頭上から様子を見守っていた小鳥たちに別れを告げたデクは、ユールを連れて、二人が出会った場所にほど近い自宅へと帰った。
 そこで昨日罠にかかっていたところを仕留めた、皮を剥ぎ、腹を裂いて臓器を取り出したり血抜きをしたりと一通り処理を終えた猪の肉をユールに披露する。彼はデクが抱えてきたそれに瞠目していた。
 てっきり、ほんのおすそ分け程度を想像していたのだろう。だがデクが持ってきたのは猪を丸々一頭である。可食部と骨をわずかに残した状態にしてからまだ一切手をつけていなかった。
 猪肉を机の上に乗せて差し出せば、流石のユールもあれほど嬉々とした機嫌良さげな態度を変えて狼狽えていた。それからしばらく頭に手を添え唸りなった後、ちらりとデクを見やる。すぐに目は逸らされるもの、次にはユールの声がかけられた。

「――うちに、食いに来るか?」

 視線を合わせないまま告げられた思いがけないユールの言葉に、今度はデクが目を見開かせる番だった。とはいっても薄らと普段よりも瞼が持ち上がっただけで、ユールが隠れた前髪の奥の変化に気がつくはずもない。
 いくらなんでもこんなにもらうのは気が引ける。弟と二人だけでは食いきれない、最近は温かいし駄目にしてしまう。それになにより、こんな馬鹿でかい肉の塊を運べるわけもない――と早口に理由を挙げられていくうちに、それもそうかと家に誘ったユールの意図にデクも納得した。
 仕留めた猪は、誰よりも長い腕を持つデクが抱えてようやく運んだものだ。いくら成人しているユールといえども一人で自宅まで運んで帰るのはつらいだろう。大きさに見合った重量は半巨人としての膂力を持つデクでも重たく思えるほどであったし、それを考えればユールの挙げた理由はすべて頷ける。
 断る理由もないと頷こうとしたデクは、顎を引く前にはたと気がつき思い留まった。
 はたして、自分がユールの家の食事に招かれてもいいのだろうか。そんな不安が頭を過ぎったのだ。
 決して話上手なわけではなく、愛想もよくなければ反応も鈍い。デクがいるところにはいつも沈黙が訪れる。それを気まずく思ったところでどうしようもできないまま、ただ苦しい時間ばかりが過ぎていくのだ。
 だからデクは仕事仲間と昼食をとることを止めた。折角の息抜きの食事も、自分と一緒では美味しいものも美味しく食べられないと気がついてしまったからだ。休息のはずの時間が重苦しい気の抜けないものになってしまうくらいならばと、休憩に入る時間帯までずらしたのだ。
 たとえ今ユールの家に招かれたとして、気の利いた話のひとつもできない自分が歓迎されるかはわからない。誘わなければよかった、と後悔するユールの姿は呆気ないほど容易く想像できてしまった。
 だからデクは頷きかけた頭を振った。運ぶことはする、だが食事はいいと最低限の言葉を付け足す。
 答えを見てそして聞かされたユールは、デクのほうをやっと向いて、腕を組むと鼻で笑い飛ばした。

「そんなら肉はいらねえよ。もしやったもんの礼がしてえなら、黙ってそれ持ってついてこい」

 だが、と言いかけたデクだが、ユールの一睨みで黙らされてしまう。沈黙を挟み、ついにデクは頷かされたのだった。
 調理の都合があるからと、二人はすぐさまユールの家に向かうことになった。
 早速机の上に乗せていた包みに入った肉を抱え上げたところで、ユールの鋭い声音が飛んでくる。

「そんな恰好で町中うろつく馬鹿がいるか!」

 指摘されてようやくデクは、自身がまだ寝着のままであることを思い出した。とっと着替えて来いと、家主は客人であるはずのユールに部屋から追い出されるかたちで、服を仕舞っている寝室へと向かう。
 そこで寝着を脱ぎ、用意した黒服を纏っていく。着替えが終わったデクは自分が脱ぎ寝台へと放った服に目を落とした。
 普段着と同じく黒一色のそれの上に、まったく馴染まない橙色の紐が置かれている。それはユールからもらったものであり、起きているからというものずっと懐に忍ばせていたのだ。しばらくそれをじっと眺める。

