幸福の瞬間

※ R18
※ ナギが龍之介の記憶だけをなくしてしまう話


 

 深い眠りのなかに沈んでいた龍之介は、肩を軽く揺すられて、その意識をゆっくりと浮上させる。
 薄らと瞼を持ち上げれば、まだぼんやりとする視界のなかに、まるで海の底から見上げた光のような薄暗くとも柔らかい輝きが見えた。それがなんであるかを理解して無意識に口元が綻ぶ。

「ナギくん……?」

 どうかした、と続けるつもりだった。だがかすれる声はただ彼の名前を呼ぶだけだ。

「リュウノスケ。ワタシは先に出ますよ」

 まだ完全に意識を覚醒させていない龍之介を気遣ってか、どこか優しくもある穏やかな声音に告げられて、何度かゆっくり瞬いた。
 そういえば、昨日寝る前に今朝は早めに出ると言っていた。合鍵を持っているナギは時間になればなにも言わずに出ていくことを決めていたが、龍之介の希望で声をかけてもらうようにしたのだ。

「うん……今送るよ」

 起き出そうとした龍之介の肩をナギが押し返す。体は再びベッドに沈みこみ、腹の辺りまでずれた毛布がナギの手で口元まで引き上げられる。

「ノーサンクスです。ワタシ一人で行けます。アナタは昨日ずいぶんと遅くまで仕事だったのですから、まだ寝ていなさい」
「でも、またしばらく会えないし……」

 日々のハードスケジュールと、昨夜は深夜を大幅に越えての帰宅で体は回復しきっていない。いつもよりも重たく泥をまとっている気分だが、今日のこのときを逃してしまえば、またしばらくは顔を合わせるのが難しい日々が続くことだろう。
 昨日は大した会話もなく寝てしまったし、少しでも二人の時間を過ごせればと思い車で送ろうとしていた龍之介に、ナギは呆れたようにため息をつく。

「寝ぼけたアナタの運転で事故にでも遭ったらどうするのです?」
「――そうだね。ごめん」

 一言だが、納得するには十分だ。自分のわがままを優先させ、ナギになにかあったらもともこもない。
 惜しく思ってしまう気持ちは止めることはできないが、送迎を諦めた龍之介はベッドの中からナギに微笑んだ。

「いってらっしゃい。気をつけて」
「ええ。それでは、いってきます」

 寝室からナギが去り、玄関が閉まる音で家から出て行ったことを悟る。
 つい未練たらしく閉じた寝室の扉を眺めていたが、疲れの抜けていない体はいつのまにか深い底へと再び沈み込んでいった。
 ――それからふと目覚める。
 壁にかけられた時計を見れば、ナギが出て行ってからまだ一時間ほどしか経っていなかった。
 窓の外から、さあさあと降る雨の音が聞こえている。
 激しいものではないが、傘をささなければじっとりと濡れてしまいそうな程度の雨音に、龍之介は恋人のことを想う。

(やっぱり、送っていくべきだったな)

 駅からそれほど離れているわけではないが、雨がいつから降り出しているかがわからない。もしかしたら、ナギが外に出てすぐだった可能性もある。
 傘は持っていたのだろうかだとか、濡れてないとよいがとか。そんなことばかり考えてしまっているからか、まだ眠たいはずなのに不思議と意識が落ちることはなかった。
 しばらく寝返りをうったり、頭まで毛布を被るなどしてみたが眠るまでには至らず、やがて諦めて龍之介はベッドから抜け出した。
 ナギからはしっかり休めと言われたが、こればかりは仕方がない。

(大丈夫だったのか、ラビチャでも送ろうかな……ああでも、寝てないことがバレたら怒られるかも……)

 悩みながら、半端に残る眠気を覚ましにコーヒーでも飲もうと棚にある瓶を取ろうとして、ふとその隣の紅茶の缶が目に入る。ナギ用に用意してあるそれを何気なく持ち上げて見れば、随分と軽くなってしまっていることに気がついた。
 ストックが入っている場所を確認してみるが、いつもあるはずの予備さえもない。
 ナギが次に家に来るとするならばしばらく先のことになるだろうが、もしものときを思えば、淹れることのできない状態はできるだけ作りたくはない。
 今日は久々のオフで、午後からは日用品の買い出しをする予定だったので、ナギのための茶葉もそのときに合わせて買いに行こうとメモをしようと携帯端末をとり出した丁度その時、それが着信に震えた。

「……あれ? 紡ちゃんからだ」

 IDOLiSH7のマネージャーからの電話に龍之介は目を瞬かせた。ラビチャはよくするし、時々はこちらの都合を確認してから電話をしてくれることはあったが、これまで急にかけてきたことなど一度もない。
 それだけ、なにか緊急の用があるということだ。
 胸騒ぎを覚えつつ、龍之介は電話に出た。

「はい、十です。――……え?」

 受話器越しに聞こえる、動揺を押し殺しながらも震える彼女の声に、龍之介はしばらく言葉も失い、応えることも忘れてその場に立ち尽くした。

 

 


 家を出た頃は止みかけていた雨だが、車を走らせると振る雨粒は強くなり、視界をのみこむような激しさとなった。車体に打ちつける雨音はエンジンや走行音だけではなく、呼吸も、不安に高鳴る鼓動もすべてを掻き消し、それが龍之介の焦燥を濃くさせる。
 辿り着いた駐車場は、雨のせいか玄関の近くはすべて埋まっており、遠くしか空いていなかった。少しでも伸びる距離をもどかしく思いながら、いつもよりも荒々しく車を停めて傘も差さずに飛び出す。
 駐車場から建物内に移動する数分の間にも、走ったにもかかわらずびっしょりと濡れてしまった。
 額に張り付く髪を掻き上げながら早歩きに速度を緩めつつ病院内に入った龍之介に、一人の男が近づいてきた。
 院内にも関わらず黒い帽子を目深く被りマスクまでした彼が三月であると気がつき、龍之介自らも駆け寄る。

「ナギくんはっ!?」
「ちょ……落ちつてください十さん。こっちに」

 声の大きさに何事かと振り返った来院者たちが龍之介を見て一様に驚く。それもそうだろう。今まさに待合室のテレビに流れている再放送ドラマの主演である男がずぶぬれで、変装もしないでそこにいるのだから。
 ざわめきたつ周囲から逃れるよう、三月は人気のない廊下の隅まで龍之介の腕を引き連れた。
 足を止めた三月は振り返り、声を潜める。

「あいつがここに運び込まれたことは秘密なんで、もうちょっと声抑えめにお願いします」
「ごめん……それで、ナギくんは」
「大丈夫です。ちょっと頭を打ちつけて気を失ったみたいですけど、かすり傷程度で、本人はもう起きてぴんぴんしてます。頭皮が少し切れたってんで包帯巻いてますけど、怪我人に見えるのはそこくらいですから」

 三月の言葉にも表情にも影はなく、龍之介はようやく深く息を吐いて無意識に力の入っていた身体を緩めた。
 鞄を漁った三月はタオルを取り出し龍之介に差し出す。はじめは断ったが、自分の身から床に落ちゆく雫に気がつき、素直に借りることにした。
 顔を拭っている間に、今になって手が微かに震えた。最悪の事態は免れたのだと、もう安心していいのだと自分に言い聞かせてもなかなか宥めることができず、髪を拭く指先の力を強めて自分が感じた喪失への恐怖を抑え込む。
 ナギの身に起きたことをどれほど自分が恐れたのか。深く目を閉じ、改めて彼の無事に安堵する。
 紡からナギが事故に遭ったと連絡を受けたとき、すぐに理解はできなかった。
 空が白むころまで深酒をし、まだ酒が抜けきってはいなかった中年の男が運転する車が通学中の小学生に突っ込もうとしたところを、ナギが助けたのだという。
 電話を受けたときにはナギが車と接触したのかさえ曖昧だったが、三月から聞いた話によると、車は衝突寸前で避けられたものの、女児を助けた際の勢いを殺し切れず塀にぶつかってしまったのだという。
 普段のナギであればうまく立ち回ったかもしれないが、生憎雨が降っており、水溜りに沈んでいたビニール袋に足を取られてしまったのだそうだ。緊急事態ということもあり、小学生を庇い受け身もまともにとれなかったナギは、そのまま頭を打ち付けた。しばらくは意識があり、すぐさまマネージャーに連絡を取ったそうだが、それからほどなく気を失ったのだそうだ。
 その後ナギから受け取った情報で救急車の手配をしたマネージャーは、そのまま龍之介にも連絡をしてくれた。彼女もナギからの電話を受けて強く動揺していたのだろう。冷静であろうと気丈に振る舞いながらも、隠しきれない震える声が語った内容に、龍之介も始めは凍りつくしかできなかった。
 電話をもらったときのことを思い出せば、無事とわかった今でも肝が冷えていく。事故の程度もわからず、ただナギが病院に運び込まれたという情報しかなかったので、最悪の事態も想定したほどだった。

「突然の連絡で驚かせちゃいましたよね。マネージャーもかなり混乱してたみたいで……わざわざ来てもらってすみません。久しぶりのオフだったんですよね?」
「それはいいんだ……それよりも教えてもらって助かったよ。心配だから。でも、どうしてこんなにすぐ俺に連絡を入れてくれたんだ?」

 ナギとは恋人関係にあるが、その事実はまだ誰にも話したことがない二人だけの秘密だった。しかしながら、ナギが龍之介の家によく泊まりには来ていることは周知されている。ナギが龍之介につれない態度ばかりとっていたのでよく不思議がられてはいたが、まじかる★ここなの観賞会だといえば大体の人が納得した。一度スイッチが入ったナギが相手をあまり気にせず止まらなくなることを誰もが知っているからだ。実際に龍之介の家でともに過ごすとき、ここなが傍にあることは多かった。
 あくまで周囲が思う二人の関係は友人であるはずだ。だが、ナギのただの友人である龍之介に事故後の、それも情報が不確かな状態で連絡をいれるだろうか? ましてや別事務所のグループだ。実際別グループであっても仲がいいとは思っているが、やはりそれでも連絡するとすればすべてが落ち着いてからが通常だろう。
 龍之介の疑問に、三月は自身も不可解であることを訴えるように眉を下げた。

「それなんすけど、ナギが気を失う直前に十さんのこと呼んだらしくて……それでマネージャーは、落ち着いてからと思ったらしいんですけど、何かあるのかと思って連絡したみたいなんです」
「ナギくんが……」

