ふとデクは気がつく。
 ユールはよくデクをデカブツと呼ぶ。言葉に示されるこの巨体を邪魔だと邪険に扱われたことがなかったとは言わない。だが馬鹿にしたことはこれまで一度としてなかった。影では身体が大きいからあんなに動きが薄鈍いのかだとか、手際の悪いうどの大木だ、でくの坊だとも罵られていた。大通りを歩けば、遠く後ろのほうで飛び抜けた頭を密かに笑う声もあった。どれも皆デクには聞こえていないとでも思っていたのだろう。
 口こそ悪いが、ユールが告げてきた言葉はそれらとは違う気がした。これまでかけられた言葉たちはどれもその通りだと受け入れてきたが、噂を聞いたときのように後々自分の身体を見下ろし溜息をついたことなどなかった。それはユールが身体のことに触れても、さっぱりとした、悪意など微塵も感じさせぬ物言いだったからなのだろう。
 今度こそデクはユールの視線を受けながら小さく笑む。それにユールが目を瞬かせているのにも気がつかないまま前を向いた。

「今日は、ありがとう」
「……それはこっちの台詞だろ。肉、ありがとよ。急に誘って悪かったな」
「いや――楽し、かった」

 ずっと、ユールは自分に好意的ではないのだと思っていた。だがはたして本当にそうであるのだろうか。棘のない声音を聞きながらデクはそう考える。

「まあ、なんだ。テイルのやつもおまえのこと気に入ったみたいだし、あいつも誘ってたし、おまえさえよけりゃまた食いに来い。ただおまえの食う量毎回用意してたらそれこそ毎日草暮らしになっちまうから、食材は多少負担しろよ」

 テイルに誘われたときのように、いいのか、とデクが問いかけることはなかった。ただ頷き応えれば、横からそれを見ていたらしいユールはなにも言わず目線を前に戻す。
 しばらく無言を伴い歩み続け、やがて二人が別れる道へと来た。足を止めユールに振り返ると、ユールもまた同じように足を止めてデクを見上げながら片手を上げる。

「またな」

 ユールが口にしたのは別れの言葉。弟のテイルも挨拶にデクへと告げた言葉だ。
 あのときデクは、なんと返したよいのかわからずただ頷きで応えていた。だが今ようやくその答えに気がつく。
 またな、と言ったテイル。それに返すのは了承ではない。同じ言葉を返せばよかったのだ。またな、と。再会を約束する言葉を互いに交わし合うべきだったのだ。
 それを悟ったデクは、いつしか癖のように俯けていた顔を上げるも、その頃にはユールはすでに背を向け、いつものように背筋をぴんと伸ばして歩き出していた。
 デクの返事も待たずあっさりと遠ざかっていくユールの後ろ姿に、遅れながらも口を開く。

「また、な」

 こういうところがどんくさいとユールに言われてしまうのだろう。デクの反応はいつも一歩遅い。だから気忙しいきらいのあるユールは待ちきれず先に行ってしまうのだ。
 もし次に言う機会があるのであれば、今度こそはユールにもテイルにも待たせることなく伝えよう。そう決意を抱き、ようやくデクは我が家へ足を向けた。
 一人で道を進みながら、別れたばかりのユールを思い浮かべる。
 いつも昼時の休憩にふらりと現れては、デクに声をかけつつ昼食をとり、時間が過ぎれば去っていく。なにがしたいのかさっぱりわからない男で、なによりあまり自分を好いていないと思っていた。だがそれも今日でまるで印象が変わる。
 口の悪さは相変わらずにしろ、他人ににこやかに接することができるユール。彼が弟に対して見せた態度はデクに見せるものに近しく、やや粗暴な面もあった。ユールの見せる二面性をデクは知ってはいたが、家族であるテイルに見せる姿こそが本来の彼であるのだろう。決して好意的には聞こえぬ言葉遣いだが、行動そのものはそれほどデクを疎んでいる様子はない。なにより食事に誘ってくれて、再会を望む別れをした。
 デクにとって今でもユールはよくわからない男のままだ。だがユールを思い浮かべれば真っ先に出てきていた不機嫌そうな顔が少し和らぎ、鋭い目つきがわずかに緩む。肉をやるかと言えばあっさりと破顔して、それ以降は時折小さな笑みを見せるようになった。
 デク自身がユールに目を向けているからこそ、少しずつ彼を知り始め、だからこそデクの内にいるユールの姿がかたちを変えていっているのだろう。
 きっと魔女との一件がなければ、こうして改めてユールを見つめることはなかっただろう。
 そう。あの、人の心を変える矢さえなければ。