「おい、もう終わったかよ? 着飾るわけでもねえのに遅えぞ」
「――今、行く」

 扉越しにユールの声がかかった。声を返しながら、見つめていた紐を手に取りそれで手早く髪を一纏めにする。
 部屋から出れば腕を組んだユールが待ち構えていた。

「遅い」

 不機嫌が露わになる声にデクは一言詫びる。大した時間はかけていないが、それでも待たせたことは事実であるからだ。
 謝ったところでまだなにか言われるかと思ったが、ユールはあっさり眉間の皺ごと腕を解いてデクに背を向けた。時間が惜しいと言っているかのような動きに命ぜられるよう、デクもその後をついていく。
 髪紐についてユールはなにも言わなかった。猪の肉を抱える際に一度背を向けたため、気がついてはいるだろう。そのためデクも触れないことにした。自分から言い出したところで、なにを話せばいいのかもわからない。
 二人はデクの家を出てユールの家を目指した。山菜で半分ほどが埋められた籠を持ったユールが二歩先を歩き、その後をデクが荷物を抱えついていく。その間にユールは振り返ることも声をかけてくることもなく、また寡黙なデクから話を振ることもなく、沈黙を伴い進み続けた。
 ほどなくしてユールの自宅が見えてくるという頃、ようやく足音ばかりの静寂が破られる。

「料理ができるまで時間がかかっから、それまで弟の相手しといてくれよ」

 振り返らないまま告げられた言葉にデクは困惑した。

「おれが、か?」
「他に誰がいんだよ。元気有り余ってるようなうるせえやつだから適当にあしらえばいい。よろしくな」

 デクの返事などろくに聞く気もないのか、すでに確定したと言わんばかりに、まだ会ったこともないユールの弟の面倒を押しつけられてしまった。
 性格は元気、らしいが。それ以外の名前や年齢といった情報が一切ない。だがもう少し詳しく弟のことを知っていたとしても、きっとデクは困り果てていただろう。
 肉を支え持つ己の手を見た。それは子供の頭を握り潰してしまえるほど大きくて、実際に力も強い。それを見やる目の位置も高く、しゃがみ込んだところできっと目線など合いはしないだろう。
 子供と戯れるには到底向かない身体。外見だけならまだしも、その内も社交的とはいえず、前髪に隠れているとはいえども、すべてを覆いきることができない目つきもよく子供たちを怯えさせてしまっている。前に道端で母に抱かれた赤子が一度デクと顔を合わせただけで、まるで火がついたように泣き出したことがあるだけに、そんな自分に弟を任せてしまおうとしているユールが信じ難かった。
 無理だ。そう、直感のように確信する。
 自分に子供の相手などできるわけがない。向いていないことなどユールだって承知しているはずだ。それなのに何故託してくるのかが本当にわからなかった。
 断ろうと口を開いたところで、先にユールが見えた自宅を指差しデクに教える。それから改めて告げようにも、一度時期を逃してしまったがために声には出しづらく、結局伝えることはできないまま終わってしまった。
 扉を開け先に中に入ったユールにデクも続く。身体を縮めて窮屈に扉をくぐっている途中で、奥から慌ただしい足音ともに、声変わりもまだの明るい少年の声が飛び込んだ。

「おかえり、兄貴。今日は遅かったじゃん」
「ただいま。ちょっと寄り道してた。それより喜べよ、今日は肉三昧だぞ」

 屈めていた身体を起こしたデクが少年に目を向けると同時に、肉という言葉とともに後ろを示したユールの親指の先を、輝いた少年の瞳が辿る。
 まだ十歳くらいだろうか。小麦色に焼けた健康そうな肌を持つ少年は、ユールと同じく垂れた目尻に縁取られる緑の瞳で、まず真っ先に存在感ある包まれた塊を見た。そしてそれに支える手に気がつき、顔を持ち上げる。

