「あっ、ルー!」

 町の広場の近くで朝から探していた顔を見つけたヒューは、大急ぎで男のもとに駆け寄り、逃げられる前にと腕をしっかりと掴んだ。
 見上げるほど大きな身体の持ち主が相手ではそんな拘束はなんの役にも立たないが、強引に引き剥がされることはないと理解しての行動だ。
 腕を掴まれた狼頭の男、ルトは足を止めてヒューに振り返る。

「騒がしいやつだな。なんか用か」


 いかにも面倒くさそうにため息交じりに言い放たれるが、これは年上の幼馴染のいつもの反応だ。

 昔からルトに絡んでいっては適当にあしらわれるのが常で、ぞんざいな扱いを受けるのには慣れている。

「な、なんかって……」


 それなのに今は、いつのものそのつれない仕草にぐっと喉の奥が詰まりそうになった。掴んだ腕を手放して、人間であるヒューにはないはずの尻尾を巻いて逃げ出したくなる。

 でも、逃げるのは最後の根性振り絞ってからだって遅くはない。

「――その。今晩、”蜜夜”だろ?」

「そうだな。それで?」
「そっ、それでって……!」

 ヒューが言いたいことを、きっとルトは呼び止められたその時からわかっていたはずだ。

 それでも意地の悪いこの男は知らんぷりする。
 わかりきっている台詞をわざわざヒューに言わせてからかいたいのか。もしくは、むしろそれ以上言わせまいとしている遠回しの牽制なのか。
 どちらであっても自分はきっと傷つく。それでも、一縷の望みを捨てきれず、顔を上げてルトを睨みつけた。

「わ、わかってんだろっ。今夜こそオレを相手にしてくれよ!」


 強気に出ないと声が震えそうで、まるで喧嘩を売るように詰め寄るが、目が大きめな童顔ではそう迫力は出ない。そんなヒューよりもよほど強面なルトは、武器ともなる鋭い牙を覗かせ口を開いた。


「おまえだってわかってんだろ。何度も言わせんな。ガキには手を出さない」

「もうガキじゃない。だから≪赤月の満ちたる夜≫の相手だって、ちゃんとできる!」

 空にはふたつの月がある。ひとつは青月と呼ばれ、それよりも二回りほど小さい月を赤月と呼んだ。

 赤月は半年に一度の周期で満月になり、≪赤月の満ちたる夜≫とはその夜を示す言葉だった。
 もしくは蜜たる夜、蜜夜とも呼ばれる。赤月が満月になるその日に獣人たちは本能である獣の性が強まり、発情期と呼ばれる興奮状態を迎えるためだ。
 普段からも性交を行うことはできるが、≪赤月の満ちたる夜≫はとくに盛りがつき、妊娠する可能性も格段に高まる。通常時の性交では子を成しづらい獣人にとっては大切な周期とされていた。
 獣人たちは番か恋人か、もしくは強まる性欲を解消するためだけのその時限りの相手を見つけて蜜夜を過ごす。
 獣人はその起源のとなる種族にもよるが、一度番を定めると死別などのよほどのことがない限りはそれが生涯の相手となる。
 しかし番がまだいない者たちが、お互いの性欲を解消するための一夜だけの関係を結ぶことは決して珍しくない。とくに若者にはそれが多く、それは発情期で本能が強まる分嗅覚といった五感も鋭くなり、その間に多くの者と交わり最良の伴侶を探すためだとも言われている。実際に発情期の間に出会った相手とつがいになるケースは多かった。
 だが発情期は気分の高揚は間違いなくあるが、決して制御できないものではない。
 満月の影響は加齢によって落ち着いていくものであり、適齢期を過ぎた者や番を失った独り身の者、そもそも独りを好む者などの相手を望まない場合は発情期であっても一人でやり過ごすこともある。
 半年に一度訪れる獣人とっては避けて通ることができない発情期となる夜。それが今夜なのだ。
 人間には発情期はなく、受胎率も≪赤月の満ちたる夜≫に影響されることはない。ただの人間であるヒューはまったく関係のないものだけど、狼獣人であるルトは間違いなく性欲が高ぶる。今だっていつも通りに見えるが、夜に向けての準備をしてるはずだ。
 もしかしたらもう、ともに夜を過ごす相手は見つけてあるのかもしれないけれど。
 でも、ヒューは立候補せずにはいられない。