 恐らくは朦朧とした意識のなかで、自分の名前を呼んでいたと言うことに驚いた。

「なんか心当たりあります?」
「……いや」

 いざというときに彼の口から出る人物と言えばメンバーたちだろう。それは以前にナギ自身も言っていたことであるし、龍之介もそう思った。
 たとえ二人が恋人であったとしても、自分たちからメンバーの存在はすでに切り離せないものとなっている。それは決してナギと龍之介が互いを軽視しているというわけではない。龍之介はナギを大事に思っているし、愛している。なにかあれば全力で力になるし、彼の身に降り注ぐ災難はすべて払い除けてやりたいと願う。ナギが龍之介をどれだけ想ってくれているかはわからないが、少なくとも彼からの愛だって感じている。それでもメンバーがいてこそ今の自分があるし、それだけ苦楽をともにしてきた仲間の存在は大きいのだ。
 だからこそ、気を失う間際にナギが龍之介のことを呼んだことは予想外のことだった。

「ですよねー……。ま、せっかく来てくれたんだしナギに会ってやってくださいよ」
「部外者が面会してもいいのかな。まだ、事故に遭ったばかりだろ?」
「あちこち痛いって騒いでるくらいには元気っすよ。それに、もしかしたらナギのほうでなにか用事があったのかもしれないですし」

 無理なくにかっと笑ういつもの三月の様子に、本当にナギの身に心配はいらないのだと龍之介を安心させてくれた。

「じゃあ、少しだけ挨拶させてもらうよ。すぐに帰るから」
「ゆっくりしてってくださいって。ナギのやつも喜びますよ」
「はは……喜んでくれるかな」

 あまり弱っている姿を見せたがらない彼は、病院のベッドの上にいる自分をどう思うのだろうか。それを龍之介に見られたときの反応は反発が強いような気がして、思わず苦笑してしまう。
 ようやく龍之介の口元が緩んだことを確認した三月は、密かに安堵しながらナギに与えられた個室へと案内した。
 病室からはちょうどIDOLiSH7のマネージャーが出てくるところで、彼女は龍之介を見つけるなり慌てて駆け寄ってきた。

「十さん、来てくださったんですね」
「ちょうど時間もあったし、心配だったから。三月くんから聞いたよ。大事がなくてよかった」
「あのときは不確かな情報のままご連絡してしまい、大変申し訳ありませんでしたっ」

 電話越しの震えていた声は、落ち着き平常を取り戻していた。だからこそ冷静を欠いた己の軽率な行動を悔いる紡に、龍之介は慌てて首を振る。

「謝らないでいいんだよ。むしろ、俺としては連絡をもらえてよかったというか……」
「……あの、十さん。ナギさんなんですが――」

 紡が何かを言いかけたとき、彼女の手に握られた携帯端末が震えた。ディスプレイで相手の名前を確認し、切らずに躊躇っているその様子から、仕事関係の人であることはすぐにわかった。龍之介を気遣い出られずにいるのだろう。
 もしかしたらナギのことについてかもしれない。緊急事態とはいえ仕事はキャンセルせざるを得ない事態となってしまったのだから、それの対応もあるし、今後の調整にもマネージャーとして今は忙しいはずである。

「ナギくんにちょっと挨拶させてもらうね。挨拶したらすぐ帰るから、電話に出てもらって大丈夫だよ」
「オレもついていくし、ナギのやつには失礼な態度取らせないようにするから大丈夫だって」

 三月も龍之介と同じ考えに至ったのか、ともに紡の背を押した。
 仕事であれば割り切った行動ができるはずの紡が、それでもなお何か物言いたげな眼差しを龍之介に向けるが、鳴り止まぬコールに呼ばれて躊躇いながらも頭を下げる。

「――すみません。すぐに戻りますので」

 すぐに電話に出て、声が響かぬところへ歩いて行った彼女を見送り、龍之介は病室の扉へと振り返る。

「じゃ、行きますか」

 ノックをしてすぐ、三月は返事も待たずして扉を開ける。龍之介はやや緊張しながらもその後に続いた。
 起きていたナギはベッドに座っており、三月を認識するとぱあっと笑みを咲かせた。しかし上枠にぶつからないように身を屈めて入室した龍之介を見つけるなり、華やかな笑顔は消え去り、睨むような眼差しが向けられる。なにかナギを怒らすようなことをしてしまったのかと龍之介は狼狽えつつも、どこか険を感じながらもしっかりとしている視線に安堵する。顔色も悪くはなく、頭に巻かれている包帯は痛々しく見えるが三月の言っていた通りそれほどつらそうな外傷はなさそうだった。

「ナギくん。急に来てごめんね。話を聞いたらいてもたってもいられなくなって」

 ベッドの脇まで来てもナギの視線は緩まず、口すら開かない。
 やはり、来てしまったことを怒っているのだろうか。だが怒らすにしても、何も言ってこないのは珍しい。それに、いつも以上に距離というか、見えない厚い壁を感じる。
 龍之介の正体を窺っているような、様子を見ているようなそれはまるで、出会った頃のナギのようだと、ふと龍之介は気がついた。

「――ナギくん?」
「――……」

 いっこうに返事はない。余程怒らせることでもしない限り、声をかければナギは素っ気無くとも応えてくれていたというのに。
 何かがおかしいと三月も気がつき始めたのだろう。

「こらナギ! せっかく十さんが来てくれたんだから、ぶすくれてんなって!」
「三月くん、俺が勝手に来ただけだから。ナギくんも、事故に遭った後だって言うのに押しかけてごめん。また日を改めるよ」

 今にも手を出しそうな三月を宥めつつ、ナギに振り返って笑いかければ、彼の眉間がわずかに寄った。

「――誰です」
「え?」
「アナタは誰ですか。気安くワタシの名を呼ばないでください」

 浴びせられたナギの言葉は雨粒より激しく龍之介の身を打ち、心の奥までその冷たさが染み込んだ。

 

 


 一時意識の混濁がありその後に気を失ったものの、ナギは十分も経たずして目を覚ましたそうだ。
 車体を避けた先の塀に頭をぶつけた影響で頭皮が少し裂けてしまったが、縫う必要はない程度で、目立った外傷もとくになく打ち身程度で済んでいる。
 頭を打ったので精密な検査を行ったが、脳にも異常はなく、念のため経過観察は必要であるがさほど心配はないだろうというのが医者の判断だった。
 車体との接触もなく、ナギの被害は最小限に留められた。結果を知れた誰しもが安堵していたのに、ひとつだけ、医者も予想してなかったことが後に判明した。
 ナギは記憶障害を起こしていたのだ。そのため一部の記憶が失われていたのだが、それは龍之介に関するものだけだった。故郷のことも、IDOLiSH7のことも覚えているし、日常生活も至って問題はない。龍之介が関わること以外は近日のものも鮮明であるし、TRIGGERやRe:valeのことも覚えている。だが、楽と天のことはわかっても、もう一人のTRIGGERのメンバーである龍之介のことだけは欠落してしまっていた。
 ぼんやりと、TRIGGERが三人組であることは覚えているらしい。だが言われなければ楽と天に続く三人目は思い出せないし、これまであった様々な出来事からもたった一人消えてしまった。
 そんなナギに医師は、解離性健忘ではないかと診断を下した。
 事故による外傷というより、事故に遭ったという精神的な衝撃を受けて、特定の情報、つまりは龍之介にまつわることのみを思い出せなくなっている、系統的健忘だろう――そう医師は言っていたと、連絡をくれた大和から話を聞いた。
 記憶がいつ戻るはわからない。すぐに戻ることもあれば、失われたままになることもあるという。
 医師による診断の結果については大和から教えてもらったことで、龍之介が直接話を聞いたわけではない。そのため龍之介自身もネットでナギの身に起こったであろう症状について調べてみたが、解離性健忘になる主だった理由は心的要因であることがわかった。
 事故に遭ったことでなく、龍之介の存在を忘れたということは、もしかしたら龍之介に対し強いストレスを感じていたのではないだろうか。事故の衝撃を受けた拍子にスイッチが入って、パチンとナギの記憶から龍之介が消されてしまったとしたら。
 気を失う直前、ナギはマネージャーに龍之介の名を告げたという。はたして彼は朦朧とする意識のなか、最後に何を想って龍之介を呼んだのだろう。
 答えを知りたいが、今は言ったことさえ本人が忘れてしまっているのだから答えは出ない。
 今のナギにとっては龍之介は互いに切磋琢磨し合ったライバルグループの、時としてにともにステージに立ったTRIGGERの十龍之介だということさえ記憶にない。見ず知らずの他人でしかなく、それは出会った頃に向けられていたような、凍えるような冷たい青い瞳が彼の心情を包み隠さず教えてくれた。もしくは、あえてナギが龍之介を突き放しているのかもしれない。
 ナギの心に引かれた他人との一線に、今の龍之介では足を踏み入れることはできない。気をつけているつもりだが、意図せずそこを飛び越えようとしてしまうことがある。今のナギでは許せるはずがない距離を詰めようとする龍之介を警戒しているのだろうか。
 記憶がいつ戻るかもわからないと知った龍之介に、慰めからか、もともと塩対応をされていたことを知ってか、これを機に一から関係を作り直せばいいと言う者もいた。
 龍之介とナギの関係は二人だけの秘密だったから、互いのメンバーでさえ知らない。自分たちが実は恋人であって、人前でも、二人きりのときでもそこまで甘えてはくれないナギであっても、それでもそこにはちゃんと愛があったことを。
 当事者であったナギの記憶は忘れられ、今その事実を知るのは世界で龍之介ただ一人だ。
 怪我の経過を知りたくてもナギには聞けないし、他人に聞くにしても他グループの一人という範囲に留まってしまう。
 もう痛くはないかとか、疲れは大丈夫かとか。あれから車が傍に来ても恐れていないかだとか。つらいとき、苦しいときでも仮面を被って一人で道化を演じていないかだとか。聞きたいことはたくさんあるのに、心配でたまらないのに。今すぐにでも傍にいって抱きしめたいのに。まともに話をするどころか、顔を合わせてもらうことさえ今はしてもらえない。
 皮肉なことに、事故前は多忙を極め会うことが叶わぬ日々が続いていたというのに、ナギが復帰して以降、不思議なくらい仕事が重なりよく顔を合わせることになった。律儀なIDOLiSH7は挨拶の都度、そのときの仕事に参加するメンバー全員で来てくれるし、そのなかには勿論ナギの姿もある。一言だけでも龍之介に対しても挨拶をしてくれる。だが言葉を交わすのはそのときだけで、あとは時々ナギと目が合うだけだった。といってもそれもいつもほんの一瞬で、すぐに逸らされてしまうのだが。楽や天と何気ない会話をすることはあっても龍之介とはなにもない。
 ついナギを目で追ってしまっているのだろう。そんな龍之介を気を遣い、とくに大和や三月が場を和ませようとしてくれるのがわかった。それを申し訳なく思うのに、ふとしたとき。その柔らかさを、触れ心地を知る金髪を探してしまう癖が抜けきらずにいた。
 一ヶ月経ってもナギの記憶が戻る気配はなかった。ナギの硬化な態度も和らぐことなく、事後直後ほどの警戒心はなくなったのは感じるが、それでも未だに様子を窺うような、観察されているような視線を感じるし、目が合えばすぐに逸らされてしまう。
 だから龍之介はナギとの接触を極力避けた。龍之介自身が、これ以上どうナギの接すればよいかわからなかったのだ。
 ただの友達だったならまた一から仲良くなればいいと思えたはずだった。だが自分はナギを深くまで知ってしまった。
 ここなや日本文化を愛する無邪気な姿も、その動作の優雅さも、華やかなで人を魅了する美しい顔立ちとか、そんな誰もか知っていることだけじゃない。
 つんと澄ました顔が龍之介の言動で崩れる様はどんな反応であってもかわいいのだ。メンバーのことを語るときの嬉しそうな表情も、苛々して爪を噛む様子も、ここなを観るときの真剣な眼差しも。
 ナギと過ごした多くの時間はいつだって鮮やかに龍之介のなかに蘇る。時には喧嘩して、互いに譲らずなかなか仲直りが出来ないこともあったが、それでもなんだかんだと騒ぎ合いながらも、ライバルグループとして高め合いながらも、二人の時間も大切にしてきた。
 ――女性への愛を甘く囁く唇が零す、控えめでおさえこまれた快感に震える声。耳まで色づく鮮やかな朱色の変化を見せる、滑らかな白い肌。しがみついてくる腕の力強さに、潤んだ瞳の奥に揺らぐ熱。甘そうに見えて、でもやはりしょっぱい汗の味。
 疲れ果て眠りに就いた後に見れる、無防備であどけない寝顔。
 恋人としての時間を過ごしていないのに、思い出が美化されていっているのか、ナギを恋しく想うあまりか。彼への気持ちは膨れ上がる一方だ。
 会えば愛しく想う気持ちが溢れてしまう。視界に入ればいつまでもその姿を眺めてしまい、無自覚に手を伸ばし触れてしまいそうになる。なんど自分の指先を丸めて、自覚のない衝動を押さえてきたことだろう。
 今更ただの友人として接するには、ナギは龍之介の奥深くに根付いている。きっと引き抜くことはできないし、龍之介自身もそれを望んではいない。
 もしこれが仮に、ナギの心が誰が別の人に移っただけなら、龍之介も奮って彼の心を取り戻したことかもしれない。だが忘れられてしまってはどうしようもできない。
 たとえナギが龍之介を忘れてしまっても、一から関係を築くことが困難だとしても、たとえ、彼を諦めることになっても――もう、それでもいい。
 あの事故でナギに大事なくて本当によかったと思う。たとえもうラビチャさえ気軽に送れなくなっても、彼の笑顔が自分に向けられることがないのだとしても、ナギがどこかでナギらしく笑える日々が続いているのならそれでいい。そこに自分がいなくても彼は彼の力で幸せでいられるのだから。
 龍之介がナギを手に入れられたのは一時の幸運であった。本来であれば見向きもされなかったろうに、様々な困難があり、ときにぶつかり、ときにそれをともに乗り越え、ときに助け合って。そんな奇跡の連続で舞い降りた恋人が、再び手の届かない場所に行ってしまっただけであって、だからと言って二度と会えないわけでもない。
 あとは与えられたこれまでのナギとの時間を抱きしめて、これからはナギの進む道を周囲の一人として見守ることを決めた。
 ――そう、決めたのに。

