第3章

 

 ――あれ、ここは?
 男は、見知らぬ森の中で、草に埋もれた場所で目覚めた。普段ならば今着けたままにしている眼鏡を外し忘れたことを後悔するところだが、どうやらそれどころではないようだ。
 上半身だけを起こし辺りを見回しても、緑ばかりが目立つ。見知った場所は、ひとつもない。混乱は免れなかった。
 ずり下がった眼鏡を押し上げながら、何度も何度も、繰り返し周りを見渡す。

「こ、こは――おれは確か、会社に……」

 その呟きに答えるものはおらず、男のはただただ言いようのない大きな不安に顔を曇らせた。
 冷静に状況を判断しようと努め、緑の隙間から伺えるのを見上げるか、何の解決にもならない。ただ大量の情報を頭の中で処理しながらもただ唯一落ち着いて思えた事は、ここは酸素がうまいということだけだ。
 横へ視線を向ければ鬱々とした木が生い茂るだけなのだが、やはりそれなりに森の中とあって空気はおいしい。
そこまで考え、男は諦めて目覚めたときと同じように地に寝転がった。
 自然と上を見詰めることになった瞳に映る空に、ささやかな安らぎが生まれる。
 ここはまったく知らない場所で、なぜここにいるのかもわかならない。わからないことだらけだが、この空の色は、どこにいても同じで、変わらない。そのことに、安堵した。
 これからどうするべきか、とため息をつくと、ふと自分のズボンの右ポケットにしまわれているものを思い出した。
 身体を起こしそこへ手を差し入れ、中に入っているものを取り出す。

「ああ、なんで忘れてたんだ」

 そう声をあげながらも、男の頬は知らず知らずのうちに笑んだ。
 それは、携帯電話だ。とりあえず、色々と情報を集めなければと折りたたまれたそれを開くと同時に、男は笑みを消し、先程よりも大きなため息をついた。
 電波状況をみればそこには圏外の二文字。しかも何故か時間も表示されていない。これでは、携帯電話があったとしても何の役にもたたないただの塊だ。
 もう一度ため息をついてから画面を眺めると、メールが一通届いていることに気がついた。自然とそのメールを開く動作をしてみれば、メール受信一覧の先頭にある未読の宛先に眉を潜める。

「……ディザイア?」

 Desire。他には何もない。
 不審に思いつつメールを開くと、更に眉間による皺は深く刻まれることになった。

【世界を終わらすは常闇。闇を齎せ、神の使者よ】

「――――」

 しばらくそれを眺めていると、ふっと画面が真っ暗になる。適当なキーをいじってみるが、いつものように再び光ることはなかった。
 壊れてしまったのだろうか。なら電波だけでなく時計までおかしくなったのは理由がつくし、変な宛先からのメールも理解できる。
 男は何度目かになるため息をつきながら、かけていた眼鏡を外し、その場に大の字になった。
 目の前のぼやけた空に、何か大きな黒い影が飛んでいた。

 

 

 

 いつものように運んでもらった朝食を食べながら、おれはひとり後悔に苛まれてた。

「なんで起きれなかったんだよ……岳里も、起こしてくれたらよかったろ」
「ぐっすり寝ていたからな」
「さっきからそればっかじゃん……」

 はあ、とため息をつきながら、料理を一口、口に運ぶ。相変わらずおいしいんだけど、今日はなんだか気分がよくないからか元気が出ない。
 昨日おれは夕方あたりに仮眠と思って眠ったんだけど、起きたのはなんと今朝だ。しかも、起きた時にちょうど朝食がテーブルの上に並び終えられたところだった。
 おれははじめそれを夕食と勘違いしたんだけど、窓の外が明るいことと、料理の内容が明らかにあっさりとした朝用のメニューということで異変に気がついたわけだ。
 そして既に席についておれを待っていた岳里に尋ねれば今は朝だと淡々と言われたわけで……。おれは、夕方から今朝までずっと眠り続けた事になる。

