好きだよ、せんせー

 

 チャイムの音が鳴り、もう終了の時間だとわかっていたがつい黒板上に飾られた時計を見る。短い針は十の数字を示していた。
 身体反転させ、規則正しく並ぶ机たちと、そこに座る生徒たちと向かいあう。

「それじゃ、今日はここまでな。次回は辞書を使うから準備を忘れんなよ」

 教卓に開いていた教科書を閉じながら彼らに告げれば、はーい、とまばらに返事が返される。
 槇嶋が広げていた荷物を脇に抱えたところで学級委員長が声をあげた。

「きりーつ。れーい。ちゃくせーき」

 なんとも気だるげな、間延びした声。号令に合わせ皆席を立ち、槇嶋に頭を下げて再び椅子に座る。

「ん、そんじゃ次の授業もしっかりやれよー」

 去り際に残すいつものお決まりを口にしながら教室を後にした。

 

 

 

 職員室に向かおうと廊下を歩いていると、後方から声がかけられた。

「せーんせ」
「佐野か」

 聞き覚えのあるその声に、相手の名前を呼びながら振り返る。半回転した視界の先には、案の定歩み寄ってくる佐野の姿があった。
 立ち止り待ってやれば、すぐに追いついてくる。

「どうかしたか?」
「いや、とくにはないよ。ただせんせーが見えたから」
「なんだそりゃ」

 あまりにも素直な言葉に槇嶋は苦笑した。だが佐野の目の下にある隈に気づいて、それは溜息に変わる。
 吐いた息が意味するのは、目の前に立つ生徒への心配だ。

「そういやおまえこの間砂沢先生の授業で爆睡してたんだって? また夜寝れなかったのか」
「んー、まあ。チビの夜泣き相変わらずすげーからね。気を付けるようにしてんだけど、飯食った後とかは耐え切れなくて、つい」
「目の隈、相変わらず酷いぞ。あんまり辛いようなら保健室行っとけ。なんならおれが話通しておいてやるし」

 手を伸ばし、言葉にした通りにその隈を辿るように指でなぞる。佐野は少し驚いたのか僅かに身を引いた。
 佐野の表情を見てようやく、槇嶋も自分の行動に気づき慌てて手を引こうとする。だがそれよりも先に、彼の方からやんわりと顔に添えた手を払いのけられた。

「ま、そん時は頼むよ、せんせー」

 払われた手に気まずく思っていたところ、そう言って佐野は珍しくにかりと笑った。それに面食らったのは槇嶋だ。
 あまり表情が変わらないこの生徒は、微笑むように小さく笑うことはあっても、先程のようにはっきりとした笑顔はあまり見せない。だからこそ鬱陶しがられてしまったかと思ったこのタイミングで見せたそれに、槇嶋の方が動揺してしまう。
 いつものどこか眠たげな、気だるげな表情にすぐに戻ってしまうも、反応が鈍いのを見てか、今度はどこか拗ねたように、佐野は自身よりも少し背の高い槇嶋を見上げた。

「……なんだよ、話通しといてくれるっつったのせんせーの方じゃん」
「あ、いや。任せとけ」
「頼りになんないの」

 首を後ろで腕を組みそっぽを向いてしまった横顔に曖昧に笑っていれば、予鈴が鳴った。

「おっと、こんな時間か。授業始まるぞ、そろそろ教室に行っとけ」
「へーい。んじゃまたな、せんせー」

 佐野は腕を解き、先に踵替えした。まだ成長途中の細い背を向けたままにひらひらと手を振る。
 生来のものらしい赤みがかった髪が遠ざかるのを見送り、槇嶋も職員室へと向かう足を再び踏み出した。

 

 

 

 現在二年生である佐野のクラスを受け持ったことはなく、以前は彼との交流はほとんどなかった。周りよりほんの僅かに明るい髪色が目につく程度で、多くいる生徒の中では名前さえやや曖昧で。だが彼がまだ一年生であった頃に、ひょんなことから他の生徒たちとは違った縁に繋がり、以来懐かれるようになったのだ。
 半年ほど前だっただろう。槇嶋が友人と飲みに出かけ、帰りが遅くなった時のことだ。居酒屋で解散したあと水でも飲もうと、ふらりと近場のコンビニエンスストアに入った。
 中に足を踏み入れれば二人の店員にいらっしゃいませ、と声をかけられる。
 時は既に真夜中の一時ほどであり人はいないだろうと思っていたが、ふと雑誌コーナーに目を向ければ、明らかに成人男性にはまだ遠い少年が週刊漫画雑誌を立ち読みしていた。しかもよくよくその横顔を見てみれば見覚えのある、自身が教鞭を振るう高校の生徒ではないか。
 それは今よりも少し背の低い、中学生くささが抜けきらない佐野だった。しかし当時は少し酔いが入っていたことと、授業を担当したことのないクラスの生徒ということもあり名前を思い出すことができなかった。実のところをいえば制服でなく寝着のようなスエットを来ていたため、本当に自分の学校の生徒だったのかさえ多少あやふやで。
 だが見つけてしまったからには教師として見逃すわけにはいかない。箍を外すほどは飲んでいないが、ほんのり酒で染まった頬を一度指で掻いてから、目当ての水ではなくまだこちらに気づいていない少年へと向かう。

