26

 

 執務室を後にして向かったのは、西側にある魔術師塔とは正反対の方向。目指すのは騎士団本部だ。
 これまでに両手で数えられるほどしか出向いたことのない場所に、ノアは初めて私用で足を向けた。
 ヨルドに用があったからだ。どうせ夜になれば同じ部屋に帰ることになるが、今回ばかりは早めに意見を聞いておいたほうがいいと思って、わざわざノアから足を運んでやることにした。
 というのも、婚約腕輪の呪いを解く魔法薬が完成したからだ。王にはつい言葉を濁してしまって返事をしそびれてしまったが、実は彼に会いに行く直前にできあがっていた。
 最初こそ躍起になろうとしていたが、溜めていた仕事に追われていることもあり、息抜きがてらに時折取り組んでいた解呪の薬。少し前から完成間近の状態であったが、あと一歩のところで煮詰まって滞ってしまっていた。それが今朝はぐっすり眠れたおかげか、それともヨルドのことで頭がぐるぐるしているうちに無意識に動いていた手のせいか、はたまたノアの才能がなせた業なのか、気がつけばしっかり完成していた。
 残るはあと五日。そうすれば勝手に外せるようになる。正直、解呪するなどいまさらのようにも思えたが、できてしまったからには黙っているわけにもいかない。
 ひとまず当事者の一人であるヨルドに意見を聞こうとしたが、その姿を自力で探し出せるとは思えず、どこか適当な騎士を捕まえて場所を聞き出そうと思っていた矢先、騎士団長と遭遇した。

「ああ、ノアどの。こんにちは」
「騎士団長どの」

 幾度か会話をしたことがある相手だ。
 これまでなら挨拶もなしに最低限の言葉だけで用件を済ませていただろう。しかしふとヨルドの言葉が頭を巡り、躊躇った後、再度ノアは口を開いた。

「――こんにちは」

 一度として返したことのなかった挨拶。騎士団長もまさかノアが返すとは思わなかったのだろう、一瞬何を言われたのか理解できなかったようにきょとんとしていた。

「ああ、こんにちは」

 さすがは騎士団長というべきか、すぐにノアに応えるよう、再度挨拶の言葉を口にする。
 にこやかな笑顔に、ほっと身体から力が抜ける。そこで初めて、自分が緊張をしていたことに気がついた。
 たったこれだけのことでも、今までのノアは自分を守るためだといって逃げていた。これまで相手を不快にしてきたノアの変化に、突然どうしたと、今更もう遅いのにと嘲笑される可能性もあっただろう。調子がいいのは自分でもわかっている。
 それでも彼は好意的に受け止めてくれたように思う。もちろん表面上そう受け取れるだけのことで、ノアがそうであって欲しいと願う気持ちから感じることなのかもしれないが、敵意は感じられなかった。

「……その、大事な副長どのを夜間に拘束してすまない」

 婚約腕輪の事情は騎士団長には話してあり、彼のおかげでノアたちは夜を同じ部屋で過ごせるように仕事を調節できている。
 今まで一度もそのことについて騎士団長と話したことはなかった。もちろんヨルドに責任があるが、自分もその一端を担っていることは認めているので、何も言わないわけにはいかないと思って謝罪する。

「ああいや、ヨルドからも話は聞きましたが、あいつがちょっかいを出したせいです。むしろノアどのこそ巻き込まれて大変でしたな。夜はずっと同じ部屋にいなければならないのでしょう?」

 王にも似たようなことを言われたが、ノアの性格を知る者は皆、気にかかるところなのだろう。しかも同室を問題視するのはノアだけで、我慢ならず癇癪を起していると想像されていると思う。