「はぁ――なんで起きれなかったんだ」

 何度目かになるその言葉を口にしながら、ずきずきと痛む頭に悩まされる。
 眠りすぎて、頭痛がするんだ。たぶん、もう少し目が覚めたら少しは良くなるんだろうけど、自分が情けなくて仕方ない。
 寝すぎて頭痛いなんて言ってたら、きっと兄ちゃんに頭張り倒されるんだろうな。
 そんな実際あったことを思い出しながら、おれはもぐもぐと口にいれた焼き魚の身を噛み締める。
 昨日夕食を食べそびれたにも関わらず、あまり食は進まない。それよりもささやかに主張する頭痛のほうが気になる。
 ちなみに昨日おれが食べれなかった夕食は岳里が自分の分も合わせて食べたらしい。たびたび思うけど、岳里って本当大食いだよなあ。
 やっぱりそれなりに身体がでかい分、食べる量も多いみたいだ。だからかもしれないけど、この世界で出される食事の量は多い。アメリカンサイズとでも言えばいいだろうか。そこはおれも食欲旺盛な現役男子高校生だから食べきれないわけでないけど、たまに食欲を上回る量が出た時は、残すのも悪いと岳里に助けてもらうこともしばしばある。
 何気なく前に座り黙々と食事をする岳里を見てみれば、やつも寝起きだからなのか、大きな寝癖がひとつ、ぴょんと上向きに生えていた。

 

 

 

 朝食を終えて程なくして、扉がノックされた。
 おれたちが返事をするよりも先に扉は開き、そこから小柄な人物が遠慮なしに入ってくる。

「おうい、迎えに来たでえ。今日はおれが城の中を案内してやるよう」

 ひらひらと掌を振りながら、ネルは互いにベッドへ腰かけていたおれたちに歩み寄ってきた。

「あ、ネル。おはよう」
「おう真司、おは、よ――――ぐにゃ!?」

 いつもの笑顔を突然歪めると、ネルは挨拶を区切りその場から驚いたように飛び退いた。そして扉を開け、その影に隠れおれたちを鋭く睨んできた。

「ど、どうかしたか?」
「くっせえ」
「え」

 突然のことに思わずびくびくとしながら尋ねれば、低く唸るようにネルは言葉を返した。けれどおれはそれが理解しきれず、思わず首を傾げる。するとネルは鼻をつまんだ。

「お、おまえらくっせえでえ! なんだあその臭いはあよう!」
「ええっ。く、くさい!?」

 臭いと指摘され、思わずおれは自分の腕を鼻に寄せ匂いを嗅いだ。けれどやっぱり自分のものには疎いもので、無臭に感じる。
 た、確かに昨日そのまま寝たから風呂も入りそびれたけど、そんな一晩ぐらいでこんな拒絶されるぐらいに臭くなるか……? 
 そんなわけないと自分に言い聞かせ、昨日を振り返ってみる。
 ――あ、そう言えば。

「昨日、ジャスのところに行ってそのまま寝ちゃったんだけど……」

 あの部屋に入った時の強烈な臭いを思い出し、もしかしてと口にする。あれだけ強いものなら、服なんかに移っててもおかしくない。それに、あの部屋にそれなりの時間いたからおれの鼻が麻痺してる可能性もなくはない。
 おれの言葉を聞いた途端、ネルは眉を吊り上げた。

「まずは風呂だあい!」

 

 

 

 問答無用と言わんばかりに、おれたちは服を着たままネルにタオルと一緒に風呂場に放り込まれた。
 閉められた扉の先から、服は脱いで適当な場所に置いておけ、全身洗ってから出て来いとネルに言われる。

「……そんなに臭かったのかな」
「獣人は人間よりも鼻が効くらしいからな。おれたちより匂いに敏感なのは仕方ないだろう」
「なるほど」

 それならネルには、相当臭く感じていたのかもしれない。悪いことしたかな……少し、念入りに洗うか。
 あそこまでの反応をされてたら、さすがに相手は鼻がいいから、と言われても気になる。それに肌にまで匂いが染み込んでる気がして、急に早く身体を洗いたくなった。
 扉から目を逸らして服を脱ぎ始める。岳里はさっさと裸になって、あの自慢したくなるような身体をおれに見せつけながら先に向かった。
 ……畜生。
 羨ましいな、と素直に思いながらおれも服を脱いで素っ裸になり、腰にタオルを巻く。脱いだ服を脱ぎ捨てられた岳里の服と一緒に畳んで、壁際に置いた。
 おれも岳里を追いかけ、既に座って身体を流しはじめていたその隣で、まずはシャワーの役割を持つ黒い玉を撫でてお湯を出し、身体を濡らす。
 ふとその途中で隣を見てみれば、岳里は髪を洗っているところだった。だけど、髪が絡まっているのか、指に引っ掛かっている。
 身体は前に向けたまま、黒い玉を再び撫でてお湯を止めながらも、おれは目の端でその様子を窺う。
 岳里は少し眉を寄せて、それをわざわざ解そうとはせずにただ引っ掛かった指を引っ張ってはずそうとしている。今にも力づくで絡まった部分を引きちぎってしまいそうだ。物ぐさせずやればいいのに、あれじゃ痛いだろう。
 ――仕方ないな。
 無意識に出たため息を素直に吐きながら、おれは岳里の背後に身体を移した。

