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 森の中を進んでいたノアたちは、黒犬から合図があり足を止める。
 黒犬はノアたちだけに聞こえるよう密やかに囁いた。

「やつらだ。王子もいる。微かに王子の血の匂いもあるが、大した出血じゃない。意識はないようだが、生きているぞ」

 黒犬が鼻先で示す先には、やや開けた場所に集まる怪しげな男たちの姿があった。

「ノアさま、あいつら、消えた兵士たちですよ。似顔絵とそっくりですよ」

 人相書きで見た三人の男たちはそれぞれ兵士の制服から簡素な服に着替えているようだ。
 他にも四人の見知らぬ顔がある。どうやら仲間と合流をしていたらしい。
 ノアの耳では聞こえない会話を、使い魔たちが教えてくれた。

「――よし、間違いなくライル王子だな」
「やけにぐったりしているが、乱暴に扱ってないだろうな」
「それは大丈夫だ。一度目を覚ましたから小突いちまったが、今は薬で眠らせてある。しばらく目は覚まさないさ」
「それならいい。他の奴らとも早く合流をしよう。すぐに出るぞ」

 仲間から王子を受け取った男は、すでに拘束されていた幼子の両手両足の縄にゆるみがないことを念入りに確認をして、麻袋の中に王子を押し込み、荷物のように抱え上げた。
 このまま様子を見て隙を狙うつもりでいたが、やはりそうはいかないようだ。近くに潜伏しているらしい仲間と合流をされてこれ以上人数が増えてしまってはさすがに困る。
 王子を誘拐するほどの豪胆な所業を遂行する度胸があるのだから、間違いなく手練れの集団だ。
 その数は七人。全員が帯剣しているが、軽装で防御は薄いように見受けられる。

「――いけるな、チィ」
「もちろんです!」

 瞳を光らせたチィに頷き、ノアは指示を待つ黒犬に振り返った。

「やつらはここで引き止めておく。おまえは後続のもとへ行き、ここに案内しろ」

 目印となる魔術の痕跡は所々に落としてはきているが、急いでいたので見失わずにいられる間隔で印をつけられたか自信がなかった。
 森に入ってしまってからは上空から追跡していた鷹の目も途切れており、このままでは追いかけてきているはずの騎士が辿り着けない可能性がある。

「わかった。すぐには追いつけないだろうから、無理はするなよ」
「言われるまでもない。肉体労働は私の仕事じゃないからな」
「チィはお仕事です! はりきりますよ!」
「はは。頼もしい。――それでは、健闘を祈る」

 黒犬が身を翻し走り出した時、木の葉とぶつかりかさりと音が立った。
 集団とはいくらか距離が離れていたが、耳のいい一人がはっと振り返り、ノアたちに気がつく。

「誰だ!」

 もとより姿を現すつもりだったからちょうどいいと、ノアはこれまで隠れてきた木の影から出て男たちに歩み寄った。

「貴様らこそ何者だ? 王子を攫って、ただで済むと思うなよ」
「……おまえ一人か?」

 ノアの他に人間の姿がないことを訝しんだ男が片眉を上げる。
 王子の追跡が細身で頼りない男のたった一人だけではないと思ったのだろう。しかし実際にノアだけだ。いくら彼らが気配を探ろうとも、他に人がいるわけがない。
 ノアの登場ににわかに険を帯びた空気が、嘲笑とともにふっと緩んだ。

「魔術師風情が、チビ猫一匹つれているくらいで随分偉そうな態度だな」

 いかにも陰険な気配と纏うローブからして魔術師と勘づいたのだろう。
 魔術師はその存在の有無で戦況が大きく変える重大な戦力を担うこともあるが、大きな術を使おうとするほどに魔力を練る時間が長く、一度でもそれが途切れてしまえば術は発動しなくなる。また本体は普通の人間と変わらず打たれ弱く脆いため、魔術師は隊の後方にて周囲に守られながら戦うのが常である。
 魔術は確かに脅威的だとしても、守り手もいない魔術師が一人きりならば一般人とそう変わらない。
 男たちがノアの姿を見て笑うのも無理はないが、それに納得しないのがノアの足元で毛を膨らませたチィだ。

「チィはチビじゃにゃい! ノアさまだって、そんじょそこらの魔術師にゃんかじゃにゃいぞ!」

 実はチィの正式な名前は”チビすけ”なのでチビと言われてもまったくの間違いではないのだが、身体が小さいことを気にしているほんにんは決して認めない。
 小さな身体を膨らまし、シャー、と牙を剥くと、男たちの顔色が変わった。
 だがそれは子猫に怯えたからではない。