 


 時々ふと、夜中に目が覚める。
 空いているベッドの片側を見て、ついナギの姿を探してしまう。
 しばらくしてナギがいないことこそが現実であると思い出し、自らに苦笑する。はじめからいない存在を探してなんになるというのか。わかっているのに優しい夢は繰り返される。真夜中に起きるのはこれで幾度目となるだろうか。
 目を閉じても一度放り出した眠気は戻っては来ず、仕方なく体を起こした。
 水でも飲んで気持ちを切り替えようとベッドから出ようとして、ふとサイドテーブルに目が留まる。そこには眠る前に眺めていた雑誌が、カーテンの隙間から零れる月光の薄い光に照らされていた。
 ナギが指の細い白い手を取り、その甲に唇を落として甘い目線をこちらに向けているものが表紙を飾っている。口元は隠れていて見えないはずなのに、きっと優しく微笑んでいるのであろうことがなんとなく感じ取れた。
 この表紙が、ナギに龍之介の記憶がある頃に撮ったものなのか、それとも事故の後のものなのかはわからない。わかることがあるとすれば、ナギは今も生きているし、龍之介が傍からいなくなっても彼の日常はかわりなく続いているということで。

「……ナギくん」

 恋人になれなくてもいい。友達でなくてもいい。だけどせめて仕事仲間として、時々でいいから笑いかけてくれないだろうか。
 自分から行かなければナギと距離を詰めることはできない。わかっているのに、求めているのに、龍之介から話かけることがほとんどできずにいる。
 龍之介の心に空いた穴は埋まらぬままで、溜めようとした勇気もそこから落ちていく。
 ワタシよりも大きいですね、と言って彼と合わせたことがある手で押さえても穴を塞ぐことはできなくて。

「ナギくん」

 口から零れる名前に応える者はなく、ただ闇に溶けていく。
 無意識に空けてしまうベッドの片側に置いた手は拳を握り、巻き込まれたシーツが皺を寄せた。

 

 


 楽屋で台本を読んでいた龍之介は、肩に手を置かれ、はっとして顔を上げた。
 振り返ると、楽が厳しい表情をして立っていた。

「おい、龍」
「どうかした?」

 明らかに自分に対して何か抱えている楽の表情に、何をしてしまったかと考えるがとくに思い当らない。

「どうかしたじゃねえよ。さっきから何度も呼んでただろうが」
「え……? ご、ごめん。ぼうっとしてた」

 楽の言葉に覚えがない。反応しない龍之介に業を煮やして肩を叩いてきたのだろう。
 そういえば楽は自分の席の正面に座っていたはずだったことを思い出し、わざわざ移動までさせてしまったことを申し訳なく思う。そしてそれほどまでに楽の声に気がつくことのできなかった自分に衝撃を受けた。

「台本開いているわりに、さっきからページ進んでないじゃないか」
「ひどい顔色だよ。ちゃんと寝てるの?」

 斜向かいから、天からも声がかかる。
 いつもであれば、プロとしての自覚が足りないだとか、体調管理も仕事のうちだとか、そんな説教が始まるところだが、今回は本気で心配してくれているのか、そこに厳しさはなく気遣わしげな表情が向けられる。
 楽も龍之介を気にして声をかけたようで、彼の眼差しもまた龍之介に向ける不安が映し出されていた。
 うまくごまかしていたつもりだったが、二人にここまで心配をさせてしまうほど態度に出てしまっていたようだ。

「最近、寝付きが悪くて。ごめんね、二人に心配かけるほどってことは結構出ちゃってるよね。これじゃプロ失格だ」

 天が言う言葉をあえて言って笑えば、二人はその通りだと笑ってくれることもなく、むしろ余計に苦しそうな表情をする。
 間違えたのだと気がついた龍之介が次の言葉を探す前に、天が口を開く。

「六弥ナギの件?」
「……っ」

 確信を突くその名に龍之介は言葉を詰まらせる。それが答えと判断した天は深く息を吐いた。

「やっぱりね。彼が事故に遭って以降、様子がおかしいと思ったんだ」
「六弥に忘れられたこと、やっぱりつらいか?」

 ナギと龍之介が実は付き合っていたということは知らないまでも、ナギが龍之介を忘れてしまったことは二人とも把握している。そして、以前から龍之介がナギと親しくしたがっていたこともわかっていて、最近皆の前でも軟化してきた態度によかったなと声をかけてくれていた。それが事故以来出会った当時に戻ってしまい、ついナギを気にして目で追ってしまいながらもまともに声をかけられずにいる龍之介を二人も気にかけていたのだ。
 楽の問いは当たっている。龍之介はナギとの関係がなくなってしまった今でも夢に見るくらい彼の傍に行きたい。
 そう、自分の抱える想いを自覚しているのに、それを認めるべきたった一言が喉につかえて出てこなかった。

「龍……ボクたちにできることはなにかない?」
「なんでもする。些細なことだっていいから、遠慮せず言えよ」
「……最近の俺、そんなにひどかったかな」
「ひどいなんてもんじゃないぜ」
「仕事に出さないから目を瞑っていたけれど、我慢できなくなるくらいにはね」
「そっか……ありがとう、二人とも。それに心配かけてごめん」

 体を張ってでも守るのだと誓った二人に、いつの間にかまた不安を与えてしまっていたようだ。
 なんて頼りない兄貴なんだろう。
 こんなんじゃだめだと、深く息を吐き、そして勢いよく龍之介は立ち上がった。

「うおっ」

 近くにいた楽が驚いて仰け反る。天もじっと龍之介の動向を見守っていて、二人にそれぞれ目を配り、ぐっと拳を握った。

「本当にごめんね、二人とも。確かにちょっと、ナギくんのことで悩んでいたんだ。忘れられたこと、本当はつらくて……でももう、大丈夫だから」
「……本当に?」
「ああ」
「本当だろうな?」
「ほ、本当に本当だって!」

 二人のおかげで目が覚めた。
 守らなければならないものはここにもある。いつまでも揺らいだままでいたそれすらも失いかねない世界だ。半端な覚悟で立っていられる場所ではなくて、隙を見せればいつだって荒波にもまれてしまう。それは龍之介だけでなく、大切な二人も巻き添えにして。
 そんなことを望んではいない。そして、そんな事態を引き起こせばきっと、彼にだってなにをしているのだと叱られてしまう。
 ナギとの件はいますぐに解決することはできそうにない。ならば、この気持ちがもう少し落ち着くまで完全に距離を取ろう。
 今はどう足掻いても龍之介自身、事故のショックが抜けきっていないので、どうしても暗く考えてしまうのは仕方がないことだ。
 そのあとでまたナギにどう振る舞うべきか、どう距離を保つべきか心の中で整理しよう。
 そう考えを改めて、二人に見守られるなかで、よし、龍之介が意気込んでいると、ふと机上の携帯端末が震える。その振動のパターンから、誰かからのラビチャが届いたことがわかった。
 画面を確認して龍之介は目を見張る。

『今晩、アナタの家に行ってもいいですか?』

 簡潔な文章の送り主は、今まさに龍之介の心の大部分を占めるナギからだった。

 

 