「ほら、おれがやってやるから」

 のっそりとした動きで、おれに振り返った岳里。何も言わなかったけれど、泡だらけの手を頭から離したのをみたところ、これはオーケーととってもいいんだろう。
 以前髪を洗ってやった時と同じように、既に泡に身を包んだ髪を手に取った。よくよく見てみれば、白いはずのその泡は少し黒く染まっている。更に目を凝らしてみれば、髪の毛に何かがくっついているのがわかった。
 おれは思わず、その何かが血ではないかと思えて岳里の髪を離してしまう。
 そんなわけない。わかってるけど、でもやっぱり――
 おれは心の中で頭を振って、また改めて固まったひと房を手にとって丁寧に泡で包んで指で揉みほぐしていく。泡は更に黒く身を染めた。

「なあ岳里、一体何をつけたんだよ?」
「――恐らく、ジャスの部屋でだ」

 せっけん代わりの小さな白い玉を掌で転がして新しい泡を作り出しながら、あそこか、と納得する。

「倒れた時かな」
「それしか思いつかない」

 確かになあ、と呟きながら、おれは再度岳里の髪についた謎のものと格闘を開始する。
 岳里が倒れたあの時、座らせるまえに一度床に座らせていたんだよな。その時に変な液がついたんだろう。で、一晩置いてここまでかぴかぴになってしまった、と。
 ……頑固そうだな。
 指で揉むだけを止めて、爪を使って引き剥がすように岳里の髪を指の腹と爪で挟んで落とすという作戦も開始する。
 何度か洗い流してはまた泡を立てるという作業を繰り返しながら、ふと思う。

「……これ、素手で触っても平気かな」

 なんたって、失敗の多いらしいジャスの部屋でついたものだ。危ないものじゃないなんて保証はどこにもない。
 一度思えば一気に募った不安だが、それはあっさり岳里が一蹴する。

「なにかあるのなら、もうおれに変化が表れてるはずだ」
「――あ、そっか」

 変化と言われて思わず、ヴィルの三日三晩頭つるつるになった事件を思い出したのは言わないで置こうと心決めながら、何もないなら安心だと作業を続けた。
 その言葉を最後に、おれは集中して黙々と続ける。頑固なそれは、更に何度も洗ってすすいでを繰り返して、ようやく一か所が終了した。
 先はまだまだ長いぞ、と思いながらも、おれはなんだか髪にくっつくそれが落ちていくのが楽しくなってきて、知らず知らずのうちに嬉々として岳里の髪を洗う。
 次の場所を洗おうと身体を岳里の右側に移すと、ふと視線に岳里の腕が目に入る。それを見て、思わずおれは岳里の腕を手に取った。
 下を向いていた岳里が、顔を跳ねあげおれを見る。

「あ……ご、ごめん」

 強い岳里のまなざしに、おれは咄嗟に掴んでしまった腕を素直に離して謝る。視線をまた腕に向けて、おずおずと岳里に尋ねた。

「なあ、それ……どうしたんだよ?」

 それ、というのは、岳里の腕にくっきりと刻まれた手形だ。強く握られたのか、それとも自分で握ったのかはわらかにけれど、尋常じゃない力で掴まれたのだけは間違いない。
 今までなんでこんなに目立つ痣に気がつかなかったんだろうと思ったけれど、よくよく思い返してみれば、岳里はタオルをかけたりしてうまくごまかしていた。今もタオルを乗せてたんだけど、それがずれたからその痕を見つけれたわけだ。
 今さら思い直してみれば、なんでおれはその不自然さを気にしなかったんだろうか。

