虫刺され

 

 カーテンの隙間からもれる朝日のまばゆさに起こされたナギは、何度かベッドの上でごろごろ寝返り打って唸っていたが、逃れられない光と暑さに諦めて身体を起こした。
 やっとの思いで部屋から出て、かゆみを覚える首もとを掻きながらリビングに足を運ぶ。今日は朝からクーラーをつけていたようで、涼しい空気を身に浴びてようやくナギはまともに呼吸が出来た気がする。

「グッモーニン、ミツキ」

 少しばかり生気を取り戻した声音で挨拶をすれば、キッチンで朝食を準備していた三月が顔を上げた。

「よお、おはようナギ。相変わらずへろへろになってんな、って……」

 朝から元気溢れる挨拶が返されるが、それは途中で勢いを失う。
 何事かとナギも眠たい目を凝らして三月を見れば、驚くように見開かれた瞳と視線が交わった。

「おまえ、それ……!」
「What?」

 顔を指差されてナギは首をかしげる。
 まだ自身の姿は確認していないが、派手に髪が跳ねている気配はないし、寝起きとて崩れぬ美貌に今さら驚いたわけでもないだろう。
 ならばなにをそんなに反応しているのだろうかとのんきに構えているナギに、三月は手にしていた包丁をばんっと置いて、早歩きでやってきた。

「そんなん堂々とつけてんじゃねー!」
「なんのことです?」
「だから、その首の――」

 くわりと口を開きかけた三月の額を、ナギの背後から伸びた指先がとんと軽く突いた。

「落ち着けって、ミツ。よーく見てみろ、これはただの虫刺されだ」

 指先はそのまま、ナギがかゆみを覚えていたところを同じようにとんと示した。
 そのまま肩を組まれて体重がかけられる。

「ヤマト、暑苦しいです……」

 ただでさえ暑さにバテ気味のナギは、人肌の熱に辟易として口をへの字に曲げた。折角体が冷やされてきたというのに、一瞬でもとに戻ってしまったではないか。
 指先の指揮者である大和は、すぐに身体を放してナギの隣に身を移した。

「あのな、一応助け船出してやったんだからな」
「WHY? タスケブネ、必要ありませんよ?」

 どこか責めるような声音に突かれるが、大和がなんの意図を持って言っているか、ナギにはわからず、またも首を傾げることとなる。
 背伸びしてナギの首もとをまじまじと覗き込んだ三月は、白い首筋にぽつりと浮かんだ赤色がやや腫れているのを確認して一息ついた。

「ホントだ。なんだよ、蚊に食われただけか……」
「首が痒いです。ノースメイアにはいなかった小さな悪魔……気配はまるで感じませんでした。彼らがアサシンであれば命はなかったでしょう……」

 肌が白いせいで、遠目から見れば赤くなった部分だけが悪目立ちしてしまっていたようだ。
 耳元でぷ~ん、と音を聞いて存在を知ることもあるが、最近はいつの間にか刺れていて、かゆくなって初めて刺されたことに気がつくことが多かった。そのため腕や足への被害が多かったが今回は寝ている間に首筋を刺されてしまったようだ。
 おかげでかゆくて仕方がなく、ぼりぼりと肌を掻いけば、その様子を見た大和が止める。

「あんまり掻くな。傷になっちまったら困るだろ」
「でもかゆいです!」
「ちょっと待ってろ、今虫刺されの薬持ってきてやっから」

 三月が救急箱の中からとり出した虫刺されの薬を首に塗ってくれる。すっと鼻が通るような匂いと肌が冷える感覚が苦手なナギが文句を言えば、うるせえっ、と三月に一蹴された。
 しばらくしてようやく痒みも落ち着き、三月が用意してくれた朝食を三人でとる。
 目玉焼きの黄身をいつ割ろうかと真剣に悩み思案顔するナギを見つめて、どうしたもんかと三月は呟く。

「ちゃんと見ればわかるけど、やっぱちょっと離れて見るとアレだよなー……」
「ナギ。おまえこの後あけぼのテレビに行くんだろ」
「イエス。タマキとソウゴと合流します」

 返答を受けた三月と大和は互いに顔を見合わせて、何やら難しく考え込む様子を見せる。なにを考えているのかとナギは味噌汁に口を付けながら眺めていると、大和が立ち上がり、虫刺されの薬をとり出して机に置いたままにしていた救急箱の中から絆創膏をひとつとり出した。

「とりあえず、これで凌ぐか。あとはスタイリストさんたちにメイクで誤魔化してもらうよう、マネージャーに言っとくしかないだろ」
「でも、かえって目立っちゃわないか。首元にそれはあからさますぎるっつーか」
「あらぬ誤解を受けたり、掻いて傷を作るよりいいだろ。絆創膏ひとつで深読みしちまわれてもそりゃそいつの問題だしな」
「なんの話です?」

 なにやら二人で完結してしまい、ナギが問いかけてもはぐらかされるだけだった。
 ご飯を終えれば、三月が再び薬を塗って、それから赤くなる首元に絆創膏を貼ってくれたが、ナギは納得できないままだった。
 ただの虫刺されにいささか過剰な反応ではないだろうか。
 その疑問が解決したのは、あけぼのテレビ局内で合流したMEZZO”の反応を見てからだった。

 

 


