月下の誓い

 

【終の棲家】


 なべで木苺を煮立たせていたシャルテナオスに声がかけられる。

「シャオ」

 手を止めて振り返ると、入り口の壁に背を預ける男がいた。男はシャルテナオスのいる場所に目を向けいるが、その視線は鍋の方に向けられている。

『ああ、ミィ。どうかしたの? ――っと、いけない』

 自分の声が彼に届かないことを思い出して、シャルテナオスはすっと指先をかるく振る。するとどこからともなく舞った金粉が集い、きらきら輝く文字が浮かびあがった。
 先程シャルテナオスが発した言葉がそのまま宙に描かれた文字を読んだ男、ミミルは頷く。

「キィが、帰ったら話があるってさ」
『わかった』

 声に出しながらまた指を振るい文字を描く。相手に届かないものだとしても、シャルテナオスは必ず声に出すようにしていた。
 煌めきで書かれた文字は不要となると、自ずと崩れて空に溶けていく。シャルテナオスの言葉があった場所をしばし見つめて、ミミルはぽつりと呟いた。

「なあ、シャオ」
『どうしたの?』
「おれも、その……精霊か、妖精に、なれるかな」

 いつも溌剌としている彼には珍しく、自信のなさげな気弱が覗く声音だった。

『ミィは、人ならざる者になりたい?』
「……うん」

 落ち込んだときや、なにかを不安に思うとき、ミミルは家族の前でだけ時折ふと幼くなる。それはシャオやキヴィルナズ、リューナたち大人が、歳の離れたミミルを目に入れても痛くないほどに可愛がっていたからなのだろう。
 大人になった彼は自立し、一人の頼れる男となっているが、それでも泣き虫だった幼い自分を知る者の前では気が緩むようだ。そんなふと見える甘えは大変可愛らしいとシャルテナオスは思っているのだが、本人はそれを気にしてるようなので口も、うっかり表情にも微笑ましく思う気持ちが出さないように顔を引き締める。たとえシャルテナオスの姿も声もミミルには感じることができずとも。
 四人の家族のうち、今や人間はミミルだけである。半分人間、半分妖精であるキヴィルナズとリューナ。そして言の葉の精霊のシャルテナオス。妖精と人の性が交じり合う二人は不老でないものの人間と比べればはるかに緩やかな時が流れているし、シャルテナオスに至ってはこの世から言語というものがなくならない限りは半永久的に生き続ける。それは人間以外であっても、その者たちなりの言葉が確立されていればよいので、シャルテナオスが消えるときはこの世から生命が消えるときだろう。
 ただの人間でしかないミミルは、そう遠くない未来に必ずこの世を去ることになる。シャオがそうであったのだから、それは逃れられない宿命だ。
 だが、奇跡というものは確かに存在する。
 自分がシャオであった頃は、キヴィルナズと出会えたあの奇跡に感謝したし、それからたくさんの困難があっても、乗り越え生き抜いた。そして人間であったシャオが起こした最大の奇跡――精霊への転生が、実際に叶ったのだ。人間は精霊かもしくは妖精に生まれ変わることができることを存在そのもので証明した。そのためミミルも、期待を持とうとしているのだろう。
 鍋を掻き混ぜることを止めて、そっとミミルの肩に手を置いた。しかしシャルテナオスとミミルのいる次元は厳密には異なる。特別な力が込められているものや、人ならざるものに近しい力を持つものなら触れることもできるが、シャルテナオスとミミルでは互いに触れることはできないので、あくまで置いているという振りである。
 普段は同じ場所にいながらも、見えざる者を見る力を持つ者にしかシャルテナオスの姿は見えないし、シャルテナオスから姿を見せるということもできない。声だけなら直接届けることも可能ではあるが、力の消耗が著しいため滅多なことでは行うこともなかった。
 それでも、不思議と伝わるときがある。実際に聞こえるわけでもないのにミミルは振り返ったり、触れるわけでもないのに触れた場所に気がつくのだ。そして今も肩に置かれたシャルテナオスの手に気がついたのか、はっとしたように顔を上げる。その様子はまるで、その瞳に映らぬシャルテナオスの姿が見えているようだった。
 シャルテナオスはミミルの目に見えているように行動し、聞こえているように声に出して微笑んだ。

