「ちがうよ、ヒュー。それは全部、ルトのせいだから。あなたに悪いところなんて何もない」
「ルーの?」
「その、なんて言ったらいいか、ちょっと言葉に迷うのだけれど……」

 詳しくその根拠は言えないらしいが、でもルカがこんな風にはっきりと言う時に嘘はない。
 長い付き合いでそれを理解しているヒューは、彼女の言葉から納得できる理由を見つけて勝手に頷いた。

「ああ、そっか。オレがルーのこと大好きだって、みんな知ってるもんな。どうせ誘っても付き合おうとしないってわかってるからか」

 所構わずルトに求愛するヒューは街ではわりと有名なほうだ。そんな一途なヒューがちょっと誘われたところで靡くわけがないし、それならあたるだけ無駄だと判断されるのも納得だ。
 獣人たちにはヒューにかまけている暇はなく、それが避けているように見えただけなのかもしれない。
 ルカが言えない本当の答えはわからないが、そういうことにしておくことにした。
 少なくともルカがちがうというのだからあまり気に病んだところでいいことはないし、何より自分がその言葉を信じたいと思ったから。

「……ルトのやつ、本当にどうして……」
「え?」

 ざわめいた心を落ち着かせていたせいで、ぽつりと呟かれたルカの言葉を聞き逃してしまった。

「なんでもない。いやよね、むっつりって」
「ルーってむっつりなの!?」
「あいつの名前だけ聞こえてたんじゃない」

 しっかり想い人の名前だけ拾っていたヒューは、思わず過剰に反応してしまってルカに笑われる。

「あれは相当ねちっこいよ。相手させられたら苦労するに違いないんだから」
「あはは。ルーがねっちこくたってオレなら構わないのに……ま、どうせ相手なんてされないけど」

 思いの外切ない気持ちが声音に乗ってしまったのか、ルカの眼差しが労わるようにそっと細められた。
 その瞳から逃れるよう、両手で包んだカップに目を落とす。

「ごめん。わかってるんだ。だから今回も相手に選んでもらえなかったら、もう諦めるつもり」
「……諦めるって?」
「前からね、決めてたんだ。今までは子供だからって理由で相手にされなかった。だから成人してもだめだったら、ちゃんと諦めようって。だって興味のない相手からいつまでも詰め寄られちゃ面倒だろ? しつこすぎて嫌われたくないし、それこそ、子供の戯言だったって済まされるうちにさ……」

 話しているうちにじわりと視界が揺らめく。
 まずいと思っても止めることができない。
 あっという間に溢れ出した涙は頬を伝い、テーブルにぽたりと音を立てて落ちていった。

