とにかく開放されたい一心で、気持ち悪かったが鼻に噛みつきもしたのに力がゆるむ気配はない。
 抵抗もむなしく引きずられようとした時、建物の影から行く手を阻むように二人の獣人が現れた。
 その姿を見ただけで、涙が出そうなほどの安堵が込み上げる。

「――おまえら、何をしでかしたかわかってんだろうな」

 ヒューを連れ攫おうとする二人組の前に立ちふさがったルトは、本気の怒りを滲ませた低い声で凄んだ。
 隣に立つキリトは、今にも飛び出しそうなルトを抑えるように腕を前に出しながら一歩踏み出す。

「きみたちには再三にわたり忠告したはずだ。だがついに一線を越えたな。もう見逃してはやらないぞ」

 ルトとキリトが現れたのは偶然ではないことはすぐにわかった。
 キリトはこのままでは彼らが罪を犯しかねないと判断し、ルトに彼らの追跡の話を持ちかけたようだ。
 ヒューが絡まれた時にはすでに見張っていたのだろう。それでもすぐに助けなかったのは、ぶつかった彼らが少し文句を言う程度に済ませるか様子を見るため。
 だが彼らはそうはしなかった。ヒューを売り払う計画まで立て今まさに連れ去ろうとする行為は、決して許されるものではない。

「くそっ、なんだってこんな時に現れやがるんだ……!」

 象の獣人は一対一の勝負ならば大抵の相手よりも優位に立つ。長い鼻や牙、その巨体といった武器もさることながら、分厚い皮膚の前では攻撃が通りにくい。攻守ともに優れている種族であるためだ。
 ルトも強くはあるが、彼がもっとも力を発揮するのは単体ではなくルカとペアを組む時だ。双子が揃えば敵なしだが、今はルカもいないし、たとえいたとしても何より身重である彼女を参戦させるわけにはいかない。
 ルトにとっては分の悪い相手であるはずだが、臆する様子は一切なかった。

「今すぐにそいつを放せ」
「ち、近づくな!」

 象の獣人はぐっと身を低くしたルトに気圧されたのか後ずさり、ヒューの両手を後ろで拘束して自分の前につき出した。

「っ、ルー……!」

 口元を拘束していた長い鼻が下に下がり、今度は首にきつく巻きつく。

「わかってんだろうな、近づけば首をへし折るぞ」
「う……」

 本気だと知らしめるかのように、ぐっと鼻に籠められる力が強くなる。
 気管が圧迫されたせいで呼吸が苦しく、思わず顔が歪んでしまう。
 霞む視界にキリトが慌てたように手を伸ばしているのが見えたが、それを牽制するように隣では豹の獣人が隠し持っていたナイフを手に取った。

「よっぽどこいつを大事にしてるんだろう。なら、大人しく道を――」
「やってみろよ」

 優位に立ったと慢心を滲ませた象の獣人の声を、ルトが静かに、けれども鋭く裂いた。

「なっ……これが見えないのか!」

 ぐっと前に押し出され、ますます締めつけが強くなる。
 動揺で加減を忘れているのか、身体が持ち上げられて足が地面から浮き上がった。

「ぅぐ……っ」

 苦しくて、我慢したいのに呻き声が漏れてしまう。
 それでも決してルトから目を逸らしたくなくて、ぼやける視界で見つめていると、ふと金の瞳と目が合った気がした。

「やれるもんならやってみろ。だが覚悟しろ。そいつを傷つけるのなら、殺してくれって懇願したくなるような地獄を味あわせてやる……!」
「る、ぅ……っ」

 ルトは動かない。けれども血を吐くような言葉とともに怒りを全身にたぎらせた。
 象の獣人の怯えが拘束する長い鼻から伝わってくる。それが身体の強張りを起こし、ルトの威圧が彼らを凍りつかせた。
 震え上がり動かずにいる二人組にいよいよルトが迫ろうとした時、間にキリトが割り入った。

「ルト、待て待て! 彼らにはもうその気はなくなっている!」

 二人組に振り返り、歯をむき出しに唸り声をあげるルトを抑えながらキリトは叫んだ。

「おい、きみたちも! その子に関してルトは本気で容赦しないぞ。べったりついたその匂いでわかるだろうが! 命が惜しいならその子を解放して大人しく投降するんだ」
「……く、くそっ」

 二人組は負けを認めてルトから目を逸らす。
 首の拘束が緩まり、ヒューは崩れるように地面に倒れ込んだ。
 締めつけられた首元を押さえて咳き込んでいると、隣に誰かが来て背中をさすってくれる。
 でも、顔を見なくてもその人が誰かなんてわかっていた。

「ルー……!」

 幼馴染の行動など知り尽くしたルトは、頭から胸に飛び込んできたヒューを難なく受けとめ抱きしめてくれる。

「怪我はないか」
「うん、うんっ! その前に二人が助けに来てくれたから」

 まだ喉が痛いし声も掠れるし、加減なく掴まれていた腕は痺れている。倒れた時に足を打ち付けていてあちこち痛いし、頭もぼうっとするけれど、でもそんなことどうでもよかった。
 またルトの腕の中に戻ってこれた。それだけでもう十分だ。だってここに怖いものはない。

「ちょっと離れろ」
「え……や、やだ。まだ、待って。やだ」

 すっかり安心しきっていたのに、もう放り出されてしまうのか。
 一気に恐慌状態に陥ったヒューは子供の駄々のように首を振って、離されまいと硬質なルトの毛並みを握りしめる。