『それなら、自分を信じて。ミィなら、きっと大丈夫。だって、とても良い子だもの』

 シャルテナオスの背後で、語った言葉が文字となりミミルに届けられる。

「良い子って……おれ、もう六十を超えているんだよ」

 気恥ずかしそうにミミルは後ろ首を掻いた。しかしながらその姿は、シャオとしてお別れをしたまだ三十歳手前だったミミルの頃とそう変わりはないように見えてしまう。
 確かに、黒々として艶のあった髪はこしを失い白髪交じりの灰色になったし、額も鏡を見ては呻くミミルの姿を目撃するくらいには広くなった。やや吊り目気味だったはっきりした目元も皺が増え、目尻が下がったし、最近は腰も曲がり始めて、あちこち痛いとよくぼやいている。昔はせっかちがゆえの早口だったが、いつのまにか穏やかにゆったりと話すようになっていた。
 それでも、シャルテナオスにとって――シャオにとって、今の歳を重ねたミミルの姿をみたとしても、自分の後ろをよくついてきた幼い彼を思い出すことがあるのだ。つまりはつい面倒をみたくなる年下のままなのである。

「もう、シャオよりうんと年上だってのに、いつまでも子ども扱いだなんてひどいもんだ」
『ごめんね』
「悪いと思ってないだろー」

 六十過ぎながら唇を尖らせる姿に、シャオはこっそりと吹き出したが、その音すら聞こえていないはずのミミルに勘付かれてまた謝ることになった。
 旦那の母やら、自分の子やら、子離れできないことを嘆く主婦たちに相談を持ちかけられたことがかつてあったが、今や孫がいても不思議でない年齢のミミルを可愛いと思ってしまうのだから、きっと母らはこんな気持ちで我が子を見守っているのではないだろうか。一人でできるとわかっていても、つい世話を焼きたくなるし、頼ってもらいたいものだ。
 言葉の精霊であるシャルテナオスはかつてシャオという名の人間であった。生前はミミルよりも十よりも年上であったが、病により早くに亡くなり、精霊への転生にも三十年の歳月を要しているため、精霊シャルテナオスとして過ごした歳月とシャオとして生きた年数を足しても六十にも満たないため、今ではミミルのほうが年上である。
 実は、精霊として再誕した際、シャルテナオスはシャオ以外の魂も抱えることとなった。シャルテナオスを姿と性格を形作っているのはシャオの魂であるが、いわば血肉のように支えてくれているのは、この世に生まれてまもなく亡くなった無垢な赤子の魂たちだ。
 本当はそれらを足せばミミルよりはるかに年上となるが、彼にそれを伝えたことはない。
 不思議なもので、シャルテナオスはついミミルを子供扱いしてしまうし、ミミルもなにんやかんやと昔のように年下らしく甘えてくるので、二人の間に年齢というものはまるで関係がなかった。それはきっと、ミミルもまた歳とともに経験を重ねたとしても、純粋でそして高潔な魂を持っているからなのだろう。だからこそシャオは、確信を持って〝ミィなら大丈夫〟だと思うのだ。
 精霊や妖精に生まれ変わる者とは、無垢で純粋な魂を持つ者。もしくは己の信条を貫く心強き者。他者の痛みや悲しみを理解を理解できる者や、他者を慈しみ、尽くし、多くを愛し多くに愛された者などである。
 ミミルは精霊や妖精に生まれ変わるための十分な素質を持っているのだ。その素質に惹かれるシャルテナオスなどの人間に見えざる者たちが、ミミルの傍にいることを居心地がいいと思うのが何よりの証拠である。
 ミミルの来世に不安はない。ただひとつ、気がかりがあるとするならば、それはミミルがミミルで在れるかどうかであろう。