「さすがにこの時間に立ち読みはまずいんじゃないか?」
「っ」

 声をかければ、漫画に夢中になっていたのだろうか、大げさなほどびくりと、まだ細い肩が跳ね上がった。
 そろりと振り向いた顔にはやはり見覚えがある。その目の下、まだ幼さの残る顔立ちには不釣り合いの隈があった。
 思わず眉を寄せてしまいそうになったところで、彼の口が小さく動く。

「……槇、嶋?」
「槇嶋先生、な」

 自分の名を言い当てたことでやはり生徒だったと安堵した。視線をほんの僅かに持ち上げ、その目を見る。

「さすがにこの時間の立ち読みは見過ごせないな」
「槇嶋先生、酒でも飲んできたの? 煙草くせーし」
「まあ大人には付き合いってもんもあんだ。教師にも息抜きは必要だし、その辺は許してくれ」

 素直に顔を顰められ、苦笑する。
 槇嶋自身は酒は飲むが煙草は随分前に止めてしまっている。恐らく友人の吸った時の匂いがうつってしまったのだろう。

「んで? なんでこんな時間にコンビニなんかにいんだ」

 逸らされた話題に戻せば、少年の顔は気まずげに漫画の方へ戻される。勿論それが内容を再び追いかけ出したわけでないのを理解しているため、咎めはしなかった。
 返答を待っていると、それから少しの間を置いて、ようやくぼそりと口にし始める。
 話を聞いたところによると、どうやら彼が今ここにいるのはそれなりの事情があるらしい。ぽつりぽつりとその説明を受けている時に、ようやく槇嶋はこの少年の苗字が佐野であることも思い出した。
 佐野の家には今彼の姉の子である赤ん坊がいるらしく、その子の夜泣きがひどく佐野自身も寝つけないほどなのだそうだ。そのせいで連日寝不足が続いていると、そう話している最中も欠伸混じりで言った。
 家にいたままではいつまでも泣き止まない甥っ子にいら立ってしまうため、気分転換をするためにも夜泣きが終わるまで暇をつぶすためにも、こうして今のように外に出ているらしい。
 家族には居場所も話してあるし、甥の様子が落ち着けばすぐにでも携帯電話に連絡が入るようにもなっているし、このコンビニエンスストアからも家は近いから問題はないと佐野は言う。

「ま、信じても信じなくてもいいけど。なんなら今家族の誰かに連絡してもいいよ。多分まだみっちゃんが泣いてるだろうから、姉ちゃんだけでも起きてるはずだよ」

 みっちゃんとは恐らく甥の呼び名だろう。読んでもいない漫画から一向に顔を上げることもなく、槇嶋に横顔だけを晒しながら佐野は冷めた口調でそう言った。
 窺える表情を見て、ああ疲れているのか、とやさぐれているであろう彼の心中を察する。

「信じるに決まってんだろ。その顔みれば何かしらあるってのはわかったし」
「……怒んねーの? こんな時間に外出とか、説教しねーの?」
「されたいのか? ま、本当はいけないことってわかってんならそれでいいさ。それにおまえを見つけたの今回が初めてだし、今は注意だけな。次回がもし見つけちまったらそん時はありがたい説教聞かせてやるよ」

