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 いずれヨルドとノアが宮廷内の一室で寝泊まりしていることも話題に上がるだろう。ヨルド本人の口からの想い人の存在が露見した今、万が一にでもヨルドが結婚を望む相手がノアだという誤解が生まれないとも限らない。
 どこに行くにしても好奇の眼差しに追われるのは避けたいし、周囲が無駄に騒がしくなるのは嫌だ。仕事に集中できない環境など地獄でしかない。
 なによりノアはヨルドが語るその人のような鈍感者ではないのだから、勘違いされるだけでも腹が立ちそうだ。いくらなんでも年単位でアピールされてもまったく気づかないなんてどれだけ鈍いというのだろう。それに食べかすをつけて気づかない間抜けとも思われるのも耐え難い。

「その人について、ノア先輩は副長から何か聞いてないんですか?」
「知らん」

 もしかしたらノアよりも年寄り魔術師たちに聞いたほうが答えがわかるかもしれないが、そんなことを親切に教えてやる義理はない。

「えー。一緒に暮らしてる仲なのに、興味ないんですか?」
「ない。それに不可抗力で不本意な関係だ。私が望んだわけではない」

 確か、取引を持ちかけられた時に髪を結ぶ練習をさせてくれないかと言ってきたのだった。なんのために練習をするのか主語はなかったが、噂を信じるのであれば想い人の頭を飾らせるためのものなのだろう。心地のよい髪とやらが気に入っているみたいなのだから。
 もしかしたらその相手はノアのように癖のない真っ直ぐな髪なのかもしれない。手入れをしていない髪はとても触り心地がいいとは言えないものの、腰を覆うほどの長さもあるし、ノアが相手なら自分に気があるのではないかという誤解を生むこともない。練習台にはうってつけだろう。
 それが理由がなら納得がいく。ヨルドの行動は理解できないことが多く、ノアの髪を結いたがるのもどうしてなのかわからずにいた。そうすると靄がかかったような不明瞭さが苛立ちの原因になってしまうが、動機がわかれば靄も晴れるというもの。もやもやとしながらも受け入るより、すっきりしていられるほうが余程いい。
 それでも自分がヨルドの踏み台にされていることも、髪をいじられていることも不本意であるノアはつんと顔を逸らした。

「短い間のこととはいえ、同室になったんだからもう少しくらい興味を持ってあげてもいいんじゃないですか? ヨルド副長は先輩のことを好きみたいですし。……あっ、いや、人としてってことですよ?」

 牽制云々の話を蒸し返すつもりかとノアが睨むので、カナイは取り繕うようにへらりと笑う。だがこの男が一番好きな話題は人の色恋沙汰であって、それを知っているので誤魔化されてやるつもりはない。
 世間一般で優良株とされる独身男と同室になったからといって、髪を結ばれているからといって、何故そこに恋愛感情を求めるというのだろう。
 ノアはヨルドを嫌っていることを隠しはしないし、棘ある言動をすると苦笑いするので当人にも伝わっているはずだ。
 自分を嫌っている相手に好かれようとするのもわからないし、ましてや恋愛でも友情でも、好意を寄せることなどありえない。
 それともいたぶられるのが好き、などという特殊性癖があるのだろうか。嫌われれば嫌われるほど自分のものにしたい支配欲が強いのか、自分が受け入れられないことが認められない自己評価の高い自己愛者なのか。

「ちなみになんですが、ほんとのほんとーにヨルド副長のお相手って知りません? それっぽい話とか……な、ないですよね! さーせん!」

 言葉の途中で自分を睨む眼差しに気がついたカナイは、「ひえ~っ」と情けない悲鳴を上げる。
 カナイが慌ててダイナの背に隠れたところで、それまで惰眠をむさぼっていたはずのチィがはっと目を覚まして飛び起きた。