 楽屋に入れば、すでに早朝の仕事を終えて先に楽屋入りしていた壮五と環と顔を合わせる。

「おはようございます」
「ナギっち、はよ~」
「おはよう、ナギくん……っ!?」

 互いに挨拶を交わす中、雑誌の紙面から顔を上げた壮五はナギの顔を見るなり音を立てて椅子から立ち上がる。

「ど、どうしたんだい、その首元……!」
「あれ? バンソーコ貼ってんじゃん。怪我でもした?」
「蚊にeatされてしまいました。薬塗ってもらいましたが、またかゆくなってきました」

 くすんとナギが泣き真似をして首を押さえれば、絆創膏の下にあるものを理解した壮五がふっと身体から力を抜いた。

「そ、そうか……そういう……」
「そーちゃん、なに慌ててたんだよ」
「え!? い、いや、別に……」

 あからさまな安堵の表情から、タマキに指摘されてかあっと顔を赤くした壮五に、ようやくナギは今朝の三月の様子や大和の言動を思いだし、彼らが何を思ったのか合点がいった。
 つまり彼らは、ナギの首元にある虫刺されを、キスマークと誤解したのだ。
 確か以前読んだ漫画にも、首元の絆創膏をからかわれる描写があった。やらしい痕を隠しているんだろうとからかう友人たちに、猫にひっかかれたのだと反論する主人公。想い人にもあらぬ誤解を受けてしまい、それを解くのに奮闘するようなものだった。

「Hm……ソウゴはむっつりですね」
「え!?」

 大和はナギが痒みを我慢できず掻いてしまうことと、遠目から見れば虫刺されとわかりづらい肌の赤を隠すために絆創膏を貼らせた。そして、日本では古典的な隠し方とされるそれに心配した三月に対し、大和は絆創膏ひとつで深読みした者の問題だと答えていた。
 つまりは絆創膏を貼るナギにあらぬ勘違いを起こした壮五はつまり、指摘した通りなのだろう。

「……そーちゃん、むっつりなん?」
「ご、誤解だ!」

 自分の言葉により壮五が追い詰められていることなど気にすることもなく、ナギは少し出てくると言って騒がしい楽屋を後にした。

 

 

 

 確か彼も――ナギがキスマークをつけたのではないか、とあらぬ誤解を受ける理由になった男も、今日はあけぼのテレビでの仕事が同じくらいの時間であると言っていた。もしかしたら廊下を歩いていれば会うかもしれないし、会わないかもしれない。
 今回は天の女神の采配に身を委ねることを決め、ラビチャも開かず歩いていれば、前から見知った顔がナギのほうへと歩いてくる。
 相手もすぐにナギに気がつき、視線を合わせるなり笑顔で片手を上げた。

「ナギくん」
「十氏」

 互いに歩み寄り、一度足を止める。撮影用の衣装に身を包んだ龍之介の手にはたっぷりとコーヒーが注がれたカップがあるので、恐らくそれをとりにきていたのだろう。

「昨夜振りだね。あれから大丈夫だった?」
「寮まで送り届けてくださったのはアナタでしょう。玄関に入るまで見送ったのにまだ不安でしたか?」

 まだ終電はあるし、電車で帰ると言ったナギを認めず強引に車に乗せたのは龍之介である。玄関が見えるほど場所で別れたし、何を心配しているというのか。

「いや、足とかふらふらだったし、今も腰とか……」

 ぎろりと睨めば、龍之介は慌てて口を噤み、誤魔化すように笑う。

「それにしても、今日はナギくんもここで撮影があるって聞いてたから、会えればいいなと思っていたけれど、顔が見れてよかったよ。二日連続で会えるなんて嬉しいな」
「本日もワタシを見ることが出来たのですから、眠りにつくその時まで幸福に満たされることでしょうね」
「ああ。ナギくんと会えた日は本当にいつも以上に元気が出るんだ」

 素直に頷いた龍之介の視線が、ふとナギの首元に注がれた。 

「あれ。首元の、それ……」

 白い肌に馴染めぬ絆創膏の存在に気づいたようだ。
 なんと反応するのか、ナギがこっそりと龍之介の動向を窺えば、彼は口を開いた。

「怪我でもしちゃった? 大丈夫?」
「…………」

 何か勘ぐるでもなく、様子を見るでもなく、龍之介はナギを本気で心配し気遣った。
 龍之介らしいといえばそうかもしれないし、予想はついていたはずなのに、なんとなく肩透かしを食らった気分になったナギはじわじわと湧き上がった怒りにすうっと表情を消した。

「ご心配無用です。それでは」
「えっ……な、ナギくん!? ちょっと待ってくれ……!」

 ナギの変化に、自分がなにか地雷を踏んだということだけは理解した龍之介が、慌てて後を追いかけてくるのが分かったが、絆創膏を剥がしながらナギは逃げるように足を速めた。
 そもそも昨夜遅くまでともにいたのは龍之介であるし、そしてまだ午前中の今なのだから、あらぬ疑いを抱くにしてもそんな時間もなかったと考えつくのは容易であったことに今更ながらに気がついた自分の愚鈍さが恨めしい。
 それでも、もしかしたら――少しだけでも嫉妬するかもだなんて。そんなことを考えてしまったのだ。
 絶対、教えてはやらないが。

 おしまい

 2018.7.19

 

爪切り top 小さな嵐