「もう、オレを相手にしてくれてもいいじゃん……一度だけでいいからさ」


 だって、ルトのことが好きだから。

 だから≪赤月の満ちたる夜≫の相手に自分を選んでほしくて、蜜夜とは獣人が発情する夜だと知った時からずっとアピールしてきた。
 最初の頃は、ルトだって自分のことが好きなはずだからと無邪気に純粋に相手役にと立候補した。何度も断られてからは、縋るように腕を引いて、ルトが好きだからと告白だってした。
 本当にルトが大好きだから、初めて好きだと口にした時は震えるほど怖かったけれど、でもようやく想いを素直に告げられて泣きたくなるほど安堵した。
 ――でも、いつも答えは同じ。
 「子供相手に手なんて出せるか」と一蹴されて、立ちすくむヒューの腕を解いて背を向けて去っていく。
 確かに始めは、今の自分だって他から同じことをされれば笑ってしまうくらい実年齢が幼かった。性交のこと自体は知っていても、詳しいことはよくわからないけれど、でも好きな人とするととても幸せなことだと思って信じていたからそれでいいと思っていたのだ。
 ルトの言葉通り、自分が子供だから手を出せないのだと解釈した。でもルトがはじめて発情を迎えた年になってもういいだろうと思っても、彼は同じ言葉を繰り返すばかり。同じ土俵に立ったはずだと本気になって迫っても、どんな勇気を振り絞っても、ない色気をどうにか搾り出してみても、泣き落とそうとしても、ルトは決して頷いてくれなかった。
 でも、それも今日で終わりだ。

「ルーはオレのことガキだって言うけど、もう成人したんだからな」


 獣人は≪赤月の満ちたる夜≫に発情を覚えた時から成人とされるが、発情期がない人間であるヒューの成人は十八という年齢を持って認められる。

 ヒューとルトの家族総出でお祝いの会を開いてくれているのだから、知らないとは言わせない。たとえヒューがルトのことを好きだと知って応援してくれているルトの両親が無理矢理引きずって連れてきてくれたとしても。ルトに興味がなかったことだとしても、ルトは確かにあの時「成人おめでとう」と口にしたのだ。