 本来ならばシャルテナオスは、シャオとしての本質を持っているだけの別の人格として、前世の記憶は持たないままに生まれ変わるはずだった。人間などの多くの生き物たちは、その生涯を生き抜いたのち、身体から離れた魂が世界を巡り、再び新たな命として姿形を得てこの世に生まれる。そのときには魂に刻まれた記憶こそ残っているものの、それは封じられて新しい生が始まるのだが、時に前世持ちが現れることがある。それは人間だけでなく、魂を持つ者であれば誰しも稀に起きうる現象であり、精霊や妖精も例外ではない。
 シャルテナオスは前世の記憶を思い出した、稀有な精霊である。――いいや、正しくは、精霊は前世を思い出す者は多くいるのだ。ただし多くの魂が集い、そのなかに主格となる魂がいるという、つまりは魂の集合体という存在である精霊は、その魂のひとつひとつに生き物であった頃の記憶は刻まれており、すべてが前世を持っている。主格である魂は多くの人生を見つめた上で、自分の前世も前世でしかないのだと悟り、今の己の人格を確立するのだ。
 シャルテナオスは、その存在と姿が変わっただけで、その人格というもののほとんどはシャオを継承している。そういった意味で非常に精霊としては稀有な存在であるのだ。それはシャオが、シャオ自身として再びこの世に生まれたいと強く願った影響ではないだろうか、とキヴィルナズとリューナは推測した。そのため、本来は様々な魂が入り混じるところを、シャオは記憶もまっさらなことが多い赤子の魂を抱いているのではないかと。
 あくまでシャルテナオスがシャオでいるというのは例外であり、たとえミミルが己が望む何者かに生まれ変わったとしても、そこにミミルとしての記憶があるかはわからない。妖精はひとつの魂から成るが、とくに精霊は自分以外の魂を多く抱えることになるため、主人格になれるとも限らず、もしかしたらシャルテナオスの身を保っている赤子たちのように、誰かの肉となるのかもしれないのだ。
 それでも、いつかミミルが何もかに生まれ変わり、そして再び会うことができたのなら、きっとそれはとても喜ばしいことであろうと思う。けれどもそのとき、ミミルとして話すことができるかはわからないので、彼にはできるだけ今世を長く全うして欲しいとシャルテナオスは願う。
 近くにいた火の精霊に手を貸してもらい、再び鍋を火にかける。用意していた砂糖を使う様子を眺めていたミミルは、ふは、と笑い声を上げた。

『なにかおかしいことでもあった?』
「いや……料理をしている姿を見ると、やっぱりシャオなんだなーって思うよ」
『そう?』
「だって、シャオってば案外大雑把だから」

 ミミルの視線が、シャルテナオスの手にある砂糖が入る袋に向けられる。ぱんぱんに麻袋が膨れるほどに入っていたが、シャルテナオスの目分量で鍋に入れたので、今では半分も減っている。

「キィならきっちり計りながらやるし、味見もマメにするだろ」
『う……』

 確かに、ちょっと入れ過ぎたかも、とは思ったものの。まあいいかと見逃したのも事実であるので、シャルテナオスは言葉を詰まらせた。

『……おれのご飯、おいしくない?』

 キヴィルナズのように丁寧な作り方でないので、いつも味付けは違う。もともと美味しいの基準が低いせいもあり、シャオの頃からあまり味付けにはこだわらない節があったが、指摘されるほどにひどかっただろうかと不安になった。

「おいしいよ。味付けもいつも違うから、むしろ食べ飽きないし。そういうふうに、ざっと作っているのがわかると、見えないけどそこにいるのはシャオなんだなあって思えるんだよ」

