ノアが片眉を上げる前にヨルドはにこりを笑みを浮かべる。

「ノアが食べないと、チィも食べられないだろう?」
「……後で金を請求したりしないだろうな」
「まさか。おれが勝手に用意したものだから、遠慮せず食べてくれると嬉しい」

 ヨルドは机に顔を戻すと、別の皿にチィの分を盛りつけていく。
 その間にも食べるか食べないか葛藤していたが、ヨルドの言葉通りノアが先に口にするのをじっと見守るチィの視線を受け、渋々皿の上のクッキーを一枚摘まんだ。
 ヨルドからの施しなどいらないが、かといって食べ物に罪はない。机上にある菓子は明らかに一人分を越えていて、始めからノアとチィに振る舞うために用意されていたのだろう。
 そうまで食べて欲しいというなら、遠慮なく頂こうとではないか。食べ物に罪はないし。
 ――それに、昨日は食事どころではなかったので、昼も夜も抜いてしまっていた。チィには用意をしてやっていたがノア自身は水分すらろくにとっていなかったことを今更ながらに思い出してしまう。
 流石のノアの腹も空腹を訴えていて、喉を通したハーブティも呼び水になってしまったらしい。チィのように今にも腹が鳴り出しそうで、ヨルドには気取られないようしながらいそいそとクッキーを口に運んだ。
 一口で放り込んだ菓子を咀嚼すると控えめな甘さが口に広がる。少しかための歯ごたえが心地よかった。
 空腹ということもあるが、なかなかに美味い。それになんだか、懐かしいような気がした。
 舌で味を確かめながら記憶を探っていくうちに、昔よく食べていた店の味わいに似ているのだと気がつく。

「これ、ノアさまが好きにゃやつ! チィもすきにゃやつです!」
「う、うるさい」

 チィもヨルドから与えられたクッキーを食べたらしく、声を弾ませた。チィにもよくそのクッキーを分けていたので覚えていたのだろう。
 ノアも思いがけず懐かしい味に触れられて嬉しくなったが、ヨルドがいる手前チィに同意することはできなかった。
 春風亭という名のその店は老夫婦が営んでいた焼き菓子屋だ。素朴な味で手軽に買える価格帯ということもあり、庶民でも日頃から手が出しやすく人気の店だったが、店主たちが高齢であることを理由に二年ほど前に店を畳んでしまった。
 後継者もおらずもう二度とその味を食べらないだろうと、多くの人々に惜しまれた。ノアもそのうちの一人で、店から看板が下ろされてもなお気がつけば足が向いてしまっていたくらいには残念に思っていたのだ。
 ヨルドが用意していたクッキーは、その春風亭のものとそっくりだった。形こそ少々歪なものが混じっているし、真四角に整形されて中央には店名が焼印されていた店のものとは異なる。やや焼きが長かったのか香ばしさもあるが、違いはそれくらいしかない。
 まさかノアが知らないうちに、味を継ぐ店が出ていたのだろうか。作り手が違うだけでレシピが同じだと思える程度の違いなら十分その可能性がある。
 ならば、また買いに行きたい。街に探しに行くのもいいが、ここにあるものを買ってきた者に聞くほうが早い。
 だがよりにもよってそれはヨルドだが、彼に聞くというのか?
 また食べられるようになりたい。でも聞きたくはないが、広い城下町を捜しに行くのは骨が折れる……ぐらぐら揺れていると、まだ焼き菓子が残る皿をヨルドが指差しだ。