「いえ……まあ、そうなのですが。どうにか過ごせてはいますので」

 つい歯切れ悪くなってしまったが、実際のところヨルドとの同居は思いの外悪くはなかった。口が裂けてもそうとは言い出せないが、それが彼と過ごしてきたノアの本心だ。
 初めこそ不安しかなくてどう乗り越えるべきか試行錯誤する覚悟をしていた。
 最初こそ強引なところはあったが、それ以外は大人しいもので、ヨルドはノアが立ち入られたくない領域には足を踏み入れようとはしなかった。
 部屋のベッドはふかふかで寝心地がいいし、交換条件はあるものの朝食は用意されている。夜に仕事を持ち帰ってもヨルドは余計には話しかけてこないし、なんならチィを構ってくれるのでいつもより捗るくらいだ。
 ノアが立て込んでいる気配を感じるのか、忙しい時にはお茶を淹れてくれたり、時には夜食の用意までしている世話の良さ。それがまだ自分好みの味のものなのでつい食べてしまう。
 間食まで用意され、食べる回数が増えたおかげか最近少し肉がついてきた気がする。不摂生が祟って痩せすぎだったので、健康的生活を望んでいたチィがいたく感動していたのも記憶に新しい。
 だが何よりノアにとって楽だったのは、ヨルドが仕事に一切口を出さないことだ。
 早い段階で人の世話を焼くのが好きな気配を感じていたので、部屋に戻っても仕事を続けるノアに、働きすぎだとか言って余計お節介を焼くのかと思った。だがヨルドは、一度もノアを止めようとしたことはない。揶揄するようなこともなく、ただ静かに見守った。
 一息つかせるために茶を淹れることはあっても、傍にそっと置いて「好きな時にどうぞ」と一声かけるだけで、すぐに離れて自分の場所に戻る。時にノアが集中して気がつかず、すっかりお茶が冷めてしまっても文句は言わないし、場合によっては淹れ直そうするほどだ。
 近づきすぎず、ノアの行動を尊重する姿勢を見せるヨルドは思いがけず居心地悪くはなかった。他人にそう思えたのは初めてのことかもしれない。
 ノアは自分のペースを乱されることを嫌い、とくに仕事を邪魔されることは我慢ならない。チィほど無邪気に来られてしまうと毒気が抜かれてしまうが、他は大抵は不愉快に思えてしまう。
 腕輪を嵌めるまでは、ふらりと現れては意味もなく絡んでくるヨルドに苛立っていた。だが一緒に過ごすうちにノアのペースを掴んだのだろう。
 徐々に不満は減っていき、今となっては朝晩の抱擁をしなければならないことくらいしか引っかかりはなくなっていた。
 完全にノアの怒りに触れたのも、昨日諭された時くらいなもので、それだって結局うまいこと丸め込まれた気がする。
 これまでのヨルドの生活を思い出していくうちに、昨夜の出来事を思い出してしまう。
 熱くなる頬を隠すためにもフードを被った顔を俯かせると、それをどう受け取ったかはわからないが、騎士団長は大らかに微笑んだ。

「それならよかった。確か、残るはあと五日ほどでしたか?」
「ええ」
「解放される日が待ち遠しいものですな」

 もちろんですとも、と返せない自分にやはり戸惑いながら、ヨルドはどうだろうと考えてしまう。
 それは懐に解呪するための道具を忍ばせてから何度も考えたことだ。
 残念がるだろうか。それとも、嬉々として受け取るだろうか。
 そして自分は、彼の判断によらずどうしたいのか、それすらまだ答えは出ていない。
 だからこそヨルドの実際の答えを聞きたくてここまで出てきてしまった。