 ようやく佐野の顔が上がり、槇嶋を見る。そこには小さな笑みがあった。

「いらねーよ、説教なんて」

 初めて見た佐野の表情。これまであまり彼に注目したこともなかったせいもあるだろうが、見かける度にそこにあるのはそう変化のない表情だったと記憶している。先程から話をしていてもどこか冷めた雰囲気を身に纏っていた。だからこそ年相応のそれに少し面を食らう。
 槇嶋の様子に気づかず、佐野は手にした雑誌を閉じてもとある場所へと置いた。ちょうどその時彼の携帯電話が震え出す。
 ポケットにしまっていたそれを取り出すと、一度槇嶋に目を向けてからどうやら受信したらしいメールを確認し始める。どうやら姉から無事甥が寝付いたとの連絡だったようだ。佐野は証拠といわんばかりに文面を槇嶋に見せてきた。
 すぐに帰ると言った佐野に、槇嶋は今回のことを咎めも学校に連絡もしない代わりに、いくつかの約束を交わした。
 ひとつはあまり家から離れた場所にいかないこと。それと、これまで通り必ず家族とすぐ連絡をとれるようにすること。コンビニなど、人目がある場所にいること。そして何かあればすぐ槇嶋に連絡するようにとも自分の電話番号も教えておいた。
 本来ならばこんな時間に未成年が出歩いているなど許すべきではないだろう。ましてや自分は教師だ。しかるべき対応をし、もうこんなことはするなと釘をささねばらない。しかし事情が事情で、彼なりの生まれたばかりへの甥への配慮を考えれば、こんな真夜中に出歩くなとは決して言えなかった。
 夜遊びに出ているわけではないし、槇嶋自身学生時代は校則も破ってふらふらと出歩くこともあったため、真っ当な理由を持つ彼を責めることなどできなかったというのもある。しかし何かあっては困るからと、教師の前に一人の大人として約束をしたのだ。
 ――その日以来、学校でも接点がなかった二人だが、お互い見かければ話かけるようになった。佐野の方はどういった心境で傍に来るのか槇嶋には計りかねたが、自身はあまりよくはない彼の睡眠環境を心配してのことだった。
 きっかけはどうであれ関わりを持った槇嶋と佐野は、今では特に用がなくとも他愛のない話をするだけのために顔を合わせることもあるようにまでなっていた。それはいつしか佐野が槇嶋を槇嶋先生、ではなく、せんせーと呼ぶようになるほど。他の先生に関して佐野は呼び捨てるか、苗字の後に先生をつけるかのどちらかであるため、多少違いはあるのだろうと呼び方の違いを槇嶋は勝手に解釈している。
 教師として、かはともかく。槇嶋を慕ってくれているのだと思う。それに当然悪い気はしなかった。
 懐いてもくれているのだろう。まるで喜怒哀楽が希薄なように表情の変化に乏しい佐野が自分の話で顔色を変えるのを見るのも楽しい。あまりからかいすぎれば不貞腐れてしまうが、そういった時に見せる年相応の反応も気に入っている。
 多少の特別扱いをしている自覚はあった。生徒というよりも、弟のように見てしまっているのだろうか。それか、ふと懐いてくれた気まぐれな猫。
 生徒には平等であるべきだし、教師としてもあまり一人に入れ込むべきではないだろう。理解はしているが、確かに佐野は猫っぽいと想像すれば、勝手に頬は緩んでいた。

 

 

 

 教材を探しに槇嶋が図書室へ向かおうと歩いていると、ふと空いたままになっている扉から見えた教室の風景に足を止める。
 悩むことなく身体の向きをかえ、国語教師として担当することのない二年B組に足を踏み入れた。
 一連の学科がすべて終わり放課後となってからしばらく経った今、部活に励んでいる生徒はいるものの、帰宅部の生徒は大半が帰ってしまった後だ。そのため、教室の中にはたった一人の姿を残すのみで他の影はない。
 窓側の一番後ろという席に座り腕に顔を埋め眠りについている佐野を起こしてしまわぬよう、音を立てないようにその手前の机から椅子を引きだした。後ろを向いたままそこへ腰かける。
 帰宅部の佐野であるが、まだ学校に残っていたらしい。ただ寝るために放課後を利用しているのか、それともつい眠ってしまってそのままなのか。
 誰が開けたかはわからない傍らの窓からは心地よいそよ風とともにグラウンドの声が投げ込まれる。しかし時折高く鳴るホイッスルの音も、運動部員たちの掛け声もどこか遠く、不思議と気持ちが安らぐ。
 穏やかな場所だ。人の気配はあるものの、眠りの妨げになるほどではない。むしろ安心感があるようにさえ思える。
 これならば深く眠ってしまうのも無理はないだろう。ましてや佐野は日頃から寝不足気味であるのだから。
 机に肘をつき、静かに眠る佐野を眺める。穏やかな寝息が聞こえてきた。初めて寝顔を見るが、気が緩んでいるせいかどこか幼くも見える。
 少し伸びた髪が舞い込んだ風に吹かれてさらりと肌を滑る。それがくすぐったかったのか、佐野は僅かに顔を動かして小さく眉を顰めた。すぐにそれは解かれるも、落ちかける髪はもう一度吹かれればまたくすぐってしまいそうだ。
 気づけば、槇嶋は思わず手を出していた。軽く払ってやるつもりで前髪に触れれば、ぴくりと佐野の指先が動く。