「はっ……の、のらさま!」
「誰がノラだこら」

 すっかりノアの膝で蕩けていたためにすぐには口が回らなかったらしい。
 軽く頬を引っ張ってやると、半目がかっと真ん丸に見開かれた。
 ばたばたと暴れるが、しょせんは猫でしかも主に逆らえない使い魔だ。小さな身体は非力なノアの腕でも容易に押さえ込めた。

「ご、ごめんにゃひゃいぃ~」
「目は覚めたか」
「ひゃい……」

 気持ち良く伸びる頬をようやく離すと、チィがそこに肉球を当てて揉み込む。
 猫なので泣き出しはしないが、心なしか瞳が潤んでいるように見えた。

「チィ先輩、いきなり飛び起きてどうしたんすか?」

 ダイナの影からぬるりと身を乗り出したカナイが問うと、きらりと蒼い瞳が輝いた。

「はっ、そうにゃんです! チィ、すごいことに気づいちゃったんです!」
「すごいこと? なになに?」
「それがですね、ヨルドさまの好きにゃ人のことにゃんですが――」
「ほうほう!?」

 今まさに一番興味のある話題にカナイは前のめりになって耳を傾ける。
 反応が薄いダイナでさえ気になるのか二人が注目するなか、ノアの膝の上を舞台にしたチィは、たっぷりもったいぶった後に高らかに告げた。

「チィかもしれないです!」
「……は?」

 思わず、三人の声が重なった。
 予想外の言葉にノアの身体からはふっと力が抜けていく。
 チィはそれぞれの表情を見ることなく、えっへんと胸を張るように自分の気づきを得意げに語った。

「だって、ヨルドさまチィによく、きれいにゃ毛並みだね、ずっとにゃでていたいって言います! それにチィはヨルドさまのことにゃん年前も前から知ってますけど、ヨルドさまはずっとヨルドさまだと思っていますし、にゃによりチィはノアさまに似て高潔です! いつも凛として格好いいんですけど、ちょっと抜けているところもあるってノアさまから言われますし、ヨルドさまはそこも可愛いよって言ってくれるんですよ!」
「……ちょっとどころかかなり抜けているだろうが。今朝も皿を踏んづけてぶちまけたのは誰だ」

 それに一体誰に似て高潔で、凛としているのか。他にも引っかかるところはあったものの、ひとまず認識を訂正させたい箇所を指摘する。
 まだ記憶に新しい盛大な失態を突きつけられて、チィはうっと呻いた。

「あっ、あれはたまたまです! でもヨルドさま、笑ってくれましたよ! 怪我にゃいかって心配してくれました!」

 それは随分と滑稽な様子だったからだろう。
 自分で踏んだ皿が立ち上がり顔面を強打した挙句、黒い身体がミルクで真っ白に染まっていたのだから。
 チィは驚きのあまりかたまってぱちくりと瞬きした後、一挙に驚きや顔が濡れたことの不快感などが押し寄せたのか悲鳴を上げながらばたばたと床を走り回ったが、すぐにヨルドに捕獲されて顔を拭かれていた。
 ノアは眺めていただけだったが、あの時のチィの混乱ぶりはヨルドでなくても笑っていただろう。
 確かに、そんな間の抜けたところのあるチィを可愛がる者は少なくない。
 使い魔であるチィにとって自分の上にはノアがいるだけで、その序列さえ守ることができれば、人間の階級に興味はなかった。
 使い魔であるからこそ多少の無礼があっても、しょせん獣だからと見逃す暗黙の了解もある。彼らは魔術師によって知能が高められているが、いかんせん生前は獣であるので即物的なところもあり、礼儀を叩き込んだところでそれを活用することは難しいだろう。
 チィは相手の身分問わず誰にも無邪気で甘えにいける。そうでなければ国王の膝の上で腹を伸ばして寝るなどできるわけがない。そう言った意味でもチィは誰に対しても平等であり、主に似ることなく素直だ。小柄な猫の姿をしており、身分に関係なく可愛がれる存在に癒される者も少なくないようだ。
 だがあくまでそれらは小動物へ向けた愛情であり、決して恋慕というわけではない。
 ヨルドが口にしたのは好きな相手のこと。いくらチィと会話が成り立つとしても、まさか子猫を相手に劣情は抱くまい。

