ゆっくりと瞼を持ち上げると、視界の先に夕暮れ色に染まろうとしている空が見えた。
 どうやらあのまま眠ってしまったらしい。手の中にまだ瞳の宝玉があったことに安堵しながら、まずはそれから手を離す。
掌に玉を握っていた痕が残っていて、つい苦笑してしまった。
 身体を動かそうとすると固まったように全身が軋んだ音を立てる。思いの外熟睡していたのだろう。あまり動かずにいたらしい丸めた身体を伸ばそうとしたところで、ふと己の身体に毛布が掛けられていることに気が付く。
 勿論ミヒトが用意したものではない。一体いつの間にかけられていたのだろうと肘を立てながら毛布を摘まんだその時、不意に声がかけられた。
「よく寝ていたが、あまり眠れていなかったのか?」
 不意打ちから、聞き慣れた男の声だと理解しながらもびくりと肩が震え、摘まんでいた毛布を手放す。
反射的に振り返れば、寝ていたミヒトの頭上の傍ら辺りにレイストルが腰を下していた。
「あ……」
 男はあの青い薔薇を手にしながらミヒトを見つめている。しばらくは顔も合わすことはないだろうと思っていたレイストルに、顔にはそう出さないもののミヒトは激しく動揺した。
 なぜここにいるのだろう。いつからいたのか。毛布は彼がかけたのか。ああやはり青薔薇が似合う。気まずいと思うのは彼ではないのか。
 混乱からか、様々な言葉が順序なく浮かんでは口に出せる間もなく消えていく。
 かたまってしまったミヒトを見つめていたレイストルは、ふとその視線を下げ、胸元を見る。
「それは」
 声をかけられ、ようやくそこではたと気がついた。
慌てて晒されている小粒の玉を同じ色をする瞳から隠すが、もう手遅れだろう。わかってはいる。それでもそうせずにはいられなかった。
 握った拳が震える。そこから目を離すことができずにいれば、静かな声に名を呼ばれた。しかしそれでも顔を上げることなどできはしなかった。
 ミヒトの取り乱しように、レイストルはひとまず落ち着くのを待つことにしたらしい。口を閉ざしただじっと見つめるばかりだ。
 視線を感じながら、やはりミヒトの頭には様々な考えが交差する。しかしやがて考えるのを止め、一度深く溜息をついた。
「――その、実はもう一つ、瞳の宝玉ができていたんだ。小さかったし、本来の大きさのものは渡したから。だから、これぐらいいいかと思ってな」
「その紐は、あの夜おれの髪を結んでいたものだよな」
「……っ」
 冷や汗が背を伝う。玉を握る力がますます強まり、あまりの震えようにもう片方の手を重ねる。
 大丈夫、何もそう動揺することじゃない。まだ大丈夫――そう自分に言い聞かせ、ようやくミヒトは顔を上げる。
 視線の先にはじっとこちらを見据えるレイストルがいた。
「括るのにちょうどいいものがなかったんだ。後で変えようとは思ったんだけど、面倒でついそのままな。悪かったよ。後で新しいものを買って返す。それとも、瞳の宝玉の方が欲しいか?」
 あえて茶化すように笑みを見せ、どうにか手の中から出せた玉を摘まみそのままレイストルに見せつける。
 声も手ももう震えてはいない。ようやく冷静取り戻し始めた己を褒めてやりながら、首に下げた瞳の宝玉を外そうとしたところで止められた。
「いや、いい。それはおまえのものだ。それに紐もやる」
「――悪いな。あんまりにも綺麗だったからつい、首飾りにしちまった。あとでちゃんと仕舞い込んでおくから」
「そのままでいいだろう。おれは気にしない」
 レイストルの表情は変わらない。本心だからだろう。
 ミヒトの顔とて暗いままだった。レイストルは優しさからいいと言ってくれたが、後で何かの中に仕舞うつもりだ。
 瞳の宝玉を作ったことは秘密である。ただの瞳の宝玉であれば誰との間に生成したものなのか、ありふれた瞳の色であったのならば気づかれなかっただろう。しかしレイストルの瞳を持つ者はこの町に二人といない。ミヒトが誰との間に作ったかなどすぐに気づかれてしまうだろう。
