誰が言う事きくもんか! オレの話だって聞いてくれないんだから!
怒りの衝動に駆られてルトに背を向けたヒューは、馴染みの喫茶店に飛び込んだ。
「ああ、ヒュー。いらっしゃい」
入ったのはルトの双子の妹であるルカが店主を務める店だ。彼女もヒューが幼い頃からよく遊んでくれた、姉のような存在だった。
ルトに逆らったのはいいものの、とくに行く宛があったわけではない。迷惑になるとわかっていてもこの鬱憤を晴らしたくて、ついルカのもとに来てしまった。
ヒューがルトを振り向かせるために頑張っていることを理解し、一番応援してくれている人でもある。よくルトのことも相談していて、愚痴だって散々聞かせてしまっているのにいつも明るく、時には配慮が足りないと兄を怒りながらも慰めてくれた。
「お邪魔しますっ!」
幸い店内に客の姿はなかったので、ヒューは苛立つ気持ちを露わにカウンターの一席に腰掛けた。
店内はどの席も選び放題だが、ヒューの定位置としているのはカウンターの一番端の隅っこだ。ちなみにルトがいる時、彼はその隣に座る。
「ずいぶんと気が立ってるね」
入店時の勢いからヒューが荒れている原因はいつものことだと察しがついたのだろう。今日もまた苦笑で出迎えながらも、すぐに大好きなココアを出してくれた。
「ほら、これ飲んで落ち着きなさい」
「ありがとう、ルカ姉」
「いいのよ。どうせあほ兄貴のせいでしょう?」
「……うん」
「まあ、なんたって今日は満月だしね」
ヒューとルトの間にあったやり取りも、今日という日を理解しているだけで大方の予想がついているのであろうルカは、もしかしたらヒューが尻尾を巻いて逃げ出すこともすでに想定済みだったのかもしれない。
その証拠というように、すでに切り分けられていたヒューの好物の果物が差し出される。
「食べていいの?」
「いいよ。今日は特別だからね」
茶目っ気たっぷりに、ルカは器用にぱちんと片目を閉じた。
「今はお店も空いている時間だし、気持ちが落ち着くまでゆっくりしていきなさいな」
爽やかな酸味のあるそれは意外と甘いココアとの相性がよいのだが、あまり獣人たちは好まない味らしく、獣人の客の割合が多いこの店で普段は取り扱っていないものだ。
わざわざヒューのために用意してくれていたことは明らかで、やはり彼女には敵わないと思ってしまった。
もう一度心の中でお礼を伝えながら、小皿に盛られた果物を指でつまんで口に運ぶ。
少し噛んで果汁を味わいながら、ココアを流し込む。
ココアと果実が混ざったその風味が大好きなのだが、ルトはいつも嫌そうにヒューが楽しむ様子を見ていた。
どうやら小さい頃にルカに悪戯でしこたま口に詰め込まれたらしく、ただでさえ苦手な味であったのに無理矢理飲み込まなければいけないのに苦心した挙句、それを知った両親からは窒息する危険があった散々怒られたのだと言う。しかも零れた果汁が毛にまとわりつき、洗ってもしばらく匂いが残ってしまったことがトラウマになってしまい、大人になった今でも絶対に口にしないようにしている。
それでもヒューが好きだからと、どこかでもらえる機会があればもらってきてそれを無愛想な顔のまま差し出してくるのだから、その優しさにいつも胸が温かくなった。
ルカも時々、今のように店で特別に出してくれることもある。その時だって隣でヒューが果実を食べる匂いにルトは顔をゆがませるというのに、離れたり出て行こうとしたりしないのだから色々と勘違いしそうになる。
――でもやっぱり、蜜夜の相手には選んでくれないのだけれど。
幼馴染というのはやっかいで、どんなことにもルトとの思い出がつきまとう。もう考えないようにしているのに、他の人の親切を受けていても、ルトとのことばかり思い返してしまう自分が嫌だった。
「ルーのばか……」
机に突っ伏して、この場にいない相手に幾度も繰り返した言葉を呟く。