「実はそれ、おれが焼いたんだ。好みの味だったみたいでよかった」
「……おまえが?」

 思わず目を向けると、少々気恥ずかしい告白だったのか、珍しくヨルドの眉が下がる。
 照れたように頬を掻きながらも頷いてみせた。

「春風亭という菓子屋の主人に教わったんだ。誰にも跡を継がせず店を畳む代わりに、誰でもまた店の味を食べられるよう、希望している人には教えているって聞いてね」

 店が閉まる直前まで通っていたが、そんな話はまったく知らない。
 いつも商品を購入するだけで必要最低限の会話しかなかったし、唯一かけた言葉といえば、最後の日にたった一言「今まで美味しい菓子をありがとう」とぶっきらぼうに伝えたくらいだ。それだって散々伝えるか迷った上での言葉だった。
 もしもう少し、彼らにも興味を持って接していれば、ノアも菓子の作り方を教わることができただろうか――そんなことを考えて、すぐに否定する。
 ノアの部屋には単身者用の小さな調理場はあるが、菓子作りができるような設備も道具もない。それに食べる専門で自分で作るような趣味もないのだから、教わったところで結局作ることはなかっただろう。
 懐かしい味との再会に、無意識にもう一枚に手が伸びる。チィも気に入っていたので、ノアの倍の勢いでクッキーを頬ばっていた。

「その店なら私も知っている。なるほど、だから貴様が作ったものにしては食べられるものになっているのか」

 ヨルドがどれほど料理をできるかなんて知る由もないが、なんでもそつなくこなす器用な彼はきっと問題なく調理もできるのだろう。実際に教わった通りに作っているとはいえ、彼が作った春風亭のクッキーは美味しかった。だが素直に認めることもできず、つい捻くれた褒め言葉が出てきてしまう。
 チィがまたそんにゃこと言って、とでも言いたそうな目を向けてきたが、ノアは鼻を鳴らして気づかない振りをした。

「自分で茶を淹れるのもそうだが、まさか菓子作りまでしているとはな。副長は本当に暇なのか?」
「まあ確かに暇に見られても仕方ないかもしれないね。でも、ノアに食べてもらいたかったから。ああ、昨日作ったものだから、悪くはなってないから安心して食べて大丈夫だよ」

 言外に時間がある時に作った古いものでないか、と疑っているのかと思ったらしい。しかし昨日作ったと聞いて、むしろノアは考えてしまう。
 王の執務室の前で別れ、それぞれ準備をするため行動したはずだ。作るとしたらノアと合流するまでの間だろう。
 わざわざノアとチィに食べさせるために用意したとでもいうのだろうか。――ノアたちが、この味を好きだと知ってたから。

(……だが、誰にも好物の話なんてしたことないぞ)

 気分転換がてら店の袋を持って外で食べていたこともあるが、人目のつかない場所を選んでいた。買いに行くときも、もし知り合いに見つかりでもしてからかわれても嫌だから、いつも閉店間際など混雑を避ける時間帯に行動していたくらいで、店の袋だって懐に隠して運ぶ徹底ぶりだった。
 時には唯一交流があるといってもいい後輩の一人に買いに行かせることもあったが、彼は人の趣味を言いふらすような人間ではない。とすればヨルドはこそこそと隠れていたはずのノアの姿をどこかで見ていたのだろうか。
 そうだとしても、どうにも腑に落ちなかった。もしノアが春風亭の菓子が好きだったとしても、わざわざ強制同居が始まった初日早々に用意したことにだ。
 作るにしても手間がかかるはずだ。ノアよりも立場があるヨルドは荷づくりだけでなく仕事の調整もあっただろうに、忙しい時間の合間を縫ってまで用意したというのだろうか。
 気がかりはあるものの、しかし目の端に映るものに興味が奪われ、見て見ぬ振りを続けるのも限界になったノアは躊躇いながらも口を開いた。

「……店主から教わったというが、そっちもか?」

 そろそろと指差したのはパウンドケーキだ。食べやすいように切り分けられていて、果実がたっぷり混ざった美味しそうな断面が見えている。
 見た目からはごく普通に見えるが、もし春風亭のレシピを元に作っているのなら、あちらもきっとノアにとっては大好きで懐かしい味のはずだ。

