106ワンライ
お題「落ち込まないで」
インターフォンを押して、待つこと数秒。
ガチャリと開いた扉から顔を覗かせた龍之介は、ナギの顔を見る前から笑顔を咲かせていた。
「Hi、リュウノスケ」
「おかえり、ナギくん」
挨拶を交わせば、ますますその笑みは深まる。龍之介の脇を通り、ナギは家の中に入った。
靴を脱ぎ、愛用のスリッパに履き替えている様子を見ていた龍之介は、ふとナギに問う。
「――ナギくん。どうかした? なにかあった?」
顔を上げたナギの視線の先の龍之介は、先程までの緩みきった表情を消しさり、真剣な眼差しをしていた。その変わりようが、オフのときとカメラの前の彼の鮮やかな変化を思い起こさせる。
「WHY? なんのことです?」
ナギのことを案じているのは十分にわかる。その表情も演技などではないことも理解しているが、何故そんな言葉をかけられるかわからず、ナギは屈んだ姿勢のまま上目づかいになりながら小首を傾げた。
「いや、その……なにか、落ち込むようなことでもあったのかと思って」
少しだけナギは驚いた。顔にも態度にも微塵も滲ませたつもりはなかったというのに、龍之介は挨拶くらいしか交わしていないその短いやりとりのなかで何かを感じたようだ。
妙に聡い男である。エロエロとはつくものの、ビーストと呼ばれるが故の野生の勘というやつか。
「少し、疲れているだけですよ。落ち込んでなどいません」
「そうだったんだ。それなら良かった。あ、ごめんね、玄関先で引き留めちゃって。どうぞ中に上がって」
先にダイニングに向かった龍之介の後を、ナギも靴をそろえて追いかける。
ソファに腰を下ろして、荷物は左隣に置いた。それから深く背もたれに身体を預ける。
先程、龍之介には落ち込んでなどいないと答えたが、指摘されて初めて本当は落ち込んでいたのではないか、と気がつかされた。疲れているのも嘘ではないが、確かに体よりも心が重たく感じる気がする。
今日の雑誌の撮影現場で、ふとIDOLiSH7のよからぬ噂を耳にしてしまった。
自動販売機の前で会話をしていた女性たちは、ナギがそこにいると知らずに言っていたのだろう。メンバーの誰々が実は女癖が悪いだとか、態度が横柄でこの間は下岡さんを怒らせたのだとか好き勝手話して、真実かもわからないまま幻滅したなどと笑っていた。
確かに最近、打ち上げでよく飲み歩く者はいるが決して女性癖が悪いなどとはないし、よく付き合てくれてありがとう、また次の飲み会もぜひと誘われているくらいだ。下岡と意見が対立したことはあっても、お互いプロ意識を持ってのことで、番組をよりよくするためであると双方ともに理解していたことである。その後に遺恨を残すようなことなどなく、下岡には今まで通りとても可愛がってもらっているし、そのほかも悪質に膨れ上がった噂でしかなかった。
偶然そこを通りがかったふうを装って、さりげなく会話に割り入り、ナギの美貌に目を奪われる女性たちにそれとなく情報を訂正させた。
彼女たちはもう言わないだろうが、それでも人々は噂好きであって、それがよからぬものであるほうが伝わりやすい。人の不幸や善人の顔の裏で行われる悪行などという情報は、興味を引きやすく、話題にしやすいからだ。
たとえ面白おかしくされた偽りの情報であっても、メンバーのことを悪く言われるのは悲しい、あまりにひどければ怒りが沸く。
今回はいわれのない噂だと鼻で笑い飛ばしたものの、かつてそれでメンバー内に亀裂が入りかけ、このまま夢半ばで散り散りになってしまうのではないかというあの時の恐怖が蘇った。
そんな今日あった出来事が、思いのほか、精神に負担がかかっていたのかもしれない。
「はい、ナギくん」
ぽうっとどこを見るでもなく虚無になっていたナギの前に、湯気が立つカップが差し出された。
だらしなくなっていた体勢を直してそれを受け取れば、カップの中の優しい色合いをする水面が揺れる。ふわりと香る匂いには覚えがあった。
ナギが疲れたときによく飲みたくなり、龍之介に淹れろと強請るハーブティである。どうやらナギの返答に納得したように見せかけても、まだ気にかけていたようだ。
愛するここながプリントされたカップを傾けて、一口含む。優しい味わいが口に広がり、胸の奥から、指先から、ゆっくりと体が綻んでいくのがわかった。
龍之介が右隣に腰を下ろす。ナギのものと一緒に淹れた自分の分のハーブティを飲むのを気配で感じながら、振り返ることなく彼に告げた。
「ワタシは落ち込んでなどいませんよ」
「それなら良かったよ」
「心配したのですか?」
「ナギくんのことだから」
当然だろう、とでも言いたげに返ってきた答えに、ナギはカップの縁に触れる唇を綻ばせた。
「ワタシのことを考えてくださるのは、嬉しいですよ」
「いつだって、ナギくんのことを考えているよ」
それが口説き文句になっているとわかっているのだろうか。ナギにはまったく効かないが、世の女性ならTRIGGERの十から隣から見つめられてそんな、君だけのことを考えていると言われるのは絶大な効果がありそうだ。
――まあ、それも本人が意識して使用していなければ意味がないし、なによりその相手が自分であるとしたなら効果自体ないのだが。
自分の与える影響をまだそこまで理解できていない龍之介は、ちらりと向けたナギの視線に気がつくと、気の抜けた笑みを浮かべた。
「なにかあったら言ってね。力になるから」
「まあ、そのときアナタの顔が思い浮かぶことがあれば、お力を借りましょうか」
相も変わらずつれないナギの返事でも、龍之介は嬉しそうだ。
ハーブティのおかわりがいるかと聞いてくるので、ナギは首を振った。
以前の自分であれば、アナタになど心配される必要はありません、と龍之介の好意を一蹴していたかもしれない。仲間たちさえいればそれでいいのだと。ライバルなど、敵でしかないのだと。だが今はこうして、好敵手でありながら親しい者は増えて、最大のライバルグループの一人である男は今や自分の隣に座っている。
――このハーブティが体を温めてくれるように、心を温めてくれる男がいる。それがひどく居心地がいいのは、紛れもない事実である。
思いの外、己の心に根付いている龍之介に一抹の不安は覚える。彼はいてもいなくてもナギであることに変わりはない存在でなければならない。特別になどならない。
(……それでも今だけは)
体を右に傾けて、ナギはそっと目を閉じた。
おしまい
2018.9.16