 そうなって困るのはミヒトではない。レイストルだ。だからたとえ本人が気にしないと言っても、ミヒトは頷くつもりはない。
 隠すためにも服の下に仕舞っていたが、こうして自分の迂闊さからレイストルに玉を持っていることに気づかれてしまった。それが幸か不幸かわからないが、同じことがまた起こらないとも限らない。ならば自分以外の誰の目にもつかないところに置いておくしかないだろう。
 ひとまずは納得した振りをして、礼を言う。レイストルから視線を外し、ようやく身体を起こすとそのまま幹に背を預けた。
「それにしても、おれに何か用か? あ、毛布かけてくれたのはおまえだろう。ありがとうな」
「――ミヒト」
 真横からの視線は逸らされない。いつまでもばくばくと高鳴る心臓を抱えながら、それでも平然を装いながらミヒトは、なんだと応えた。
「おまえ、おれに隠していたことがあるだろう」
 喉がからからに乾いていた。寝ていたせいなのか、それとも今の状況からか。全身から血の気が引いていく。
 大丈夫、まだ大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、切り捨てるべき秘密を選んだ。
 顔が引きつってしまい、不自然に片笑む。
「……あ、実はあれが初めてだって、ばれちまった? でもああでも言わないとおまえ、変に遠慮するだろうしさ。でもおれ、本当に気にしてない――」
「ミヒト!」
 滅多に荒げられることのない男の声に思わず肩が跳ね上がる。両肩を掴まれ、強引にレイストルの方へと向けさせられた。
 苦しげな表情でミヒトを見つめるレイストルと目を合わせる。加減を忘れてしまっているのか、握られた肩が痛み、それを訴えようとしたところで先に彼が口を開いた。
「ミヒト。おまえはおれが好きなんだろう。だからおれとの間に瞳の宝玉は生まれたんだ」
「――な、に、言ってんだよ、レイストル。落ち着けって。確かにおまえのことは好きだよ、友人としてな。でもだからって瞳の宝玉とはつながらないだろう? あれは誰とでもできるんだ」
 瞳の宝玉を生成するのに必要なのは、男の精を受ける一族の肉体。それと男さえいれば玉ができるのだ。相手をする男は恋人であろうが友であろうが血のつながりがあろうが、赤の他人だろうが。誰でもいい。――そう、一般には言い伝えられているはずだった。だからミヒトはいっそ哀れなほどに取り繕っていたのに。
「イアから話はすべて聞いた。だからもう、ラガス一族が、おまえが隠していたことを知っている」
 レイストルの口から妹の名が出たことで、ミヒトはすべてを悟ってしまった。
 これまで隠していたものはすべて暴かれているのだと。もうどんなに偽りを重ねようが、無意味なのだと。
 俯けば肩にかかっていた重みが消える。ミヒトは地に落ちていた毛布を拾い上げ、それを頭から被って膝を抱え直した。
 知られてしまった。ずっと隠していたのに。ずっと、告げるつもりなどなかったのに。
 いつしか友へと抱いていた恋心を、もうないように振る舞うことはできないのか。
「なん、で。なんでイアは、一族の秘密をおまえにばらしちまったんだ」
「レーアトルの好きな子がイアだった」
 ああなるほど、そういうことか。内心で合点がいったがそれを伝えなかったため、レイストルは丁寧に説明をした。
 レーアトルは三本の薔薇をミヒトの妹のイアに贈ったそうだ。しかしそれがどういう経緯で手に入ったものか嘘をつきたくなかった彼は、正直にイアにすべてを話したのだ。その一環で兄の瞳が賭けられたことも、兄とミヒトの間にできた瞳の宝玉で許してもらえたことも伝えてしまったらしい。
 イアは兄とレイストルが二人で瞳の宝玉を作ったと言う事実を理解し、だからこそレイストルをもう“家族の一員”として認め、そして話してしまったのだ。一族にしか伝わっていない瞳の宝玉の秘密を。