 精霊の姿も声もわからぬミミルにとっては、空に浮かぶ文字でしかシャルテナオスの存在を信じるより他ない。決して本当にいるかどうかを疑っているわけではないが、ふとした瞬間不安になるのだと、以前本人が言っていたことを思い出す。そういったことも含め、シャルテナオスらと同じ立場になり、同じ視点で生きたいと願うのだろう。
 シャルテナオスが砂糖たっぷりのジャムの味見をミミルにお願いしているところに、リューナがやってきた。

「ミィったらここにいたのね。村長さんが探していたわよ。なんでも、東の橋の修理をするのにあなたに監督を任せたいんですって」
「ああ、そう言えば前から話は聞いてたな」

 ミミルは村で建築家として活躍していた。今では現役を退いたものの、建築物への確かな知識と技術を持つミミルの腕を見込んで依頼に来るものは未だに後を絶えないのが現状だ。
 もう引退したのだと断っているものの、そこをなんとかと頭を下げられることも多く、場合によっては仕事として引き受けることもあった。

「ちょっと行って来るよ。あ、シャオ! さっきの話は秘密だからな」
「なんの話? なにかやましいことかしら?」
『リューナにも、ひみつ』

 ミミルとの約束を守るため、シャルテナオスはくすくす笑うだけだった。
 二人でミミルを見送った後、リューナは鍋の中を覗き込んだ。

「ジャムを作っていたのね。どおりで甘くていい香りがすると思った」
『キィがね、この前の報酬で、子どもたちから、たくさん木苺をもらったの。籠一杯で、食べきれそうにないから、ジャムにしてみたんだ』

 リューナは妖精の性が残るため、シャオの姿を見ることも、声を聞くこともできるので、ミミルのときのように宙に文字を書く必要はない。
 小さな身体を伸ばして胸いっぱいに煮立たせたジャムの香りを吸いこむリューナに、シャオは鍋を掻き混ぜていた木べらを持ち上げた。

『ね、よかったら、味見してくれる? ミィにお願いしてたんだけど、行っちゃったから』
「ええ、勿論!」

 近くにあった小さな匙をとり、木苺のジャムを一口分掬う。それをリューナに差し出した。シャルテナオスに匙を支えて貰いながら、リューナは味見する。

「うん、もうちょっと煮詰めたほうがいいわね。あと、少し甘さが強いような」
『え、えへへ……お砂糖、入れ過ぎちゃった』
「それならレモンを足してみましょうか。ああでも、半分くらいは別にとっておいて、紅茶やパンに使いましょう」
『それ、いいね。そうしよう』

 シャオが取り分ける用に皿を持ってくる間、リューナがレモンを用意する。それからは二人で作業をしながら、他愛ない話で盛り上がった。ふとその途中、リューナがまじまじとシャルテナオスを見た。

「それにしても、シャオはあまり以前と変わらない姿よねえ」
『うん。同じ姿にしてくださいって、お願いしていたからかな。キィが、すぐにおれだって、わかってくれるようにって』

 シャルテナオスの容姿は、二十歳頃のシャオそのものである。ちがうところがあるとすれば、生前は癖のない真っ直ぐな髪質であったのが、ふくらはぎほどまで伸びる毛先にほどに緩やかな流れを描くようになったことくらいだろうか。他は髪も瞳の色も、輪郭も顔つきも、背や体型さえもあまり変わり映えがない。
 それともうひとつ。身体の傷がすべて消えていることくらいだ。

「髪は随分とふわふわとしたわよね」
『うん……それはいいんだけどね、結構、困ることもあって……』

 精霊となったシャルテナオスの髪質はこしが弱く、細めでとても柔らかいものとなった。髪も長く、毛量も多いので、すぐに絡まりひっかかる。
 普段宙に浮いて生活をしているものの、すこし屈めば髪は箒替わりとなるばかりだ。棚の誇りとりにも一役かうことも多く、シャルテナオス自身が持てあます存在である。
 手入れを怠ればすぐに鳥の巣のようになってしまうが、自分ではうまく整えることができないため、朝晩とキヴィルナズが髪を梳いてよい状態を保ってくれているのだ。