「私も一安心です。……実は少々困ったことになりそうでして」
「困ったこと、ですか」

 口調は穏やかでもそうとは受け取れない言葉に、聞き返す。

「何やらまたかの国で不穏な動きがあるとの話がありましてな」

 団長が伏せて告げた国にはすぐに思い当った。北東に位置する隣国ゾアルだ。
 その国は兼ねてより南東の、ノアたちの国から見ると東側に位置するモロフ国への侵略を試みていた。モロフが所有してる鉱山が欲しいからだ。
 二国の間には広大な湖があり、隣国ではあっても進軍するには厳しい状況にある。そこで迂回するために狙われたのが、ノアたちの国であるラルティアナだ。
 先にこちらを討ち取り、それを足掛かりにモロフまで攻め入る段取りをつけたゾアルはラルティアナに戦争を仕掛けた。ラルティアナと同盟を結んでいるモロフとの連合軍に対し、これまでも戦争によって領土を拡大してきた軍事国家の力は恐るべきものであって劣勢な状況に追い込まれていたが、あるときゾアルが停戦の申し出を受理し、停戦協定が結ばれた。
 これまでの経緯はすでにノアが城にいた頃の話でよく知った内容でもあったし、六年ほどの前の話でまだ皆の記憶にも新しい。
 協定以降、ゾアルはラルティアナとモロフに対して大人しくしているものの、小康を保っているだけに過ぎない。ゾアルは西の方面へ勢力を伸ばし続けているし、やはり軍備の強化にあたってモロフの鉱山は捨て置けない宝の山のはずで、またいつ戦争が再開するとも知れず、常ににらみ合いの状態が続いていた。
 本来であればまだ噂程度の話を国内の人間とはいえ、軍議に参加する立場でもない一介の魔術師に話しはしない。実際に戦争が起きたことがあるゾアルとのことであればなおさらいらぬ噂が広まりかねないことではあるが、騎士団長はノアだからこそあえて世間話のついでの振りを装ってまで耳に入れておきたかったのかもしれない。

「それで念のため、近々警戒を強めておこうかという話になりまして」
「そうですか」
「その相談をしに近々使者をモロフへ派遣する予定ですが、本当であればヨルドを連れて行かせたかったんですよね。モロフ王はヨルドがお気に入りなんです。隙さえあれば引き抜こうとするので困ったものですが、まあ話も通しやすくて」

 この話が本当であれば、副長のヨルドが夜の動きを制限をされるのは確かに有事の際の懸念事項になりかねないだろう。

「まあ、あと数日待てばいいんですけれどね。まさかやつらも今すぐ行動を移すわけでもありませんでしょうし」

 責めたつもりはないというように、からりと団長は笑った。

「けれどノアどのも早く解放されたいでしょう。ヨルドのやつもそうみたいですからね」
「……あいつが、そんなことを?」

 かたい声を出したノアに、騎士団長は慌てて首を振った。

「ああいや、決してノアどののこと嫌ってというわけではないんですよ。今の暮らしはとても楽しいと毎日のように言っておりますしね」

 それなのに、ヨルドは早く解放されたいという。
 その理由を問いかけるまでもなく、秘密を打ち明ける子供のように、わくわくして堪らなそうに団長は言った。

「何でも、この件が片付けば、いよいよ伝えるつもりらしいんですよ。ほら、例の好きな相手に」
「え……」

 自分でも気づかないうちに、口から言葉が零れ落ちた。あまりにもささやかだったそれに気づかず、団長は楽しそうに続ける。

「あいつ、自分の想いを先に他人に教えられては困るからと言ってまだ名前を明かそうとしないんですよ。絶対に自分から伝えたいらしくって」

 ヨルドはノアとの同室を早く解消したいという。その理由は、ついに想い人に告白をするため。

「いやあ、顔もそうですけれど、中身もいい男ですよ、うちの副長は。そのおかげであいつが交渉事に行くと話が進みやすく助かるんですよ」

 突然知った事実に、団長の声を聞いているのに、なかなか頭に入ってこない。
 身内自慢をしていた騎士団長だったが、反応の鈍いノアに興味を持たれなかったかと思ったのか、我に返って照れたように頬を掻いた。

「ああ、すみませんつい無駄話を。ところでノアどのは、こんなところになんの御用で?」

 ノアに限らず、魔術師たちはそう滅多に塔から出てくることはない。ようやく顔を出したとしても素材を取りに倉庫にだとか、資料を捜しに図書館だとか行動は限定的だ。息抜きにするにしても、魔術師の塔から騎士団本部までは距離があり過ぎる。