「にっ……く……?」

 本来であれば、肉! と喜びに弾んだ声が響いたのだろう。しかし瞠目した少年はそのまま硬直してしまった。


 ユールの弟の名は、テイルという。デクはそれを本人からではなく兄の口から教えてもらった。そして自分のことは簡潔に肉をくれたデクだ、と紹介される。だがお互いの名を知ったところでろくな挨拶も交わすことはできなかった。あまり自分から声をかけられない、笑顔も見せられないデクのせいも理由にあるが、なによりテイルがユールの後ろに隠れてしまったまま、そこから窺うようにしか顔を出さなかったからだ。
 露骨に警戒をするテイル、にただでさえ奥手のデクが話しかけられるわけもない。デクに椅子を示してさっと台所へ向かってしまったユールの後に、テイルは当然のようについていった。
 ごく一般的な民家であるユールの家は、元は巨人が住んでいたデクの家とはすべての大きさが違う。デクにとって入り口が狭かったのは勿論のこと、天井も多少低く、立っているときには常時腰を屈めなければならない。当然家具も生粋の人間の大きさに合わせたものであり、そのどれもがデクにはあまりに小さかった。
 万が一椅子を壊してしまっては敵わないと、デクはユールが去り際に示した椅子に座ることなく、直接床に胡坐を掻く。
 デクなりの考えがあってのことだが、それを盗み見ていたテイルの目が複雑げに眇められた。理解できない行動をする珍獣でも見るかのようだ。テイルの視線に気がついたデクが振り返れば、肩を跳ね上がらせながら完全に壁の影に隠れてしまう。
 デクの位置からは壁が遮り、台所の内容はその場から動き、角から覗き込まない限り見えはしない。しかしよく音を拾える巨人族の血を引く耳が、ユールの奏でる準備の音を教えてくれた。そしてデクには聞こえぬようにとひそひそと話しかけるテイルの言葉も届く。

「なあ兄貴」
「んだよ。ほらあっち行けよ、邪魔だ」

 潜められるテイルの声とは対照に、ユールはいつもの声量で答える。それは巨人族の耳でなくともデクの位置から聞き取れるもので、テイルは慌てたように、しい、と注意していた。だがユールが改めることはない。

「だから、今から飯作ってんだ。食いたかったら邪魔すんなっての。張りついてるんじゃねえよ」
「で、でもさ。あっちにはあいつがいんじゃん。く、食われたり、とか……しねえ?」

 やはり自分を恐れている少年の言葉に、デクは人知れず肩を落とした。
 巨人族に食人の文化はない。しかしテイルにはデクがそんなことをするような、自分たちを食らってしまう化け物に見えているということだ。
 ユールはどう返すのだろう。もしかすると、テイル同様にデクを疑っているだろうか。
 聞きたくない、と思う反面、その疑問の答えを知りたいと思ったデクは無意識のうちに耳を立てる。
 拾ったのは聞き慣れた、鼻で笑うユールの声だった。

「さーな」
「……さ、さーなって!」

 素っ気ない返事に唖然としたのはデクだけでなかったのだろう。少しの間を置いてテイルは声を上擦らせる。またもユールに邪魔だ、と言われていたのだから、もしかしたら詰め寄ったのかもしれない。

「な、なんだよ、弟がどうなってもいいのかよ! おれ食われちゃうかもよ!?」
「うるせえな。どうもなんねえのに心配なんてしてられっかよ」

 溜息の混じった兄の呆れ声に、取り乱していたはずのテイルは静かになった。それと入れ替わるよう自分のいるほうへ足音が近づき、デクは慌てて見つめていた角から目を逸らし、胡坐を掻いた己の足に視線を落とす。

