肩を並べて座っていた二人だったが、ルトが鼻先を寄せてヒューの耳裏をふんふんと臭いを嗅いできた。
「ちょっ、ルー!」
「なんだよ」
「な、なんだよって……」
慌てて退けようとするが、手で顔を突っぱねられようとしても気にすることなく毛並みでするりと受け流されてしまう.。反対にヒューの身体が押し返されるほどの力でぐりぐりと頭を擦り寄せてきた。
「もう、ルーってば。人前だから」
「気にしなくていいだろ」
「そんなわけはいかないだろっ」
狼の獣人であるルトのこの行為は彼なりの愛情表現の一種であることはわかっている。つがい相手の触れ合いなら当然の範疇なのかもしれない。
まだ舐められていないだけにルトも配慮してくれているのかもしれないが、こんなにもべったりとくっついていてはヒューの身が持たない。
これまで自分から抱きついたことは数え切れないほどあっても、ルトから触れてくるということはほとんどなかった。せいぜい肩を抱かれたり、頭を肘置きにされたりするばかりだったのに、それがつがいになった途端に囲い込むようにどこにいってもヒューを傍に置いては触れたがるのだ。
あまりの違いに戸惑いそれを指摘をしたら、「幼馴染のガキとつがいの扱いが同じなわけねえだろ」と一蹴されてしまった。雑な言葉遣いこそそれほど変わりはないが、ヒューに触れたがり甘やかしたがるのは確かにつがい扱いなのだろう。
今だって本当は膝に抱かれそうになったのをなんとか隣の席に逃げ出したのだが、ルトは不服だったらしく顔や手を伸ばしてヒューを感じることにしたようだ。
未だにルトと恋人になれたことを夢のように思っているのに、向こうから触れてくることに心臓が追いつかない。もう少しゆっくり慣らしてくれと言っているのに、ルトは聞く耳など持たず外でも中でも自由に振る舞うものだから、ヒューは翻弄されっぱなしだった。
「は、恥ずかしいって……」
耳裏をぺろりと舐められて、びくっと身体が震えてしまう。
「これくらいで恥ずかしがってちゃ身が持たねえぞ」
「これ以上何するつもり!?」
「さぁな。おまえは何を想像したよ」
「それは……」
咄嗟に人前ではできないあんなことやそんなことが頭を巡ったとは口にできずに黙り込む。けれどもどんな想像が思い描かれたかは、真っ赤になった顔がおおよそを教えているだろう。
でも意地悪なルトは、それをヒュー自ら言わせたいようだ。
「言えよ。期待通りやってやるから」
「き、期待なんてっ」
「したんだろ。それとも、答え合わせしていったほうがいいか?」
じりじりとルトが迫ってくる。
カウンターの隅の席に逃げ場はなく、いよいよ捕らわれてしまいそうになったその時、どん、と音を立ててカップが置かれた。
「ここ、健全な店なんだからそれ以上は止しといてくれる?」
明らかに不機嫌な声音のルカに、ようやく我に返ったヒューは迫っていたルトを渾身の力で押し返した。
本来なら力では敵わないものの、ルトも渋々自分の席に座り直してくれる。
「ごめんねルカ姉っ」
「いいだろうが、別に。他に客はいないんだから」
「いなくたってわたしとキリトがいるでしょうが!」
肩を怒らせるルカの後ろでは、グラス拭きの手伝いをするキリトの姿があった。ヒューと目が合うと、やや照れくさそうに、もしくは気まずげにわずかに耳が下がる。
ここがルカの店だということも忘れてルトに流されてしまい、一部始終をキリトたちに見せつけてしまった。店内には顔馴染である四人しかいなかったことは不幸中の幸いともいえるが、いくら親しい間柄だとしてもまだ自分でさえ馴染んでいないルトとの恋人同士の時間を見られるのは非常に恥ずかしい。
勝手に見せつけたのはルトたちのほうだとしても、ヒューはちゃんと止めようとしたのだから。
懲りずにルトはヒューが座ったままの椅子を、重さなどものともせず強引に自分側に引き寄せると、肩に腕を回して頭にかじりついてきた。
「ちょ、だからルーってば!」
圧し掛かる腕をぺんぺんと叩くが無視される。あぐあぐと牙も立てられるが、当然本気ではないのでまったく痛みはない。