「わたし、シャオの髪好きよ。お日さまの匂いがするんですもの」
『あはは。いつも日向ぼっこしてるからかな』
「ねえ、またあれをやってもいい?」

 いつもみんなのお姉さんであるリューナが珍しく甘えた声を出す。シャオは笑顔で頷き、彼女に背を向けた。
 シャルテナオスの背中を覆う豊かな髪に、リューナはその小さな身体を飛び込ませた。
 どうやらリューナは、日向の匂いがするというシャルテナオスの髪をいたく気に入り、時々こうして埋まりたくなるそうなのだ。
 しばらく好きにさせてやりつつ、背中に伝わる頬擦りの感覚がくすぐったくてつい笑い声を上げると、玄関の扉が荒々しくひらく音がした。
 何事だろうとリューナは身体を起こし、シャルテナオスとともに扉のほうに目を向ける。
 真っ直ぐに台所に飛び込んできたのは、先程出て行ったばかりのミミルだった。

「いっけねえ、肝心のもの忘れてたよ」

 ひどく慌てた様子に、余程大事なものであるのだろうことが窺える。

『忘れもの? すぐに見つけられそう?』
「いや、シャオに頼まれてたあれができたんだよ」
「まあ! 本当に大事なものを忘れるんじゃないわよ!」
「いででっ、ごめんって!」

 ミミルのもとへ飛んで行ったリューナが、責めるように頬を抓った。実際は小さな手に見合うだけしかない彼女のささやかな握力では大した痛みはないだろうが、ミミルは大袈裟に痛がる。そんな様子を見て、シャルテナオスはくすくすと忍んで笑う。

『ありがとう、ミィ。それにリューナも。二人のおかげで、ちゃんとできあがってくれた』
「喜んでくれるといいわね」
『……うん』

 リューナに引っ張られた頬をさすりながら、シャルテナオスがいると予測付けた場所を眺めたミミルは、ふっと眼差しを和らげる。

「おれには見えないけどさ。今、シャオ幸せそうに笑ってんだろ」
「ええ、見ているこっちまで頬が緩んでしまいそうよ」
「なんとなく想像つくよ。見れないのが残念だけど、ほんと、無事に出来てよかった」
『いつかきっと、ミィにも見せることができるよ』

 ミミルに対して告げた言葉であるが、あえて彼に見えるように文字にはせず、ぽつりとつぶやく。
 リューナはなにかを察したように何度か瞬きしたが、口を閉ざしてお互いを見合う人間と精霊を見守った。





 夕食を終えてしばしの雑談の後、ミミルとリューナと別れ、二人は寝室へと向かった。
 夜着に着替えるキヴィルナズの背を眺めながら、シャルテナオスは落ち着きなく右へ左へふよふよとただよう。
 寝る用意を済ませたキヴィルナズはそのまま寝台へ行くと思われたが、シャルテナオスの予想に反し、眠る時などに使用する香草が仕舞われた棚を開いた。
 海の中の海藻のように揺らめいていた身を落ち着けて、なんだろうと首を傾げる。香草を使うのはなにか特別な祝い事があったときだ。今日はとくにこれと言ってなにもない、いつもの日常が過ぎただけである。
 それとも、シャルテナオスが知らないだけで、なにかキヴィルナズにとって喜ばしいことがあったというのか。背で隠れる手元が見えないので、大人しく待つことにした。
 そう時間が経たないうちに棚の扉がしめられる。シャルテナオスに向かい直ったキヴィルナズの手には、端を赤色の糸で刺繍されたリボンが握られていた。