「――別に、どうってことはない」

 痛まないだろうか、と心配するおれをよそに、岳里は歯切れ悪く答えた。明らかに言いたくない、という空気に、おれは不安になりながらも素直に引き下がる。
 本人が答えたくないことを無理に聞きだすのは当然おれもしたくないし、あんなはっきりとした手の痕、何かあったのは間違いない。わざわざ今まで隠してたのが何よりの証拠だ。
 でも、気にならないわけではないけど、引き下がるしかなかった。

「なら、いんだけどさ……」

 それ以上言うことも思い浮かばず、おれはまた岳里の髪に集中する。けどやっぱり腕が気になって視線を向けたが、すでに岳里がタオルで隠してしまった。
 ――いったいいつから、あんな痕がついたんだろう。

 

 

 

 しばらくしてようやく岳里の髪は洗い終わり、おれも自分の全身を洗う。
 ざあっと湯で泡を流していると、先に身体を洗い終えた岳里が立ちあがり湯船に向かった。

「あ、待っておれも行く」

 別にそんな慌てなくてもいいんだけど、おれは最後に頭から桶にためたお湯を被って、岳里の後を追う。
 追いついたころにはもう、岳里は片足を湯につけていた。

「そういやさ、なんで岳里はあの薬を飲もうと思ったんだ?」

 人ひとり分の距離を開け岳里の隣に腰かけたおれは、腕を伸ばしながら尋ねる。

「腕が四本あれば便利だと思ったからだ」

 何のためらいもなく岳里は答えた。それに思わず、おれは隠れて吹き出す。
 いや、確かに便利だよ。四本もあれば、あれもこれもとできると思う。でも普通、それだけで正直に言えばそんな怪しい薬を飲もうとは思えない。
 肝が据わってるって言うのか、単なる馬鹿――じゃなくて、怖いもの知らずなのか……。
 おれの考えていることをいつものエスパーで見破ったのか、それとも単にそんな気分になったのか、岳里は腰を上げおれの前を通過して湯船からあがろうする。
 ならおれも上がるか、と立ち上がり、湯船の淵の段差を昇ったその時だった。
 おれはつるりと足を滑らせ、背中から後ろへ倒れる。

「――っ」

 あまりの驚きに声に鳴らない悲鳴を上げ、咄嗟に手を宙に伸ばす。
 落ちる――そう思って目をつぶったおれの伸ばした手を誰かが掴んだ。それはやっぱり、いつでも助けてくれる岳里で、目を見開き驚く姿が視界に映る。
 手を引っ張ると同時に腰にも腕を回され、衝撃を緩和しながら、おれの体勢をゆっくりと立て直させた。

「あ、ありがと……」
「気をつけろ」

 驚きと恐怖のあまり震える声でお礼を述べるおれを一瞥し、岳里は少し機嫌が悪そうに短く注意をしてくる。
 ごめん、と小さな声で謝るおれに次の言葉をかけず、岳里は目を逸らしそっと離れようと動く。
 その時、おれの腰に回されていた岳里の手がすっとその右側の素肌を掠った。

「――ひぁっ!?」

 その瞬間、おれの全身に今まで感じた事のないような、電撃が走ったような衝撃が襲いかかり、思わず声を上げてしまい、慌てて岳里から離れて腕で口元を隠す。
 自分でもわけがわからないまま目の前の、おれと同じように驚いた表情をする岳里と目が合った。

「あ、あの、これは、その……っ」

 混乱する頭で説明しようとするのも無理な話で、なによりさっきの謎の衝撃で起きた身体の変化を岳里に悟られたくなくて、おれは言葉を詰まらせたまましゃがみこむ。

「だ、大丈夫だから、岳里は先あがってて」
「――わかった」

 これじゃまともに顔も見合わせられないと、おれは俯いたまま自分の意志を伝える。おれの動転を表すように上擦る声音に何かを理解してくれたかはわらからないが、岳里はおれの不審な行動を一切触れることなく、静かにこの場から立ち去ってくれた。
 ぱたりと、浴室の扉が閉められる。
 おれはそろりと顔を上げ、完全に扉が閉まり、岳里がいなくなったことを確認して、その場にため息をつきながら胡坐を掻いた。
 そして見るのは、自分の下半身。さっきの衝撃で、何故か反応してしまったタオルに隠れた自身だ。