「――ぁ」

 忘れていた真実を思い出して、デクは足を止める。喉の奥から抑えきれなかった声が零れた。
 魔女から受け取った、魔法の矢。デクはいつしかすっかりそれの存在を忘れていた。そしてようやく思い出した。思い出してしまった。
 足元が崩れ去ったかのように身体から力が抜けていく。どうにか堪えたものの、少しでも気を緩めれば今にも地に膝から倒れそうだった。
 何故あの存在を失念していたのだろう。すべての疑問の答えは始めからあったというのに、何故勘違いしてしまっていたのだろう。

「――そうか。あれは、本物の魔法だったのか」

 平たい唇の間からするりと言葉が落ちる。滅多なことでは出さないはずの独り言に、自分が相当動揺していることにデクはまだ気づかない。
 射た相手に射られた人物は惚れるという矢を、ユールはその身に受けていた。そして矢を放ったのは他ならぬデクである。本当にその効果が現れていたのならば、今のユールがデクに好意的なのは当然だった。
 あまりはっきりと効果が見られなかったため、本物の魔法の矢なのか疑っているうちに、頭からすり抜けてしまっていたのだろう。だがその間にも魔法はしっかりとユールに効いていたらしい。
 もっとわかりやすい変化があるのだと思っていた。だが確かにあの矢に射抜かれてからというもの、デクの知るこれまでのユールとは違う点があった。
 デクに嘲笑じみた笑みしか見せなかった男が、睨んでばかりだった彼が、理由もなしに突然デクに優しくなるわけなどあるはずがなかったのだ。
 今髪を結わえている紐も、満たされた腹も。ユールの好意を感じられたものはすべて偽りによりもたらされたもの。またな、と。再会を望んでいたはずのあの言葉も所詮魔法に言わされたものに過ぎない。これまでのユールの発言のすべてを信じてはいけない。
 恐らくいくつかの真実は含まれている。親方たちが感謝しているということも、テイルの態度も、それらはきっとユール自身に関係ないのだから魔法は混じっていないだろう。もしそれまで嘘で作られたものであるのならば、魔法をかけた魔女はとんでもない悪女である。しかしデクが思い起こす、眠る牡鹿の背を優しく撫でる彼女は悪人などには見えなかった。だからこそ、拭いきれぬ不安があったとしても、真実もあるのだと信じていたかった。
 矢の効果はすぐに表れると魔女は言っていたが、実際は徐々に染み込んでいくものだったのだろう。そうであるならば射たれた直後のユールにまるで変化がなかったのも頷けるし、髪紐を渡す際に不機嫌そうだったのも納得がいく。あのときの態度は単に魔法に促され、まだそれに侵されきってはいないユールの不本意な気持ちが表れていたのかもしれない。
 魔法は本物だった。だからユールはデクに胸を張れ、などと言ってくれたのだろう。気がついてしまえば花が萎れていくよう、デクの背は少し前のように丸まっていく。
 見える風景はようやくいつもの位置に戻ったはずなのに、どうしてかより低く、さらに目が悪くなったかのように視線の先がぼやけた。
 ようやく自身が落ち込んでいることを理解したとき、不意に風が流れていく。さらりと頬を撫で過ぎ去ったそれにデクは目を閉じた。
 ゆっくりと蒼い瞳を開かせ、丸めたばかりの背をもう一度伸ばす。
 たとえユール自身のものでなくても、彼が口にした言葉に確かにデクは励まされた。それは数少ないユールとの間にある真実のひとつだ。デク自身が感じた、最も信頼できるものだ。
 ユールは自分が持っているもの腐らせるなと言った。デクはこの想いも腐らせてはならないものだと思い、だからこそ再び顔を上げたのだ。
 明日から仕事が始まるために時間はとれないが、近いうちにまたあの魔女に会いに行こうと決意する。魔法を解く術を乞うためだ。ユールをあのままにしておくわけにはいかない。そもそもユールは間違えて矢を突き立てられただけであり、もとよりかけた魔法は少ししたら、満足したら解くつもりであったのだから。
 立ち止めていた足をようやく動かす。ぴんと張った背筋とは裏腹に、足取りはひどく重たかった。