『キィ、それは……?』

 シャルテナオスの発した言葉に、自分の手に視線を落としていたキヴィルナズが顔を上げた。
 キヴィルナズは耳が聞こえないため、他人の声に反応することができない。そのため彼と会話をするならば筆談か、もしくは読唇術の心得があるので、読み取れないこともあるがゆっくり口元を見せながら話してやればいい。確実にするとすれば、リューナに立ち会ってもらえれば彼女を介して言葉を伝えることが可能だ。それはキヴィルナズとリューナが互いの運命を分け合ったいわば共有の魂を持つ者であり、それにより例外的にリューナとは心での会話ができるからである。
 道具も目も必要としない会話は本来であれば魂を繋げているリューナとしかできなかったが、言葉を司る精霊であるシャルテナオスもそれが可能となった。実際に発した言葉を、声として届けるのではなく、キヴィルナズの頭の中に文字を浮かばせるようなものである。そこにある程度シャルテナオスの感情が伝わるだけなのだが、意思疎通をするには十分すぎるものである。しかしシャルテナオスはあくまで言葉の精霊であって、心の精霊ではないため、キヴィルナズの意思を汲み取ることはできないのだ。たとえ他の人には聞き取れない呻きのようなものでも、キヴィルナズが伝えたい想いをのせて口にすればシャルテナオスにも理解できるが、二人はそれをしたことがないので、今はシャルテナオスの言葉が一方的にキヴィルナズに伝わるだけだ。
 キヴィルナズは応えぬままに寝台に腰を下ろし、空いている隣を示す。促されるまま浮いていた身体をそこに落ちつければ、滑らかな絹のリボンを手渡された。
 両手でそれを受け取りながらも戸惑うシャルテナオスに微笑みかけて、キヴィルナズはてのひらに言葉を書いていく。

『おくりもの……? お、おれに? キィから?』

 浅い頷きに、シャルテナオスは再び手元に目を落として瞳を輝かせる。
 これまでにも何度もキヴィルナズからは贈り物をされたことがあるが、いつだって慣れないし、くすぐったい気持ちになる。嬉しさのあまりに思わず腰が浮いて宙を飛んでしまうそうだった。
 ちょんと口元が突かれて、初めてそこが緩んでいたことに気がついた。キヴィルナズの変わらぬ優しい眼差しに見つめられて、シャルテナオスははしゃいでしまう自分をこほんと咳払いひとつで誤魔化した。

『その、つけてもいい?』

 キヴィルナズの頷きを見て、早速髪をひとまとめにする。それだけでも苦労しながらも、いざ結ぼうとして、見えぬ手元に苦戦した。

『あ、あれ……? ここ、を、こうして……』

 どうにもうまくいかずに困り果てていたところを、キヴィルナズの手が変わりにリボンを取った。シャルテナオスが自分でまとめた髪を改めて手櫛で梳いてまとめて、手早く結ぶ。
 とても長いリボンのため、後ろで結んでも紐の先はシャオの腰ほどもある。ほどいてしまわないように気を付けながら、自分の黒い髪の波から白い流れを一本掬い上げて、まじまじと見つめた。
 白と赤はキヴィルナズを連想させる色である。それがこれからはいつも身に着けられるのは素直に嬉しかった。それに、すぐ絡まってしまう長く重苦しい髪も、これで少しは楽になるだろう。

『これ、キィが作ってくれたの? ――そう。やっぱり。そうじゃないかなって思ったんだ』

 大きな手ながらに実は裁縫が得意なキヴィルナズは、昔から家族全員の服を作ってくれた。シャルテナオスとなった今は常に纏っている衣があり、それは汚れることがないのでもう服を必要せず、キヴィルナズの服を着ることはくなったが、こうして彼の手作りのものをもらえて嬉しい。それに鮮やかな赤糸の刺繍は細やかで、まるで売り物のように丁寧に作り込まれている。帯の長さはシャルテナオスの長さを超すほどもあるので、相当な時間と労力がかかったに違いない。
 贈り物はそれに費やした金額や時間といったものではないのだが、自分のためにそれだけの手間暇をかけてくれたこともまた喜ばしく思えた。