「っ、なんで……意味わかんねえよ……」

 半ばべそを掻きながら、おれは緩くだが勃ちあがってしまったそこを見詰めながら、静まれと強く念じる。
 さっき岳里の手が腰を掠めた時、突然襲った衝撃――今まで感じた事もない強烈な快感が、今のこのわけのわからない状況を生み出した。腰に直接響いたその感覚は、おれの大切なあれと直結してしまったようだ。
 どんなに治まれと頼み込んでも、そこが萎えることはない。こっちの世界に来てから一度も世話をしてなかった所為なのか。その所為だっていうのか。でもしかたないじゃないか。いつでも傍に人がいる状況で、部屋でも隣には岳里がいる状況で、慰めてやることなんてできないじゃないか!
 自分自身に怒りながら、このままでは出てけないとまたもため息をつく。
 もう一度、浴室と脱衣所をつなぐ扉を見る。そこは完全に閉まっていて、湯気の逃げる隙間すら見当たらない。
 ……ちょっとだけ。し、仕方ないし……。
 そう自分に言い聞かせ、そっと、タオルを捲りそれと顔合わせをする。目を閉じ、いろんなことがありすぎて記憶の片隅に飛ばされていた、グラビアの写真集を思い出しながら、そっと自身に触れた。

「ふ……」

 少し扱っただけで、大きく反応を示すそこに、いくら久々だからといってなんだか情けなく思える。生理現象で仕方ないとは言え、そして溜まってたとは言え、こんな大変な状況でさ……。
 ん、でも、やばいな……。
 はぁ、と息を吐きながら、久々の快感に耽る。いつの間にかここが風呂場だとか、いつ岳里が戻ってきてもおかしくないとか、そんな不安は吹き飛んで夢中になる。
 柔らかい曲線に、大きく膨らんだ胸を思い浮かべる。いかにも柔らかそうな髪は、しっとり濡れて、大きなぱっちりとした目は伏せがちになっていて――けれどそれじゃあいまいち盛り上がらない。
 何か、何かないか。自身を指で輪を作り上下に扱い、もう片手で先端をなぞる。ぬるぬるとする感触が異様に恥ずかしく思えた。
 そんなときふと思い出したのは、あの岳里に腰を触られた時に感じた感触だ。
 恐る恐る自分の腰をなぞってみるが、あれは感じない。
 一体あれがなんだったのかわからないけど、気持ちよかったのだけは間違いない。おれはあの時の感覚を思い起こしながら、さらに強く自分のを扱う。

「っ、ぅ……っん――!」

 小さく声を上げ、おれは自身を覆っていた掌の中で果てた。
 射精後のけだるくもすっきりした感じに軽く息を弾ませながら、そっと白濁にまみれた自分の手を見る。
 ――なにやってんだおれ。
 出して冷静になった心の中で頭を抱え、おれは大きくため息をついた。
 今さら思えば王さま専用なんて呼ばれる風呂でこんなことしてるおれって、何なんだろう。いくらいつも人がいてできなかったからって、トイレで隠れてやるとかできたじゃん……。
 すっきりした身体とは反対に、どんより沈んでいく心。後悔ばかりが思い浮かぶ。
 でもいつまでも落ち込んでるわけにもいかず、おれはその場から立ち上がり、黒い玉を使って色々と身体を、床をお湯で洗い流す。そしてもう一度自分の身体を泡で洗って、更にもう一度床を洗い直して、もう何も残ってないか血眼になって捜して、おれはそろりと浴室から出て行った。
 本当はしばらく浴室でひきこもってたが、外ではネルと岳里が待っているはずだ。そうはわかっていても、気まずさで、すっきりしたはずの身体はなまりのように重く感じた。

 

 

 

 風呂からあがり、顔が赤くなっていないか、匂いは感じられないか不安に思いながら、用意されていた服に着替えた。
 恐る恐る脱衣所からそっと出ると、すぐにネルが笑顔で迎えてくれた。近づいてきて、すんすんとおれの身体の匂いを嗅ぐ。

「うん、綺麗になったなあ。石鹸のいい香りがするでえ」

 内心肝を冷やしたけれど、ご機嫌な様子のネルに、ようやく安心できて胸を撫で下ろした。
 何も言ってこないし、大丈夫、だよな……?
 ネルに若干ひきつった笑顔を返していると、今度はいつの間にか岳里がずいっと近づいてきた。
 ネルのように顔を寄せてくるわけじゃなくて、二三歩手前で止まったけれど相変わらずのすべてを見透かすような強い視線に、おれは怯む。