「ラルティアナの魔術師でノアっていや、あの……」
「あの長い灰髪に片眼鏡、人相の悪い顔の痩せた男……」
「使い魔は小さい黒猫一匹――間違いない」
「おい、どうしたんだよ」

 この中ではまとめ役を担っているのであろう年嵩の無精ひげの男を中心に、同世代あたりの男たちが神妙な面持ちで顔を見合わせる様子を見て、王子誘拐のための兵士役を務めていた三人の若い男たちが困惑する。

「あの魔術師は人嫌いで有名だったけど、それまでだろ? 何をそんなに構える必要があるってんだよ」

「あいつの能力は話題になったこともない程度だぞ。仮に強大な魔術が使えたって、たった一人相手に何をそんな……」

 ちらりとノアを見るが、その視線に年上の男たちのような警戒する様子はなかった。
 彼らは国に潜伏を始めたのは四年ほど前からだったらしい。王子誘拐の機を狙う間、情報収集もしていたはずだ。そこで悪目立ちするノアのことも耳には入っていたらしい。
 しかし、彼らはノアを知っているが、本当の意味でノアを理解しているのは先の戦を知っている男たちのほう。

「ほう。貴様ら、私を知っているな。さてはあの戦場にいたんだろう。――なるほど。王子誘拐を企んだ大胆な首謀者はゾアルか」

 返事はなく、代わりに今にもノアの喉元に刃を突き立てんほどの殺気の籠った眼差しが向けられる。
 あの戦場とは、九年前のゾアル対ラルティアナとモロフ連合軍との衝突の時だ。
 ノアも駆り出されていたが、強力な魔術を扱うことができないノアは戦力に数えられることはなく、戦に出たのは後にも先にもあの時だけだ。
 普段は引きこもっているノアのことを他国の人間が知る機会があるとすればその戦争の時くらいなもので、ラルティアナの兵士でもない彼らが知っているとするなら、当時の戦争の参加者だと容易に予測がついた。
 噂は広がるものであるので何もゾアル国の者とは限らないが、雇い主を言い当てられ殺気立った反応が何よりの答えだ。
 誰かがごくりと生唾を飲み込んだ。それを合図に男たちが腰に携えていた剣を引き抜き構える。

「おい、なんだってそんなやせっぽっちとチビ猫相手に――」

 まだ状況を飲み込み切れていない若い男たちが困惑するが、ふとノアの周囲の空気が揺らいだことに気がつき言葉を止めた。

「あまり私の使い魔を甘く見るなよ。子猫だと侮っていたら痛い目に遭うだけだがな」

 ノアの薄笑いとともに、毛を逆立てていたチィの背中がぶわりと膨れ上がった。その身体はどんどん大きくなっていき、すぐにノアの腰を越え、肩を越え、巨大な姿に変っていく。
 男たちが目を丸くして慄くなか、チィの腹から蒼い炎が噴き出した。かつてチィの身体を二つに分けた傷痕から出たそれは腹巻を一瞬にして飲み込み消し去ると、ますます燃え上がり空気を揺らすように熱を発する。
 人の肩に乗る程度だった子猫は、瞬く間にノアの背をも越す巨体となり、再び男たちに威嚇して牙を剥いた。

「ひぃっ、ばけもの……!」

 若い男のうちの一人が悲鳴を上げた。

「チィはばけものじゃにゃいやい!」

 普段は鈴が転がるような愛らしい声は、地響きのような唸りとなって男たちの鼓膜に殴りかかった。それだけで一人が腰を抜かして恐怖に顔を引きつらせる。
 その間にもさらにチィの身体は膨れ上がり、腹の炎は激しく燃える。少し離れた男たちにも感じる熱気は、けれどもノアを焼くことなく、肌を青白く照らされながら不敵に笑った。

「さあ、うちの使い魔と遊んでもらおうか!」
「にゃーっ!」

 鋭い牙がずらりと並ぶ口をくわりと開いてチィが鳴く。鼓舞する気持ちに呼応するように一際激しく炎は身体から噴き出し、チィが走り出すためばっと足を上げた瞬間、ぽろりと身体が前後に別れた。
 それにまた二人度肝を抜かれて、へたり込みさえしなかったものの、構えた剣先が激しく震える。それがちょうどいい猫じゃらしのように見えたのか、チィの前身はその男めがけて突っ込んでいった。