『へへ……ありがとう、キィ。頑張って一人でも結べるように――え? これから、キィが毎日結んでくれるの?』

 言葉の途中で肌に書かれた文字に、シャルテナオスは思わず弾んだ声を出した。

『ほ、本当に?』

 返された頷きに、シャルテナオスはふにゃりと笑った。

『嬉しい。お願いするね。――それでね、キィの髪を、おれが結んでもいい? たぶん、すぐには上手にできないけれど、キィの髪はきれいだから、色々としてみたいんだ。色々なキィを見たいの。いい?』

 自分の髪でなく他人の髪ならある程度は工夫を凝らすことだってできるだろう。後ろに一つに結ぶか、髪を下しているかしかないキヴィルナズだが、シャルテナオスとは正反対の白髪はすとんとまっすぐだ。折角美しいのだから、色々と彩ったり飾り付けをしたいと以前から思っていた。
 苦笑しながらもキヴィルナズは頷く。リューナもしたいって言っていた、と教えてやれば、お手柔らかに、と伝えられた。

『それにしても、いつの間にこんなものを用意したの? 全然気がつかなかった』

 キヴィルナズが書斎にこもるのはよくあることだし、四六時中傍にいるわけではないので縫う時間はあっただろうが。裁縫の名残を見たこともないのは、隠すことが上手だったなあと思う反面、同じ家にいるのにまったく気がつかなかった自分の相変わらずの鈍さが少し悲しい。
 記憶を掘り起し、気づきそうな場面はなかったと振り返るシャルテナオスの手が再び取られて文字が書かれていく。

『……え? おれが、最近、外出が多かったから……そのうちに?』

 どうやらシャルテナオスはキヴィルナズの密かな行動に気がついていなかったが、こちらの行動はしっかりと気づかれてしまっていたらしい。彼が仕事で書斎に籠っている間しか動いていなかったというのに、さすがと言うべきか、自分がうっかりしていただけか。
 シャルテナオスは、懐からおずおずと小さな包みをとり出し、それをキヴィルナズに手渡した。

『開けていいよ』

 包みを開いたキヴィルナズは目を瞠る。中に仕舞われていたものに指を伸ばし、そっと持ち上げた。
 近くの蝋燭の明かりにちらちら照らされる首飾りを、キヴィルナズは呼吸も忘れたようにじっと見つめる。

『それ、ね……みんなに、探してもらったの。あ、本物じゃないんだ。本物は今ね、新しい持ち主のところで大事にされているみたい。それは、なるべく似るように、おれが作ったもので……あんまり、上手にできなかったんだけど、ミィに整えてもらって、今日できあがったの』

 みんなとは、精霊たちのことである。過去を見ることのできる精霊に協力してもらい、この首飾りのもとになったものを見つけた。しかし新しい持ち主により大事に扱われていたため、取り戻すことは諦めたのだ。
 それからシャオは目的を変え、多くの精霊に協力してもらい、首飾りのもとになる同じ原石を捜し出した。それを石の精霊のもとで何日もかけて研磨して、加工したものだ。

『――キィはさ、思い出だけがあればいいから、荷物が増えると困るから、手放したんだよね?』

 キヴィルナズが今、手にしている首飾り。それはかつて彼の母が捨てる我が子に預けた、自身の思い出の品であり、手元にあるもののなかでもっとも価値があるものに似せたものだ。
 呪術師となるときにキヴィルナズは首飾りを売った。母を恨んだわけでもなく、いらなかったからでもないが、それでも思い出ならこの胸にあるからと手放したのだ。
 初めてキヴィルナズの正体を打ち明けられたときに首飾りの話も聞いていたシャルテナオスは、ずっとこの首飾りの行方が気になっていた。だからシャルテナオスとして落ち着いた今、仲間の精霊たちに協力をあおいだのだ。