「な、なに……?」

 それを隠すためにも先に声を出したけれど、情けなくも若干上擦った。鼓動も、さっきネルが近づいた時よりもどきどきと不安に高鳴る。

「こっちに来い」

 そう言って、岳里はおれに背を向けた。
 なんだっていうんだよ、と怯えながらも、おれは岳里についていく。すると、部屋の端の机に案内され、椅子に座らされた。岳里は腰かけたおれの隣にしゃがみ込み、片膝を床に付けた。

「右手を出せ」
「……うん?」

 なんでなんだろうと思いつつも、言われるがまま手を差し出すと、その手を岳里が受け取った。
 吃驚して手を引こうとするが、それよりも前に岳里が掴んだ。不動の岳里をおれ如きの力で動かせるわけもなく、ただ自分の手首に刺激を与えただけだった。

「いっ」

 手首に響く振動に思わず小さく呻いてしまう。じくりと、無視を決め込んでいたはずの熱を思い起こしてしまい、しまった、とおれは心の中でささやかな痛みだが冷や汗を掻いた。
 そんなおれの様子を見つめていた岳里は、唸るような低い声で一言、

「馬鹿が」

 と吐き捨てた。
 え、なんか、怒ってる……!?
 ひっ、と思わず声を上げ、空いた手を胸の前に引き寄せる。だが反対に掴まれていた手がいったん離されて手首よりも奥を掴み直されると、そのまま岳里の胸のほうへ引かれた。
 岳里はおれの腕をしっかりとした力で掴んだまま、自由な片手で机の下へ手を伸ばしなにやらがさがさと探る。音が止み、そこから取り出されたのは掌に収まるくらいのまん丸球体をした木の器だった。底らしき部分が小さく平らになっている。
 そこでようやくおれの手を離した岳里は、両手を使い蓋を開けた。中には、軟膏のような、なめらかそうなクリーム状のものが詰まっている。薄い青い色をしていて、少しすーっとするようなメンソールに似た匂いがおれのほうまで届く。
 おもむろにそれを人差し指と中指でたっぷりに掬い上げると、岳里は再びおれの手を取って手首にそれを塗りたくった。

「つ、冷たっ!?」

 それに触れた瞬間、匂いから連想するよりも遥かに、爽快感にも似た冷たさが背筋を駆け抜ける。咄嗟に手を引こうとも、それを見越してがっちりと掴んでくる岳里の手が許すわけもなく、おれの反応を素知らぬ顔で、手首全体に引き伸ばす。
 そんなおれたちのやりとりを少し離れたところで、ネルが愛されてるなあ、と笑った。
 おれとしてはどこが!? と思うが、いつの間にかそれを塗り終えていた岳里が未だすーすーする箇所へ布を当て、包帯を巻き出したのを見て、やっぱりこいつには敵わないと再確認した。
 いつから知ったのかはわからないけど、岳里は気がついてたんだ。おれが手首を痛めていたことに。
 昨日、ジャスの薬で力が抜けて倒れた岳里の下敷きになったとき、咄嗟に床に手をついた衝撃で手首を捻ってたんだ。そのときはさほど気にならなかったけど、朝起きた時には若干腫れていて、痛みも感じるようになっていた。ただ我慢できるくらいに軽いものだったから、放っておいたんだ。ほっといてもすぐに自然に治っただろう。包帯を巻かれるほどじゃあ決してないはずだ。それなのに――自分には、無頓着なくせに。
 今は服の下に隠されているあの手の痣を思い出し、そっと服越しにそこに触れる。
 ちょうど包帯を巻き終えた岳里は動きを止めた。

