地下であるはずなのに地上に注いでいるはずの月光が落ちた薄明るい場所の中央に、巨大な木が立っていた。

 光が漏れている高い天井に届くほどの大樹にも驚かされたのだが、その時のノノは巨木の前にぼうっと浮かび上がる白い人影に目を奪われた。
 それまで罠を警戒して気を張っていたはずが、まるで甘美な蜜に吸い寄せられる蝶のように、ふわふわとした足取りで無防備にそれに近づく。
 ちょうど目線ほどの高さ、その少年は幹に下半身を飲み込まれるように存在していた。
 月明かりにほのかに輝く滑らかな剥き出しの白い肌に、ミルクに蜂蜜をたっぷり混ぜたような白乳色のふわふわとした柔らかそうな髪。小さな顔にはひとつひとつ完璧に造られたかのようなパーツがバランスよく収まり、長いまつ毛が頬に影を落としている。
 まるで精巧な人形のように美しい。こうして近くに来て、その瑞々しい肌や微かな呼吸に動いている様子を見なければ、間違いなく生きている人間などとは思いつかなかった。
 それでもやはり大樹に抱かれるように半身が深く埋まる姿は異様で、臍のすぐ下まで木の肌が迫っている。隙間なく少年の身体に張り付いていて、たまたまぴったりの穴に入り込んだようには見えない。腕まで後ろに絡み取られている姿はまるで罪人のようで、磔にされているようにも思えた。
 ほのかに人の熱を感じる。呼吸もしている。けれども本当に、生きているのだろうか――
 ノノがそっと手を伸ばしたその時、少年の長いまつ毛がゆっくりと持ち上がった。
 瞼の下に隠れていた透き通る緑の瞳がノノを捉える。

『だれ……?』


 まるで長い眠りから覚めたばかりのような舌足らずなその声が、初めて聞いたシュロンの言葉だった。

 呼吸をしているのだから生きているはず。そうわかっていながら、彼が言葉を口にして、本当に生きているのだと知ってノノは心底驚いた。
 盗人としてそれなりに修羅場をくぐってきているし、何事も動じたほうが負けだと自分を律してこれまでやってきたつもりだ。
 けれども今は儚げな少年に声をかけられただけで跳びはねるようにただ驚いて、気づけば絡み合った視線を慌てて解いて尻尾を巻くよう逃げ出していた。
 予想もしていなかったありえないものを見た驚きに、激しく混乱していたのだ。
 ――それから神殿から無事脱して、あんな得体の知れないものとは関わらないほうがいいと決めた。
 儲かりそうな話であっても、命の危険を冒してまで挑むほどの気概はない。命あっての物種であって、大樹とともにある人間などどんな厄介事が絡んでいるともわからないのだから、あれのことは忘れたほうが賢明だと何度も自分に言い聞かせた。
 けれども夜になり、月明かりを浴びるたびにあの精緻な人形のような少年を思い返した。
 消えろといっても頭の中から消えなかったし、忘れろと唱えてもとろりとした少年の声は離れなかった。
 どうしても、どうやっても少年が忘れられず、また彼に攻撃的な様子がなく、十代前半くらいの無力な子供にしか見えなかったから。だからもう一度地下迷宮に忍び込み、少年の様子を見に行くことにした。
 何度行っても少年は変わらず大樹に包容された姿でいて、ノノに気づいて顔を上げては、ただじっと見つめるばかりだった。
 繰り返し様子を見に行くうちに、いつしか少年に話しかけるようになった。そして彼がシュロンという名で、この地下迷宮の守護者であることを知った頃から、ここに隠されているであろう財宝をほんの少し分けて欲しいと交渉するくらいまでには親しくなったが、いつも素気無く断られている。
 シュロンは甘言に乗ることはなく、迷う素振りすらない。宝の在り処もヒントすらくれないけれども、それ以外の秘密なら聞けば大抵教えてくれた。
 シュロンのような者が存在していてこの地下の守護者としているのも、本来は隠しておくべきことのはずだ。