「ちがう。本当に怪我がないか見るだけだ。抱きついててもいいから顔見せろ」

 ぶるぶると震える身体を宥めるように撫でられ、しぶしぶ埋まっていたルトの首筋から顔を起こした。
 それでもしっかりとルトの毛を握りしめるヒューをいつものようにからかうことはなく、顔や腕などを手に取ってひとつひとつ確かめていく。
 どうやら掴まれていた腕はもちろん、象の獣人の鼻に締めつけられた顔や首にも擦れた傷があったらしい。それらを見つけるたびにルトの視線は険しくなり、舌打ちが繰り返される。
 小さな傷はあるものの、すぐさま治療なものはないことを認めたルトは、最後にヒューの首筋に鼻先を突っ込み深く息を吸い込んだ。
 象の獣人と同じことをされてもやはり全然違う。濡れたルトの鼻先が肌に触れても嫌な気持ちはなく、その呼吸が耳に届いても、空気が流れゆく感覚を肌が辿っても、ただ高揚するだけだ。
 深く吸った息を、今度ははあ、と長く吐き出していく。肺から空気を抜いていくほどにルトの耳もぺしょんと下がっていき、ついそれを眺めてしまった。

「ルー?」
「……心配させんじゃねえよ。だから、大人しく家に戻ってろって言っただろうが」
「ごめんなさい」

 ルトの言う通りだ。こうして迷惑もかけてしまった。
 相手にしてもらえなくて勝手にいじけて、反抗するために従わなかった。
 もしルトたちが助けてくれなかったら。想像しただけでもそのおぞましさにぞっとして、落ち着きつつあった気持ちがまた不安定に揺れ出す。
 ヒューの怯えに気づいたのか、ルトは黙ってまた抱きしめてくれた。
 申し訳なく思いながらもそっと身を預ける。気持ちを落ち着かせるにはこれが一番手っ取り早いからだ。ルトもそれがわかっているのだろう。
 自分でも気づかないうちに随分と冷え込んでいた身体が、ゆっくりとルトの体温に馴染んだ頃、傍らにキリトがやって来た。

「ヒュー、すぐに出て行けなくてすまなかった」
「ちゃんとわかってるから大丈夫。それに、二人のおかげでこうして助けてもらえたんだからむしろ感謝しているよ。ありがとう」
「キリト、俺は許さない。説明もなくこいつを巻き込みやがって」

 彼らを試すためヒューを囮に使うことに賛同していなかったらしいルトは、キリト相手に鼻にぐっと皺を寄せて牙を見せた。

「ああ、わかっている。あとで改めてお詫びさせていただくし、ルカにも絞られるつもりだ」
「そんな、オレは大丈夫だよ。キリトさんが怒られる必要はなんてない」
「いいんだよ、ヒュー。それにルカはたとえきみが説得してくれたところで止まりはしないだろうし」

 ルカに愛されている自覚があるヒューは、だからこそルカがどれほど怒り心頭にキリトに詰め寄るのか想定できてしまう。
 ヒューも経験のあるからわかるが、彼女の説教ほど恐ろしいものはない。しかしキリトはそれも覚悟の上らしい。

「おれもそのほうが反省できる。もっとうまい方法があったはずだからね」
「キリトさん……」
「というわけで、ルト。あとはおれに任せて、きみはヒューと帰っていいよ」

 どうやらルトがヒューを落ち着かせている間に二人組をしっかりと拘束したうえで、逃げ出さないようにも説得をしていたらしい。キリトの背後ではしゅんと肩を落として項垂れる二人組の姿があった。

「もうすぐ応援がくるし、こちらは問題ない。それよりヒューのほうが大事だろう」
「オレは大丈夫だよ」

 これ以上二人の邪魔をしてはいけないと慌てて首を振ったのに、ルトはヒューを抱えたまま立ち上がった。

「いくぞ」
「だ、大丈夫だって! ルーもここに残って」
「歩けないくせに一人でどうすんだ」

 すっかり腰が砕けているのはお見通しだったらしい。

「……少しそこらへんで休んでいれば問題ないよ」
「ばか、置いておけるかよ。俺の家に行くぞ」
「ルトの?」
「おまえに話さないといけないことがあるからな。しっかり掴まってろ」

 てっきり、実家に強制送還かと思っていたのに。
 思いがけない急な展開が続き、先程から処理が追いつかない。まだ自分に関する新事実まで知ったばかりなのに、さらには入ったことのないルトの家にいけるなんて。
 怪我の功名だなんて思いたくはないが、それでもいいこともあったとようやく気持ちが上を向き始める。
 落とされることはないとわかっていながら、言われた通りにぎゅっとルトの首に腕を巻いてしっかりとしがみついた。
 ルトに抱えられながら手を振っていると、両手を振り返してくれながらキリトが笑った。

「おめでとう、ルト! ヒュー!」
「……なんでおめでとう?」

 キリトの前でも散々家に連れて行ってとせがんでいたから、まさかルトの家に初めてお呼ばれすることになったのをそんなにも喜んでくれたというのだろうか?
 確かにキリトは癖のあるこの狼獣人の双子の夫と友人でいられるとても寛容でいい人だけれど、とても賢い人でもあり意図が読めない不思議な発言をすることはまずない。

「いいから、黙ってろ」

 ルトは何かわかっているようだったが、きっとこの様子では聞いても教えてもらえないだろう。
 それなら仕方ないと、ヒューはルトの腕の中で、大好きな人の存在を全身で感じることを堪能することにした。


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