これもまた戯れではあるが、自分の頭にかじりつくルトに向けられるじとりとしたルカの眼差しにヒューのほうが申し訳なくなる。
「今まで我慢してきたんだ。少しの間くらい浮かれてもいいだろ」
「よく言うわ」
自分で乱したヒューの髪を舐めて整えながらしれっと言ったルトに、ルカは呆れたように吐き捨てる。
「つがいになる前からあんだけマーキングしておいて何が我慢だか。誰にも手出しさせないように囲うだけ囲っておいてさ」
以前からルトのお下がりのものや実は匂いづけされていた服をもらっていたらしいヒューは、知らず知らずのうちにルトのものだとマーキングされていたらしい。
だからこそ誰にも触れられることなく無事にルトのつがいになれたわけだが、その話をちゃんと聞いたことはなかった。
「マーキングって、そんなにすごいの?」
「ああ、ヒューは匂いがわからないんだもんな」
キリトの言葉に頷くと、ルカが溜め息混じりに教えてくれる。
「ヒューにはべーったりついてるんだから。俺のもんだ触んな殺すぞ、くらいの勢いで。いくらつがい相手とはいえ、そこまでやるなんてよほどのことだよ」
「今はルトの名前を全身に書いて歩いているようなものだね」
穏やかに付け加えたキリトに、うんうんとルカも頷いた。
いくら自分ではわからないとはいえ、思っていた以上にルトの独占欲が剥き出しの状態になっていることにヒューは何も言えずに、ただ顔を熱くして俯く。
「まあヒューはちょっと特殊だからそれくらいしないと危なかったのかもしれないけど、そこまでしているんだからルトの気持ちはとっくにみんな知ってたの。その匂いに気がつけない鼻の利かない獣人や人間くらいなものだよ、わかってなかったのは」
もしヒューが獣人だったら、ルトの想いに気がついたのかもしれない。そんな考えが頭を過ぎったが、でもきっとそれだったらまた結果は変わっていただろう。
ルトはヒューがわからないからこそ黙って匂いをつけていて、じっとその時が来るまで耐え抜いていたと思う。匂いに気づくようであれば別の手段をとっていたはずだ。
「教えてあげられなくてごめんね。こいつが、ヒューが発情期になるまで絶対に言うなって言うもんだから」
「ううん、いいんだ。ルトの気持ちだって理解できるし、ルカ姉だってたくさんオレを慰めて励ましてくれただろ? それにいつも救われてたんだ」
「うう、ヒューってば本当にいい子……こんな可愛い子を、何でこんなやつの毒牙にかかるのを黙って見過ごさなきゃいけなかったの!」
そんな憎まれ口を叩きつつも、ルトとヒューのことをやきもきしながらも秘密を守ってくれていたルカには本当に感謝している。
世話焼きな彼女はきっと、二人がそれぞれに抱える事実を知っているからこそなおのこと口を出したかったにちがいない。それでも二人のことだからと口を噤み、兄と弟のような幼馴染を見守ってくれた。
「オレ、ルトはもちろんだけど、ルカ姉とも出会えて本当によかったと思ってる。もちろんキリトさんとも。二人とも、オレたちのこと見守っていてくれて、本当にありがとう」
心からの感謝を受け取ったルカとキリトは互いに目を見合わせ、そして二人揃って笑うように目を細めた。
今ならあの時の別れ際にキリトがヒューたちにおめでとうと言った意味がよくわかる。あの喜びに満ちた言葉の分、今見せてくれている嬉しそうな笑顔の分、二人にはヒューの知らないところでたくさん心配をかけていたのだろう。
ましてやルカには涙を見せてしまっている。随分気苦労をかけてしまった。
「もう。ルトも二人にお礼言いなよ。改めて感謝する機会なんてそうないだろ?」
隙あらば引っついてくる大きな身体を押し退けようとするも、さらにその手を頭で押し返しながらルトはふんと鼻で息を吐く。
「感謝はしている。でも、俺だってこいつらくっつけるのにそれなりに尽力したんだからおあいこだろ」
ヒューはよく知らないが、ルカとキリトが結ばれるまでにはそれなりに波乱があったらしい。ルトが協力してまとまったというのは聞いたことがあるが、それはそれ、これはこれだと思う。
