花舞えきみに

 

 魔王は己の血に染まった指先で、天井が抜けた空を示した。

「勇者さま、上を、見て」

 導かれるまま上を見上げた勇者は目を見開く。
 空からは幾億もの花弁が、地上に降り注いでいたのだ。
 気がつけば勇者と魔王の周りにも絶え間なく淡い色の花がひらひら踊り、床に積もることなく落ちた場所に溶けていく。
 勇者の身体にも花弁は触れた。それが身体に吸い込まれていったところがじわりと暖かくなっていくのを感じて、勇者はようやく、魔王は自身の魔力をすべて注ぎ込んで放った最後の魔術の正体を知る。
 それは勇者を殺そうとするものでも、誰かを傷つけるものでも、破壊するための力でもない。
すべてを癒して温もりを与える、ただそれだけのものだったのだ。

「勇者さま」

 名を呼ばれ、魔王に顔を戻すと、彼は次に遠くを指差した。

「安心してください。リュドウは、生きています。仮死状態、のようなもの、で……もう、術は解いています。時期、目を覚ましますから」

 示された先にいたのはリューデルトだった。
 勇者と魔王の起こした風によって壁際まで吹き飛ばされていた。うつ伏せに倒れ指先すら動かしていないが、よく目を凝らせば浅い呼吸が確認できた。
 彼が倒れてよりすぐに戦いは始まってしまった。そのためリューデルトの安否を確かめる時間などなく、魔王の言動からも殺したと判断していたので、彼が生きていることに気がつかなかった。
 愕然とする勇者に、魔王は――リアリムは、微笑みを崩さない。

「何故、だ……おまえは、おまえであるのに、何故戦わなければ……っ」
「おれが魔王であった、その事実は変わりません。そして今決闘を逃れても、またいつか必ず、どうしても戦わなければならないときがくる。それならば、別れを引き延ばしてもつらいだけ、でしょう?」

 この世の創造主たる神が設けた戦いの場。そのためだけに用意された駒が、魔王と勇者であるなら、二人が剣を交えること、それは避けようのない運命であるのだ。
 だがそれでも、それがリアリムの決断だったとしても、簡単に受け入れられるものであるはずがない。
 二人が戦わなくてはならない定めであったのなら、それから逃れられないのなら、この先の未来にどちらか一方しか生きられぬのもまた必然。魔王と勇者が交わった果てに立つのは一人だけ。勝者に与えられた席はひとつだけなのだ。

「勇者さま……おれは、勇者に負けたんじゃ、ありません。あなたに、おれの希望を託したんです」
「希望――」
「あなたはこれから、勇者ではなくなる。だからあなたは自分のためだけに生きられる。でももし、おれの死を、悲しいと思ってくれるなら。それならこの世界を、変えてください」

 ぽつりと、呟くようリアリムは言った。

「魔人と人間が、誰にも非難されることなくともにいられる世界」

 ふと思い浮かんだのは、呪詛を吐いた者と、希望と託した二人の女。そして彼女らを愛したとされる異種の者。
 なにも彼らだけではない。これまでにもひっそりと愛を育んだ二人は、知られていないだけできっと多くいただろう。

「もうこれ以上、魔王も、勇者も、いらない世界――」

 リアリムは勇者の背後にある空に目を向けた。

「勇者さま。あなたはきっと、この世界の幹なのです。真理に深く根を張り、そして枝葉を伸ばし、末永くこの世を見守る礎となれる」

 今もまだ振り続ける花の雨に手を伸ばし、指先で逃げていく花びらに笑った。

「そしておれは、花なのでしょう。花は散るもの。けれど実りとなることができる。おれが落とした種子がいつかきっと、この世界に新たな命を芽吹かせる。そして命は続いていく」

 澄んだ青空を見つめていたリアリムは、すぐ傍にある空のような瞳に語りかける。

「きっとあなたは、これからも多くの花をつけることになるでしょう。そして散ったそれらがあなたの周りを舞い彩ることになる。ですが、それを悲しまないでください。そうしてときは流れゆくものなのです。あなたは種を落とすものを支え続け、そしていつか、この世界を、花であふれる世界にしてください。それがおれの、あなたに託した希望です」

