれの頭はその惨状に気づく。いつもより濃厚な血の靄。それが何を示すか、なぜすぐに気がつかなかったのだろう。
 八尾の妖狐は、首に大きな傷を抱えていた。随分と呼吸が浅く、そして早い。何者か、八尾と同等の大きさであろうそれに、噛まれでもしたのだろうか。肉が抉れ、とても見つめ続けることのできないそれから目を逸らせば、その先には四尾がいた。
 やつの背には、大きな爪痕らしきものが残されていた。立っているだけでようやくなのだろう、その足元はどこかおぼつかず、とんと横から押せば倒れてしまいそうなほどだ。
 今回はやつらの後についていった二尾だけが無傷で、心配そうに、不安そうに力ない二匹の周りをくるくると忙しなく回るばかり。
 やつらを見てきてわかったことだが、やつらはあやかしであるがゆえか傷の癒えは驚くほどに早い。多少の傷であれば一晩寝てしまえば大抵は何もなかったように、痕すら消えている。しかし、今回の傷は治るのに時間がかかるのではないだろうか。それほどまでに、酷い。
 漂う血の匂いに気分を悪くしながらも、おれはやつらから目を離すことができなかった。
 四尾はともかく、八尾のものは普通の生き物であれば、生死に関わるような怪我だ。いくら化け物とはいえ、不死などではない。どんなに傷の癒えが早くとも、それを上回る怪我であれば治る前に――
 しんで、しまうのか?

「……ぁ」

 己の考えにようやく気づき、無意識に小さく声を漏らしてしまう。幸いおれに構っている暇などない化け狐どもの耳には届いておらず、再び何か声に出す前に。内にこみ上げてくる何かを押さえるために、口元を覆う。
 胸の内で、何度もかぶりを振った。
 あいつが死のうが、そんなことはどうでもいい。むしろ、今争っているのであろう相手は恐らく、四尾の背中にある傷を見てもやはり八尾とそう大差ない巨体だろう。ならばそいつ共々、倒れてくれればおれはここから逃げ出せるかもしれない。
 やつらがもっと深手を負い、おれのことを気に掛ける余裕もなければ、きっと。きっとおれは、無事に――。
 洞の中にこもる血の靄は一向に晴れない。それはまるで吸い込んだ空気に混じり、おれの体内にまでも曇天の如く広がっているような気がした。
 きっと、化け物の血を吸いこんだから。だからおれの心はこんなにも落ち着かないんだ。あいつらは血すら、こうして靄となるあやかし。おれのこの身になんの影響も出ないことなど、なくはない。だからそれが不安なんだ。

「…………」

 己の右手を見つめる。汚れたその手は確かに、おれのものに違いない。そしてこの手は一度、伸ばされた。確かに求めて。あいつに、向いたのだ。
 おれ、は……。
 しばらくして、少し活力が戻ったのか。それまで地に伏せていた四尾は立ち上がると、二尾と黒狐に守られるようにして洞の中から出ていった。
 八尾はいつもなら顔を上げてやつらを見送るが、今回はそれすら億劫なのだろうか。瞼さえ上げず、死んだようにじっと地に寝そべる。やつが生きているというのは、ただ腹が浅く上下することだけが示していた。
 おれは、丸くなることもできず手足を投げ出すように横たわるあいつを見ながら、ゆっくりと音を立てぬよう立ち上がる。しかし、獣の耳を持つやつは微かな音を聞き取ったのか、ひくりと動いた。
 たったそれだけのことで足が竦む。しかし未だ顔を上げようとしないやつの様子に、おれは一歩、足を踏み出す。
 一歩、また一歩。少しずつ、しかし確実に、地に伏せるやつへ近寄る。手を伸ばせば触れるというほど傍に来て、足を止めた。
 妖狐は、こんなにも近くにおれが来ていることに気づいているだろう。気づいていて、それでも何もしなければ、こちらを見ることもしないのだろう。――いや、できないのか。
 無意識に震える右手を左手で押さえつけながら、一度深く息を吐く。息を吸って、もう一度。
 おれは、その場に腰を下した。そして八尾を背にし、身体を横にする。
 未だ安らかとは言えぬ息遣い。しかし、これだけ近くならばわざわざ腹の動きなど見ずとも、その呼吸は聞こえた。
 己が起こした行動なのに身体は強張る。しかし、変わらず続くやつの息に、次第に力は抜けていった。
 ――しぬものか。こいつは、化け物。しぬものか。
 もとより限界を迎えていた身体は、横になってしまったからか。ゆっくりと泥に沈むように、眠りについた。
 

 

 

 目覚めるとおれは、いつものように妖狐に包まれ眠っていた。目をこすりながらやつをみると、まだ眠っているようだに見える。
 上を見ると、靄はまだかすかに残っていたが、大分晴れたようだ。傷口を見ても、惨状には変わりないが、幾分よくなったらしい。
 やはり化け物、その回復力は人間に予想などできないのだ。
 ふと他に目を移すと、傍らに食べ物と水が置かれているのに気づいた。どうにか妖狐の身体から抜け出し、おれは久方ぶりとなる食事に胃を満たし、僅かばかりの水を一気に飲み干した。
 ふう、と一息つくと、不意に視線を感じ振り返る。すると、いつの間にか目覚めていた妖狐がつつじの花の色をする目でおれを見ていた。
 寝ているとばかり思っていた妖狐に驚いたおれは、何を思ったか、手にしていたお椀をそろりと地に置く。それよりも早く距離を取るべきだと後から思い浮かび、そう行動しようとしたところであいつの片足がおれへと伸ばされた。