「おい、悪いけど肉をあっちに運んで――」

 デクのほうを覗き込んだユールの言葉が不意に途切れる。どうかしたのだろうかと顔を上げれば、そこには片眉を上げ、不機嫌そうに顔色を曇らすユールの姿があった。
 これまでいつもよりかはまともに自分に接してきたはずのユールの変わりように、デクは思わず目を瞬かせる。

「おい、なにしてんだ?」

 唸るような声音が、ユールの表情が決して見間違いでないことを知らしめる。だがデクはどう返していいかわからず、口を閉ざしたままにしてしまった。
 なにをしている、と問いかけられた。しかしどう見てもデクはただ座っているだけである。

「椅子に座れっつったろ。それがなんで床にいんだよ」

 状況をのみ込めていないデクを悟ったのか、反応がないことに苛立ちを覚えたのか、ユールは言葉を付け足した。
 ようやくユールの考えを理解したデクは、自分の中にある当然の答えを返そうと口を開くも、それよりも先にユールが一度は示した椅子を指差す。

「そこに座れ」

 ユールの命令口調に、その背後でテイルが顔を青ざめさせる。半巨人の男に対し不遜な物言いをする兄が心配なのだろう。だがデクとて困ってしまう。

「だが、おれが乗っては――」
「そんなやわな造りしてねえよ。なんせおまえんとこのおやっさんが作ってくれたんだから」

 渋るデクの言葉を遮り、理由を悟ったユールはきっぱりと否定した。

「それにおれんちの親父、見たことねえのか。背はそこそこだけどおまえに近い体重だぜ。そんなやつが毎日使ってても壊れてねえんだから、おまえのことだって支えられるよ」

 ユールはさらりと言ってのけたが、デクに近い体重で人本来の背であるならば、それは相当に肥えているということになる。
 前に一度だけ、デクはユールの両親を見たことがあった。母親は穏やかな表情の似合う夫人で、父親は多少腹が出ている程度だったはず。だが見たのは随分昔のことであり、今現在の姿は知らない。
 おずおずと立ち上がったデクは、机の下にあった椅子を引き出し、そこへと腰かける。ユールの告げた通り、親方のグンジ特製の椅子は軋む音さえ上げなかった。無意識に入っていた肩の力をデクは緩める。
 様子を見守っていたユールは満足げな表情を浮かべたが、当初の目的を思い出してデクを再び立ち上がらせて、机の上に置いたままにした肉の塊を台所へと運ばせた。
 改めて腰を下ろしたデクはようやく一息をつく。ふと、いつの間にか傍らにテイルが立っていることに気がついた。
 ユールと同じ緑の目にじっと見つめられ、無意識に身体が強張る。
 容姿のせいもあり、子供と触れ合ったことなどまずない。近寄りさえしたことがなく、デクにとって彼らはまったくの未知であり、それに加えて先程のテイルの言葉を聞いていたがためにどうすればいいかわからないのだ。
 自分よりも何倍も小さな身体に怯えていることを、纏った鉄仮面が周囲に知らせない。テイルとて自分に向けられた蒼い目に慄くようわずかに背を引かすも、ぐっと息をのんで口を開いた。

「あ、あんたが、肉、くれたん、だよな?」

 明らかに震えそうになる声音を抑えている。話しかけてきたのはテイルのはずだが、なんだか可哀想なことをしまっているように思えた。
 問われた内容に頷けば、テイルは一度俯き、しばらくの間を置いてから再び顔を上げる。

「最近肉食ってなかったら、山ほど食えたらなって思っててさ。その、肉は久々っつうか。……その、ありがとう」
「――沢山、食ってくれ。足りなければまたやる」

 礼を言いながらも引きつる表情に、慎重に言葉を選びながらデクは応えた。
 ぽかんと呆気にとられたように、しばらくテイルは薄く唇を開いて瞬きせずにいたが、やがてゆっくりと瞼を動かす。一度頬を指先で掻き、デクを窺うよう再度問いかけた。

「な、なあ。デクは巨人の血を引いてるって本当か? だからそんな大きいのか?」
「父親が、巨人族だった」
「デクは半分人間なんだろ? なら父ちゃんはもっと大きかった?」
「この家にはまず収まらなかっただろう」