「なるほど、名推理ですね~、流石チィ先輩!」
「そうでしょう! チィはノアさまの唯一の使い魔! 有能で、かつ可愛らしいので、ヨルドさまが惚れてしまうのも仕方がにゃいです!」
「あはは、そういうところはほんとノア先輩にそっくり!」

 カナイもチィをおだてて遊んでいるあたり、話を本気で受け止めたわけではないようだ。
 もし仮に、ヨルドが本当にチィに恋をしているとしたなら、想い人の存在は秘めたままにするはずだ。いくらなんでも特殊性癖が過ぎる。ある程度の立場上、公言できるはずがない。
 幼い子供が相手かとも考えたが、チィと同じ理由で除外した。それこそ口に出せるものではない。となれば幼子のように純粋な者を想像するが、それだとすると信念がある高潔な人の印象が重ねられない。
 ヨルドが語ったとされる相手の特徴は、並べてみると随分とちぐはぐしていた。それでもきっと、二人が揃えばお似合いだとなるのかもしれない。
 ヨルドが並び立つ傍らの腰を抱き、ひとつとなるように身を寄せ合う姿が思い浮かぶ。そして耳元に口を寄せ、甘く囁く――想像でしかないその姿は妙にしっくりくる。
 耳元にかけられる吐息に笑うあやふやだった相手の影が、少しずつ形を結んでいく。ノアの想像の中でそれは顔が塗りつぶされたままだったが、髪の長い小柄な女の姿となった。
 ややふっくらとして柔らかそうな彼女は、自分の腰を抱くヨルドに完全に身を預ける。信頼しきっていて、自分のすべてを明け渡してしまっているようだった。そんな彼女の髪を、愛おしげにヨルドは撫でていく。
 ――ふと、胸がざわついた。
 じりじりとした雑音が紛れ込んだように不快で、けれども胸の深いところで感じるそれは触れることもできず、掻き消すこともできない。

(なんだ、これは……)

 しばらく放っておけばいつの間にか消えてしまいそうなそれは、けれども小さな違和感としてノアを苛立たせた。

「そろそろ仕事を再開したいんだが?」
「あ、はーい」

 いつまで居座るつもりだとチィと騒いでいた後輩たちを睨むと、そそくさと帰り支度を始める。
 それを確認して、身体を机に戻した。
 二人は去り際に挨拶をしていたが、応えることはなく目の前のものに集中していく。
 机上には修復途中の魔導具が置かれている。わずかな魔力に反応して動くオルゴールだ。
 王妃の愛用品で夜ごと音楽を奏でていたが、昨夜は音が鳴らなかったという。そこで急遽ノアのもとに運び込まれ、修理を依頼された。
 魔導具にはよくある魔力を通す管に淀みが溜まったことが原因で、一度部品をばらして清掃をすれば問題なく使用できる。それほど難しくない作業で緊急性はないのだが、王族からの依頼なので最優先される。今日の夜までには直さなければいけない。
 ばらした部品が並べられるなか、回転台の上に乗る人形が目についた。
 金で作られたそれは二人の男女が手を取り踊っている一場面を象っている。若かりし日の王と王妃だ。初めて二人でダンスをした記念に王が贈ったとされるものだった。
 爪先もない小さな二人の顔に彫り込まれた表情は、どこか照れたようにはにかみ合う。これを見たものは初々しい二人を微笑ましく思うと言うが、ノアの胸のざわつきが大きくなった。
 先程の作業の時は何も感じなかったというのに、理由がわからない。わからないが、王妃の依頼は必ず間に合わせなければならない。
 自分の胸が訴えようとする何かを無視して、ノアは作業を再開させた。

 
◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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