 チャイムが鳴り、龍之介は玄関に向かう。
 扉を開ければ、つけていたマスクを外しているナギがいた。

「こんばんは、十氏」
「こ、こんばんは……」

 久しぶりに真正面から視線が交わる。
 長いまつ毛に縁取られた美しい青い瞳に吸い込まれそうになるのを耐えて、へらりを笑って見せた。

「どうしたの、今日は突然。話したいことがあるって言ってたけど……」

 ラビチャのやり取りで、ナギが直接会って話がしたいと言って家を訪れたがった。龍之介がどこかの店などでは駄目かと提案したが、ゆっくりと話したいとのことで、ナギの希望通り家に招く形となったが、その内容はなにひとつ明かされていない。
 ラビチャではだめで、家のような確実に二人きりになれる場所を望むほど重要な用件とは何かが気になり、ナギから連絡を受けてからというもの龍之介はずっと落ち着けずにいた。
 ――だが本当は話そのものよりも、久しぶりに二人きりで会うナギに動揺している。手の届くところまでナギが来るのは、あの事故の日以来である。彼が纏う香水がふわりと香るのが何だが懐かしくて、じんと胸の奥が痺れた。
 ナギはかけていた黒縁の眼鏡を外してケースに仕舞う。頭に被っていたフードとると、照明の明かりの下でもその上質さがわかる金髪が艶やかに輝いた。
 崩れた髪型を手櫛で軽く整え、髪を耳にかけながら、今度は目を合わせずにナギは言う。

「上げてくださらないのですか?」
「あ……気がきかなくてごめん。どうぞ、上がって」

 来客用のスリッパを用意してナギの足元にそろえて道をあける。ナギは靴を脱ぎ玄関を上がると、そのまま家主を置いて家の奥へと向かった。
 迷いない足取りに一瞬、記憶が戻ったのかと思った。だが家の造りは大抵似たようなものであるし、玄関から直線に進んだ先にダイニングがあるというのも一般的だ。すぐに甘い幻想は振り払い、玄関の明かりを消して龍之介も後を追う。
 本当は上げるつもりはなかった。早くナギを帰したかったからだ。正直今のナギと二人きりになるのは胸が苦しく、龍之介が耐えられそうにない。しかしナギの用件とは立ち話程度では済む内容でないのだろう。
 扉を出てすぐのところで立ち止っているナギに気がつく。

「適当に座ってて。今、紅茶を淹れるね」

 キッチンに向かった龍之介にナギの視線がちらりと向けられたことに気がついたが、そのまま戸棚まで向かう。
 ケトルでお湯を沸かして紅茶を用意する。
 ソファに大人しく腰を下ろしているナギにカップを差し出した。

「どうぞ」
「ここな、ですね」

 手渡されたカップを受け取ったナギは、目線の高さまで持ち上げて、側面にプリントされた少女の笑顔を確かめるようその輪郭をなぞる。

「あ……そ、れは……前にナギくんからもらって! ナギくん、ここなちゃん好きだったよね?」
「ええ」

 まるで今回のために引っ張り出してきたかのように言ったが、本当は違う。龍之介がナギのために用意したカップだ。これをプレゼントしたとき、とても喜んでくれて、なにを飲むにしてもいつもそのカップを使っていたのだ。
 今日はナギが使用していたものを出さないようにと気をつけていたのに、染みついている習慣はそう簡単になかったことにできなかったようだ。
 しどろもどろな説明をどう思ったのだろう。探るような視線に冷や汗を流す龍之介にナギは追及はせず、そうですか、の一言で済まされた。
 安堵するのもつかの間、紅茶を一口含み味わったナギは、カップを机に置き、龍之介に振り返った。

「率直に尋ねます。アナタとワタシは恋人だったのですか?」
「っ……」

 紅茶を飲んでいた龍之介は、危うく吹きだすところをかろうじて耐えた。そのとき、動揺に揺れた中身が唇に触れ、その熱に悲鳴を上げる。

「……なにをしているのです」
「ご、ごめん。ちょっとおどろいて……」

 ティッシュで口元を拭う龍之介を、ナギの呆れた眼差しが見つめる。
 ひりつく唇をしばらく押さえ、ようやく熱が引いた龍之介が丸めたティッシュをテーブルに置いた頃、ナギが言った。

「それで、質問に答えてください。偽りないようお願いしますね。たとえ嘘をつかれてもワタシは見抜きますよ」
「……なんでそう思ったの?」

 少なくとも、これまで龍之介に近付こうともしなかったナギの態度を見れば、自分たちが恋人同士であったなど想像をしていた様子すらないようだった。だからこそ先程のナギの発言が突拍子もないことに思えて驚いたのだ。

「ラビチャの履歴を見返したのです。ワタシはよくアナタの家に来ていたのでしょう。時には泊まることもあったほど親しくしていたことはわかっています。――ただ、いざという時のため、誰かにラビチャを見られても言い逃れができるよう、明言を避けていたのでしょうね。どんなにやり取りを遡っても、アナタからの一方的な好意は感じても、ワタシがそれに対して応えている様子はありませんでした。ですからアナタと付き合っているという確証が得られなかったのです。ただの親しい友人かとも思いました」

 淡々と事実を述べるナギに、龍之介は無意識に拳を握る。
 ナギがラビチャの履歴を見る可能性をすっかり失念していた。記憶を失ったというのだから、これまでのやり取りを振り返るのは当然のことだというのに。
 だがナギの言った通り、過去の会話を振り返っても二人が恋人であると辿り着くのは難しいはずだ。何故なら付き合うことが決まったとき、情報流失など、もしものときのため龍之介からもナギからも二人の関係がわかる内容は送らないように約束をし合ったからだ。それでもよく龍之介がうっかりする言葉を送り、後でナギに注意をされることも稀にあったが、付き合う前からの態度を思えば仕方ないといつも溜め息混じりに許してくれていたことがふと蘇る。
 アナタは迂闊すぎます、と腰に手を当て責めるように睨んでいた青い瞳は今、表情にも、その目にも感情を伴わない冷静さを龍之介に示しつつ、室内を一巡した。

「この家には、随分とワタシの物がありますね?」
「え?」
「このカップはワタシ専用のものなのでしょう? 使用感がありますし、ワタシの手によく馴染む。それに――玄関にも本当はワタシのスリッパがあったでしょう。八乙女氏と九条氏用のものの隣、ひとつ空いていましたよね。そこに置いてあったのでは?」

 玄関に置いてあるスリッパ立てに、確かに楽と天のそれぞれのイメージカラーの専用スリッパがあって、その隣にはナギ用のものがあった。だがメンバーでないナギのものがあることへの説明ができないため、隠しておいて、今日は来客用のものを出していた。
 スリッパを用意するとき、癖でナギのものがあるところに手を伸ばしかけていたのを見ていたのかもしれない。聡いナギのことだから、自分の手に馴染むカップがあったことも関連してそちらも推測した可能性がある。
 他にもナギが持ちこんでいたクッションやブランケットは隠しておいたが、テレビ台の傍にあるまじかる★ここなのDVDBOXはそのままにしてしまっていて、それも指摘され、自分の迂闊さに頭が痛くなる。それだけ日常の中にナギに携わるものが馴染み、あるのが当たり前になっていたので見落としが多かったようだ。

「それに、この紅茶。これはワタシが愛飲しているものですね。国内では販売している店は限られていますし、余程紅茶にこだわっていない限りは知っている者も少ないでしょう。アナタがそこまでの紅茶好きでないという調べはついていますし、自ら入手したとは考えにくい」
「それはその」

 まさか下調べまでされているとは思わなかった。
 どうにか言い逃れする言葉を探す龍之介をナギは容赦なく遮る。

「それに、アナタは完璧な手順で紅茶を淹れて見せた。いくらなんでも淹れていただく紅茶にケチはつけません。ですが、ワタシはアナタに淹れ方を指導したのでしょう? アナタの紅茶を美味しく飲みたくて、いつも淹れていただきたくて、だから教えたのでしょう」
「……俺がきみに教えてって頼んだんだよ」

 これも嘘だ。本当はナギから、これからもワタシのために淹れることになるのだからマスターしなさいと言われて、丁寧に指導された。一人で淹れられるようになったとき、紅茶を楽しみながら褒めてくれたのだ。紅茶だけでなく、ハーブティや、珈琲の淹れ方だって豆の種類だって教わった。ナギの好みのミルクの量ごとマスターした。
 龍之介が差し出した飲み物を堪能したナギが、いつも完璧ですね、と笑顔を見せてくれる瞬間が好きだった。

「ナギくんの言う通り、この家にはナギくんのものもたくさんある。友人としてとても親しくしてくれていたからね。ナギくん、俺のこと忘れちゃってたから、驚くかと思って黙っていたんだ。ごめんね」

 再び嘘を重ねて、小さく笑い謝る。
 本当の関係に辿り着かれるよりもいいと思ったのだ。だが、ナギは冷たい眼差しをしたまま嘲笑するようにわずかに口の端を上げた。

「まあ確かに、ここまでのことだけを鑑みればただの親しい友人だとワタシも判断したでしょう。ですが、アナタの嘘は見抜くとお伝えしたはずですよ? 腹を決めたアナタは普段のアナタと比べ物にならないほどしっかり腰を据えられますが、嘘が上手になるわけではないですね」

 すべてを見透かしているような青い瞳に射抜かれて、龍之介は言葉を詰まらせた。
 どうすればナギを納得させられるか――どう言えば諦めてくれるのか。懸命にその道を模索するが、答えは出ぬままタイムリミットをナギが告げる。

「極めつけはアナタですよ、十氏」
「俺が……?」
「ええ。アナタのその態度です。ただの友人というなら、何故すぐワタシに明かさなかったのですか? やましいことはなにもないのなら言えばよかったではないですか。なのにアナタときたら口を閉ざした。しかもメンバーさえワタシたちが親しいことを知らなかった。つまりは秘密の親しい関係――恋人であると推測できました」
「あ、あははは……そんなわけないよ。ナギくんが俺なんかを相手にするわけないだろう?」

 上手く笑えているだろうか。上手く否定出来ているだろうか。そんな龍之介の不安を余所に、ナギはあっさり認めた。

「ええ、そうですね。そのはずです。事実、ワタシは他の男ども同様にアナタにはいわゆる塩対応であったそうですね。メンバーから聞きました」

 三月など、ナギが龍之介に対して特に当たりが強いことを心配してくれたこともある。その頃はまだ付き合ってなかったし、実際あまり好かれていなかったので仕方ないが、親しくなって以降もそこまで表面上の関係は変わらなかったため、印象も変わらないまま今にきてしまったのだろう。

「しかし、最近はそれも柔らかくなっていたのだと聞きます。それはつまり、少なからずアナタを認めていたからなのでしょう。自分の記憶がない今、他人の言葉だけならいくらメンバーの言葉でさえも信用なりませんが、過去のワタシの態度であれば信用できます」

 言葉が重ねられていくたび、龍之介を見るナギの視線も鋭さを増していく。

「それに、ワタシは嫌いな者のもとへわざわざ出向きません。ましてや二人きりで一夜を過ごすなど、アナタを信頼していなければ不可能です。それでもまだワタシとの関係を否定しますか」
「――……」