 実は一般に伝えられている玉の生成方法だけでは瞳の宝玉は生まれてはこない。相手の男は誰でもいいとされているが、本当のところはそこが違う。相手となる男は、受け身に回る一族の想い人でなければならないのだ。ただし種となる側の想いは一切関係ないとされている。
 好いた男との間でなければ瞳の宝玉は生まれてこない。つまり、玉ができると言うことは一族側が一方的であれども恋心を抱いている証でもあった。
 一族の祖は瞳の宝玉でより多くの人を惹きつけるために、あえてその事情だけを変え、誰との間にでもできるということにして宣伝したのだ。玉の美しさを求める者だけでなく、自らも作れるのではないか、と期待する者も集めるためだった。そしてその嘘が今まで続き事実は隠され周囲には伝えられてきたのだ。今後もそれを隠すために、この秘密を知るのは一族と一族に加わった者しか知らされないことになっている。
 イアは今回のなりゆきを詳しく知らなかったが故に、レイストルが秘密を知った上でミヒトと玉を作ったと思ってしまったのだろう。二人が番ったと勘違いしたからこそ一族だけの秘密を隠すことなく話し、そしてレイストルに祝福の言葉と、兄のことをよろしくお願いしますとしっかりものの妹らしく告げてしまったのだ。
 この胸にあるのはミヒトの一方的な想いのはずだった。レイストルと恋人でもなければ、その想いを告げたことも、告げる予定もなかった。変わるつもりもなかった。だがもう知られてしまったのだ。
 偶然生まれたもうひとつの瞳の宝玉。それの存在を隠し身に着けていたのは忍ぶ恋心がゆえ。自らの体内から出てきたものであったが、それは想い人の瞳と同じ美しさを持つもの。愛おしくてたまらなかった。
「ミヒト。おまえとの間に瞳の宝玉ができたということは、本当におまえはおれのことが好きなんだな?」
「……――」
 真剣な眼差しを向けられてもミヒトは口を開かなかった。
 確かな証拠があるのだ。今更誤魔化すことなどできはしない。レイストルは尋ねる形をとっているが、実際には確信を抱いている。それでもなお応えることはできない。
 ミヒトは、レイストルの友でなければならないのだ。片想いしている男ではならない。“友”でなければ。
「――レイストル、おれとおまえは友人だ。このままでいさせてくれ。おまえもそれを望んでくれているんだろう?」
 知られてしまった恋心。しかし、それはレイストルによって再び隠されることもできる。だからミヒトはようやく動かすことができた口でそう願った。
 物心がついた頃からすでに傍らにいた二人。腐れ縁ではあるが、確かな信頼がそこにはあった。
べったりと依存し合っていたわけではない。互いにそれぞれ立ち、そして辛くなった時だけ支え合い。そうして適度な距離を保ち続けていた。それを崩してしまうのがいやだった。
 レイストルが、いつだったかぽつりと呟いたのだ。ミヒト以上に気の安らぐ場所はないと。これからもおれの友でいてくれと。独り言のように、けれど気恥ずかしさからか少し耳を赤らめて。
 ミヒトは彼の安らぎの場でありたかった。だからこそ、友であり続けたかった。たとえそれが己の心を殺すことになっても構わないとこれまで自分に言い聞かせ、無理に頷かせてきたのだ。しかしそれもようやく、本当に構わないと思えるようになっていたのに。
 一度だけ。一度だけでも、たとえそれが不可抗力だったとしても、抱いてもらえたのなら。生涯その思い出を胸に生きていけると日頃思っていた。それすらも果たされぬ願いだと知っていたからだ。しかし今回の騒動でそれが実り、これで何度も伝えようとしては飲み込んだその葛藤ももうなくなると安堵したのだ。ましてや偶然であったとしても手に入れることになった小さな玉さえあればもう何も望まないと。