 怯えの色が強かったはずの瞳が次第に輝き出したことにデクが気づいたのは、いくつもの巨人族に関する質問に答えてからだった。いつしか震えを抑えていた声音も弾むようになり、つっかえていた言葉の淀みもなくなる。なにより、テイルが笑顔を見せるようになった。
 もう自分に恐怖していないのだろうかと内心でデクは戸惑うも、つい先刻までの態度を一変させたテイルは身を乗り出してまで話しかけてくる。兄の後ろに隠れて半巨人を警戒していた少年など、初めからいなかったのではないかと錯覚してしまうほどだ。
 これまでのなにがテイルに心境の変化を与えたのかはわからない。デクがしたことといえば、せいぜい彼を怯えさせないようなるべく柔らかい声音に努めたくらいだろう。しかしそれとてろくにできていなかった自覚がある。だからきっと、本来のテイルが持つ明るい性格が救ってくれたのだろうとデクは思った。
 兄のユールが人当たりよく社交的なのに似て、弟のテイルも恐らく人々の中心に立てるような少年なのだろうと、話しているうちに察していく。だからこそ口下手なデクから言葉を引き出すのも子供ながらに上手く、自分相手でも無邪気に触れてこようと思えるのだろうと。
 遠くからはユールが包丁を扱う音や、火を使う音が聞こえる。調理の匂いも漂ってきていて、それにテイルは腹が減ったとデクに笑いかけた。ユールは余程機嫌がいいのか、デクたちには聞こえないように抑えた鼻歌が半巨人の耳には届く。
 ほんの少し。自分でも気がつかないほど、傍から見ているテイルでさえわからないほど。デクはわずかに口の端を持ち上げていた。


 猪の肉と根菜のスープに、薄切りにしたこれまたたっぷり肉を挟んだパン。肉を煮込み、炒め、焼き、蒸したものに粗めの挽肉で作られたハンバーグなど。茶色に囲まれた中心には、今朝ユールが摘んだ山菜が食べやすい大きさにちぎられ、山のように大皿に盛られていた。そこに彩のいい野菜もいくつか乗せられているも、まるで放り投げたような飾り方だ。決して見目を気にしていないことがわかるが、飢えた若い男にはそんなもの関係ない。
 ひたすら肉、肉、肉、時折野菜、それと昨日の残りものであるという焼き魚で、四人掛けの広いはずの机は端から端まで埋め尽くされた。
 家にあったものだけで作ったから大したもんはできなかった、とユールは言うが、普段肉や魚をただ焼くばかりのデクからしてみれば、これらは久方ぶりにありつく、しっかりと味つけの施された料理ばかりだ。それにデクとテイルが飽きないようにと香辛料なども工夫されている。なかには内陸にあるこの町では貴重な塩を振って両面を焼いたステーキもあり、テイルとデクは揃って口の中に溢れる涎を飲み込んだ。
 ものによっては作っている最中に冷めてしまったものがあるが、と申し訳なさそうにしたユールにデクたちは首を振り、すぐに三人一緒に食卓に腰かけ、時刻としては少し遅い朝食をとることになった。
 いただきます、と礼儀正しく挨拶をする兄弟に、デクは一拍遅れながらも低い掠れ声で、先人に倣い声を上げる。一人の食事を十数年続けるうちにすっかり忘れていた言葉だった。
 肉を持ってきてくれたからと、まずユールはデクに最初の一口を勧めた。テイルもそれには賛成のようで、早く食えよ、とどこか楽しげに目を細めながら、すっかり恐れを失くしたデクへと目を向ける。
 前に並んで座る兄弟に見守られながら、デクはぎこちない手つきでまず近くにあった皿に目を留めた。肉だけを炒めて味つけしたらしいそれに手を伸ばし、フォークで掬い口に運ぶ。黒胡椒の風味が利いており、多少これにも塩も振っているらしく、肉だけなら味気ないはずのそれの旨みがぐっと増していた。
 多少猪肉の臭みがあるが、デクはしっかりとした歯応えがあるそれを普段から好んで食べているため慣れている。火でよい硬さに熱が入った肉をよく咀嚼し、そして嚥下する。
 二対の緑の瞳に見つめられながら、デクはようやく口を開いた。