 否定も誤魔化しもしなくなった龍之介の態度を肯定と取ったのだろう。ナギは一口紅茶を含み、一度仕切り直す。
 その間に龍之介は、必死に言葉を探したがなにも浮かばなかった。だがナギに容赦はない。

「何故言わなかったのです? ワタシたちは恋人だったのでしょう。それとも、ワタシがいらなくなったのですか?」
「それはちがう!」

 放った言葉の強さに、ナギが目を瞠る。龍之介自身も咄嗟に出た自分の声量に驚いた。
 思わず乗り出していた身を戻し、またも溢れそうになる衝撃を抑え込む。

「大きな声を出してごめん……でも、それはちがうんだ。ナギくんがいらないなんて、そんなんじゃないんだ。ただ、ナギくんが――」
「言ってください。今日はアナタと話し合うため――アナタの言葉が聞きたくてここに来たのです。もう隠し事はバレたのですから、これ以上の秘密はいりませんよ」

 続きを言うべきが迷い、一度は言葉をのみ込んだ龍之介をナギが促す。

「……ただ、ナギくんが生きていれば、たとえ俺が傍にいられなくなってもそれでいいんだ。ナギくんが、自分のいたい場所で笑っていられるのなら、それで」

 情けなくも震える両手を重ねあわせ、あの日の恐怖を思い出す。自身を落ち着かせようと深く息を吐いて項垂れる。
 ナギがいなくなるかもしれないという恐れが、どんどん足のほうから絡みついてきたあのときを思い出す。心臓まで絡め取られて、三月から答えを聞くあの瞬間も、本当は崩れ落ちそうだったのだ。
 怖かった。ナギにどうしようもないことが起きていたらと思うと早く現状を知りたいのに、決定的な一言が告げられたらと思うと耳を塞ぎたかった。
 実際は無傷とはかないまでも軽症で、ただ自分のことを忘れてしまっただけというのだから、初めこそ衝撃を受けたが、それで良かったとするのは当然だろう。

「俺がいなくてもナギくんの日々は変わらないよ。だから、俺と付き合ってるなんて余計なことを言って混乱させるくらいなら、いっそなかったことにしたほうがいいって思ったんだ」
「……そうですね。アナタがいなくとも、ワタシはアナタと出会わなかったワタシとして過ごせています。ですがアナタはどうなのですか? ワタシとの日々があるのに、ワタシがいなくなってもいいのですか?」

 たとえナギがいなくても、龍之介の日常もまた回る。足りないものがあってもそのせいですべてが駄目になるわけではない。ナギが龍之介以外に愛するものがあるように、龍之介もまたナギ以外に愛するものがある。
 きっとナギはそれをわかっているだろう。わかっていて問いかけている。龍之介自身も何度だって自問自答を繰り返した。
 それでも、何度だって答えは変わらなかった。

「――必要だよ。俺にはナギくんがいるんだ。だから、ナギくん自身のことを諦めても、今までの思い出までは手放さないよ。その他の一人になっても、これからもきみを想い続けるし、ナギくんになにかあれば俺は全力できみを助けにいく」

 己の決意をナギにも誓うよう、顔を起こして青い瞳を見つめる。
 今は凪いだ海のように静かだが、ときにそこが波荒ぶ激しさを見せるときや、陽射しに煌めく水面のように輝いているとき、そして深い海の底のような静寂を湛えているときなど、海のように様々な変化を見せてくれる。だからだろうか、目が離せなくなるのは。どうしようもなく魅力を感じて、吸い寄せられてしまうのは。
 無意識に顔を寄せそうになる龍之介だが、ナギが瞬きをして我に返る。
 慌てて顔を逸らした龍之介にナギは尋ねた。

「ワタシたちに体の関係はありましたか?」
「えっ!?」

 唐突な問いかけに、龍之介の頬はかっと赤くなる。その反応に確信を抱いたろうに、ナギは再び質問を重ねる。
「恋人の家に泊まっていたのですから、ありましたね?」

「……あったよ」

 龍之介は消え入りそうな声で答えた。これまで幾度体を重ねてきたか覚えていないほどではあるが、改めて認めるのはいささか恥ずかしかったのだ。
 ナギは顎に手を添え、考えるようなそぶりを見せる。

「Hm……ならば、ワタシを抱きますか?」
「なっ……!? な、んで……」
「もしかしたらそれでアナタとのこと思い出すかもしれませんよ。それにアナタも突然のお別れだったのですから、大変だったでしょう。なにも思い出さないままだとしても、最後の思い出として差し上げますよ。それが振り回してしまったことへのせめてものお詫びです」

 つらつら流れるナギの言葉が頭に入ってこない。
 膝に置かれた龍之介の手にナギの手が重なった。その手に応えぬまま龍之介は搾り出すように言う。

「……詫びとして与えるほど、きみの体は安くないだろう」

 出会った頃は、目線が合うことでさえ煩わしげにされた。肩に手を置けばあからさまに払われて切なく思ったこともある。手の届く場所までいくのでさえ、出会ってから随分時間が経ってからだった。
 ナギにとって今の龍之介は、記憶をなくす前に恋人であった男でしかないはずなのに。

「ええ、そうです。ですがアナタがあまりに憐れな様子でしたので、ワタシなりの慈悲ですよ。それともしたくはないですか? 思い出の中のワタシで十分?」

 龍之介はナギの腕を取り、正面から向き合った。
 これまで大人しかったのに、突然動き出して驚いたのか、青い瞳が大きく見開かれていた。だがすぐに平然を取り戻し、龍之介が何をしようというのかを見守る。
 いつも綺麗だと思うその瞳が、今はなんだが無性に腹立たしい。なにがそう思わせるかわからないが、その表情を崩して、自分に縋らせたくなるひどい衝撃が胸の内を駆け巡る。

「きみが最後にもう一度だけ触れる権利をくれるというなら、遠慮はしない。本当にいいんだね」
「……ええ。どうぞ、ご自由に。ああでも、ワタシは同性との経験はありません。本来ならレディに愛されるためだけのはずでしたから。アナタが初めてだったのでしょうが、その記憶も今はないのですから、これが初体験です。どうぞ優しくしてくださいね」

 初めて体を重ねた時に似た台詞に、龍之介はナギに気づかれぬように、こみ上げる衝動をおし留めて歯を食いしばる。
 衝動は大蛇のようにうねり龍之介の胸を締め付ける。だが熱はなく、まるで氷のように冷たくて、今度はなんだかとても泣きたい気持ちになった。
 久しぶりにナギと話をしているというのに、触れたというのに。彼の体温を感じられているというのに。記憶と似た台詞を言っているのに。
 何故だろう。記憶を失った彼がじっとこちらを窺い眺めていたあの時のほうがまだナギを近くに感じた。

「――せめて、ベッドに行こう」

 ベッドでなければ嫌だ、なんて言っていたナギを思い出して、龍之介はソファから腰を上げる。それに続こうとしたナギに向き直り、彼を抱きかかえて持ち上げた。
 ナギのほうが背は低いと言っても十センチだけだ。しっかりとした重みに一瞬だけふらつくも、すぐに体勢を整えそのまま寝室へ向かう。

「っちょ、下ろしなさい!」

 龍之介が一瞬均衡を崩したのが怖かったのが、しっかりと龍之介の胸元辺りを握り締めながらナギが唸った。しかしそれを聞き入れぬまま寝室へと向かい、どうにか扉をあけて、その先にあるベッドの上にナギを横たえさせる。
 ナギの上に覆い被さると、龍之介を見つめた瞳が細まり、再び抗議のためにくわりと開きかけた口が結ばれる。

「怪我はもういいの?」
「あれから一ヶ月以上経っているのですよ。もともと大したものでないのですからもう大丈夫です」
「どこ? 見せて」
「……」

 ナギは不服げにしながらも、シャツのボタンを外し、左腕だけを抜いで擦りむいたとされる肘や肩を見せた。
 電気もつけてない室内には、リビングの明かりが開けっ放しにした扉から入るだけだ。薄暗い闇の中にぼんやり浮かぶ白い肌にはかさぶたもなく、擦ったとされる傷痕はほとんど消えかけてはいるが薄らと残っている。わずかにある肌の凹凸を指先で辿ると、微かにナギの肩が震えた。
 くすぐったかったのだろう。その反応が少しだけ嬉しくて、消えかけとは言え残る傷跡が痛ましくて、龍之介はそこに唇を落とした。

「痛かったよね……」
「今は痛くありません。それに、これはレディを守った名誉ある証です」
「うん……そうだね。それでも、ごめんね」
「何故アナタが謝るのです?」
「――傍にいられなくて。ナギくんを、守れなくて」
「随分と傲慢なことをおっしゃいますね。いつでもワタシの傍にいるわけでもないのに。それに、ワタシは今回のことを後悔していませんし、アナタに守っていただかなくとも自分の身は自分で守れます」
「ナギくんは強いからね。俺もよく、助けられた」

 いつだってナギは龍之介の語る理想に現実を突き立てる。容赦なく、呆れた考えだとでも言うように。ナギの言葉にまったく傷つくことはないとは言わないが、鈍い自分にはそれくらいすっぱりと言われたほうがわかりやすい。はっきり物言うナギも清々しく好きなのだ。
 傷があったはずの頭にも唇で触れる。鼻先が柔らかな髪に埋まり、そのまま額を押し付ける。胸いっぱいにナギの香りを吸いこんだ。
 ひどくしたいという怒りのような衝動が少しずつ宥められていく。ナギを抱くのは久しぶりだし、自分の精神面も不安定を感じている。このまま手を出してもいつ暴走するかわからず、ナギに必要以上の負担を強いるリスクを考えればこのままナギの体に触れているだけでいいのではないかと思ってしまった。
 このまま抱きしめ落ち着こうとした龍之介の心の内を覗きでもしたのだろうか。ナギが龍之介の服に手をかけ、裾を捲り腹を出した。

「さすがエロエロビーストと呼ばれる男の体ですね。よく鍛えられています」

 ふふ、と微笑んだナギの吐息が鎖骨を撫でていく。
 伸ばされた白い指先が腹筋の凹凸をくすぐり、辿り着いた先の臍に軽く爪が立てられた。

「な、ナギくん……」

 龍之介がナギの頭から顔を起こせば、シーツに髪を散らしたナギが目を細める。指先はさらに下りていき、ベルトに引っかかった。

「せっかくのこの体、今のワタシには教えてくださらないのですか?」

 挑戦的な眼差しの中に小さく滲む期待の色に、体の奥がかっと熱くなる。
 龍之介は体を起こし、上着をすべて脱ぎ捨てた。
 晒される上半身に、暗い室内で光る龍之介の瞳に、ナギは微笑んだ。

 

 