 あとはレイストルが目を瞑ってくれさえすればいい。彼はいずれ王国へと帰り、多忙な日々へと戻っていく。その間にミヒトのことも彼方へと追いやるだろう。そうして再び帰郷し、久しぶりの再会を果たせられれば。その時は想いなどなくなった振りをすればいい。そうすれば今すぐには無理でも、いずれはレイストルと以前の形に戻れるはずだ。
「おれが望んでいる? おまえの想いを知ってなお知らないふりをしろというのか?」
 返事を求めながらも、その裏にはそんなことできるわけないだろう、という彼の声が重なっていた。
「レイストル」
「ミヒト、今の言葉が答えだと捉えるぞ。それでいいのか」
 宥めるように声をかけるが、レイストルの視線が逸らされることはない。
 生真面目なこの男のことだ。ミヒトが抱いていた想いを無下になどできないと思っているのだろう。知ってしまったのならば真摯に応えねばと、たとえ本人にこれまでの関係を望まれても答えを出そうと。
 そういう男なのだ。真っ直ぐで、融通が利かなくて、時折息苦しくも思えるほど。だがそういう男だからこそミヒトは惹かれたのだった。
 繊細な見た目に反し頑固で、表情に乏しく滅多に笑わない。万人に好かれる容姿を利用すれば様々なことが有利となるのにそれに頼らず、己が鍛えたもののみで自分の信じた道を突き進む強さを持つレイストル。幼い頃は密かに彼に憧れていた。そしてそれがいつしか恋へと姿を変え、今この胸に確かに存在しているのだ。
 答えずにいるともう一度名を呼ばれた。それでも抱えた膝に額を押し付け毛布に包まっていると、力強く肩を抱かれ、強引にレイストルの方へと向けられる。今自分が胸に抱く玉と同じ色の瞳と目が合った。
「ミヒト。おれはおまえが好きだ。ずっと、おまえだけが好きだった」
 呼吸が止まる。レイストルの言葉の意味が飲み込めず、ミヒトはぽかんと、強い眼差しの男を見つめた。
 理解していないことを悟ったレイストルはさらに言葉を重ねた。
「好きだと、長年思い続けながら傍にいた。町を出て騎士になってもミヒトが頭から離れることはなく、むしろ会えなくなって余計に恋しく――」
「ちょ、ちょっと待てっ! 好きって、それは」
「ミヒトを抱きたいとずっと思っていた」
 混乱に耐え切れず話を遮れば、帰ってきた直接的な物言いに言葉を失う。
 抱きたいという欲求、それは友人相手には抱かぬもの。まさか本当にただ抱きしめるという意味ではないだろう。中に自分を入れ、そしてそこを己の精で満たしたいと。そういう意味のはず。
 好きだ、長年思い続けていた――レイストルが、おれを? おれを抱きたいと、そう言うのか。友でいてくれと願ってくれた、その口で。
 いつからだ。何故なのだ。嘘ではないのか、慰めではないのか。同情からか。それとも、瞳の宝玉によって救われた己の瞳の恩か。
 頭を埋め尽くすのは不安ばかり。だがそれも真っ直ぐに自分を見つめるまなざしに、少しずつ溶けていく。
 その瞳のように澄んだ、曇りない男。冗談を好かないことも、嘘など吐いたことがないのも、傍らにいたミヒトはよく知っている。知っているからこそ彼の言葉に偽りはないのもわかっていた。
 ならば、本当に――
 ようやく秘められていた真実を見つめたミヒトは抵抗するようにレイストルの肩を押していた手を緩める。緩く服を掴み、感極まって僅かに潤んだ瞳でレイストルを見つめた。
 不意に肩にかかる重みが消え、代わりに両頬を包まれる。
 ミヒトがレイストルの瞳を覗き込んでいるように、レイストルもまたミヒトの瞳を覗き込んでいた。
「――真っ黒な目だ。こんなに近くで見ても瞳孔の境がよくわからない。吸い込まれそうだ」
 レイストルはそっとミヒトの右の瞼に唇を落とした。

 

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