「くそっ! へたれてんじゃねえ!」

 震える男の間に割り入ったのは隊長格とみられる髭の男だ。振り下ろしたチィの前足を剣で受け止める。

「うにゃっ!」

 右足を留められたチィはそのまま左足で薙ぎ払い、髭の男は簡単に弾かれた。すぐに他の男たちがチィに挑んでいくも、身体の断面を炎で燃やしながら、チィは上半身だけで歯向かってくる敵を簡単に転がしていく。
 たとえ剣に斬りつけられようとも、鋼のように硬化された毛の鎧を前に傷をつけることもできずに弾かれた。

「くそっ! 黒豹の騎士が来るなんて聞いてねえぞ!」
「く、黒豹の騎士って……まさかこの使い魔のことだったのか!?」

 猫に弄ばれるねずみのように前足で倒されたり転がされたり、踏みつけられて、男たちは必死に応戦するがまるでおもちゃのような扱いだ。チィもそのつもりらしく、久しぶりに人間を見下ろせる身体を堪能するように男たちにじゃれついた。

「くそっ、ヨルドのことじゃなかったのか……!」

 チィの前足から逃げながら、誰かが吐き捨てる。どうやらノアとチィのことを知らなかった者も、ようやくその正体に至ったようだ。
 黒豹の騎士、もしくは蒼炎の黒豹と噂されるラルティアナの怪物的な噂も持つ正体不明の騎士。
 その黒髪蒼瞳と腕前からそうであろうと噂されていた騎士団副長ヨルドのことではない。それはノアの魔力によって巨大化した、使い魔猫のチィのことだった。
 人間も動物も、誰しも少なからず魔力を持って生まれてくる。しかし自身で生成できる魔力の量も、保有できる量も、その者によって大きく異なるものだ。魔力を沢山蓄えられるからといってそこを満たせるほど魔力を作れるわけでもないし、その逆もまた然り。
 チィは小さい身体に見合った魔力しか自分で作り出すことはできなかったが、保有できる魔力の量は魔術師に匹敵するほど大きな器があった。
 そしてノアが自ら作り出せる魔力は、魔術師が数人合わさっても敵わないほど膨大な量だが、しかしそれを留めておけるだけの器がなく、それこそがノアが強大な魔術を使えない理由だ。垂れ流すほどの魔力があっても、その魔力を拾い上げるのがカップ程度では大した水の量は扱えない。魔術師なら桶で魔力をすくってぶちまけるくらいが普通で、それが威力の差として出てしまう。
 魔力はたくさん溜められるけど、生成する力のないチィ。源泉の如く果てない魔力を生み出すことはできても、それを扱い切れないノア。つまり相棒とするなら、二人はこの上なく相性がよい存在だった。
 使い魔契約は魔術師の意図によって互いの魔力を共有することが可能となる。そのためノアの魔力をチィに流し使わせることができた。
 その結果、魔力を多く溜めこめる器を持つチィは与えられたノアの魔力で身体に影響を受け巨大化する。牙や爪が強靭になり毛が硬化するのは、実際はノアが魔術で強化しているというより、チィの全身に魔力が満ち満ちて溢れるほどに充実しているせいだ。
 チィの身体に収まりきらなかった魔力が、腹の蒼い炎となって表れる。それはノアの魔力であるので、ノアの意思によって実際の炎のように熱を持たせることもできるし、ただの幻でしかなくすることもできた。
 黒豹というのはその姿から連想された呼び名であり、自由に動き回る上半身からとられて、そして下半身は騎士のごとくノアに寄り添い主を守る姿からつけられたものだ。
 本来のノアは戦闘要員ではないため争いごとに参加することはない。もし出ることがあったとしても、ラルティアナの危機が迫る防衛戦のみで、表舞台へ降り立つことは望まなかった。
 あくまでノアは戦場に出ることのない立場の魔術師だ。日頃引きこもっているばかりのノアが常時戦力として数えられたとしてもいざという時すぐに対応できかねることもあるし、チィを巨大化させることはノアにもチィにも負荷が伴うことでそう頻繁にさせることもできない。それならば有事の際に使えるカードのひとつ程度に留めて隠しておくべきだと思ったからだ。
 王もノアの意図を汲み、チィの巨大化した姿を直接見た者には箝口令をしいたが、人ならざる勢いで敵を押し返したチィの働きぶりは隠し切れるものではない。そこで黒豹の騎士と呼ばれても謙遜のない実力があるヨルドが噂を引き受けた。