「そもそも、別にこいつらに報告なんていらないだろ。それこそおまえの匂いを嗅げばどうなったかなんて一発でわかるんだし」
「た、たとえわかったとしても、こういうのは大事なことなんだからちゃんとしないと」
身体を重ねたことまで匂いでバレてしまうのは本当に恥ずかしいが、それが当たり前の獣人にとってはヒューの羞恥心など理解できないのかもしれない。
「大事なことね……ああそうだ。これから蜜夜に俺は出られないからな。その分他で働くから、緊急性がない時以外は呼ばないでくれ」
「ああ、こちらもそのつもりだ。そのためにおまえにはこれまで蜜夜に出てもらっていたし、つがいの事情は考慮するよ」
どうやらヒューとの関係がつがいに落ち着く前から、ルトは計画的に行動していたらしい。
本当に最初からヒューを手放す気などなかったのだとこんな時にも思い知らされて、その喜びにじんと胸を震わせていると、耳元に寄せられた口がぽそりと呟く。
「おまえのそのエロい身体、一人で悶えさせちゃかわいそうだろ?」
「ばっ……」
せっかくのときめきは一瞬にして彼方に吹き飛ぶ。
大事なことってそういう意味じゃないっ! と叫びたかったが声にならなかった。
確かに人間でありながら発情期があるヒューは、蜜夜になればつがいであるルトに付き合ってもらわないと苦しむことになるだろう。そうなれば自警団の活動も制限が出てしまうし、いつかはそのことを相談しなければならなかったにしても、何も今このタイミングで言わなくたってよかったはずなのに。しかも余計な一言まで添えて。
「ちょっと、聞こえてるんですけど」
案の定冷え切ったルカの声にヒューは赤くなればよいのか青くなればよいのかわからない。
ルトは耳元で囁いたが、耳がいい獣人たちはこのくらいの距離なら小声でも十分に音を拾えるので、ルトの言葉は筒抜けだ。
「わたしのかわいいヒューにおっさんみたいなこと言わないでくれる?」
「おまえのじゃない、俺のだ」
「ヒュー、そいつが嫌になったらいつでもうちにおいで。生まれてくる子のお兄ちゃんになってくれるなら大歓迎だよ。ね、キリト」
「ああ。ヒューならぜひとも歓迎するよ」
「ありがとう、二人とも。二人の子にはなれないけど、でも、生まれてくる子のお兄ちゃんぶってもいい?」
ルカとキリトは声を揃えて「もちろん」と頷いてくれた。
ちょうどその時、出入り口に取り付けられた鈴が音を鳴らして来店を告げる。
涼やかな音色とともに二人の男女が店に入ってきて、二人はそちらを振り返った。
「いらっしゃいませー」
来客とともに、すっとルトが顔を離した。
さすがに身内以外の目がある場所では分別をつけてくれるが、肩に回った手はそのままだ。
ちらりと客の一人がこちらに目を向けたのに気がついたが、このくらいの触れ合いなら見逃してもらえる範囲だと自分に言い聞かせ、肩の重みを受け止める。
「――でも、今回発情期がきてよかった」
これからきっと、蜜夜のたびに火照る身体に苛まれるかもしれない。先日初めて迎えた発情期ですら制御がきかなかったというのに、次には理性が飛ぶかもしれないほどの快楽に溺れることを思うと少し怖かった。
でも、もし発情期が今回の蜜夜でこなかったとしたら、ヒューはきっと今頃荷物をまとめてこの街を去っていただろう。そうなっていたらと思うことのほうがよほど恐ろしい。
「街を出ずに済んで、こうしてルーの隣にいられて、本当によかった」
ルトはたとえ発情期がなくてもヒューを選ぶつもりであったように、ずっと前からつがいにすると決めていた。でもそれは肝心のヒューには黙っていたものだから、自分はもう脈なしだとほとんど諦めていた。
離れてしまえばもう二度と二人の人生は交わることはなかっただろう――そうヒューは思ったからこそ、今ある温もりに安堵しているというのに。
「別に、この街から出たいなら出てもいいぞ」
「なっ――出ないよ! オレはこの街が大好きだし、ルトとのことがなければ出る必要なんてないんだからっ」