何度口に出したところで満足する気配はなくて、むしろさらに苦しい気持ちが増していくばかりだった。
「まったく、かわいそうに」
自分でも思った以上に切ない声が出てしまい、ルカが優しく頭を撫でてくれる。
「ばかルトったら、どうしてこんなにかわいいヒューを蔑ろにできるの」
「ありがとう、ルカ姉。かわいいは余計だけれど」
顔を上げて小さく笑って見せた。
ただでさえこうしていつも愚痴や弱音を聞いてもらっている。もう十分甘えている自覚があるからこそ、これ以上心配させたくはなかった。
「あら、ヒューはかわいいじゃない。いつまで経ってもわたしの愛しい弟よ?」
「そう思ってくれるのは嬉しいけど、でもオレももう成人したわけだしさ」
「あなたのおしめだって変えたんだから、わたしにとってはかわいいヒュー坊のまんまよ。たとえムキムキだって髭面になったって、おっさんになったって、なんだって中身がヒューであればそう思うもの」
「ええ……せめてムキムキの時は格好いいヒューって言ってよね」
「言ったでしょう。中身が肝心なのよ」
いつもルトと一緒にヒューと遊んでくれていたルカだってそう思うのだから、やはりルトにとってもヒューのことは、いくつであっても、どんな姿でも、変わることなく年下の幼馴染にしか見えないんだろうか。
またもルトを思い出してしゅんと肩を落としたヒューに、ルカは困ったように笑った。
「かわいいとすら言わないあんな底意地の悪いやつ、本当にどこがいいって言うの?」
「ほんとにね。自分でもそう思うけど……やっぱり、ルトは優しいから」
小さい頃からずっとかわいいヒュー、わたしの弟だと、本当の姉弟のように面倒をみてくれたルカ。でもルトは昔から今とそう変わらずヒューにあんまり優しくなかった。
幼馴染であり、狼獣人の双子はどちらも同じくらい一緒にいてくれた。出会ったタイミングも同じだった。
獣人の男女の違いは顔つきにあまり差がなく、体格が男のほうが逞しいという程度だ。女であっても背が高く筋力もしっかりしているので、人間のヒューから見るとルトもルカもどちらもすらりとした見惚れる身体つきをしているが、男女の双子である二人の違いはそれほど感じたことはなかった。
条件はほとんど一緒だ。むしろルカのほうがまめに構ってくれて、色々と面倒も見てくれた。ルトはそんなふたりの傍で静かにしていることが多かった。
でも、ヒューはルトに恋をした。
ルカだって大好きだ。彼女がヒューを弟だと言うように、ヒューにとってもルカは本当の姉のように大切に思っている。
でもルトは兄なんかじゃない。そう思っていた時期もあったけれど、心が成長していくにつれて恋を自覚した。
ルトへの想いが恋だったと思い知ったのは、もしくは恋に昇華されたのは、きっとあの出来事だ。
ヒューは数年前の≪赤月の満ちたる夜≫の日に、暴走しかけた獣人に襲われたことがある。
どうやら相手が見つけられなかったらしく、性欲を持て余した獣人はヒューを道端に引きずり込んで事に及ぼうとした。
逃げ出そうにも力の差は歴然で容易に抑え込まれどうしようもできずにいたが、そんな危ういところをルトに助けられたのだ。
ルトが駆け付けたとき、幸い最後まではされなかったが服はずたぼろで、抵抗した身体は傷だらけでひどい有様だったヒューはルトからさえも逃げ出そうとした。
いや、ルトだったからこそ、そんな姿を見られたくなかった。助かったのだと安堵するよりも、誰かに触れられた痕跡が散る肌を隠してしまいたかった。
でもルトはあっさりヒューを掴まえてぎゅうぎゅうに抱きしめてくれた。息が止まりそうになるくらい、隙間なくぎゅっと強く。