 血に濡れた冷たいてのひらが、勇者の頬を撫でる。
 彼の儚い微笑みを見つめながら、勇者は顔を歪めた。泣き出したい気持ちでいっぱいなのに、けれど瞳から溢れるものはない。
 以前リアリムが、泣けないのだと言っていた。どんなに苦しくとも 悲しくとも、つらくとも、涙が出ないのだと。それは勇者も同じだった。本来の性質が、魂がないはずの魔物であるからなのだろうか。
 だがあのときリアリムが泣いていたように見えたように、勇者も今、形にならぬ涙を流す。それを辿るかのように空から降り注ぐ花弁のひとつが頬を撫でていった。それはリアリムの頬にとけることなく積もっていく。
 黒い瞳はすでに焦点が合わなくなっていた。もう彼の瞳に勇者の姿は写っていないだろう。頬に触れていた手も限界を迎えてゆるやかに落ちていく。
 勇者は傷口を押さえていた手を放し、代わりにリアリムの手をとり握りしめた。少しでも自分の存在が伝わればいい。そう願って。
 微かに握り返された指先の力にますまる心は締めつけられる。

「勇者、さま。あなたはもう、ただの人だ。勇者でも何者でもない、あなたという人」
「ちがう」

 吐息を吐き出すようにか細い声に、勇者は緩く首を振った。

「ちがう、おれは、おれたちは、これからも人で在り続けるんだ。リュドウや、ライアだけじゃない。おれも、おまえも、皆等しく心があった。だからおれたちに違いなんてない。はじめからおれはおれであったし、おまえはリアリムであったんだ。誰でもそうであるんだ」

 ときに誰かを失い悲しむこともあれば、なにかを守ろうと奔走することもある。過ちを犯すこともあるし、誰かのために立ち上がる力もあれば、なににも頼れず裏切ることもある。それを許されたい弱さも、許さずにいる強さも。
 重責に押しつぶされそうになったこともあったし、たった一人の温もりを感じるだけで癒される夜もあった。世界の命運を決める重要な戦いで相手を生かすために、己を犠牲にとる道を選ぶことも、最後まで他者を思い癒しを降り注ぐことのできるような優しさも。
 魂があるだけではない。獣や魔獣、人間や魔人にも、魔物にだって心はある。だからこそ人とのつながりは生まれ、争いは起きる。絶望が湧きあがることもあれば、希望に満ちるときもある。純粋な生への渇望に手を伸ばすこともあるのだから。

「――ああ、そうだ。おれも、勇者さまにも、みんなと同じ、心がある」
「おれたちが魔物であろうと、魔王と勇者であろうと、そんなの些末な違いだ」

 たとえ種族が違えども、たとえ運命づけられた使命があろうとも、そのもっともたる根本は、心は、誰しも同じだ。なにかを想い、なにかを求め、なにかを必要としているのだから。
 ついにリアリムは、そっと目を閉じた。

「もう、眠るのか」
「……流石にちょっと、疲れました。いろんなことがあって、いろんな、つらいことがあって……」

 振り続ける花びらが、溶けることなくリアリムの身体に重なっていく。支えていく身体が重みを増していき、握り返してくれる力はもうほとんど感じない。

「でも、勇者さまとの旅は、楽しかったです。さいごまであなたの傍にいられて、嬉しかった」

 耐え切れず勇者は、強くリアリムを掻き抱いた。彼の身体に降り積もっていた花びらが床に落ちて石畳みに溶けていく。
 耳元に寄ったリアリムの口元がそっと動いた。

「いつかまた、お会いしましょう。そしてまた、一緒に、旅につ、れ……――」

 言葉が途切れる。勇者は震える手でリアリムの身体を抱きしめた。

「また一緒に、旅をしよう。今度は自由に世界を巡ろう。またいつの日か、必ず」

 花びらが舞い落ちる。これまではただ勇者の身体に溶け温めていただけのそれらは、ゆっくりと傷を癒していく。
 勇者はリアリムを抱く力を緩めることなく、震える声で鼻歌を歌った。
 それはとあるときより、勇者が眠るまでリアリムが歌ってくれていたものだ。彼はそれを、家族が教えてくれたのだと言っていた。幼い頃は眠るときによく聞かしてくれたのだと。
 離れた場所で意識を取り戻した魔術師は、すべてが終わったのだと知り、静かに涙を流しながら勇者の背を見つめた。
 もう一方で魔王と勇者の戦いの終始を見守っていた魔人ズェーラは、耳朶の空色の耳飾りを揺らしながらその場から立ち去った。

 

 

 
 魔王が亡くなってより三日三晩、彼が最後に放った魔術は西の大陸に降り続けた。
 その花びらに触れたものは傷が癒え、不思議と温かく穏やかな気持ちになったという。
 朽ちかけた魔王城に絡みついていた茨からは薔薇の花が咲き、不毛であった陸地には所々に緑が芽生えたとされている。
 やがて魔術が終えると同時に、勇者に抱かれた魔王の身体は消え去った。
 そのとき勇者のてのひらには、緋色と空色の耳飾り、そしてひとつの種子が遺されていたという。
 勇者はそれを魔王城の庭園に植えて、生涯をかけて種の成長を見守ったそうだ。

 

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