 昼に入る前に雨が降り、作業は一時中断せざるを得ない状況になった。
 しばらく様子を見ても雨がやむ気配はない。これでは仕事にならないと判断したグンジは、職人たちを家に帰すことに決めた。
 我が家へと戻ってきたデクは、濡れた髪を拭いた長い手巾を首にかけ、昨日の休日にする予定だった裁縫をしようと、そのための道具を取り出し机に並べる。
 デクが一息ついた頃には雨足は多少弱まったものの、家の外でしとしとと降り続いていた。
 もしも一時でも雨がやんだのならば魔女のもとに向かおうとも思ったが、グンジの推測通り空の様子は一向に落ち着かない。雨音が小さくなったかと思えば、少し経てばまた屋根を激しく叩きもしていた。
 窓に打ちつけられる水の粒を眺めていたデクだが、やがていそいそと手元に目を落とす。つい止めていた手に持った黒地の二枚の布の重ねを合わせ、端に糸を通した針で縫っていく。
 銀の針はデクの手にはあまりにも小さく、少しでも指先に力を入れれば折れてしまうほどに細く脆い。これまで一体いくつもの針を駄目にしてきたのか覚えてはおらず、慎重に摘まみながらぎこちなくも操っていく。
 糸も布と同色であるため、布をくぐった跡を残しているはずの軌跡は見えにくい。それこそが狙い目で、多少の綻びや縫いが甘いところは、よく目を凝らさないとわからないようにするために同じ黒に揃えているのだ。
 鋭い針の先でときに指を突くも、皮膚が厚いおかげで血を見ずに済んでいた。たとえ出血しても黒い布はそれを隠してしまえるというさらなる利点もあったりする。
 黙々と細かい作業を続けていると、不意に玄関の扉が叩かれた。
 手元を見ていた顔を上げ、作りかけのものも机上にすべて置いて立ち上がる。返事もせず相手も確認しないまま、デクはすぐに扉を開け放った。
 相手の顔は総じて下にあるため、初めから目線を落としていれば、緑の瞳と目が合う。

「……よお」

 高い位置にあるデクの頭を見上げ、低い声で短く挨拶をしたのはユールだった。
 会いたくない、会うべきでないと昨日別れに思ったばかりの相手に遭遇し、内で激しく動揺していたデクだったが、ユールが全身をびっしょりと濡らしていることですぐ現実に引き戻される。

「悪ぃけど、傘貸してくんねえ?」

 どうしたのかとデクが尋ねるよりも早く、ユールから事情を汲み取れるお願いを口にした。
 どうやら無防備なところを雨に打たれてしまったらしい。話している間も顎や髪から水が滴り落ちていく。庇のおかげで今は雨を免れているが、足元にはユールから流れた水がゆっくりと溜まっていった。
 もはや傘など必要としないほどに濡れてしまっているユールの姿に、デクは一度考え、取っ手にかけていたままの手を離して家の中に続く道を開けた。

「それより、乾かすか」

 若干言葉足らずだったものの、行動も現状も意味を悟るには十分だったらしい。ユールはデクの顔をじっと見つめた後、その場で服に手をかけて上着を脱いだ。
 突然半裸になったユールに言葉を失っていると、彼は雑巾でも絞るかのように自分の服を捩じって水気を切る。