「ご、ごめん……こんなことで、オレ……決めてたことなのに」

 それなのに自分で口に出した言葉に傷ついた。
 これまでのものは全部、戯言なんかじゃない。本気だった。
 本当にルトが好きで、抱いて欲しかったし、できることなら彼のつがいにしてほしかった。でもだめだった。
 このまましつこくして鬱陶しがられた挙句に、ただの幼馴染でさえいられなくなるくらいなら、もう諦めるしかない。嫌われるなんて死んでもいやだ。
 いずれどこかでこの気持ちに区切りをつけなければならないというのなら、ルトの定番の断り文句であるガキじゃなくなった時しかないと思ったのだ。
 だがそれも体のいい断り文句なことくらいわかっている。ルトだってそろそろ言い訳の言葉を変えてくるはずだ。
 これ以上ルトに受け入れてもらえない理由はひとつだって知りたくない。たとえヒューのすべてがだめだったのだとしても、子供だからだなんていうくだらない理由だけで拒絶されるほうがまだいい。
 ――でも、言葉なんてなくても、ルトにつがいができれば嫌でも思い知らされるのだろう。
 今だって、ルトが蜜夜に毎回違う相手と過ごしていることを知っていた。その相手たちからつがいにならないかと誘われていることも、今のところすべてそれを断っていることも全部知っている。
 ルトが、好きだから。幼い頃から恋をしているから、ずっとその背を見つめていたから。
 見たくなくても目が追いかけてしまって、聞きたくなくても聞き耳を立ててしまった。家が隣同士のせいで、蜜夜に家を出て行くルトに気づかずにはいられなかった。
 今年になってルトも独り立ちして家を出て行ったから、もう聞き耳を立てることも、家を出てどこかへ行く広い背を見送ることもしなくていい。
 ルトが一人暮らしを始めてから一度だけ蜜夜があったが、その時の相手が誰だったのか、その人がルトの部屋に行ったのかは知らない。でもまだつがいがいないことだけは知っている。
 つがいになると決めた獣人たちの行動は早い。すぐに一緒に暮らし始めるので、次の蜜夜までにつがいができたことが公言されなければまだいないことになる。
 いつも怖かった。
 蜜夜の相手をルトに断られても、他の誰かが選ばれている。きっと、ヒューすらまだ入れてもらったことのないルトの部屋に入った人もいるのだろう。
 もし、その人をつがいにすると決めてしまったら。そうしたらヒューは絶対に相手にしてもらえなくなる。
 これからはその人と家族になりともに過ごすし、その人に欲情して蜜夜以外の夜だって愛し合うのだろう。そうなればヒューは一夜の思い出さえ恵んでもらえなくなってしまう。
 本当ならルトのつがいになりたい。ずっと一緒にいて、ルトを独占したい。誰にも渡したくなんてない。触れて欲しくもない。
 ルトに触れるのも、甘えられるのも、ヒューだけの特権にしたかった。そしてルトの指先が触れるのも自分だけであってほしい。
 でもそんな願望は現実のどこを探したって見つけられない。これだけ傍にいても、ルトはヒューをつがいにするつもりはこれっぽっちもないのだから。
 だから、たった一度でいいからルトに抱いて欲しかった。
 だってずっと好きだった。好きで好きで、たまらなく大好きで。
 何度も思い込みだって、勘違いじゃないのかって自分に問い続けていた。長く傍にいてしまったがための錯覚じゃないのかって。
 そうでないとあまりにも苦しくて。
 もうルトなんて好きじゃないと言ってしまいたかったから。
 でも答えはいつも同じ。どんなに意地悪でも、つれなくても、やっぱりヒューはルトが好き。切なくて、苦しくて、それでもどうしようもなく好きなのだ。
 たった一度だけでいい。どんなに痛くたってつらくたって我慢する。ルトの好きなようにして、ただの性処理で終わらすだけで十分だから、それでも抱いてほしかった。
 全身を覆う被毛を肌のすべてで感じて、重ねた身体の熱さを知りたい。
 わかりづらい狼の顔がどんな表情で欲を滲ませるのか。
 どんな声を出すのだろう。指先はどう触れてくるのだろう。
 知りたい。ルトの全部を知って、この全身に刻みたいと思う。
 そうして大好きな人に抱いてもらって、その思い出を胸にこの街を去りたかった。
 ルトはいつか自分ではない誰かを隣に置き、生涯寄り添い合うのだろう。そんな姿を見せつけられるなんて耐えられるわけがない。
 だから思い出さえもらえれば、あとはもう尻尾を巻いて逃げ出すつもりでいたのだ。
 ただの一夜の相手にさえ嫉妬で気が狂いそうになるのに、ルトのただ一人の相手を見てしまったら、彼の大切な人に何かしてしまうかもしれない。そんなことをヒューは望んでいないし、何よりルトが許さないだろう。たとえ幼馴染であっても、彼は自分が大切にするものを壊そうとする者に容赦はしない。
 でもたとえ自分自身でさえ望まないことでも、もう絶対にルトを手に入れることができない絶望を前に、嫉妬に狂った自分がどう出るのかわからなかった。
 衝動とは誰にでもある。だからヒューは自分のことが怖い。咄嗟に手を出してしまいかねないと思ってしまったから。

