肩に食い込むリュックが憎い。ずり落ちそうになる肩紐を戻しつつ、いつもの倍にも思える身体を引きずるようのろのろ歩く。
「あいつらマジ、覚えとけよ……」
先程別れたばかりの友人たちの顔を思い浮かべ、誠士郎は舌打ちをした。
運悪く、すれ違おうとしていた気弱げなサラリーマンがびくりと肩を揺らし、誠士郎を大きく避けていく。彼に向けてしたものではなかったが、勘違いされてもおかしくはないタイミングであった。ただでさえ鋭い目つきをどうにかしろと親から指摘されるような善人とは遠い人相でもあるので、余計怯えさせてしまったのだろう。
生まれながらの顔はともかくとして、自分の態度が悪かったのだとわかっていても、男の反応が妙に苛立たしい。
こうなったのも、背負う重たいリュックのせいである。
誠士郎が今日で十七歳となったその祝いにと、友人たちが帰り際に贈ってくれたものは、なんと誠士郎と最も縁遠いテキストの山だった。ひとりは弟が高校受験の際に使用した参考書も入れており、それらを見れば問題が解けるという。
勉強を真面目にしていた頃といえば、せいぜい中学に入って少し経つまでくらいで、高校入試のときでさえ面倒でしかなく、落ちこぼれが集まるという今の高校を選んだ。噂によれば名前を書き、あとは小学生レベルの問題に答えられれば受かってしまうほどという。事実学力が低い誠士郎でも入れたし、あながち嘘でもないのだろう。
贈られた勉強道具は誠士郎をからかうためだけのもので、あとでちゃんとご飯をおごると友人たちは言ってくれたものの、冗談で用意されたはずのテキストは回収してもらえずに押しつけられたままになっている。
いっそその場で放り出してやろうかとも思ったが、堂々とごみの放置をすることはできなかったし、いくらなんでも一応は誕生日プレゼントとしてもらったものをこうも早々と捨てるのもはばかられたため、とりあえずは持ち帰ることにしたのだ。しかし家での置き場所もまた悩ましく答えは決まっていない。
はあ、と溜め息をつき、なにげなく空を見上げると、ふと夕暮れ色の空に不自然な黒い点を見つけ、思わず足を止める。
初めは虫かなにかかと思ったが、動いていない。
まじまじと見つめていると、突如黒い点が大きく広がった。
「なっ……!?」
円は瞬きの間に誠士郎の広げた両腕よりも大きくなる。
思わず後ずさるがそれはもう遅く、誠士郎は空間を切り取るような漆黒の輪にのみ込まれた。
まるで無重力になったかのように全身が軽くなり、ふわりと足が浮く。重たく垂れ下がっていたリュックも浮き上がり、背中に隙間ができる。
指先は虚空を切り、パニックになった誠士郎は猫のようにぎゅうっと身体を丸めて小さくなった。
どれだけ続いただろうか。ふっと全身に重力が戻り、背中にはずっしりとリュックが存在を思い出せというように圧し掛かってくる。
箱のように小さくなっていた誠士郎がそろりと顔を上げると、身体は白い布に覆われていた。
少なくとも先程まで歩いていた通学路ではないし、下も固いコンクリートではなく木の床だと手触りでわかる。薄暗くてよく見えないが、床には白い模様が描かれており、身体をつけている場所には白がうつってしまっていた。
混乱極まる誠士郎が辺りを見回すが、布に覆われているためなにも見えない。
「な、なんだよここ……」
わずかに頭をあげた時、バサッ、と布が取り払われた。
また身を守るよう小さくなると、頭上から声が落ちてくる。
『……まさか、本人が……!?』
人の声に再度顔を上げると、薄暗い闇にも煌めく金髪に、爽やかな緑色の瞳の男と目が合う。彫りの深い顔に、しゃがんでいる姿からもわかる体格の良さは、明らかに日本人ではない。
垂れた目尻が甘い色気を滲ませる。髪色と相まって、まるで物語に出てくる王子のような整った顔立ちに一瞬、状況も忘れて見とれた。
『信じられない……まさか、きみがぼくの――』
男の右手が頬に添えられる。我に返った誠士郎は咄嗟に手を叩き落とした。
『いっ……』
「さ、触んなっ! 誰なんだよあんたは……っ」
身体を起こし、男から逃げて壁際にいく。しかし本に埋め尽くされる部屋は狭く、さほど距離をあけることができなかった。
男も立ち上がる。先ほどはしゃがんでいたためわからなかったが、誠士郎よりも頭一つ分も大きい。彼が纏う黒い長衣の下からもわかるくらい肩幅も広く、しっかりとした体格だ。
男も戸惑っているのか、黙っていれば凛々しい美形が弱々しく眉を垂らしている。
『待て。きみは今、なんて……?』
「さ、さっきからなに言ってんだよ! ここはどこなんだ!?」
男がなにか言っているが、やはり外国人のようで言葉がわからない。英語でないことは間違いないが、これまで聞いたことのあるどの言葉にも当てはまらないようなふわふわとした不思議な発音をしている。
ついさきほどまで見慣れた道にいたというのに、気づいたら四方に本棚か、もしくは床に本が山積みになっている小部屋にいた。しかもいつの間にか夜になっていて、さらには言葉が通じない男が目の前にいる。