「ん――」

 しまった、と思って今更手を引いてももう遅い。
 薄らと瞼は開けられ、二度ゆっくり瞬いてから頭が持ち上がる。まだどこか眠たげな眼差しで、前にいる槇嶋を見詰めた。

「悪い、おこしちまったな」
「――あれ、おれ、寝てた……? つかせんせー、なんでいんの?」

 寝起きだからか、どこかゆったりとした口調。余計な真似をせずただ見守っていればよかったと内心で後悔しつつ、その無防備さについ出来心が生まれてしまう。
 ぼうっと自分を見る佐野に、己の口元を人差し指で示しながら笑みを見せた。

「涎、つていんぞ。寝癖もある」
「……うそ、マジで?」

 身体を起こすと慌てたように袖を引き上げ口元を拭う。服でするなと苦笑する槇嶋に、佐野は拭った場所が濡れていないことに気づき、騙されたのだと知って不貞腐れたように再び机の上で腕を組みそこに顎を置いた。
 窓の方へそっぽを向いてしまった顔を見つめながら、手を伸ばす。

「でも寝癖は本当だぞ」

 少しだけ跳ねた髪に触れる。幸い寝ていた時間がさほど長くなかったからなのか、軽く手櫛で梳いただけで乱れはすぐに直った。

「これでよし」

 満足して槇嶋が手を離せば、佐野は腕の中に完全に顔を埋めてしまった。折角梳いたばかりの髪もくしゃりとまた乱れてしまう。
 それに不満を言おうと口を開けば、佐野が先にくぐもった声を出した。

「せんせー、いたいけな男子生徒たらしこんでどうすんの」

 告げたのは、そんな言葉で。
 初めはぽかんとした槇嶋だがすぐに笑った。

「別にたらしこんでなんかないだろ」
「そうかな。おれが女だったら、今のころっと落ちてたけどなー」

 ふう、と息をつくとようやく佐野は顔を上げた。今度は自分で髪を乱雑に掻くように戻すと、腕の上に顎を乗せて槇嶋を見上げる。

「せんせーってさ、しょっちゅう頭撫でてくるよね。癖なの?」
「あー……そういや、おまえにはよくやってるな。そういやなんでだろう」

 指摘されてしばらく、自身の行動を振り返る。すると確かに頻繁に佐野の頭に手を伸ばしていた記憶があった。今ではかたそうに見えるそこが実は案外柔らかい感触をしていることを容易に思い出すことさえできる。
 いつからそうするようになったのか。それは記憶を遡っても答えはでなかった。何がきっかけで佐野の頭を撫でるようになったのだろう。
 自分のことであるが理由のわからぬそれに、自身も興味を惹かれ始める。わかっている情報があるとすれば、それは佐野限定であること。そして、槇嶋の無自覚な行動であったということだ。
 んー、と腕組み唸る槇嶋に佐野は首を傾げた。

「自分でもどうしてかわかんないの?」
「ああ。おまえにはよくやってるけど、他の生徒には別にやってないし。――おまえ、どこかほっとけないから弟みたく感じているのかもな。昔は妹によくやってたから、その癖がまた出てきたのかもしれん」

 昔といってももう二十年近くも前のことである。三歳年下の妹は早熟であり、小学五年生になるとすぐに槇嶋の多少過保護な面を鬱陶しがったし、頭を撫でれば子ども扱いするなと顔を真っ赤に怒られたものだ。
 三十四歳の槇嶋と十七歳の佐野は兄弟というより、その歳の差は親子という方が近いだろう。だが息子、という言葉を出すにはいささか複雑な心境であったため、あえて弟と口にする。
 顎を撫で答えると、佐野はふーん、と目を伏せた。

「弟、ね。――ま、どうであれ女子どもにはやんない方がいいよ。セクハラだから」
「はは……気をつけます」

 もっともな言葉に頬が引きつる。
 今や短いそのスカートをほんの少し視界に留めただけでも勘違いされてしまうし、一度騒ぎが起きれば例え冤罪でも教師という立場は一気に揺らいでしまう。
 生徒を疑うわけではないが、変な勘違いを起こされないよう自身の学校の生徒といえども気を引き締めていかねばと改めて確認し、内心では重たく溜息を吐いた。
 それから一拍置き、未だ目を伏せたままの佐野に問いかける。