「もうガキじゃないっ」


 掴んだ腕をぐっと下に引き、もっとちゃんと見ろと促す。

 それに従うようにルトの金の目が上から下までヒューに目を向けるが、はっと鼻で笑って嫌味たらしく感想を告げた。

「な、わ、笑うなよ!」


 蜜夜への誘いにしては色気も無いが、これがヒューの精一杯の本気だったのに。


「だっておまえ、まだ……」


 不意にルトが顔を屈めて、ヒューの首元に鼻先を寄せる。すんと匂い嗅がれてびっくりしていると、ルトが喉の奥でくっくっと鳴らしていた笑い声を止めた。


「な、なんだよ?」


 いつもならまだ「だっておまえまだガキだから」と続くところが不自然に途切れている。

 不安になって問いかけるも答えはなく、さらに耳裏にルトの鼻先が寄ろうとした時、背後から声がかかった。

「ルト、ここにいたか」


 何事もなかったかのようにすいと顔を上げたルトは振り返り、ヒューも声をかけてきた相手の顔を見た。


「キリトさん」

 片手を上げて歩み寄る眼鏡をかけた狐獣人の男は慣れ親しんだ顔だった。

「やあ、ヒューも。ふたりでじゃれているところ悪いが、ルト、ちょっといいか」

「どうした」

 じゃれているわけじゃないと言いたかったが、何やら大事な用件らしく無駄な横やりは入れまいと大人しく口を噤む。


「出稼ぎに来ている新顔たちの件だ。あいつらなんだが……」


 獣人は人間よりも体格がよく、特にルトとキリトの背は高いほうなので、二人の目線にヒューは入らずに頭上で会話が交わされていく。

 ぎゅっと握りしめていたルトの腕から手を解き、そろりと二人から離れて距離を取った。
 ヒューがいても問題はないとキリトは判断したので、ルトの腕におまけが引っ付いていようが気にせず話かけていたことはわかっているが、何やら大事な相談事の気を散らせるようなことはあってはならない。
 おまけがいたままでは落ち着いた話はできないだろう。まだルトとの話は終わってはいなかったが、どうせこの後も迫ったところで、いつも通り一人で騒ぐだけで適当にあしらわれるのは目に見えている。
 相談事はルトにだけのようだし、部外者は早々に立ち去ろう。
 ――これが最後なんて、今までもずっとまで相手にされなかった自分にはちょうどいいのかもしれないし。
 そう心に決めたのは自分自身だけれど、今日に限っては自らルトの傍を離れるのがとても名残惜しかった。その想いがにじみ出てつい肩を落としながらその場を去ろうと足を踏み出した時、不意に腕を引かれて後ろによろける。

「わっ……わあっ!」


 どうやらルトがヒューの腕を掴み引き寄せたようだ。振り返ると間近にルトの顔があって不意のことに声が裏返る。

 ぐらりと揺れた身体を繋がった彼の手が支えながら、首筋に鼻先が寄せられてすんと匂いを嗅がれた。
 ルトとは長い付き合いになるがこんなことは初めてだ。匂いを嗅いでくることは時々あったがそう繰り返されることはなかったし、触れるのだっていつもヒューからばかりでルトは応えてくれることさえなかったのに。
 成り行きを見守るキリトも珍しいルトの行動に驚いたのか目を瞬かせていた。

「さっきからなんだよっ!? オレ、なんか臭うのか……!?」


 一度ならず二度めとなると、確かめられているような気がしてならない。

 ヒューがどんなに汚れていようが、芸術的な寝癖をつけていようがいつもスルーするルトが耐え切れないほどというのならよほどのことだろう。
 だがそんな気になる匂いをつけるようなことをした覚えはまるでなく、ルトと同じく嗅覚が鋭いキリトにちらりと視線で問いかければ、そんなはずはないとでも言うように首をぶんぶんと振られた。
 いくら幼少期のおねしょ事情まで知られている幼馴染相手とはいえ、想い人に臭いだなんて思われたら泣けるどころの話ではない。そう不安になったヒューに答えることなく、ルトは腕を離して顔を起こすと、すっと鼻先を逸らすよう顎を向けた。

「家で大人しくしていろ」

 どうやらものぐさにもそれでヒューの住まいである実家のある方角を示したらしい。


「家って……」

「とにかく今は戻ってろ」

 言われなくても帰るつもりだった。蜜夜はどこも獣人たちが浮足立っており、今宵の相手にと誘いの声をかけられることも少なくはない。人間には発情期がないといっても相手は務まるものだから、ヒューにだって誘いがないとも限らない。

 実際にはこれまで声をかけられたことはないわけだが、今日もないとは言い切れない。だがルトが相手をしてくれないからといって他の獣人に身を任せる気はまったくなかった。
 それに本能が高まることで神経も昂るのか、喧嘩や相手の奪い合いで諍いが起こることも珍しくはない。なので蜜夜に用がない者は、その日は不用意に出歩かないことが暗黙の了解となっている。
 だからヒューもルトに相手にされない以上部屋に引きこもっていようと思っていたのに。
 もしキリトが家にいなさいと言ってくれたならそれは心配する声に聞こえただろう。でもルトからそう言われたのなら、その意味合いは違って聞こえてくる。

「キリト、さっきの話の続きだ。その二人組のことだが――」

「……ルーのばか」

 おまえを夜の相手にはしないと改めて告げられたような気になってしまって、気づけばぽつりと呟いていた。

 ルトはキリトのほうへ顔を戻していて、もうヒューのことなど気にしてもいない。だが人間よりも優れた聴力を持つ彼に聞こえていないはずがなかった。
 その証拠にキリトはちらりと目を向けてきて、申し訳なさそうに三角のピンと立っていた耳を少しだけ垂らす。
 聞こえていたのだとわかっていて、もう一度、今度はくわりと口を開いた。

「ルーのばかッ!」


 示された家とは反対方向へどすどすと足音を鳴らして歩いていったが、ルトが引き止めることはもうなかった。



 ―――――


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