『普通はそういうのも教えちゃいけないんじゃねえの? 秘密を知ったものは生かしちゃおけねえ、みたいな』

『守れとしか言われていないから』

 シュロンにそう命じた司教は、このことを言うなとは言わなかったようだ。

 それはシュロンが黙っていることが当たり前だと思ったのか、それともわざわざ彼と会話しようとする者がいるとは思わなかったのか。資産をいそいそと運び込む様子がばれているあたり、少し詰めが甘い男なのかもしれない。
 やはり司教は地下迷宮のどこかに財産を隠しているらしく、シュロンはそれを守るように言い渡されていた。
 シュロンには不思議な能力があって、植物を操ることができる。
 その身は大樹に抱かれ指先ひとつ動かすことができないが、その代わりベッドを作ったように植物を生やすこともできるし、自分の手足のように動かすことも可能だ。地下に張り巡らされる植物の根やつるそのすべてがシュロンの意のままで、またそれらを通して人が侵入してきたのもわかるし、遠く離れている場所の会話も聞こえているのだという。
 シュロンは大樹から力を借りているだけだと言っている。
 本当の自分はただの人間で、シュロンを包んでいる大樹が力を分け与え、またシュロンをこの特殊な環境下で生かしているらしい。
 飲まず食わずでも大樹から栄養を与えられているから問題ないし、底冷えするような地下であっても服を着なくても平気なのだそうだ。
 本来なら地下に入り込んだ時点で侵入者は追い出されるはずだが、ノノが今こうして最深部に来られたのはとても単純な理由からだった。
 ノノは、傷つけなかったから――そうシュロンが答えたのは、ノノが地上の神殿や地下に張り巡らされた植物のどれもに必要以上に危害を加えなかった、ただそれだけらしい。
 別に意図して触れなかったわけではなく単なる偶然で、もし道を行く妨げになるようなら遠慮なく邪魔なものは排除していただろう。機嫌が悪ければ目についたつるくらいなら意味もなくぶちりと千切っていたかもしれない。
 たまたまそんな気分だっただけなのだが、それはシュロンも同じだ。たまたま侵入者が自分の手足のように使っている緑を傷つけなかっただけで、なんとなく進んでくる様子を見ているうちに、最後まで何事もなく自分のもとまで辿り着いてしまっただけのこと。自らノノを招いたわけでもなく、ただなんとなくの偶然が重なってふたりは出会うことになった。
 顔を合わせて以来、ノノが毎回この場所にやって来られるのはシュロンのおかげだ。
 初めて地下に入った時もそうだったように、シュロンのもとまで行ける道以外を植物で塞ぎ、帰る時にも迷わないように案内をしてくれている。
 そしてあわよくば宝を盗み出すつもりのノノが、こっそり脇道に忍び込もうとして、あっさりシュロンが操る木の根に捕まえられて引きずられるように移動させられるのも毎度のことだ。
 今回も拘束されてシュロンの前にまで引きずり出された。運ばれる際は決して乱暴にはされず、むしろ丁重に扱ってくれる。守護者が守る財宝を狙ってはいるが、本気でどうこうしようとしているわけではないとわかっているからだろう。
 つるにぐるぐる巻きにされてはいるもののふわふわとした心地で移動されたので、シュロンの前にころんと転がされた時にはもう起き上がるのが面倒になっていた。そのままだらだらしているうちについ眠ってしまったのだ。

「あーあ、せっかくあいつらの財産の隠し場所見つけたってのに、おまえみたいなのがいるとかついてないぜ」


 本来ならば即座に追い返されるはずのノノを、他とは違う別格の扱いをしながらも、たんまり隠されているであろうお宝だけは決して分けてくれないのだから愚痴も零れるというもの。