「っ!」

 ――喰われる!
 身をかたくしたおれの肩に、やつの前足がかけられた。おれの顔よりも大きな足で踏みつぶされるかと思ったが、力加減をしたらしくそれは杞憂に終わり、ぐいっと前に押される。しかしその力はやり強く、踏ん張ることもできずおれは目の前の妖狐の身体に飛び込むように倒れた。慌てて離れようとすれば、それよりも早くやつが体勢を整えおれを巻き込んだ状態で再び眠る状況を整える。
 そしておれが呆気にとられているうちにすべては終わったようで、再び妖狐は寝息をたてていた。
 柔らかく、雪のような真白の毛に溺れるように埋まりながら、満たされた腹を抱えおれはゆっくりと目を閉じる。
 やつの身体に預けるしかない耳から、微かに鼓動が聞こえた。

 

 

 

 大怪我をして帰ってきた日から、しばらくの間、八尾はおれが初めて来たときのようにずっと寝ているばかりで外に出ていくことはなくなった。
 争っていた何かを打ち倒せたか。はたまた与えられた傷がやはり深刻なのか。どちらにせよ、おれには関係のないこと。
 ただ土壁に過ぎる日を刻みながら、その数に溜息を吐きながら。ただ、ぼうっと一日を過ごすだけだ。
 夜となり、今日もまたあれの腹に嫌々ながらも寄りかからされ、埋もれるように眠りにつこうとしたその時だった。突如森から、獣のうなり声のような咆哮がこだましたのは。

「――っ!?」


 遠いが、太く響くその声は大きい。そして獣のものに似たそれはけれど自然の生き物ではない。恐らく――あやかしの類であろう。
 おれは無意識のうちに、妖狐へ振り返っていた。
 やつはいつの間にか面を上げ、じっと、不思議な色彩を放つその瞳で洞の外を見つめている。両耳もそちらへ向き、意識を集中させているのがわかった。
 おれも外へ目を向けたその時、黒狐が現れた。走ってきたのか、はっはっと息を乱している。
 黒狐の姿を目にした瞬間、八尾は立ち上がった。おれは後ろに転がり、立ち上がったやつを下から見上げる。やつもちらりと視線を下に向け、おれを見た。
 行くのだろうか。
 再び、野太い咆哮が聞こえる。妖狐の目はおれから逸らされ外へ向いた。そしてそのまま歩き出し、もう振り返ることもなく暗い夜の森へ向かってしまう。
 おれはその姿を見つめ続けながら、いいしれぬ不安に胸をざわつかせた。いったい何を不安に思っているのか、それはおれ自身わからない。きっと、今もまた聞こえた姿の見えぬおぞましいあやかしがここへ来ないか、恐れているのだろう。そうに違いあるまい。
 以前のように洞の入り口で腰をおろした黒狐ににらまれ、おれは慌てて洞の中心から隅へ自身の身体を追いやる。
 いつもなら黒狐と目すら合わぬよう下を向き続けるが、今は無意識のうちに外へ目が向く。はじめは口に陣取るやつがうっとうしそうにこちらを睨んできたが、やがて諦めたように一息つくと自身もおれと同じく、森へ目を向ける。
 夜が静かなのは当然のことだが、それがさらにおれの“不安”を駆り立てた。
 化け物の声さえ聞こえなくなってしばらく。ふと黒狐が耳をぴんと動かしたかと思ったその時。荒々しい悲鳴のような声が響いた。

「……っ」

 それは先程何度も聞こえた姿のわからぬあやかしのものではない。あれはきっと――あの、妖狐の。
 あいつの声など聞いたことがないから確証などどこにもない。だがおれは、あれは八尾のものと、そう思うのだ。そしてそう気づいた頃には、おれの身体はいつの間にか外をめざし走り出していた。
 ――けれど、おれ自身が走り出したこともわかっていないような咄嗟の動きに気づいた黒狐は、素早く立ち上がる。そして歯をむき出しおれに身体をぶつけてきた。

「かはっ……!」

 当て身を食らい胸にたまった空気をすべて押し出しながら、洞の口付近から一気に壁まで吹き飛ばされる。そしてそのまま背中から壁に衝突し、もはや声も上げられぬまま地に崩れ落ちた。
 全身を打ち付け、頭さえ打ったからか。視界が濁り、すぐに起き上がることもできない。身のすべてにめぐる痛みに、口から血を吐きながらただ耐えるしかできなかった。
 しばらくしてようやく衝撃が徐々に引いていき、おれは身体を起こした。つう、と鼻から垂れた血を衣の裾で拭いながら、視界に映る真下の地面を見ればおれの血に汚れている。鼻から、口の端から垂れたものがさらにそれを広めていく。
 息を吸い、そして吐くただそれだけで、胸が痛い。少しでも楽な体勢にと、おれは倒れ込むように仰向けに寝転がった。指先すら動かす気にもなれぬ痛みの中、けれどどうにかいまだ霞みがかる頭だけを動かし、再び外を見る。
 視界の先に黒狐がいた。やつはじっとろくに動けぬおれをしばらく見つめていたが、やがて目を離し何事もなかったかのように身体ごと外に向ける。
 何度か咳き込み、新たな血で衣を汚しながら。おれも、再び静けさを取り戻した森を見つめる。
 それから一度も、姿のわからぬあやかしも、妖狐の声も、何も聞こえなかった。

 

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