 記憶がなくても、体はしっかりと龍之介の与える快楽を覚えていたようだ。
 ナギが澄ました顔でいられたのは初めの頃だけで、今では自分も知らない悦を龍之介に暴かれて戸惑っていた。

「……っ、もう、そこは止めなさい」

 胸に吸い付く龍之介を妨害するべく、ナギの手が頭を押さえる。ちらりと目線だけを向ければ、ほんのり目尻が濡れる瞳に睨まれた。
 きっと赤らんでいるであろう頬は、しかし暗がりでよく見ることができない。一度明かりをつけようとしたらこのままでと言われてしまったので、色づけばなお愛らしい表情が見えないことが残念だった。

「なんで?」

 舌先で押し潰していた尖りからわずかに顔を起こせば、唾液が糸を繋げるも、すぐにふつりと切れてしまう。
 ころころと転がし愛でていたものがなくなり口寂しいので、すぐにもう片方のつんとした粒に吸い付きながら、下半身に伸ばしていた手を動かせば、頭を押さえる手がびくりと震えた。

「ナギくんのここ、喜んでくれてるのに」
「っ、ふ……く」

 狭い隘路に埋めた二本の指で内壁をなぞりながらゆっくり出し入れすれば、ナギが零れそうになる声を押し殺す。それでは苦しいだろうに、男に喘がされるなどごめんです、などと言ってナギは意地を張ることを選んでいた。
 数を重ねてからはナギも素直に声を出すようになっていたが、初めの頃はなかなか声を出さず耐えることも多かったので、なんだか懐かしい。そしてそんなところでもまた、彼の記憶がないのだと思い知らされて少し胸が苦しく思えた。
 久しぶりに触れるナギの体はやはり瑞々しい果実のようで、放たれる芳醇な香りだけで龍之介の興奮も煽られていた。ナギに触れられなくなってから、一人で慰める気にもなれず性的なこととは離れていた乾いたこの身は、その果実を齧ったときどうなってしまうのだろう。
 今にも性急に進んでしまいたい衝動を押し殺し、これまでに龍之介が知った、ナギの肌が震える場所をひとつひとつ教えていった。うなじを舌でなぞり、頭皮を撫でて髪を流し、尾骨の場所を揉むように押せば少し息が詰まるのだ。
 大胆に誘いながらも、本当はナギも緊張していたのだろうか。はじめは少し冷えた体をしていたが、触れていくうちに龍之介の手と同じく熱を上げていった。
 胸の尖りに吸いつけば、はじめはそんなところをと嫌がりはしたが、自分が快感を拾うポイントであって、いつも龍之介にかわいがられていたのだと気がつけば抵抗はなくなった。しかししつこくし過ぎたのか、今ではふっくり腫れた胸の上でナギは眉を寄せている。

「喜んでなどいません! いつまで犬のように舐めているのです……っ」
「でも、こっちも反応してくれてるし」

 重ねていた体を起こしてナギの視界を空ける。
 龍之介もナギの下半身に目を向け、勃ち上がる彼のものにごくりと生唾をのみ込んだ。
 ナギが愉悦を拾うポイントを教え込むためにも一度も触れなかったそこは、ひとり切なげに震えては雫を垂らして己の腹を濡らしている。
 中に潜り込ませる指をさらに一本足すと、ナギは断りのない行動に息を詰めた。

「……ぁ、は……っ」

 苦しかったのか、自身を襲う衝撃を逃そうとナギは龍之介の下で身を捩る。
 掴んでいたシーツが引き寄せられて、右腕だけ通したままのナギのシャツとの衣擦れの音がやけに大きく鳴った気がした。

「――こっちに集中するね」

 胸の奥ではじけてしまいそうに早く高鳴るナギの鼓動を感じることが好きだった。心臓が全身に熱を送り、ナギの肌をほんのり汗ばませているのだと思うと愛おしかった。
 とろとろに蕩けるまで可愛がりたいのに、ナギの痴態に煽られ、龍之介の理性も限界が近い。本当は余裕などなく、早く先に進まねばと思うのに、離れることが少しばかり名残惜しくて、最後に胸の中央にキスをした。
 恋人である以前のナギでさえ、羞恥が強くなかなか触れさせてくれなかったところでも、さもこれまで触れることが当たり前だったように振る舞えば、渋々ながらもナギは大人しくなる。
 自分も存外悪い男だったのだとこんなときに気づかされながら、持ち上げたひざ裏に今だけ残る薄い痕をつけた。
 薄い皮膚に甘く齧りつきながらも自身を受け入れさせるために後孔を解していく。

「っ、は……つなし、し……もう、いいでしょう……?」
「まだだめだよ。久しぶりだし、しっかり解さなくちゃ」

 そう言ってナギに深くに沈めた指で内壁を押せば、びくりと体が跳ね上がった。

「ひっ……ゃ、そこは……っ」
「うん……気持ちいいだろう。それとも、良すぎていや?」
「は、あっ……ぁ、あ……っ」

 ナギがもういいと、早く挿入してしまえと言うのはこれで二度目だ。ただでさえナギにかかる負担は大きいというのに、まだ十分に解れていないうちに彼の願いを聞き届けるつもりはない。下手をしたら傷つけてしまう。
 意識を逸らさせるためにも快感を強く感じる場所を刺激してやる。これまではナギが自分でも知らない内にあるポイントに、顔には出さないが怯えたことがわかったのであえて避けてきたが、全身が解れだしている今ならいいだろうと思ったのだ。
 初めてのとき、そこであまり気持ち良くなることができなかったナギだが、これもまたともに繰り返していくうちに快楽を覚えた。前に触れずとも達することができるようになったし、そこを穿つたびに蜜が溢れ出すほどになった。
 すっかり開発されている自分の体にナギが未だ戸惑っていることが下がる眉尻から伝わってくるが、それがまた噛み殺せぬ嬌声を零しながら苦悶する姿と相まってひどく艶めいている。無意識に逃げようとするナギの腰を押さえつけながら、この目に焼き付けるべくじっと見つめた。

「っ、ふ……ぅあ、あっ、やっ」

 今のナギを抱きながら、以前のナギを、彼との本当の初めてのセックスを思い出してばかりだ。龍之介との記憶があるかないかだけで、どちらも自分が惹かれたナギであることにはかわりないのに。
 ナギを抱きたい。それなのに、許しもあるのに本当にそうしてしまっていいのかわからず、未だ二の足を踏んでいる自分がいる。
 いまならまだ止められる――そう葛藤する龍之介の心を、見抜きでもしたのだろうか。

「据え膳食わぬは男の恥、でしょう」
「え?」

 持ち上げていたナギの片足に力が入ったと思ったら、そのままその足に横に押し倒され、気づけばナギが腹の上に乗っていた。
 半端に絡まるシャツを脱ぎ捨て、汗で張り付く前髪を掻き上げる。

「な、ナギくん……?」
「ここまでお膳立てして、諸々耐えて差し上げたというのに、アナタときたらまだ迷いますか」

 後ろを振り向かないまま、龍之介のものを下着の上から撫でた。与えられる優しい刺激に龍之介が反応を見せれば、ナギは満足げに笑む。

「こんな染みを作っていらっしゃるというのに、いつまで我慢するつもりですか」

 濡れる布地の感触をひとしきり楽しんだナギは、龍之介の上に乗ったまま体を伸ばし、枕元に投げ出していたコンドームを手に取る。
 太腿の上に移動させると、龍之介のものが収まる下着を躊躇いなくずらした。

「ちょ……っ」
「大人しくしていてください」

 狭苦しかった場所から解放された自身が勢いよく飛び出す。おやおやとナギがわざとらしく驚くものだから恥ずかしくて、強引にでも押し倒そうとしたとき、ナギの指が龍之介のものに絡みつき、コンドームがつけられた。

「ナギ、くん……」

 薄い膜に隔たれた先端に、ナギはキスをひとつ落とした。

「アナタに任せていれば夜が明けてしまいますからね」

 つけ終えて体を起こしたナギは、龍之介のものを後孔に宛がい、腰を落として自らのみこんでいった。

「んくっ……」
「……は、っ」

 体は覚えていても、その精神は龍之介を受け入れるのは初めてだ。少し慣らし足りないかとも思ったが、思いの外すんなりと龍之介のものが入っていくが、ナギの表情は苦しげに歪んでいた。
 太腿が震え、今にも崩れてしまいそうなナギの腰を両手で支えて励ましの言葉を送る。
 時間をかけて龍之介のものがすべて収まった。詰めていた息を吐いたナギは、こめかみに汗を垂らしながら不敵に微笑む。

「アナタのことは忘れても、この身はアナタを覚えているようです。大きいので壊されるかと思いましたが、ちゃんと入るものですね。苦しいのにかわりはないですが、なんだかしっくりと来る、気が……あっ!?」

 ナギの言葉が途中で弾ける。龍之介が下から突き上げたからだ。
 久しぶりに収まるナギのなかは熱く、我慢の限界にきていて動かさずにはいられなかった。ナギ自身の言葉の通り、狭いが龍之介の形を覚えているのかよく馴染んでいるのが少しばかり嬉しい。
 ナギは睨んできたが、龍之介の腹に手をつくと自ら腰を動かした。

「は、っ……あっ……」
「……っ、ふ」

 先程は嫌がり逃げたはずの場所へ龍之介のものを擦りつけ、ナギは蕩けた顔をする。中もただ龍之介をきつく締めつけるばかりでなく、程よく解れ始めて、突き上げに合わせる動きを見せた。

「ナギくん……っ」

 まるでナギを求める龍之介に応えてくれているようなその身に、一瞬、現実を忘れた。
 伸ばした手をナギの首裏に回して強引に自分のほうへ引き倒し、噛みつくようにキスをしようとする。だが咄嗟のことに思わず抵抗したナギの腕の力が腹にかかり、我に返った。
 ここにいるのは恋人の六弥ナギではない。ただ恋人を失った龍之介を憐れに思いその身を与えた、そして自身に男の恋人がいたことに興味を抱いただけの、慈悲深くも意地の悪い六弥ナギなのだ。
 好奇心の強いナギだ、本当にただ龍之介を憐れんだだけでないことには気づいていた。ならば龍之介もそれを利用させてもらうだけだが、せめてキスだけはしないと決めた。
 龍之介の決意を知ればきっとナギは、体を繋げているのにキスひとつになにを意地はっているのだとあきれることだろう。だが唇も重ねてしまえば、本当にナギを手放せなくなってしまう気がしたのだ。
 引き寄せかけたナギのうなじを撫でれば、龍之介のものがきつく締めつけられる。急所とされる場所に触れられることを極端に恐れるが、反対にそれらの場所はナギが過敏に感じてしまうところでもあるのだ。