「撫でられんの、いやだったか?」
「――別に。そういうわけじゃないよ」

 逸らされていた瞳が槇嶋を捕える。ようやく目が合い、つい口元には笑みが浮かんだ。

「そうか」

 今度はあえて乱すようにぐしゃりとその僅かに明るい髪を掻き撫で、槇嶋は立ち上がる。勝手に借りた席をもとに戻して、拗ねた顔で髪を手櫛で戻す佐野へ改めて目を向けた。

「そんじゃ、先生はもう行くからな。気をつけて帰れよ」

 ここへ来る時手にしていたファイルを机の上から拾い上げ、佐野に背を向ける。
 ひらひらと手を振りながら歩き出したところで、背後でがたりと椅子が派手な音を立てた。

「……なあ、せんせー」
「ん?」

 振り返れば佐野が机に手をつき立ち上がっていた。椅子が鳴らした音とは裏腹に槇嶋を呼ぶ声はどこか小さい。
 呼び止めながらも顔を合わせようとはせず、槇嶋は内心で首を傾げる。

「あの、さ」
「どうした?」

 言いにくそうな様子に、優しく声をかけてみるもその口は閉ざしてしまった。首裏に手をまわしながら俯いてしまう。
 その姿を見守りながら、身体をそちらへ向け直し、佐野からの言葉をただ待った。彼ならば槇嶋が聞き出さずとも、時間はかかっても自ら話すことができるだろうと知ってのことだ。
 しばらく沈黙が続き、やがて佐野が顔を上げた。そこに浮かぶのが今から告げるものへの決意を感じさせる。
 どれほどのことを自分に伝えようというのか。表面に出さずとも、槇嶋自身も佐野の真剣な様子に感化され、何を話されてもいいよう覚悟した。
 相談だろうか。何か、自身が抱えた秘密の吐露だろうか。今までの佐野の悩みと言えば甥の夜泣きのことによる寝不足ぐらいしかしらないが、反対にそれ以外は順風満帆な高校生活を送っていると思っていた。
 どんな内容であれ真摯に向き合おう。そして、必要であれば力を貸そう。
 自身の胸のうちで教師として頷いた槇嶋に、佐野はゆっくりとその言葉を告げた。

「好きだよ、せんせー」
「……ん? ああ、おれも好きだよ、佐野」

 拍子抜け、とはこのことだろう。
 佐野が真剣な表情をするものだからと身構えたら、彼が口にしたのはそんな言葉で。
 佐野がこれほどまでに自分を慕ってくれているとは思ってもいなかった。改めて言われると照れくさいが、それと同時にどこか嬉しくも思う。それは自分とて佐野に確かな好意があるからなのだろう。
 だからこそ自分も同じだと返す。教師として、生徒として、良好な関係を続けられるよう。
 返された言葉に、佐野の顔は辛そうに歪んだ。

「――違う、そうじゃなくて。……っ、わかってんだろ?」

 耐え切れない、というように背けられる目線。握られた拳が震え、槇嶋も静かに目を伏せた。
 一度躊躇い、そして声をかける。

「おまえ、その――そういう、性癖なのか?」
「そういう性癖って? ゲイかってこと?」

 問いかける声がまるで責めているように聞こえた。答えることも頷くこともできずにいれば、訪れた沈黙を佐野の声が打ち破る。

「ゲイか、だなんて……おれだってわかんねーよ。だって初めて好きになったの、せんせーだから」

 息を吐き、佐野は再び椅子に腰かけ、机の上で腕を組むとそこに顎を乗せた。
 槇嶋の方ではなく真っ直ぐ前を見つめながらぽつりぽつりと言葉を出していく。

「女の子好きになったことはないけどさ、身体見て興奮するから、バイってやつなのかな。男に今まで興味持ったことはないけど、でもせんせーのことは好きだよ。恋愛って方で。だからすくなくともおれは、ゲイであるんじゃない」
「あるんじゃない、って。おまえな」
「だってそうだろ。せんせーもおれも男。同じ男好きになった時点でそういうことだろ」

 まさか自分が、男の、それも生徒の恋の対象にされていたとは思いもよらなかった。しかも相手はあの佐野である。
 生々しい告白と、そして偽りのない言葉に。無意識に溜息がこぼれそうになる。しかしそれをしてしまったら佐野の勘違いを招きかねないと寸で堪えて、ゆっくりと鼻で大きく息を吐いた。
 顔を背けたままの彼を傷つけないよう、ひとつひとつ言葉を選びながらそれを口にしていく。

「勘違い、じゃないのか? 確かにおれは、おまえを他の生徒よりも特別に構っている自覚はある。だからこそ、思い違いをしてるんだろう。おれもおまえも男だ、女の子たちに目が行くのなら、それが――」
「好きになった相手が同性だったからって、自分がおかしいって思わなくちゃいけないの?」