 わざとらしく嘆息しながら、ちらっと横目でシュロンを見る。

「ぶっちゃけさ、どうやったら見逃してくれる?」

「見逃さない」
「ほらおまえ、ここから動けないだろ? 欲しいもんがあれば代わりに持ってきてやるよ。その駄賃ぐらいでいいからさ」
「何もいらない」

 とりつく島もないとはまさにこのことだろう。

 死角がないこの少年の目を盗むというのは、まず間違いなく不可能だ。実際には見えているというわけではなくすべて植物を通して振動を感じて察知しているだけらしいが、どんな小さな音も逃さないし、さらに熱も感知できるらしい。
 いつも眠たげではあるが、睡眠はほとんどいらないらしく、たったひとりしかいない守護者であってもその守りは非常に強固だ。
 それでも宝の在り処さえ知れればその場所だけを狙えばいいのだから、対応策を練ることができるかもしれない。そうは思ってもシュロンは頑なで、無欲で、ノノの誘いに乗る気配は微塵もないままだ。
 だからこそ司教はここを財産の隠し場所に選んだのだろう。命じられたことにただ従う緑の守護者がいるから。
 もはやノノからすれば通例のようなシュロンとのやり取りは相変わらずで、答えが変わることはないとわかっていたので本当に落ち込むことはない。
 というより、シュロンの目を掻い潜って盗むことも、彼を懐柔して分けてもらうことももうとっくに諦めている。あわよくばという気持ちがないわけではないが、少なくともここの地下迷宮に足を運ぶ理由は別にあった。

「――それより、もういいの」

「あ?」
「もう、寝なくていいの」

 尋ねるというよりも、ぽそりと独り言のようにシュロンは呟く。


「ああ、十分寝かせてもらったわ。悪いな、いつも」

「別に」

 自分の寝床のある王都の片隅から程なく歩く場所に位置する神殿。さらにその地下深くを進んだ先にあるこの大樹のもとまでわざわざ足を運ぶのは、ここがノノの知る限りもっとも安全な場所であるからだ。

 財宝の守護者であるシュロンは、宝を求めない限りは大人しいものだ。けれどもその実力は確かで、何者かがここに近付けばすぐに対応することができる。
 つまりはこの大樹の元はシュロンが許した者しか訪れることができないということ。たとえ許された者が来たとしてもシュロンがすぐ気がつきここから離れるよう促してくれるし、その時には鉢合わせしないような迷宮の道順を教えてくれる。
 王都の自宅はいつ誰がやって来るかも知れず、常に気を張るので安眠などできたものではない。
 でもシュロンのもとでなら、他人にさして興味がなく、ノノが近くで寝ていようがお宝寄越せと喚こうが気にすることのない彼のもとでなら、たとえ眠りこけても身の安全は守られる。
 何度かこの場所を訪れたある時、極度の緊張状態が続き疲れが溜まっていたせいで、気を失うように眠りについてしまったことがあった。
 起きたら自分が寝ていたことに気づいて驚いたが、シュロンは相変わらずの様子でいたし、自分は何も奪われず、傷つかずにいた。
 その体験をしてからというもの、定期的にシュロンの元に通ってはちょっとばかり場所を借りて昼寝をさせてもらっている。
 シュロンには宝を諦め切れず、そのついでに居眠りをしているというふうに振る舞っているものの、実際はその逆だ。安全に居眠りするために来ているが、そこまで安心する場所にしているということを知られるのは少々気恥ずかしいのでついでのように盗人らしくしているだけだった。
 しっかり身体を休ませられたしもう帰るか、とノノは立ち上がりかけたところで、ふと荷物に仕舞っていたものを思い出した。

「そうだ。今日はおまえにやろうと思ったものがあるんだった」


 寝不足の理由は昨夜とある屋敷に忍び込んでいたからだ。そこから盗み出したうちのひとつである絵皿を鞄から取り出す。


「ほら、これ」


 薄い陶器を守るために包んでいた布を取り払ってシュロンに差し出した。