「んじゃ、お言葉に甘えて少し寄らせてもらうわ」

 服を広げ腕にかけると、ユールはデクに一瞥もくれないまま脇を通り家の中へと足を踏み入れた。
 ユールにはまず身体や髪を拭くように長めの手巾を渡し、デクは寝室へと向かう。
 服を乾かすよりもデクの服を貸してやればいい話ではないかと考えたのだったが、まず体格に大きな差が開いているユールに合うものなど見つかるわけがないことに気がついたのは、黒ばかりの衣服を漁り出してからしばらく経ってのことだった。
 幼い頃の服は着古して、すでに別のものへと姿を変えているので手元に残ってはいない。かといって現在のデクの服を着せたならば、きっと首回りの穴から肩を出してしまうことだろう。ユールは決して小柄ではなく、平均的な背で、男を主張するよう肩幅もあり、細身なほうではあっても華奢ではない。しかしデクがあまりにも大きすぎるのだ。
 家には両親の服も彼らの死後手つかずのまま残されていたが、デクよりも身体の大きかった巨人の父ユグのものは論外だ。ユールでも着られそうな大きさだけを考えれば母メリアの服も頭を掠めたが、いくらなんでもに女ものを渡すわけにもいかない。そんなことをすればユールが憤怒することだろうと、眉を吊り上げる姿がありありと思い浮かんだ。
 結局望むものは見つからず、デクは毛布を一枚ユールへ差し出すことにした。
 ユールは毛布を受け取ると、上を脱いだとき同様、躊躇いも見せず下衣を脱ぎ去る。これに傍目から気がつくほどに動揺を見せたデクに、男同士でなにを、とユールは笑った。
 下着も濡れているものの、流石にそれまで脱ぐことはせず、濡れた布を穿いたまま素肌に毛布を纏う。
 天井に張り巡らせていた紐にかかっていたデクの服をいくつか退かして、そこにユールから預かった服をかける。ただそれだけでは乾くのも遅いし、雨に濡れている身体が冷えて寒かろうと、暖炉に火をつけようとしたところでユールに止められた。
 デクが心配するほどではない、だから茶でも淹れてくれればそれでいいという言葉に頷き、湯を沸かしユールに熱い一杯を用意する。
 自分の分も準備して、ようやくデクは一息ついた。
 正面に腰を下ろしたユールは両手で杯を持ち、口に含みながら暖を取る。

「ぬるくなったり、飲み足りなかったりしたら言え」
「ああ。悪ぃな、世話になっちまって」
「――別に」

 思いがけず素っ気なくなるデクの返事にユールは気にした風もなく、机上に散乱するものに目を落とす。デクも釣られるように、突然の来訪者に作りかけのまま放り出していた布を見た。

「服か?」

 丸めて置いてあるというのに、ユールは直感でこれが服であると察したらしい。デクは声を出す代わりに頷き、中途半端に止まってしまっていた作業を再開すべく、真っ黒の布を手に取った。
 ゆっくりと操られ動き出した針に、することもないユールはデクの手元を眺める。

「自分で作ってんのか?」
「――おれの、大きさともなる、と……売っている、わけもない。得意ではないが、自分で作ったほうが……安い、からな」

 手を休めることなく、集中も切らさぬように苦心しながらデクは答える。そのせいで言葉が途切れがちになるも、話すことに意識を向ければ容赦なく鋭い針が指に刺さるだろう。それがわかっているからこそ顔を上げることができなかった。
 覚束ないデクの手つきに、ユールもその技術の程度を悟ったのだろう。それ以上声をかけることはなかった。
 デクが身に着ける服はすべて自分自身の手で作り出している。型紙だけを仕立屋に依頼し描き出してもらい、布地を切り出すところから形にして完成するまでを一人ででもできるように指導もしてもらっていた。
 もう何年も衣服を縫製し続けているが、いつまで経ってもデクの裁縫技術が上達することはなかった。しかしそれも仕方のない話である。もとより不器用な性質であったし、なによりもデクにとって服作りのための道具はどれも小さく、作業自体も細やかなものが多い。荷運びといった、力仕事を得意とするデクの大きすぎる手には不向きなのだ。
 今よりも不慣れなうちは、何度も針を指に突き立てては幾本もの針を駄目にしてきた。現在では大分見ていられるようになり、血も時折見る程度に済むようになったし、折ってしまう数もひとつの服を作り上げるうちに十本かそこらにまで減った。当初の自分を思い浮かべたらよくぞここまで成長したと感涙してしまいそうだ。
 ここ十年ほど涙を流したことがないくせに、そんな風に過去を思い起こしていたデクは、最後に糸の端を結び不要な場所を歯で断ち切る。
 完成間近だったこともあり、作業を再開させてからそれほど時間をかけることなく服は仕上がった。
 黒い生地に散っているはずの同じ色をした糸くずを手で払い、形を確認するため目の前に広げる。特に目立った粗もなく、いつも通りの仕上がりのように見えた。