「――もう、痛くないのか?」
「治りつつある。心配はいらない」

 淡々と答えると、岳里はおれの手をするりと解く。そのまま離れていくと、机の下に置いていた救急箱のような木の箱に蓋をして、それを抱えてネルのもとへ向かった。

「返す。助かった」
「おう。言えばまた貸してやるよう」
「待ってネル。おれにもそれ、貸してくんない?」

 はじめおれの言葉にきょとんとしていたネルだったけど、すぐに顔に笑顔を浮かべて、受け取ったばかりの木箱を渡してくれた。

「ほうらよう」
「ありがと。――ほら、こっちに来い馬鹿」

 馬鹿が、と言われたお返しに同じく馬鹿と返しながら、おれは岳里の腕を引いて、さっきまで自分が腰かけていた椅子へ座らせる。
 木箱を机の上に置いて開け、中から用途のわからない大小形様々な木の器の中から、お世話になったばかりの小さめのそれを取り出す。引かれた切れ目を中心に端を持ち、蓋を開ける。
 自分の腕からかすかに香る同じ匂いが鼻を刺激した。
 ただじっとおれの動作を眺めていた岳里に振り返り、その腕を取る。服を肘まで捲くり、風呂場で見たあの痣との再会を果たした。

「――痛くなくたって、痛いんだ。見ないふりすんな、可哀想だろ」

 一度ぺしりと軽く痣を叩いて、岳里がしたのと同じように二本の指で薬を掬い、はっきりと腕に刻まれている跡を辿るように塗りつけていった。
 正直、冷やせばいいかなんて、この処置の仕方が正しいかはわからない。でも大切なのは、岳里に自分の身体の痛みは面倒見てやれって伝えることだから、これでいいんだ。
 おれのことはよく気がついて世話してくれるくせに、岳里は自分には無頓着な気がする。そういうところは気に入らない。
 岳里を見ていると、時々兄ちゃんを思い出す。兄ちゃんも、あまり自分を大切にしない馬鹿だからだ。
 どんなに疲れて帰ってきても笑顔を忘れない兄ちゃんの姿を思い出しながら、岳里がしたように木箱に入っていた布を、薬を塗ったところに当て、包帯を巻く。随分昔に何度も巻いていた包帯だけど、さすがにもうコツなんかも覚えてくなくて、苦戦をしつつもどうにか終える。

「よし、これで終わり」

 塗り薬の入っていた器と残った包帯を戻して木箱に蓋をした。そのまま木箱を抱え、ネルのもとまで行く。

「ありがとうネル」
「お疲れえ。真司ィ、お前のほうの具合はでえじょうぶかあよ?」
「おれ? おれは大丈夫だよ。岳里が大げさなんだって」

 まあ確かになあ、と相変わらずの独特な言い回しを披露しながら、ネルは笑う。
 それからおれの腕を取り、包帯の様子を見て、合格と小さく呟いた。
 ……岳里の巻き方よりも、おれの巻き方を心配したほうが……。と思ったけど、あえて口には出さない。それで巻き直されるのもなんだか悲しいし……。

「でもまあ、これでお揃いだあな」
「……お揃い?」
「おうよ。ほうら、ふたりして右の、しかも腕だあろ?」

 正確にはおれのほうは右の、手首なんだけど、ネルが言いたいことはそれでわかった。
 めくられたままのおれと岳里の腕を交互に見れば、若干位置に違いはあれど近い場所に包帯が巻かれている。

「変なお揃いになったな」

 なんて岳里に笑いかければ、そうだな、と短い返事をしてじっと岳里は包帯を見つめていた。
 あんまり見られると誤魔化した部分がばれそうだから、見るな……とも言えず。
 ここはあまり気にしないほうがいいと、改めて視線をネルに戻す。
 すると、いつの間にか手に緑色をした玉をネルが持っていた。

「さあて真司ィ、おまえはさっさと髪を乾かしちまえよう」
「――髪乾かすのに、それ使うの?」
「そうだあ。これは水分を吸い取ってくれんだあよ」

 な、なんと便利な……。
 なんでも玉を使うことを改めて実感しながら、おれは使い方を教わって、髪に直接玉を押しつけた。
 すると、見る見るうちに触れた場所から髪の水気がなくなっていく。

「おお、これは結構便利だな……」

 さすがにもといた世界にすらない物に、感激をする。おれたちの世界では早く乾かすにはドライヤーを使うけど、それでもやっぱり少しだけど時間はかかる。けれどこれは一瞬だ。
 これなら冬の風呂あがりも寒くなくていいや、なんてことを考えているうちに、早くも髪全体が乾ききる。
 岳里も使うかと視線を向ければ、とっくに岳里は使っていたのをおれが気がついてなかっただけらしく、それがわかったと同時にじっと包帯を眺める岳里を見てしまった。
 ……そんなに下手だったかな……。

 

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