『余計なおせっかい、かもしれないけれど……今ならもういいんじゃないかって、おれは思うんだ。だって、身軽になる必要は、もう、ないでしょう?』

 常に、逃げることを考えていたあの頃とは違う。じっと身を潜め、目深く外套を被って生きていたのももう過去のことだ。
 今いるこの村の人々に受け入れられて、もう村人の前で顔を隠すことはない。日光の下でみんなで笑い、日々を過ごしている。誰の目も気にせず、それどころか皆がキヴィルナズを慕い、姿が見えれば彼らから駆け寄ってくる。
 求めていた日常を手に入れた今、逃げることも、隠れる必要ももうない。だからこそこの地に腰を据えて何十年も暮らしてきたのだ。
 鬼と恐れられていた頃と同じくらいのこじんまりとした小屋を最初は建てた。しかし年を重ねるにつれ、村人たちからのもらい物が増えていき、今では増築したほどだ。趣味と実益を兼ねて収集している本だけで二部屋一杯で、近々再び部屋を増やす予定まである。今更思い出や記憶があるからと言って無理に身軽になる必要はないからこそだ。
 だからこそ、今ならこの首飾りがあっても荷物になどならない。
 ただの人間であった頃の名前がわからないとしても、それでも人間であったキヴィルナズが消えることはない。それから半人になったとしても、鬼と恐れられても、白の賢者と讃えらえれるようになっても、いつだってキヴィルナズは優しいキヴィルナズのままだったし、どの自分も大切にしてほしいとシャオは願っていた。どんなにつらい過去であっても、それが今のキヴィルナズに繋がるのに間違いはないからだ。

『――ああ、泣かないで、キィ』

 赤玉の首飾りのように、赤い瞳からほろりと流れる涙を指先で受け止める。それが悲しみによるものではなく、まるで長らく別れていた母と突然再会したような衝撃に揺さぶられた感情が溢れたものであるというのが、首飾りを握り締めたキヴィルナズを見てわかった。
 いつからか、シャルテナオスと再会してからだったからだろうか。キヴィルナズはシャルテナオスの前でだけ、何気ない瞬間でも涙を見せることが多くなった。その涙は彼のように静かだ。まるで自分でも気がついていないかのように、ほろりと流れては、やがて背を丸めてシャルテナオスを抱きしめ嗚咽を噛みしめるのだ。
 それは決まって、言葉にできないほどの幸福に満たされたとき。過ぎる幸せに涙を見せるのだ。
 本当はとても繊細で、寂しがり屋なキヴィルナズ。未だに自分の手にある幸福を受け止めきれず、少しでも溢れてしまえばその分何かを切り捨てようとする。だからシャルテナオスはそれを拾い上げて、キヴィルナズの代わりに持ってやるのだ。そうすれば捨てる必要なんてなくなる。それでも足りなければミミルがいる。リューナがいる。それでもだめなら、いっそ足元に置けばいい。腕に入るものだけが大事にできるものとは限らないのだから。キヴィルナズならきっと、足元の箱の中身だって大切に扱える優しさも器量もある。
 溢れるほどの幸せを分かち合いながら、きっと明日も明後日も、その先もずっと、ともに笑っているだろう。リューナも、ミミルも、村のみんなもそこにいる。
 みんなで、陽光輝く空の下、いつまででも笑って過ごしているのだろう。
 でも、二人で眠るこの夜だけは、キヴィルナズはシャルテナオスのものであるのだけれども。

『あのね、キィ。今日は木苺のジャムを作ったんだ。明日はそれでお弁当を作って、リューナたちと散歩に行こう。最近はあんまり一緒にゆっくり、できなかったから。どう?』

 胸に顔を埋めながらも頷いたキヴィルナズを、シャルテナオスは腕いっぱいに抱きしめた。

おしまい