「やっぱでっけえな」

 遮られた先からユールの声がして、持ち上げていた手を下す。毛布に埋まるように自分を見るユールと目が合った。

「なあ、それちょっと着てみてもいいか?」

 指差されたのはデクが手にする完成したばかりの服だ。断る理由もなく、承諾の意味を込めて机越しに手を伸ばしてユールに服を届ける。
 受け取ったユールは肩にかけていた毛布を落とし、早速頭からデクの大きさに形作られた布を被った。
 しばらくもがくように中でうごめき、ようやく頭を出して息をつく。袖にそれぞれの腕を通して自分の姿を見下ろした。

「――わかってたけど、まあこうなるよな」

 案の定今にも肩から滑り落ちてしまいそうで、ユールは服を上から手で抑えた。腕の長さも当然違うため、デクに合わせた長さの袖口からユールの手は出てこず、余った部分がゆらゆらと揺れる。
 ふとなにかに気がついたらしいユールは、遊んでいた袖口に目を凝らし、しばらくしてから顔を上げた。

「なあ、ここ解れてんぞ」
「……どこだ」
「ここだよ。こっちは玉止め失敗してんじゃねえ? 糸が緩くなってんぞ」

 差し出された袖口を覗き込もうと身を乗り出せば、デクが確認をする前に引っ込んでしまう。腕を捲り右手を出したユールは、指摘した箇所を指でなぞった。

「よく見りゃ線もがたがただな。縫い目ももっと細かくしとかねえと、これじゃあすぐに駄目になる――ははあ、なるほど。だから黒い布地に黒い糸なんだな」

 ついに気がついてしまったユールは、デクに目だけを向けて不敵な笑みを浮かべた。
 出来の悪さを誤魔化していることを知られてしまい、決まりが悪くなったデクは目を斜めに逸らして後ろ頭を掻く。その間にもユールは服を脱ぎ、改めてそれに目を向け、縫いの甘いところをいくつも見つけ出して溜息をついた。

「おまえ、よくこんなんで乗り切ってたな」
「……着られていればそれでいい」

 デクとて自分が作り出した服が黒くなかったのならば、笑いものにされてしまう程度のものだということを悟っていた。しかし苦心したところでどうしてもうまくはいかなかったのだ。長い格闘の末、いつしか自分には向かないのだと諦めて、現状で満足しろと自身に言い聞かせることで決着がついてしまっている。
 できることならばしっかりとしたものを製作したい。そんな言葉をのみ込んだ苦し紛れの回答に、ユールはまたも息をついて肩を竦めた。デクはそれを気にしないよう机上に目を向けて、散ったままにしていた道具を手繰り寄せる。
 先程切った糸では長さが足りず、新しい糸を針に通そうと目を凝らした。しかし針の穴はあまりに小さい。女どもでも苦労する作業を、半巨人のデクが器用にこなせるわけがなかった。
 糸の先端を捩り断面を細くして再度試みるも、若干穴から逸れていたのか枠に阻まれる。そのとき捩っていた先端が解れ、また初めから直す。
 一向に入る気配はないが、裁縫をするときの定番と化した出来事のためにデクに苛立ちはまったくなかった。早く通らないか、と思う程度であったが、傍から見ていた男はどうもそういうわけにはいかないらしい。