 槇嶋の声を遮ったのは、そんな言葉だった。

「――もう何度も、こんなの嘘だろって。自問自答してきたよ。それでもやっぱせんせーのこと、そういう意味で好きなんだって答えが出ちまうんだもん、しかたねーじゃん。好きなもん否定しようが、どうしようが好きなんだよ。それでも――もう沢山、考えてきたのに。それでも勘違いって、否定されなきゃなんねーの?」

 一度言葉を途切れさせながら、最後は自分の腕の中に顔を埋めくぐもった声を出す。それでも滲み出る、不透明になることのない彼の想いが槇嶋を大きく揺さぶった。
 あまりにも真っ直ぐな言葉に眩暈がしそうだった。同性であるという以前に、教師と生徒という以前に。佐野が槇嶋を好きになってしまったことは当然なのだと、そう思わされてしまう。
 選んだはずの言葉は間違いだった。そのひとつひとつが今、彼を傷つけたのだ。
 すでに彼がどれほど自身が抱えてしまった想いに苦悩されたのか、彼の放った言葉たちに思い知らされる。いつものような調子で伝えるよう振る舞っているのが丸わかりな、微かに震える声。合わさらない視線。普段の彼に比べれば不自然に多い言葉の区切り。それらがありありと、今まさに佐野の胸に隠されようとしているものを教えていた。
 先程の、想いを告げるその時に見せた表情が、槇嶋の中で蘇る。
 ――ああ。
 内心で天を仰いだ。
 本気なのだ。佐野は本当に、自分を好きになってしまったのだ。
 佐野は口を閉ざしたきり顔を上げることはなかった。槇嶋もどう声をかけていいかわからず、互いが沈黙を生み出す。
 耐え切れず、胸に詰まった息をすべて出すよう吐き、そしてその分大きく吸い込む。
 躊躇いながらも今度こそ間違えぬよう、だが佐野がそうしてくれたよう、ありのままの想いを吐露する。

「――正直、そんなことを言われても、どうしたらいいかわからない。おまえをそんな風に見たことはないんだ。おまえが男だからっていうのは勿論だったが、そもそも生徒を恋愛対象にみることはないしな。だから、だから、な」

 これまでに何度か、女子生徒にならば告白を受けたことがあった。遊び半分の者もいれば、本当に槇嶋を想って勇気を振り絞ってくれた者もいる。しかし、みな断った。
 槇嶋が出すべき答えはひとつであるはずだし、実にはっきりしたものでもあるはず。これまで同様、男女関係なく佐野の想いを断ればいいのだ。
 男である佐野をそういう目で見たことはないし、自分にその気はまったくない。やはり教師と生徒という互いの立場上もあるし、そうすればいいのはわかっていた。むしろそれが当然の答えであるはずなのだ。だが。
 だが、教師の口から、悪いな、と。その一言が出てこない。

「せんせー?」

 途切れた言葉を気にしてか、佐野が顔を上げる。かちあったその瞳はやや潤んでおり、それが余計に槇嶋の思考を濁らせた。
 再度口を開けてもうまく話せず。槇嶋は、あー、と声を上げながら自身の頭を掻く。

「――よく、わからないんだ。その……やっぱり、応えることはできない」
「……うん。そりゃ、そうだよな。おれ、男だし。やっぱこんなこと言われても――」
「それ、なんだがな」

 目を伏せた佐野の言葉を遮れば、戸惑ったように視線が戻された。しかし今度は槇嶋がその目から逃れるよう、明後日の方向を見る。

「おれは確かに同性に興味持ったことはないが、その。別に、嫌、とは思わなかったんだ。だから戸惑ってる」
「――ほん、と?」
「さっきも言ったと思うが、おれはおまえを他の生徒よりも特別に構っている。それは裏を返せば、おれ自身におまえを特別に構いたがっているということになる。今まで教師をしてきた中で、確かに仲のいい生徒はいたが、おまえほど気にかけた生徒は、いない」
「弟みたく思ってる、とかじゃなくて?」
「他の生徒だったなら、弟妹のようだったと思っていたんだろうな。いや、実際佐野のこともそう見ているのかもしれない。だがやはり、他の生徒たちとおまえとじゃ、なんていうか、違うんだよ」

 ひどく曖昧なそれを伝えれば、佐野は戸惑いの表情に変わる。しかし何より困っているのはそれを抱える槇嶋自身だった。
 何が伝えたいのかも、どうしたいのかもわからない。こんな話をして、自分は佐野に何が言いたいというのか。