「そうだよ。少しおれなりに手は加えているけれど、基本のレシピはお店のやつで作ったんだ」

 ヨルドは説明をしながら、皿に取り分けたパウンドケーキをノアの前に置いた。

「別に、欲しいとは――」
「あっ、ヨルドさま、チィにもください!」
「今とるから待っててね」

 ノアの言葉はチィに遮られ、ヨルドの意識はすぐに逸れてしまう。
 そのまま食べずに席を離れることもできたが、またもう一度食べられたらと願っていた店の味を前に無視を続けることもできず、ヨルドの意識が逸れているうちにそっとフォークを手に取った。
 一口大に分けたものを口に運ぶと、舌に甘みが広まる。どうやら細かく刻まれた林檎は蜜漬けされているらしい。
 バターの風味と果物と蜂蜜の優しい味わいはまさにあの店のものだ。多少風味が違うのは、店で出される果物と種類が違うからだろう。だが基盤となる生地の味わいは同じで、その懐かしさと自分好みの味につい顔が緩みそうになる。
 城下町には他にも美味しい菓子を出す店は多くあったが、素朴なあの店の味が好きだった。ノアは常連だったがろくな会話をしたことがなかったし、店主夫婦も何かを話しかけてくることはなかったが、時々おまけをくれるなどして、痩せっぽっちのノアを密かに気にかけてくれていたことは知っている。そのほどほどの距離感も好ましく思っていた。
 しっかりと味わいながらも、ヨルドが何か話しかけてくるのではないかと警戒はしていたが、それからは何もなかった。ただ空になったノアの皿を見ておかわりするかと声をかけてきたくらいだ。
 店のことを掘り下げられたらどうしようだとか、甘いものが好きなのかとからかわれるんじゃないかとか色々想定して、その都度捻くれた返事を用意していたというのに肩透かしだ。
 そんなんだからノアも調子を崩されてしまって、ついおかわりすると頷いてしまったのだろう。
 フォークを置いたノアは、最後に淹れ直してもらったハーブティを口に含み一息ついた。
 何だかんだと食べてしまって、朝から十分なくらいに腹が満たされる。それもこれも、ヨルドが作ったものとはいえ思い深い味に触れることができたからだろう。
 身も心も満足したからか、食事を摂ってすっかり温まったからか、遠ざかっていたはずの眠気がまた背後に忍び寄る。
 その気配を感じたノアはついあくびをひとつ零した。

「昨日はゆっくり寝られなかったんだろうから、もう少し寝ていたら? おれはもうすぐ出るし、ノアは部屋でゆっくりしていなよ」

 眠たげにするノアを気を遣っただけのことだが、その優しさがノアの神経を逆なでる。
 その理由はわからない。横柄な態度を取られているわけでも、嫌味を言われているわけでもないのに、身の置き場がないような居心地の悪さを覚えるのだ。

「ぐうすか寝ていた貴様と違って繊細なものでな。他人の気配がある部屋で呑気に寝られるものか」

 そんな時にノアはいつも、気弱になりそうな自分を鼻で笑い飛ばす。そして差し伸べられた手を払い除けようやく、心のざわつきがすっと消える。そして優しさを見せた相手は傲慢な態度を取るノアに困惑したり、表情を消したり、戸惑ったり。様々な反応を見せるが、大抵は否定的な様子になった。
 けれどヨルドは違う。

「まあ確かにおれはどんな環境でも寝られるし、図太いからなあ。昨日も熟睡だったよ」

 ヨルドは気負った様子もなくからりと笑う。
 事実、昨夜はノアがわざと音を出しても一度も起き出すことはなかった。夜営をすることもままあり、見習いの頃は雑魚寝をするというのを聞いたことがある。だから慣れているのだろう。

「ふん……他人の傍で平然と寝られるやつの気がしれないな」
「でも少なくともしばらくは一緒にいなくちゃならないから、早くノアにもおれの気配に慣れてもらわないとね。道具も少ないこの部屋では作業もそう進まないだろう?」 

 能天気な男ではあるが、ぼんくらなどではない。
 鈍そうな振りをしてその実は人を見分け、ノアのことも簡単にいなしてしまえるよう男だ。どんな身分があろうとも実力がなければ数多くいる騎士たちを指揮する立場になれるわけがない。
 何事もおおらかに受け入れるように見せかけて、自分の都合のいいように周りを動かそうとする。自ら動いているつもりに錯覚させられるので腹黒さがあまり感じられず、素直な者なら操られているなどと気づかないうちにヨルドの意のまま動かされてしまうのだろう。
 ――だからこそ信用ができない。
 まるでひらひらと揺れる布を殴っている気分だ。手応えがなく、下手をしたら絡まって自分が捕らわれてしまいそうになる。
 こういう相手には深入りしないのが一番だ。無理に相手をし続ける必要なんてどこにもないのだから。