「う、うまいっ」

 デクの声に兄弟たちは見守る眼差しを一変させて面食らった表情になる。しかし思いの外大きく出た声に一番驚いていたのは、他ならぬデク自身だった。
 自分の声量に目を瞬かせれば、ユールが首を傾げる。

「そう言ってくれるのは嬉しいけどよ、言うほどか? 急ごしらえだったし、こんなん誰でも作れるしよ」

 ユールの言葉の最中にその隣で身体を伸ばしたテイルが、デクの食べた皿から同じ肉を取り大きく開けた口に放り込む。よく噛んだかも怪しいまま口の中のものを腹に落とせば、ユール同様に首を傾げた。

「んー……確かにうまいけど、とびっきりってわけでもないし。そんな声出すくらいか?」

 戸惑いにも似た反応を二人から見せつけられたデクは、未だ自分自身への驚きが冷めやらぬまま手元に目を落とした。

「ああ……だが、こんなに美味いと思った飯、久しぶりだ」

 たった一口だ。まだ幾ばくも口に入れていないのに、デクは消え入りそうな声で確かに思った感想を伝える。
 ユールが手早く作った肉料理よりも手の込んだ主婦たちの料理を、おすそ分けだともらい食べることも稀にある。だがそれよりも美味しいと、本当にそう思ったのだ。
 まだ温かいからだろうか。しかし彼女たちの作ってくれたものも場合によっては温め直し食べたこともある。決して温度の問題ではないだろう。
 では一体、なにがそんなにも心満たされるのか――そこまで考えてデクははっと気がついた。
 そうだ、肉を口にした瞬間、味は勿論のこと、心になにか温かいものが薄く広がった。そして勝手に、うまいと言葉が飛び出た。
 いつもは腹を満たすだけの食事。しかし今日ユールが作ったものは、たった一口で心が満たされた。それに気がついてしまえばもう、いくら鈍感なデクといえども答えが出たも同然だ。
 両親が亡くなり、仕事仲間とも昼食をともにとらなくなり、いつしかデクは独りで食べることが当たり前になっていた。他人と食卓をともにした記憶などもう何年もない。だからこそきっと誰かと食べられる今が、口にするものすべてをまるで魔法のように美味しく変えているのだ。
 もう一度手を伸ばし、今度は肉にまるで関係のないただの山菜の盛り合わせを口に運ぶ。あまりデクの得意でない少々辛味のある葉が混じっていたのに初めから気がついていて、噛めば他を押しのけ広がる味に舌が逃げたそうに無意識に引っ込む。それでも様子を窺う二人の視線を感じれば、胸の奥のほうがまるで作りたての猪肉のスープを注がれたかのように温かくなる。
 片手に肉を挟んで分厚くなったサンドイッチを手に取り、利き手で握るフォークで、並べられた皿からこれまた肉を口に放る。気づけば手は止まらなくなった。
 突然のデクの食いっぷりに、これまで一口食べて眺めるばかりだったテイルは、はっとしたように自らも料理を食べ始めた。負けじと口一杯に頬張り、久しぶりの肉三昧に舌鼓を打つより、肉そのものの歯応えと味に喜び笑みを見せる。自分の手の届かない場所にある皿はデクに気さくに頼んで取ってもらった。

「おまえら、そんながっついて喉に詰まらせんじゃねえぞ」

 返事をするのも億劫なのか、夢中で食べ進める二人はただ頷くばかりで声をかけたユールには目もくれない。

「ま、うまいならなによりだけどよ」

 苦笑したユールは立ち上がり、近いうちに忠告も聞かず喉を詰まらせる彼らのためにと水を持ってくることにした。