「少しはおれを特別に思ってくれる気持ちがある、っていうこと?」
「……ああ、まあ、そうだな。そういうことに、なる、な」

 つまりはそういうことなのだろう。いや、初めからわかっていたが、そうはっきりと伝えることができなかっただけなのだ。そして今も肯定するだけだというのに歯切れ悪く返事をする。
 佐野はじっと槇嶋を見上げる。そして、再びあの言葉を口にした。

「せんせー、好きだよ」
「……」
「なあせんせー。おれに好きって言われて、嫌じゃない?」
「――いや、では、ない」

 一言区切りずつ、まるで自分に確かめるよう口にする。それが本心であるからこそ、真っ直ぐに視線を向けてくる佐野へ顔を向けることができなかった。だがそれでも佐野は一心に槇嶋を見詰めている。

「なら、さ。それなら今までは恋愛対象に、考えたことなくってもさ。これからは意識、してくれる? 先生と生徒っていう立場は抜きにして、おれのこと見てくれる?」

 彼の瞳だけでなく告げる言葉もまた、ただひたすらに槇嶋にだけ向けられている、ひたむきな想いが露わとなっていた。
 だからなのだろう。槇嶋も大人の振りをして言葉を偽れないのは。きっとその若さ故の何かに、感化されてしまったのだろう。
 もういっそのことどうにでもなれ。そう内心で息を吐き、ようやく腹を据えて佐野へ目を向ける。
 そこには期待と不安が入り混じる瞳があった。

「それはわからない。偏見はないが、男相手に恋なんてしたことないしな。ただ――おまえにそう言われて、不思議と嫌って気持ちはなかったな。困った、ってのはあるけど、でもそんなもんだ」

 槇嶋の返答に瞳の揺らぎは変わらない。だがこれ以上の言葉を返してやることもできない。
 どう話をまとめればいいか考えあぐねいていると、不意に佐野が動いた。
 それまで組んでいた肘を解くと、不意に自身の服に手をかける。何をするのだろうと見守っていると、彼はシャツのボタンを外し始めた。

「おい、どうしたんだ?」

 行動の意図が読めず問いかけるも返事はなく。佐野は前を開け放ったシャツから袖を抜き脱いでしまえば、中に着ていた赤色のTシャツ一枚になる。
 手にした制服を投げ捨てるように机に置くと立ち上がった。
 もう一度かけられた声にも反応を示さないまま、佐野は服の裾を掴むと、そのままそれを上に持ち上げTシャツまでも脱いでしまった。

「なっ!?」

 さすがにそれには驚き咄嗟に槇嶋が手を伸ばすも、触れられるわけもなく。途中で止まったそれを尻目に佐野は脱いだTシャツも先程の置いた服の上に重ねるよう机に放る。
 上半身裸の佐野と向き合い、ひっこめずにいた手を取られた。そしてそのままその手は平たい胸の上に導かれる。
 押し付けられるよう、肌に触れた。

「っ」

 触れた体温に、息を飲む。

「なあ、せんせー。よく頭撫でてくれるようにさ、おれの身体、触りたいって思える?」

 初めて見る佐野の身体は至って普通のものだった。そう色白なわけでもなければ華奢でもない。多少腰が細いが肩幅もある、成長途中の男のもの。肉付きは薄くかたそうで。当然、今手を置く場所には押し返す柔らかなものなど存在しない。
 男の身体だ。どこをどう見てもそれは変わらないし、女性的なものを感じられる場所はない。胸を触っている、といっても男相手にやはり興奮などしなかった。

「可能性、なくはない? 絶対無理って、わけじゃない?」
「――」
「望みがないなら、それならはっきり拒否して。でも少しでもいけそうって、ほんの少しでもそう思ってくれるなら。おれに頑張らせて。お願いだよ、せんせー」

 佐野が望む答えも、教師としてすべき答えも理解している。だがそれらを置いて、槇嶋自身の答えを出すとするならば。
 掌が触れる身体は温かい。素肌に触れているのだと実感する。
 皮膚の下から伝わる心臓の鼓動の速さ。自分の手を握る、冷えた手。そこは微かに震えていて。自ら大胆な行動に出ているというのに、その瞳は怯えていて。

「せんせーがおれを好きになってくれるか、無理になるか、それまで頑張りたい。すぐにせんせーの答えが出なくても、それまで待つから。だから、頼むから……っ」

 槇嶋の腕からするりと力なく佐野の手が離れていく。槇嶋も手を下し、俯いてしまった彼を見下ろした。
 何度確認したところで目の前にあるのは男の身体だ。これまで微塵も興奮を覚えたことのなく、想像した所でやはり触れたいとは思わないし、性的興奮もない。だが確かに、槇嶋を揺さぶるものが佐野にはあるのだ。
生徒であろうと、男であろうと、彼にだけは。
 なら今は、それで十分だろう。