「必要な道具はある程度事前にわかるし、いくらでも持ち込めるしな。足りなかったとしても自分以外に動かせるやつなんていくらでもいる」
「チィもお手伝いできます!」

 自分が一度寝たらどんな物音が立っても起きないことを理解してるのだろうか。
 昨夜はヨルドへの嫌がらせとはいえ、わざと賑やかな作業にしたが、ヨルドだけでなくチィも最後まで起き出すことはなかったはずだが、任せてくれと言わんばかりに胸をぽふりと叩く。

「チィは本当にノアが大好きだね」
「もちろんです。ノアさまはチィのご主人さまで、命の恩人にゃのですから! ノアさまのためにできることがあるにゃら、チィはにゃんだってします!」

 使い魔をどうするか悩んでいた時、たまたま死んだ猫の死体があったからそれを利用しただけだと何度もチィには説明をしてきた。それでもチィはノアを命の恩人として慕っており、盲目的な忠誠を誓っていた。
 確かに、使い魔は魔術師によってこの世に舞い戻った魂ではあり、故に命を握られ使役される立場にある。魔術師のさじ加減ひとつで再び死体に戻ってしまうし、魂が掌握されてしまっているので命令には従わざるをえない。
 使い魔との確かな信頼がある魔術師もいるが、中には不本意な契約に従っている使い魔も少なくはなかった。
 ノアとチィは良好的な関係と言えるだろう。別にノアは特別なことをしたわけではないが、ただ魂を肉体に結び直しただけで恩人と思い込み、一方的にチィが懐いているからだ。
 それを健気といえば聞こえはいいが、利用しているノアからすればいいように使われる間抜けでしかない。実際に愚かしい行為を指摘しても、それでもチィはノアを嫌うことはないままだった。

「ノアさまはチィの自慢のご主人さまにゃのです。チィはノアさまの使い魔ににゃれたことをいつも感謝しています。ノアさまは聡明で高潔ですばらしいご主人さまです。格好よくて、チィの憧れです!」

 ヨルドの意識をノアから逸らしてくれるのはありがたかったが、自分の主がいかに素晴らしいか語り出したチィに、さすがにまずいと思い始める。
 魔術師としての能力面はそれは誇ってもらって構わないし、孤高なノアに焦がれる理由もわかるのだが、しかしこの使い魔はノアが優しいとか平然とほらを吹く。
 優しくしたことなどないはずなのに。それにちょっとした失敗のこととかも持ち出して、こんな可愛いところもあるんです、なんて話まで始めることもある。嫌がらせでなく純粋に心から思っていることらしいのは輝く蒼い瞳からわかるが、かといって醜態を晒されてはたまったものではない。
 しかもよりによってヨルドに話されては困ると、どうチィを回収したものかとノアが考え出す前に、ヨルドが身を屈めた。

「チィ、食べかすがついているよ」
「えっ、本当ですか!? どこですか?」
「ちがう、右のほうだよ。今とってあげるから、ちょっとじっとしていてね」

 ヨルドの指が伸びるチィの口元には、確かに菓子の欠片が毛に埋もれるようについていた。夢中になって食べていたせいだろう。
 長い指先が小さなクッキーの欠片を摘まむ。
 自分の目でそれを認識したチィは、ざらざらとした舌で追いかけてぺろりと舐めとった。

「ありがとうございます、ヨルドさま」
「どういたしまして」

 やりとりを横目で眺めていたノアは、お子さま猫め、と己の使い魔のどんくささを笑いながらハーブティを口に含む。
 菓子の甘さを洗い流す爽やかな味わいに満足していると、ふとヨルドの目が向けられていることに気がついた。