誠士郎は猫が逆立つように、ふーっと息を吐いた。
『とりあえず、落ちついて』
「さっきからごちゃごちゃと……! 邪魔だって言いてえのか? ならとっとと出てってやるよ」
『あっ、だめだ待ってくれ!』
「っ、触んなつってんだろうが!」
部屋から出ていこうとしたところ、腕を掴まれて強引にふりほどく。
男がなにか声をかけていたが、誠士郎は構わず部屋を飛び出した。
真っ暗かと思った部屋の外は、幸いにも壁の燭台にある蝋燭の火が赤く足元を照らしてくれる。
「蝋燭とか、いつの時代だっての」
吐き捨てるようにつぶやき、右側に見えた玄関らしきほうへ一直線に向かう。
古めかしい木の扉を開けると、予想が当たったようで、外に出ることができた。しかし一歩を踏み出そうとしたところで、目の前に小さな陰が飛び出してくる。
「うーっ! わふっ、わふっ!」
「っわ!? って、なんだ、子犬か……」
賢明に誠士郎を吠えているのは、まだ片腕でも抱けそうなまるっこい子犬だった。
幼い頃、自分の身体よりも大きな野良犬に追い回されて以来犬が大の苦手になっていた誠士郎だが、さすがに子犬に怯えるほどではない。
それでも苦手意識から、子犬を避けて外に出ようとするが、道が塞がれているため、なかなか難しい。
「あっちいけよ、出てってやるから」
先ほどの男の飼い犬であるのだろうか。縄張りに踏み込んだ闖入者に憤怒しているような勢いに、声がやや上擦った。
背負っていたリュックを下してそれを盾に押しのけようとするが、少しだけ後退するだけで離れていこうとしない。
いっそ子犬を乗り越えてしまおうと、大きく足を振り上げたそのときだった。
闇の奥から聞こえた低い唸り声にびくりと身体を竦ませた。
子犬の背後から、ゆらりと闇色の毛をした大きな犬が一匹現れる。
二本足で立ち上がれば、誠士郎の背にも届くのではないだろうか。月明かりだけの闇夜でもやけにはっきりと輝く青い瞳と、皺の寄った鼻の下から覗く鋭い牙。向けられる明らかな敵意に怯んだ誠士郎は後ずさる。
しかし意識が逸れることはなく、黒犬が身を低くしたそのとき、突然背後から抱きしめられた。
『ファルドラ、落ち着いて』
先程の男が、誠士郎を懐に囲いつつ、黒犬に穏やかに話しかける。
『彼はスィチを傷つけようとしたわけじゃないよ』
それまで恐ろしい形相をしていた黒犬はすっと表情を直し、体勢を整えるとその場に座り込んだ。その隣に、茶色の子犬が並ぶ。
『わかってくれたんだね、ありがとう。いいかい、ファルドラ、スィチ。この人は敵ではないよ。彼は、ぼく、の――』
黒犬の勢いに気圧されていた誠士郎は、男を剥がすこともできず、とにかくこの場が収まることを待っていた。しかし不意に男の言葉が途切れ、背中に寄りかかられる。
思わぬ重みによろけた誠士郎は、踏ん張り転ぶことはなかったものの背後にいる男に怒鳴る。
「なにすんだっ! 離れろこの変態!」
逃げようと一歩踏み出すと、ずるりと男の身体は崩れ落ち、床に倒れ込んでしまった。
予想していなかったことに誠士郎は驚きに動けずいると、二匹が駆け寄り男の顔を覗き込んだ。
誠士郎も二匹の背後からそろりと様子を窺う。男は目を閉じ、犬たちに顔を舐められてもまったく反応がなかった。
「――おい、大丈夫かよ」
声をかけるも、男は目覚めない。どうやら気を失ってしまったようだ。
人が気を失う場面に初めて出くわした誠士郎は、さすがにこれを好機とその場から離れることもできず、どうしたものかと狼狽える。その間にもきゅんきゅんと寂しげに子犬が鳴き、先程までは恐ろしい形相であった黒犬さえもどこか不安げに男の頭に鼻先を突っ込みゆるすが、やはり反応はない。
「あ……きゅ、救急車」
はっとして鞄から携帯電話をとり出す。しかし救急の電話をかけようとするも、電波はなく、代わりにある圏外の二文字に舌を打つ。
無用の機器を乱雑にポケットにしまいつつ、もう一度声をかけてみるが、眉の一本さえ動く気配はない。
暗く、顔色までは判断できないが、男はとくに苦しげではなく呼吸も落ち着いている。倒れる時も誠士郎の背からずりおちる形だったので、頭を打ったこともないだろう。
このまま男を置いて離れることが頭を過ぎる。
誠士郎自身、早くこの場から離れて自身の現状の把握をしたかった。ここはどこなのか。どうしているのか。聞き覚えのない言語を喋る男は誰なのか。ただでさえ、深く混乱しているのだ。
誰かに構っている暇はない。そう思い一度は背を向けてみるが、きゅんきゅんと切ない鳴き声にどうも一歩が踏み出せない。
しばらく葛藤した後、誠士郎は上を向いて叫んだ。
「あーもうっ! おめえら、手伝ってやっからおれのこと吼えんじゃねえぞ!」
突然大声を上げた誠士郎に驚いたのか、子犬がびょんとその場で跳ね上がる。
まるで言葉を理解しているかのように冷静に向けられる黒犬の視線に居心地の悪さを覚えつつ、誠士郎は自分よりも体格のよい男をどうにか背負い、彼の長い足を引きずりながら家の中に戻っていった。