「好き……ルトのことが、好きなんだ……どうしても……」

 それくらいの想いを抱えて、昇華させることもできずに燻り続けて、もう限界だった。
 ヒューはもう子供じゃない。獣人のような明確な発情期はないけれどルトに欲情するし、抱いてもらう姿だって想像している。誰かの指先が彼に触れるだけで激しい嫉妬に身を焦がしている。こんな劣情だらけなのに相手をしてもらえない理由が子供だからだなんて、いっそ笑えてしまう。
 本当なら今すぐにでもルトの傍から離れられたらと思う。でも、今回の蜜夜を最後の希望にしていた。
 それももとより絶望的で、ルカが零した想い人の存在が明るみになった今、抱いてもらえる可能性なんてゼロに等しくなってしまったけれども。
 叶わない恋なんてこの世に沢山あるし、想いがすべて実を結ぶわけでもないことも知っている。
 けれど自分が望むものは、そんなにも困難なものであるのだろうか。
 ただ一度だけ、抱いてほしいだけなのに。
 他にはもう何もかも諦めたのに。
 彼のために身を引き、街を去る決意までしているというのに。

「ごめ……ごめんね、オレ、今日泣いてばっかで……」

 ぱたぱたと涙がテーブルに落ちては跳ね返る音が、まるで屋根を打つ雨のように聞こえた。

「いいの。満月で気が高ぶってるせいなんだから」
「……はは、オレ人間だよ? 獣人じゃないんだから、満月に影響なんてされないよ」

 獣人は≪赤月の満ちたる夜≫に発情期を迎える。その影響は当日の夜だけではなく、早い者だと一週間ほど前から落ち着きがなくなり始める。本能が刺激され、感情が露わになりやすくなるからだ。
 けれどもヒューは人間だ。獣人のように発情期がないのだから、満月に影響されて気が高ぶるということはない。
 でも好きな人が獣人である以上、間接的には満月は意味があるのかもしれない。
 今日が最後だから。ルトは知りもしないが、ヒューは今日の蜜夜に並々ならぬ決意で挑んでいる。
 結果がどう転んでも街を出るつもりであることはまだルカには言っていない。でももう遠方の親戚の家を頼るつもりで出て行く準備を進めていた。
 幼馴染たちには出立のぎりぎりまで伏せておくつもりだ。
 きっとルカは止めてくれるだろうし、そのためなら強引にルトにヒューを相手にしろとも言いかねない。
 ルトは、どうするだろう。もしかしたら引き止めてくれるかもしれないけれど、そのためにヒューとつがいになることはできないから困らせてしまうだけかもしれない。
 なんにせよ一騒動は起こることが想像がつくから、もう引き返せないところまでいってから伝えるつもりだった。
 ――そうだ。どうせ近く自分はこの街を、ルトのもとを去る。二度と戻ってくるつもりはないし、ルトと会うつもりもない。
 ぐるぐると繰り返すこの悩みも苦しい気持ちも、きっとあと少しの付き合いだ。
 それを思い出すと、また少しだけ心が軽くなった気がした。もしかしたら胸の内に溜まっていたルトへの膿のような醜いこの気持ちが、涙となって少しは吐き出せたのかもしれない。

「そんなにルトがいい?」

 他にもいい人はたくさんいる。ルトみたく格好いい狼獣人だって、ルトなんかよりもうんと優しくて親切な人だって。ちょっぴり意地悪でも面倒見がいい相手も、ルト以外の人はたくさんいる。
 でも、その誰にもルトを重ねたり、比べたりしてしまうのだから答えはもう出ている。

「ルトがいい」

 何度子供だと鼻で笑われたって、まったく相手にされなくたって。
 街を去ることでしか離れられないくらいに好きだ。自分の全部をあげてもいい。
 その代わりに、ルトを全部くれなくてもいいから、ほんの一瞬でいいから、何振り構わずに自分を求めて欲しい。

「大丈夫、まだ夜は空けてないんだから、それまで……最後まで奇跡を待つよ」
「ヒューは頑張り屋さんだね。だから大丈夫。きっと、大丈夫だよ――」

 伸びてきたルカの手が、ヒューの髪を梳くように頭を撫でていく。
 双子だからなのか、その手つきはルトとよく似ていて心地よく、ヒューは静かに目を閉じた。
 

 ―――――