今思えば裸も同然だった姿を隠してくれたのかもしれない。でもそんなことも考えられなかったあの時は、ただルトが声もかけられないほどヒューを求めてくれたのかと錯覚した。ヒューを誰にも渡したくないと、自分から逃れることは許さないと言われているような気がするくらい力強い抱擁で、拘束だと思えたのだ。
ヒューに襲いかかった獣人は、何の影響も与えない人間であるはずのヒューの匂いに惑わされたのだと喚いたが、片腕にヒューを抱いたままのルトに一発殴られただけで気を失ってしまった。
ああ、もう大丈夫なんだ。ルーが助けてくれたんだ――伸びてしまった獣人を見下ろしそう実感したら、どっと安堵が押し寄せて、気づけばルトの胸に顔を埋めて声を押し殺して泣いていた。
「いつもみたいにガキらしくわんわん泣けよ」なんてルトは憎らしく笑ったが、涙を舐め取ってくれた舌がとても優しく柔らかかったのを今でも思えている。
ヒューが泣き止み落ち着くまで、ずっと優しく抱きしめ続けてくれた。あんなことがあった後でもルトの腕の中に怖いものはなくて、離れまいと必死に被毛にしがみついた。
その後その獣人がどうなったかは知らない。蜜夜であっても自制がまるで効かなくなるわけではないのだから、発情期が免罪符になるはずもなく、きっと然るべき処分を受けたのだと思う。
ルトは何も言わなかったしヒューも何も聞かなかったけれど、それから一度も街で見かけたことがないのが答えだろう。
あの出来事があり、誰かに触れられるようなことがあるのであればそれはルトがいいと考えるようになった。むしろ、ルト以外に考えられない。
ルトならどう触れてくるだろう。どんな表情を見せるのだろう――考えれば考えるほど自分の身体が高ぶっていくのを感じて、それがただの幼馴染に向ける気持ちではないことを自覚した。
ルトは、本当は面倒見がいい。いつもつれない素振りはしているけれども、身内だと決めた相手のことはよく見ているし、何かあればさりげなくフォローをしている。興味がない相手に構うことはないので、ヒューをからかって遊ぶのも気に入っている証拠であり、一種の愛情表現だ。
だからルトの親切はヒューだけの特別じゃなく、身内に対するものだとしても、普段は意地悪なルトの見えづらい優しさを感じてしまうと胸の奥がじんと痺れるように震えてしまう。息苦しいほどに抱きしめられたルトの腕の中を思い出して、また加減も忘れるくらい強く閉じ込めてほしいと思う。
ちょっとしたことでもルトのことが好きだと再確認して、彼の金の瞳に映る景色を自分だけにしたいと願ってしまう。
からかったり意地悪をされて怒るヒューを見て不敵に喉の奥で笑う仕草も、うっかりすれば見過ごしてしまいそうなわかりづらい優しさも、全部自分だけのものにしたい。そしてまだ見ぬ姿もルトの何もかもが欲しい。
かわいいって言ってくれなくていい。好きという言葉も、本当は欲しいけれど、でもいらない。つがいにしてほしいなんて求めないから。
だからせめて、少しでも多く自分が知らないルトを教えてほしかった。
「ヒューは本当に、ルトのことが好きなんだね」
「うん……」
ルカはいつだってヒューの味方をしてくれる。
「ヒューにはもっと素直に愛情表現をしてくれる人がいるはず」とルカは言うけれど、でもやっぱりルトがいいと思ってしまうし、彼に向く気持ちはたとえ止めようとしても操作できるものじゃない。
いったい何度、もうただの弟のような扱いでいいと、それで十分だと自分に言い聞かせてきただろう。
でも蜜夜のたびに誰かと消えるルトの背を見送るしかないのが苦しくて、自分が知らないルトを他の誰かが見ているのが悔しくて、憎らしくて。
ルトが好きだ。きっと、世界で一番ルトのことが好き。
誰にも負けないくらい強く想っているけれど、でもやっぱり、自分ではだめらしい。
苦しい気持ちが胸の底から込み上げてきて、じわりと目元が熱くなる。
また机に頭を預けてしまう前に、慌ててココアを飲んで気持ちを落ち着かせた。