「――……ああもうまどろっこしい! 貸せ、おまえがやってたんじゃ日が暮れちまう!」

 胸の前で毛布を抑えたユールは立ち上がると、まとめた裾を片手に掴み上げてばたばたと足音を鳴らす勢いでデクへと迫ってきた。まるでこのまま突っ込んでくるのではないかと危惧したが、ユールは途中で急停止し、空いていた隣の椅子に腰かけ、ふんだくるように大きな手に到底見合わない針と糸をデクから取り上げる。
 勢いに押され背をわずかに反らしていたデクは、自分の手からユールの手に移った道具に目を瞬かせた。
 デクが思考を鈍らせている間に、あれほどデクが挑戦し続けた糸通しをユールはあっさりと完了させてしまう。そのまま適度な長さに糸を歯で噛み切り、片方の端に玉を結ぶ。一度手にした針を針山へと突き刺し、今度はその手で鋏を取ると、デクが長い時間をかけて描いたがたがたの縫い目を躊躇いもなく断ち切った。
 糸は抜かれ机上に放られる。ひらりと一本の黒が流れている間に手早く再度針を手にしたユールは、先程糸を抜いたところにそれを宛てがい縫い始めた。
 デクとはまるで違って、ユールの手はするすると動いていく。細かく早いのに指に刺すようなどんくさいことはなく、デクが同じ場所に割いていた時間の半分もかけずに縫い終わってしまった。
 直せる範囲すべてを直し終え、ユールは手にしていた真っ黒な服を満足げな息を鼻からつきながら机に放る。
 これまで手元から一度も起こさなかった顔を持ち上げデクへ目を向けると、いつものどこか不機嫌そうな表情でユールは掌を差し出した。そこになにかあるのかとデクがじっと見つめていると、唸るような低い声音が耳を撫でる。

「早く出せ、まだ適当に作ったもんとか直してねえやつとかあんだろ」

 決して適当ではないのだが、という台詞が出そうになるも、今はそれを言ってはならない気がして、デクは開きかけた口を慌てて噤んだ。
 言葉をのみ込むだけの動作も待ちきれないユールに急かされ、まるで追いやられるようにデクは自身の服がすべてしまってある寝室へと向かい、あるだけを腕に抱えて居間へと戻った。とはいってそもそも持っている数は少なく、干してある分と今着ている分のそれぞれ一着ずつを抜かせば普段着は二着しかない。
 仕事の作業着も含めればまだあるが、それは使い古した普段着を汚れ仕事用に使用しているため、わざわざ直すほどでもないと持ってはこなかった。どうせ修繕したところであっという間に襤褸になる。それはデクの仕事仲間たちも同じで、穴が開いていようが皆平気で着続けているのを現場に顔を出すユールも知っているだろう。持ってきたもののに作業着がなくとも怒鳴られはしなかった。
 兢々としながらデクが差し出した服も奪われるようにユールの手に移る。まじまじとそれらを見たユールは目を眇めた。

「これだけか? つーか、本当に黒だけだな」

 頷きでデクは答える。
 細めた目で細部まで確認をしたユールは、二着のうちの片方を机にではなく後ろの床へと放り投げた。

「これはどうしようもねえ、処分だ処分。雑巾にでもしとけ。――こっちはまあ、なんとかなっかな……」

 再び鋏を手に取ったユールは修繕を開始した。その頃になってようやく今の状況に頭が追いつき理解し始めたデクが口を挟む。

「――別に、直さなくてもいい。自分でやれる」

 出来の悪さは自覚していた。だがまるで目も当てられぬといった態度を見せられてしまえば流石に肩を落としたくなる。
 無意識にいつもよりもさらに低い声を吐きながら、デクはユールのもとにある自分の服を掴もうとそろりと指先を伸ばした。ユールに直してもらう理由などない。
 しかし布に指先が触れる直前で、ぴしゃりと声に手を叩かれ止められる。

「自分でやってこれなんだろ。おまえ裁縫向いてねえよ。自分の指ごと縫っちまいかねねえ不器用さ理解してんなら黙ってろ」

 容赦なく糸を断ち切るユールから目も向けられないまま告げられた、その手つきのような言葉にデクは押し黙る。気分を害したわけではなく、実際に自分の指ごと縫ったことがあったからだ。
 流石にユールも大げさな例えとして挙げたのだろうが、実際それを体験していると知られればどんな反応をされるのだろうかと考える。その沈黙を相手がどう捉えるかもわからぬまま当時の痛みをしみじみと思い起こしていると、ユールが呟くよう言った。