「アナタはっ……ワタシの知らないワタシを、随分知っていらっしゃるのですね」
「――たくさん、触れたからね。うなじに、首元。顎下に、胸に、お腹に――」

 言葉にしながら、そこを撫でていく。ナギも動きを止めて、指先が全身を辿るのを目で追いかけた。
 つま先にまで辿りつき、腹についているナギの手を取り、その指先にキスをする。

「ナギくんの体なら、知らないところはないかもね」

 ナギの全身あますところなく触れてきた。舐めて味わい、たくさん愛を注いだ。その言葉に偽りはなく、きっと触れたことのない場所はないだろう。
 ナギが知らない彼の体の奥まで知っている。どんな反応をするのかも、どんな甘い声を零すのかも。どんな風に求めてくれるのかも、どんな意地悪を返されるかも、それでもときに意表を突かれて驚かされることもあるのも。
 どう足掻いたところでナギには一生敵わないのだろう。こんな関係になっても、セックスをしている今がそれを証明している。

「――休憩はここまでですよっ」
「くっ……」

 掴まれた手を払いのけ、ナギは不敵に笑って腰を回す。結合部からは激しい動きに淫らな水音が鳴った。
 龍之介が歯を食いしばればナギは挑発的に舌なめずりする。

「ぁ、は……ぁ、喘いでくださっていいのですよっ」
「それは、勘弁してほしい、なっ」
「ぅあ、あっ!?」

 ナギの腰を掴み、動きを制限させながら下から強く突き上げる。
 龍之介のペースで責められてひたすら快感を追いかけることになったナギは、自身を制御することを許されず一気に高みへと駆けのぼった。

「ひっ、あ、あっ……あ、つなし、し……っ」
「は……」
「あ、あ、っ、いいっ……あ、あああッ」

 一番奥を突かれてナギは背を仰け反らせる。全身を痙攣させ、龍之介の上に放った白濁が喉もとまで飛んでくる。
 上に乗ったまま絶頂の余韻に呆然して動けぬナギを、強引に押し倒し体勢を逆転させる。
 龍之介を見上げ、ナギはわずかに瞳を揺らした。

「なに、を……ひっあ、あっ……!?」
「ごめんね、俺はまだ、だからっ!」

 ともに達してしまいそうになりながら、どうにかそれを耐え抜いた龍之介のものが凶暴なまでに膨らんだままなことに、強すぎる刺激に感覚を蕩かしていたナギがようやく気がついた。
 絶頂の直後で過敏になっているナギの体を容赦なく穿てば、青い瞳が零れ落ちそうなほど見開かれる。

「んあっ、ああッ……つなし、し、待って……っや」
「ナギ、くんっ」
「あ、あッ、ゃあ……っ」

 強く腰を打ち付ける。足を掬い上げられ折り曲げられたナギは苦しそうにしながら、まるで救いを求めるように龍之介に手を伸ばし、首に腕を絡める。
 汗ばんだ肌が触れ合い、眩暈がするほどにナギの匂いだけを感じた。

「ナギ」
「ん、くッ……ふ、あ、あっ」
「ナギ、ナギ……っ」

 ごめんね、と言おうとしたのに、ひたすらに彼の名が口から零れる。
 だから、心の中で謝った。

(ごめんね、ナギくん。これで最後だから。だから)

 今だけは、この瞬間だけは自分だけのものでいてほしい。
 ついに青い瞳からほろりと零れた涙を唇で拭ってやり、頬に額を押し付けながら、激しくナギを求め続けた。

 

 


 長い金色の睫毛が微かに震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
 顔を覗き込めば、緩慢な動きの瞳が龍之介を捉えた。

「つ、な……」

 十氏、と呼ぼうとしたナギだが、声がひどく掠れていてはっきりと言葉として紡ぐことができなかった。

「ごめんね、無理させちゃったから」
「いえ……」
「水、飲む?」

 傍に用意していたミネラルウォーターを注いだカップを差し出せば、のろのろとナギは体を起こす。
 一杯の水を飲みきり、ふう、とナギはようやく一息ついた。

「もう一杯いる? なにか食べる?」
「いえ、結構です」
「そっか」

 空になったカップを受け取った龍之介に、ナギは言った。

「――やはり、アナタのことを思い出せません」
「……そっか」

 一ヶ月も戻らなかった記憶が、セックスが引き金に取り戻せるとは正直思ってはいなかった。だが、心の底では奇跡を望んでいたとでもいうのか、確かに落胆している自身に苦笑する。
 ことりとサイドテーブルにカップを置く龍之介の手元を、ナギはじっと見つめていた。

「アナタのことは思い出せない――ですが、ワタシは確かにアナタの肌を知っていました。その手を、熱を、ワタシを呼ぶ声を。アナタと体を重ねて、この身は歓喜に震えました。体のほうは確かにアナタを覚えていた。そして、求めた――ワタシは……何故、アナタとの関係だけを忘れてしまったのでしょうか」

 龍之介に伝えているというよりも、まるで自分に問いかけるようだった。心より疑問に思い、けれども簡単にはわからない答えに困惑しているようだ。
 そんなことを言われてしまえば、今のナギの想いも自分に傾いているように錯覚してしまいそうになる。ナギはただ答えを知りたいだけだというのに。

「男の体などに興味ありませんが、不思議ですね。アナタには惹きつけられる。触れてみたいと、触れられたいと、そう思うのです」
「――もしそうなら、嬉しいな。でもきっとナギくんに俺はいらなかったんだよ。だから、このままでもいいんだと思う。無理に思い出そうとする必要はな、い……」

 へらりと笑った龍之介を、ナギの眼差しが射抜いた。鋭い視線に言葉を無意識に止まる。

「訂正なさい」

 怒りを孕む静かな言葉に、龍之介は気圧され息をのむ。

「アナタを忘れる前のワタシは、アナタを受け入れていたのでしょう。ならばきっと、アナタのなかのなにかに強く惹かれていたからです。でなければ男と付き合うなどありえません。ましてや、この身を預けるなど」

 女性に愛し愛される体だと口にするほど、ナギは男と関係することなどあり得ないと、男などまっぴらごめんだと宣言しているようなものだ。実際に態度でもそう示していた。それでもナギは龍之介を受け入れ、あまつさえ受け身となった。それがナギにとってどれほど覚悟のいるものだったのか龍之介にはわからない。
 だからきっと、わかっていなかったからこそこんなにも今ナギを怒らせてしまっただろう。

「ワタシが認めた男はこんな卑屈ではなかったはずですよ。過去のこととはいえ、ワタシに認められたのでしょう? それならばその名誉に常に胸を張っていなさい。アナタを評価したワタシが愚かだったなどと思わせないで」

 あまりにも真っ直ぐで迷いない言葉に、龍之介は堪らず片手で顔を覆った。

「――はは……。まいったなあ。やっぱり、ナギくんには敵わないね。格好いいよ」
「ワタシはいつだって美しく、格好いいですよ」
「そうだね。そうだった……そんなきみが信頼してくれた俺を、忘れないよ」

 最後にその身を許してくれただけでなく、誇りも与えてくれた。失ったものはあまりに大きいが、それでもナギの背中を追いかけるだけの力をもらった。事故の日から座り込んでいたの自分に手を差し伸べ、立ち上がらせてくれた。
 十分すぎるほどの幸せを、いつだってナギはくれるのだ。
 龍之介は椅子から立ち上がった。

「ナギくん。俺はこれから仕事があるから行かなくちゃいけないけれど、体が回復するまでいてくれて大丈夫だから。スペアキー、持ってるだろう?」
「ここなのアクリルキーホルダーがついたものですか?」
「そう。ここなちゃんが黄色い花束持っているやつ」
「どこの鍵がわからず困っていましたが、やはりあれは十氏の家のキーだったのですね」

 意を決して渡した家の鍵よりも、それにつけていたガチャのなかのシークレットレアのここなのキーホルダーのほうに喜ばれたときの記憶を思い出し、心の中でひっそり微笑む。

「帰るときはそれを使って。それで、郵便受けにでも鍵を入れておいてくれればいいから。あ、ここなちゃんは嫌じゃなかったらこれからも使ってあげて。あと、帰るときはタクシーで。お金も置いておくから」

 もうナギにこの家の鍵は必要ないので、それを回収する段取りと、帰宅時のことを心配する龍之介にナギは首を振る。

「それでは不用心ですから、次にお会いしたときに直接お渡しします。今夜はいつ戻りますか?」
「え? 十一時くらいには戻れる予定だけど……」
「OK。ならばそれまでここで過ごさせていただきます」
「それは、いいけど……でも、寮に帰ってゆっくりしたほうがいいんじゃないの? 俺は別に鍵のことは気にしないし」
「ワタシが気にします」

 そう言われてしまえば、龍之介が折れざるをえなかった。
 しばらく会わないうちに気持ちを新たにしようと思っていたが、まさか今夜また会うことになるとは思っていなかった。
 二人きりでこうして話すのは、きっとこれが最後だと思っていた龍之介は、嬉しく思う反面、どんな顔をしたらいいだろうと困惑する。
 ナギに触れた感触がまだ残っている。
 自分がどう振る舞うか決めたはずなのに、ナギの言動で簡単にぐらぐら気持ちが揺れてしまう。自分はこんなにも理性の弱い男だっただろうか。

 

 


 家に帰ると、宣言された通りナギはまだ部屋の中にいた。
 ソファでくつろいでいたようで、仕舞っていたはずのナギ用のスリッパを履き、ここなのブランケットを肩にかけていた。
 龍之介に気がつき、抱きしめていたらしいここなのクッションをこちらに歩み寄ってきた。

「鍵です。ありがとうございました」

 世間話も一切挟まずあっさり返された家の鍵には、つけていたキーホルダーがそのままになっていた。外して使ってくれて構わないと伝えていたが、そうしなかったということはナギにとって不要のものなのだろう。
 龍之介は鍵を受け取ろうと手を伸ばす。

「ああ、こちらこそ。今までありがとう。これから改めてよろしくね」

 恋人のナギとはここで完全にお別れた。そしてこれからは、別グループのアイドルとして、仕事でのよきライバルとして過ごしていくことになる。
 鍵を回収したそのときから始まるひとつの別れを笑顔で迎えようとした龍之介だが、ナギが鍵から手を放さず、戸惑って顔を上げた。
 ナギはじっと鍵とそれを掴む二人の手を眺めていたが、その表情を見て龍之介は目を瞠る。