街を出ることを考えたのは大好きなルトと一緒になることはできないと思ったからだ。ルトが他の誰かと寄り添い合うのを見たくなくて、逃げ出すためだった。
ルトとのことだけじゃない。ルカや家族、友人、様々な思い出。それらすべてが大切なものだ。生まれてから住み続けたこの場所をヒューは愛している。
それでも断腸の思いで離れようとしていた愛しいこの場所を、ルトにはそんなにも軽くヒューが出ていけるなどと思ったのだろうか。
「なんだよ。結局、オレのこのなんてどうでもいいわけ」
ルトにとっては、去るのならそれまでと思われてしまうほどちっぽけな存在なのか。
つがいにしてもらえて、もう離れなくてもいいと思ったのに。それなのにルトはヒューがここからいなくなってもいいのかと思うと、痛いくらいの悲しみが胸を締め付ける。
「ばか」
きゅっと唇を噛みしめると、こめかみにこつんとルトの額がぶつけられた。
「勘違いすんな。今度は俺が追いかけるから、おまえが行きたい場所があるってんなら好きにしろって意味だよ」
「……オレを、追いかけてくれるの?」
「これまで散々追いかけ回されたんだ。今度は俺がおまえにしつこくしたっていいだろ」
どれほどルトがヒューを想ってくれているのか。それを直接言葉にされたわけでもないのに、まるで愛の告白を受けたかのように心臓を鷲掴みされる。
これまでずっと、ヒューがその背を追いかけるばかりだった。
でもたとえヒューがどこへ行こうとも、どこへだってルトが追いかけてきてくれる。
「――あのね、オレはこの街が大好きなんだ。だから出て行くつもりなんてない」
本当に追いかけてくれるのかなんて、ルトの想いを試すようなことをするつもりはない。
確かに今の現状はヒューにとって都合の良すぎる夢のようではあるけれども、でもこれが現実だ。ルトがひっついてくるのも、独占欲を剥き出しにしてくれるのも、言葉が少ないだけで行動が直球な愛を伝えてくれているのだから与えられるものをいまさら疑うことはしない。
だからルトが望まない限りは、ヒューはこの街で暮らしていきたいと思う。
「でも、ルトと行ってみたい場所だってたくさんあるんだ。だから追いかけ合うんじゃなくて、一緒に行こうよ」
もうヒューは片想いに喘ぎながらその背を追いかける必要なんてない。
ルトだって振り向きたいのを我慢して、伸ばされた手を振り切ることもしなくていい。
ようやく二人は肩を並べて歩けるようになったのだから。それならもう、互いの道が離れてしまわぬよう手を繋いで歩いていける。
「ああ、それがいいな。好きなところ連れて行ってやるよ」
その一言で未来が膨らみ、どこがいいか想像していくうちにほろりと涙が零れた。
「なに泣いてんだよ」
「ご、ごめ……なんか、すごく嬉しくて」
雫が落ちてしまう前に、頬に垂れたそれをべろりと舐めとられる。
「いい。泣きたければ好きなだけ泣け。全部受けとめてやる」
「ルー……」
勝手に溢れてくる涙の一滴さえ零さぬよう、ルトが拾い上げていく。
「これからは向き合うよ。喜びも、悲しみにも、怒りだって全部受けとめるから、ヒューは素直でいればいい」
「うん」
ヒューのすべてはルトのもの。
この身も、心も、この涙の雫さえもすべてを彼に捧げた。
そしてルトのすべてはヒューのもの。
彼の愛を与えられ、幸福の涙を受けとめてもらえるただ一人のつがいだ。
今はただ素直に流している涙は、きっともうすぐ止まるだろう。頬を撫でる舌がくすぐったくてなんだか笑えてきたから。
落ち着いたら色々と話をしよう。何せようやく二人はただの幼馴染からつがいとなったのだ。やりたいことも、行きたい場所も、言いたいことはいくらでも出てくるだろうから。
「大好きだよ、ルー」
「俺もだ。――愛している、ヒュー」
どちらからともなく顔を寄せてこつんと額を重ねた二人は、鼻をすり合わせて笑い合った。
おしまい
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これにて『蜜夜の獣』完結です。
2022.12.10