「――……雨宿りさせてもらう礼だ。これでちゃらにしろよ」

 なるほどそれならば、とデクはようやく納得した。
 別に恩をきせるために場所を貸したわけではないが、それでユールの気が済むというならとデクは言われた通りに黙り込む。することも特にないからとユールの手元を見つめた。
 鬱陶しい、とでも言われるかとも思ったが、ユールは一度デクを見やっただけで、後は集中して作業を続ける。自分の速度とはまるで違う手慣れた動きは見ていて面白かった。
 理髪師という繊細な技が必要な職業に就いているし、ユールは生来手先が器用な性質なのだろう。思いのままに己の手を操って針を進める姿は単純に羨ましく思えた。きっぱりとデクには向かないと言われたこの作業だが、むしろユールにはぴったりと合っているようだ。
 ふと剥き出しになったままのユールの肩に気がつく。席を変えた際に腰回りまで落ちたため、その上半身は晒されたままになっていたのだ。
 
 デクは無言で腕を伸ばし、ユールの腰辺りにわだかまっている毛布を掴み引き上げて肩にかける。突然のデクの行動に、初めは手を止め探るような目つきで様子を見守っていたユールだったが、あっさりと大きな手が退いていくと、なにか言いたげに目で追いかけながらも口を閉ざしたまま作業を再開した。
 出したお茶がすっかりぬるくなった頃、ようやくユールは顔を上げる。手にしていたデクの服を顔の前に広げると、満足げな表情で振り返った。

「ほらよ、これでちったあマシになったろ」

 投げ渡された黒衣を受け取り、縫い直された場所に視線を向けると、目を凝らしてようやく等間隔で真っ直ぐに並ぶ線を見つけた。長さも揃っており、なによりデクのものとは違い一直線に伸びている。そこを見ただけで十分ユールの技術を知ることができた。左右に割るよう軽く引っ張ってみても当然穴が見えるような隙間はない。
 他の箇所などわざわざ確認する必要もないと、デクは顔を上げた。

「すまない。助かった」
「んなもんおれにとっては大したことじゃねえよ。ところでおまえ、服の型紙はどこで作ってもらったんだよ」
「ザザンの店だ」

 何故そのようなことを聞くのだろうと疑問に思いながらも、理由を尋ねることなくデクは答えた。ユールはまるで気がないようにふーん、と言いながらどこか遠くを見つめる。
 それっきり言葉はなく、デクは躊躇いながらも口を開いた。

「――茶を、淹れ直すか。寒く、ないか」

 なんと声をかけていいかわらず、そんな問いかけをしてしまう。
デクの戸惑いを悟ってか、ユールは考え込むよう窓の外を眺め、しばらくしてから立ち上がった。

「雨、もうやんだみたいだから帰る」

 言われてようやく雨音が消えていることにデクは気がついた。ユールの視線の先にあった窓に振り返ってみれば、確かに雨はやんでいる。しかし濡れた硝子越しの空は濁ったままの色で、いつまた降り出してもおかしくはなさそうだ。
 デクが顔を戻した頃には、ユールは毛布を置いて、天井に張られた紐に干された自分の服に手を伸ばしていた。端を掴み引きずり下し、まだ乾き切っていないそれに腕を通す。
 素早く身支度を整えたユールは玄関に向かった。デクは服を掴んだまま椅子から立ち上りついていく。
 扉の前まで行くと、ユールは身体を捻って振り返った。

「雨宿りさせてくれてありがとよ。んじゃまたな」
「――……」

 少しばかり目を細めただけで、笑顔も機嫌よさげな声もない。相変わらずの素っ気ない態度のままユールはデクの家から出て行った。
 静かに閉ざされた扉の前で、しばらくデクはその場に石像のように立ち竦む。
 やはり口がすぐには動かず、またな、と返すことができなかった。だがそれでよかったのだと考えを改める。何故ならもう、またはない。魔女に会えば必要のない言葉だからだ。
 わざわざデクの家に傘を借りに立ち寄ったのも、服を修繕してくれる気になったのも、そのすべては魔法の矢の効果に過ぎない。決してユールの本意ではないのだ。
 やがて再び降り出した雨の音に、いつしか右手の存在に落としていた顔を上げて扉を開けた。すでに大地にできていた水たまりにいくつもの雫が落ち、その数だけ波紋が広がる。
 今頃になってようやく、傘を持たせてやるべきだったと後悔した。