「ナギくん……?」

 名を呼ばれ顔を上げたナギに、龍之介は思わず鍵から手を放して彼の顔に添えた。

「どうしたの? まだ、体がつらい?」
「なにがです?」
「なにがって……だって――」

 親指で濡れた目尻を拭う。その仕草でナギも自身に起きた変化に気がついたのだろう。だが止めることはできず、ぽろりと一滴の涙が頬を伝った。
 これまでにも何度もナギの涙は見たことがある。作品に触れて感動したり、ついセックスのときにしつこくしすぎて泣かせてしまったり。
 だが、こんなにも静かな涙は初めてだった。ナギ自身が泣いていることに気がつなかったことも。
 涙の理由がわからず動揺する龍之介に、ナギは何度か瞬いた後、携帯端末をとり出して少し操作してから画面を差し出した。
 なんだろうとそこを覗き込んだ龍之介は、映し出された画像を見て驚く。そこにベッドで眠る自分の姿があったからだ。

「……フォルダの中に一枚だけ、アナタがいました。アナタは眠っていて、恐らくワタシが先に起きて内緒で撮ったのでしょう。本当は、アナタがワタシの恋人であったと確信したのは、この写真が残っていたからなのです」
「この写真で……?」

 別に情事の後というわけでもなく、しっかりと服も着込んでいるし、ただだらしなのない寝顔をしているだけだ。これならば友人としての隠し撮りで、笑うためのものだと言われても納得するというのに。

「とてもゆるみきった、気の抜けた顔ですね。疲れているようですけども、無防備で、どこかあどけなくて、安心しきっていて。世が惚れ込むエロエロビーストな要素もないのに、これを見ただけでとても心が満たされました」

 鍵を握り締めながら写真を胸に抱いたナギは、またぽろっと瞳から美しいしずくを零しながら微笑んだ。

「ワタシは……ワタシの傍でそんなにも落ち着いていられるアナタがいてくれることが、きっと嬉しかったのでしょう。だからいざというときのためアナタとの関係は残さないようにしていたのに、どうしてもこの一枚がほしかったのでしょうね。――アナタと愛し合ったワタシはいないのに、なんの思い出もないのに。それでも切り取られたこの一瞬が、たまらなく愛おしいのです」

 涙に濡れた瞳が龍之介を捉えた。

「こんなにも想いは溢れてくるというのに、何故ワタシはアナタだけを忘れたのでしょうか。すべてがなかったことになるわけでないというのに」

 ぽつぽつと語られるナギの言葉は、龍之介の記憶を失ってからの彼なりの苦悩が滲んでいた。体だけではない、心にも深く刻み込まれた龍之介との日々に、何かを感じ、けれどもその正体がわからずつらかったのではないだろうか。
 何度も目が合うほど龍之介を視線で追いかけ、気になるのに、いっこうに記憶は戻らなくて。

「――あんな情熱的なセックスをしておきながら、アナタはキスだけはしなかった。自分の元に引き留めようとする言葉もない。アナタがワタシを手放そうとしているからなのでしょう。ワタシがこんなにアナタに頭を悩ましていると言うのに、勝手に完結させて諦めるのでしょう」

 最後に残るなけなしの意地でしなかったキスを見抜かれていた。そのせいで、余計に龍之介の考えがわからなくなってしまってナギを苦しめる結果になっているなんて気がつきもしなかったのだ。
 龍之介の記憶のないナギが再び振り向いてくれることはないと、なんの相談もせず勝手にこれが最善だと身を引こうとしていたが、けれどナギがもしも事実を知った時を考えたこともなかった。二人だけの秘密だからと決め付け、自分さえ黙っていれば隠し通せるだろうなどと思い上がってしまった。
 自分が秘密を闇に葬ることを選んだ。ナギが混乱するからと彼のためを装いながら、本当はナギを侮っていたのだ。きっと拒絶しかないと。きっとまともに話も聞いてもらえないと、受け入れてもらえないと。
 ナギは、龍之介のように愚かでないというのに。

「――ナギくんは、俺との記憶を取り戻したいの?」
「ええ」
「そっか……」

 涙を拭いすんと鼻を鳴らすナギの愛らしい様子に目尻を下げながら、龍之介は微笑んだ。

「……なら、ナギくんが忘れてしまったこと全部、俺が教えるよ」
「全部……?」
「俺の主観だし、完璧じゃないけど、二人の思い出を全部教える。それで、どんなに俺がきみを好きか、改めて伝えるよ」

 龍之介の言葉にきょとんとするナギが愛らしくて、つい手を伸ばし、目尻に残る水気を親指で拭う。

「忘れてしまっても、無理に思い出さなくてもいい。それならまた重ねて行こう。ひとつひとつ辿って、共有の思い出に足していこう。そしたらナギくんも記憶がなくても寂しくないだろう」
「さみしくなんて……っ」
「俺は、本当はすごく寂しかったよ。忘れられたこと。でもそれなら仕方ないって、ナギくんを諦めようとしたんだ。俺を忘れてしまったきみに恋人だって名乗り出る勇気がなかった。きみを混乱させてしまうっていうのも心配だったけど、本当は……拒絶されるのが怖かったんだと思う」

 意見の相違とか、互いに譲れないもので喧嘩するとか、そういうのを越えた絶対的な拒絶。修復不可能なところまでいってしまうのが恐ろしかったのだろう。それほどまでにナギを失うことが耐えられなかったのだ。

「でも、記憶を失ってもナギくんはまた俺を認めてくれた。俺のために泣いてくれるまで、好きのままでいてくれた」

 頬に添えた手で輪郭をなぞり、濡れた親指で唇を辿った。

「キスも、セックスも、たくさんしよう。ナギくんが喜んでくれる場所も、かわいい反応をしてくれるところも、ちょっと苦手にしていることだって、全部教えるよ」
「――悔しいです。アナタだけがすべてを覚えているなんて」

 もう一度涙を腕で拭ったナギは、睨むように強い眼差しで、けれどもその口元に弧を描きながら言った。

「ですから、ワタシも思い出しますよ。アナタと過ごした日々を。そうしたら、覚悟なさい」
「なんの覚悟?」
「ワタシのすべてで愛される覚悟、ですよ。アナタがワタシにすべてを教えるというのなら、ワタシもアナタへの想いすべてをお伝えしましょう」

 もうその言葉だけで、途方もない愛の告白だということに気づいていないのだろうか。いいやきっと、聡いナギのことだ。わかっていながら告げたのだろう。
 真っ赤になった顔を片手で押さえた龍之介を、ナギは愉快そうに眺めていた。先程まで泣いていたとは思えぬ変わり身の早さだ。
 ――こんなにも魅力ある彼を、何故見守るだけで満足できるなどと思えたのだろうか。今となっては自分の浅慮なることに呆れる。きっと内心でナギもその愚かさを嗤っていることだろう。
 気高く美しく、聡明でほんの少し意地悪で、それでいてまっすぐで無垢なその高潔な彼に、記憶があろうがなかろうが、何度だって強く心惹かれてしまうというのに。愛さずにはいられないのに。

「――早く、俺を思い出して。それで、ナギくんのすべてを教えてください」
「ふふ。無理に思い出さなくてもいいとおっしゃったくせに。でも素直なアナタはかわいらしくて好きですよ」
「ナギくんには敵わないよ」
「ワタシはかわいいのではありません。美しく、完璧なのです」
「うん……ナギくんは、かわいい」
「……聞いていますか?」
「うん」

 手を伸ばし、ナギを抱きしめた。

「リュウノスケ?」

 大人しく腕に収まったナギは、胸元からくぐもる声をあげる。言葉に出すかわりに、腕の力を強めて彼に応える。
 しばらくして、ぽつりとナギは言った。

「――本当は、こんなことを言うのはまだ早いとは思いますが……。寂しい思いをさせましたね。ごめんなさい。もう大丈夫ですから、安心してください」

 頭に押し付けていた頬を下して首筋に顔を埋めたら、ナギの手が優しく髪を撫でてくれた。

「……ナギくん」
「なんです?」
「キス、していい?」

 答えはなく、不安に思った龍之介がわずかに顔を上げてナギの表情を見ようとした時、ぐいっと首を引き寄せられた。

「っん」

 ナギの顔が迫り、唇が重なる。
 すぐに舌がねじ込まれ、龍之介もそれに応えた。

「んっ、ぅ、っ」

 腰を密着させて押さえこみ、もう片手はナギの首裏に回してそこを撫でる。髪の毛の流れに逆らうよう生え際から上に頭皮の形をなぞるように指を差し込めば、吸いついた舌が微かに震えた。

「ん、ん、はぁっ……ぁ」

 ナギの呼吸が苦しそうになり、名残惜しく思いながらも口を離す。それでもあきらめ悪く濡れる唇に吸いついていたら、ナギがくすぐったそうに笑った。

「アナタとのキスはやはり好きなようです。――きっとワタシは、ずっとこのときを待っていたのでしょうね」
「ナギくん……」
「もっと……もっとたくさん、キスをして」

 背中に回ったナギの腕に引き寄せられて、再び顔を合わせる。
 お互い笑いながら、涙ぐみながら、何度も何度もキスをした。

 

 

 

 服を着替え、鞄の中身もチェックして、外に出る準備を万端にする。
 あとは龍之介に一声かけて出て行くだけだが、振り返ったベッドの先にいる彼は、先程からナギが物音を立ててもいっこうに目覚める様子がなかった。
 最近多忙で、昨夜というよりも今日の零時を大幅に超えての帰宅に、いくら龍之介といえども体力の限界なのだろう。
 今日は龍之介にとっては久しぶりのオフだし、ゆっくり寝ていればいいものを、ナギの出掛ける時間には起こせとしつこかったので一応は頷いたが、やはりそっとしておいたほうがいいのではないかと思う。
 だが、あとで何故起こさなかったと文句を言われるのも癪だ。本人の希望通り少し言葉を交わして、さっさと出て行こうとしたナギがベッドの傍まで歩み寄り、はたと龍之介に伸ばしかけた手を止めた。
 ポケットにしまっていた端末をとり出して、それを構える。
 カシャリと小さな音とともに、画面には今の一瞬がしっかりと切り取られていた。
 くたびれて、油断しきっている表情に、なんと無防備だろうとひとりほくそ笑む。
 画面から目を離し、本人を見て、ふと薄く開いた唇に目がいった。
 なんとなくキスがしたくなって、内緒でしてしまおうかと顔を寄せかけて、やめる。
 最近ただでさえ互いの予定が合わず、今回も帰宅して五分と会話をしていない。それだって、朝出るときに龍之介を起こすか否かのやりとりである。そして今を逃せばまたしばらく顔を合せられず、ラビチャでのやり取りの日々となる予定だった。
 この場でキスをしてしまえば、きっと我慢ができなくなる。ナギはこれから仕事に出なければいけないし、龍之介とて疲れているのだから、また今度二人でゆっくり出来るときにお互いが楽しめばいい。
 それまで、キスはお預けだ。

「リュウノスケ」

 軽く肩を揺らして声をかければ、薄らと瞼が持ち上がる。
 琥珀の瞳は、ナギをぼんやりと捉えるとふにゃりと微笑んだ。

 おしまい

 2018.8.19

 

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