「ああ、わかったよ。まだ佐野のことどう思っているのか、おれ自身よくわからないが。頑張っておまえの方に向けさせてくれ」

 槇嶋の出した答えを、不安に胸を満たす佐野へと告げる。すると弾けたように顔が上げられた。まみえたその表情に、呆けたそれに。堪らず頬を緩めてしまう。
 ――きっと最初の、彼の笑顔を見た時。その時からすでに感じる何かはあったのだろう。気づけなかっただけで、気づこうともしなかっただけで。
 ちゃんとした答えはまだ槇嶋の中には存在していない。しかし、変わりそうな何かがあるから。自分自身でもそれが気にかかるから。
佐野の“頑張りたい”という言葉に賭けよう。真っ直ぐで青臭いその気持ちを見守ってみよう。
 しばらく思考を停止していた佐野だが、間を置きようやく槇嶋の言葉を飲み込んだのか、ゆっくりと口を動かした。

「ほん、と? おれ、頑張ってもいいの?」
「ああ。ただし――」

 言葉を付け加えている最中に、佐野は突然下衣に手をかけた。ベルトを外そうとしているのを見て槇嶋は慌てて止めに入る。

「ば、馬鹿! なにしようとしてるんだっ」

 両手を抑え付ければ、まるで離せと言わんばかりに不満げな表情が槇嶋を見上げてきた。

「何って、脱ぐってことはそーゆーことしようってことだろ」
「ここは学校だぞ!」
「学校じゃなければいいの?」

 流石に槇嶋も深く溜息を吐いた。それに佐野は俯き力なく項垂れる。
 手を離せば、先程のような暴挙に出ることはなかった。

「だって……身体の関係から始まるものだって、あんじゃん」
「あのな。確かに世の中にはそういうもんがあるかもしれないが、おれはおまえとそういう風に関係を作る気なんてない。ましてや生徒に、未成年に手なんて出せるか」
「でも、今頑張ってもいいって」
「話は最後まで聞け。とりあえず服を着ろ」

 くるりと向いた背は、明らかに意気消沈しているのが見てとれた。のそのろと服を着だす姿を眺めながら、本人に気づかれぬよう槇嶋は苦笑する。
 無理をしているのはすぐにでもわかった。触れた手が冷たいままだったからだ。それにいくら止めたとはいえ、ベルトを外そうとするだけでもたついていた。
 腹を据えてしまえば、見方を変えてしまえば。大胆な行動の理由が槇嶋に好かれようと必死だから、と思うとつい頬が緩んでしまう。
 これを、可愛いと思わないわけがないじゃないか。
 ボタンを留める佐野を見守りながら、口の端を引き締めながら先程は中断した話を再開した。

「佐野に関してはっきりとおれの中の答えがでるまで、おまえを拒否するつもりはない。ただし条件つきだ」
「なに?」
「おまえが学校を卒業するまでだ」

 服を消えた佐野は席に座りながら、不安そうな顔で槇嶋を見た。

「佐野が卒業した時、それまでもしおまえがおれのことを好きなままで、おれもおまえを好きになっていたら。その時は付き合おう」
「付き合うって……っ、本当に?」

 槇嶋の口からはっきりと出たその言葉に、佐野は身を乗り出した。ここでようやく暗い翳りより期待に瞳が輝く。
 思わずそれにまた口元がだらしなく緩みそうになり、平常を取り繕って話を続けた。

「ああ。だけどその時までにおまえにもおれにもそれぞれ別に好きな人ができれば勿論この話はなかったことになるし、卒業まではあくまで教師と生徒。それ以上のことはないし、それ以上の扱いもしない。それでもいいなら約束しよう」
「する。それでいい」

 即座に頷いた力強い答えとは裏腹に、しかし佐野の頭は下を向いく。
 どうしたのだろうと見つめていれば、俯いたまま小さな声音がその隠された表情の理由を教えた。

「約束、はする。でもせんせー。今だけ。一回だけでいいから、その……ぎゅーってしてくんねー?」
「……一度だけだぞ」
「ん」

 上がった顔にある嬉しそうな、幸福そうな小さな笑みに。槇嶋の胸に広まるのは穏やかな何かで。
 まだ自分の中で答えはないはずなのに、この心にはもうそれがあるような気がした。

 

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