「え、ああ……ヨルドを、探していまして。こちらにいるかと思って……」

 何でもない、と言ってしまいたかった。しかし激しく動揺したノアは、本来の目的をそのまま口にしてしまう。

「ああ、それなら庭園のほうにいるはずです。つい先程見かけたので、今ならまだそこにいるのではないでしょうか」

 あちらですよ、と団長は親切に方向を指差した。
 それから二言三言、何かを話したような気がするが、すべてがノアの中からすり抜けていき、気がつけば団長と別れて歩き出していた。

(告白……)

 そのためにヨルドは、腕に張り付く魔術を解いてほしいと願っている。
 ――そうだったのか、と思った。
 ノアはヨルドの想い人ではない。その事実はすとんと胸の中に落ちていく。
 たぶんきっと、友人になりたいとは思ってくれたのだろう。それぐらいに近しく、好意的な情のようなものを感じた。あれは演技などではないと思う。それがただ、恋人や伴侶としてではなかっただけのことで。
 当然だとも思った。
 ノアがその相手だとヨルドは一言も口にしていない。それもそうだ。こんな捻くれた不愉快な男を好きになるはずもないのだから。
 わかっていたことだ。初めからそんなこと。それをわかっていたはずなのに――勝手に、ノアが舞い上がっていただけ。
 何度も、好きとまだ言われたわけではないのだからと自分に言い聞かせていたというのに。
 ヨルドと顔を合せたらどんな顔をしようとか、どう切り出そうとか。色々考えていたのがすべて馬鹿しらしい。
 勝手に想像して、勝手に彼の好きな人は自分でないかと思い込んで、勝手に身の振りに悩んで。
 なんと滑稽だろう。好きという言葉は、何も恋愛感情ばかりではない。親兄弟に向けるもの、友に向けるもの、それもまた好意的な感情で”好き”の対象となりうる。もし仮にその言葉を使われたとしても、それが慕情とは言い切れないのは当たり前だ。
 これでは恋愛脳めと馬鹿にしてきた後輩のことを笑うことなどできない。いや、それよりももっと愚かしい。
 ヨルドを思うほどに熱を持った心が冷めていく。どんどん冷えて、震えそうになった指先をぎゅっと握り込んだ。
 気がつくと回廊まで来ていた。そこから出で行くことができる庭園の隅に、ヨルドの姿を見つけた。
 だが一人ではなかった。
 侍女の仕着せを纏う女が、ヨルドを必死になって見つめている。

「ヨルドさま、好きです」

 かろうじて聞こえた声は、そんな想いを吐露した。

「伝えてくれてありがとう。だが、すまない。その想いには応えることはできない」

 ヨルドの言葉に、女の顔がくしゃりと歪んだ。

「……やっぱり、好きな人がいるんですね」
「ああ」

 肩を落として俯いた女の瞳から、ぽろりと涙が零れる。

「ご、ごめんなさい。わかっていたんです。駄目だってことは……それでも、どうしても伝えたくて」

 涙を拭い、女は再び顔を上げた。まだ悲しそうではあったが、しかしその言葉の通り結果はわかっていたのだろう。先程よりかはいくらか力を抜いた顔をしていた。

「あの……一度だけでいいので、抱きしめてはくれませんか。思い出をいただきたいです」
「――すまない。それはできない」
「……好きな人のために、ですか?」
「その人に誠実でありたいんだ。あなたの涙を犠牲にしても、その人に疑われることは一瞬たりともできない。……すまない」

 ヨルドは深く頭を下げる。
 諦めさせるために一度だけ抱き締めるくらいなら、ちゃんと説明すれば大抵の人はわかってくれるだろう。だがヨルドはそれをしなかった。たった一瞬の思い出を与えられないほどに、好いた相手のために。
 女がヨルドに顔を上げるよう慌てる声を遠くに聞きながら、ノアは踵を返して来た道を辿って行った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 Main