10

 

「まあ、動ければの話だが」
「……っ!?」

 大きな音を立てて、二本の大剣は岳里の手から滑り落ちた。
続いて岳里自身も膝をつき、床に手をつき辛うじてといった様子で身体を支える。でもその両腕もぶるぶると震え、今にも崩れてしまいそうだった。

「岳里!?」
「来るな!」

 あまりに突然のことに駆け寄ろうとすれば、鋭い声に制される。足が竦む形で動きを止めれば、岳里は震える手を持ち上げてシャトゥーシェに指先を伸ばす。
 持ち手を握るけれど、でも持ち上げることはできず岳里はそのまま床に倒れてしまった。
 今度こそ覚悟を決めて二人の間に飛び込めば、その後にセイミアも続いて、おれたちは岳里の両脇について身体を助け起こそうとする。でも岳里の身体は予想以上に重たくて、まるで全身の力が抜けてしまったかのよう。上半身を二人がかりで起こさせるのがやっとだった。それでも岳里自身、自分を支える力がなくまた倒れそうになり、ひとまずおれの身体に寄りかからせる。
 その時、岳里が呻くように吐き捨てた。

「くそっ、やられた……」

 その言葉ははっきりしているはずなのにどこか呂律が回っていない。口の中が麻痺しているように、明らかに身体の変化を受けていた。
 そんな岳里の様子をみて、唯一状況を知っているエイリアスが笑う。

「ようやく効いたか。まったく、折角準備は済ませておいたのにおまえたちが大穴開けて入ってきてくれたおかげで予定が狂ってしまった」
「岳里に、何をしたんだ!」

 思わず声を荒げれば、エイリアスは目を細めおれを眺めた。

「見ての通り、身体の自由を奪っただけだが? 本来なら毒を仕込んでおきたかったのだが、そうすれば今使っている身体にも影響しかねないからな。しかたなく獣人と竜人にだけ効果を成す、筋肉弛緩の薬を気化させ、空気中に振りまいていたのだ。覚えていないか、おまえは以前、自らこの薬を口に含んだことを」

 岳里が、自分から?
 そんなことあるわけない、と思ったところでふと思い出す。初めてジャスに会った時のこと。
 その時ジャスの薬の実験台になって、岳里は渡されたものを飲んだ。けれどそれは予定していたのとは違う薬で、人間には効かない、獣人にだけ効果があるはずの力を押さえ込むためのもので。それを飲んだ岳里は獣人じゃないにも関わらず全身に力が入らなくなって立つこともできなくなってしまっていた。
 確かに、その時と今の岳里の姿は似ている――もしかしてあの薬は、人間には効かず獣人だけに、じゃなくて、獣人と竜人だけに、っていうものだったんだろうか。
 おれの表情で思い当ったものを察したのか、エイリアスは口を開いた。

「この研究馬鹿も思いの外役立った。まさか竜人の力を抑えてしまう薬を開発してしまうとはな。そしてわたしの策外の偶然ではあったがおまえは自身の身を持って実証までしてくれた。ならば使わぬ手はあるまい? いくらこの身がどうなろうと構わないと言っても、疲れることは勘弁だからな」

 こうしてる今も嗅覚も優れる岳里でさえ気づかないくらいの無臭の薬が、空気中を漂っている。それを嗅いでいる限り岳里は動けないし、もしできたとしても少なくともすぐに復活するのは無理だ。
 でもとにかく、ここで戦えるのは岳里だけ。どうにかして薬を抜かせないと。
 そう思うのにエイリアスが待ち構えていたこの部屋には隙間なんてなくて、入ってきた時のような大穴を空ける力はおれにもセイミアにもない。
 一気に窮地に立たされたおれたちに、一歩、エイリアスは歩み寄る。

「まったく、おまえたちが無駄話好きで助かった。おかげでまた部屋に薬は充満し、こうして竜人は倒れてくれたのだから」
「くっ……」

 また一歩、もう一歩、じっくり追い詰めるように距離を詰めてくる。岳里を引きずりそれを空けようにも身体は重く動かすだけでも一苦労で。
 エイリアスの足元では一度は潜んだ影がまたゆらりといくつも上がり始める。一歩踏み出すごとに影はひとつ増え、おれたちの絶望を増やしていく。
 セイミアも打つ手がないのか、じっとエイリアスを見つめていた。
 なんとかして今の状況を脱さなければと辺りを見回す。すると目に入ったシャトゥーシェを確認して、覚悟を決めた。
 膝の上に乗せていた岳里の頭をそっと床に下ろし、それに手を伸ばす。
 持ち上げることができるだろうか、と内心不安になりながらも、シャトゥーシェはその大剣の見た目に反して思いの外軽く、おれの腕力でもあっさりと持ち上がった。
 それに一度安心しながら、剣を手に握ったまま立ち上る。
 どうするのかと様子を見守っていたエイリアスは、それを見て不思議そうに首を傾げた。

「まさか、おまえが代わりにわたしの相手をするというのか?」
「……」
「戦う技術もないうえ、そのか弱い人の身で立ち向かうか。たとえ神の剣をもってしても到底無謀という話ではないか?」

 明らかに馬鹿にしたように笑うエイリアスの通り、おれが剣を持ったところでできることなんてたかが知れてる。
 でもそれでも、見よう見まねで切っ先を視線の先へと向け、構えた。
 震えてないだけ上出来だ、と内心で自分のことを褒めてやりながら、意地を出すためにも腹から声を這い出す。

「無理だろうがなんだろうが、やるしかないだろ。やってみなきゃわかんないだろ。岳里はおれが守る、絶対に守ってみせる」
「やめ、ろ……真司――っ」

 微かな声がおれを引き留める。それでも両手で握ったシャトゥーシェを離さなければ振り返ることもしない。
 ただ目の前のエイリアスだけを見つめ剣を握る手に力を込めた、その時。
 見えた薄い笑みが掻き消されるように、いくつもの影がおれへ向かって恐ろしい速さで襲いかかってきた。

「っ……!」

 息を飲みながらも自分を奮い立たせ、目の前に迫るそれから逃げることなく剣を振り上げ、そして影を斬ろうと下ろそうとすれば。それを遮るようにおれの前にセイミアが割り込んできた。

「セイミア!?」
「力を貸して、ヴァイス!」

 咄嗟に剣から片手を離して前に立つ後ろ姿へ手を伸ばすと、一瞬真っ白な光に視界が奪われる。その眩しさに思わず目を強く瞑って、伸ばした手で目元を隠せば光は消えていった。
 それでもすぐには視力が回復せず、平衡感覚にも影響したのかくらりと眩暈を感じたように身体がふらつく。どうにかそれに耐えて顔を振って正気に戻れば、ふと周りが薄白い、きらきらとした何かに囲まれていることに気がついた。
 よくよく見てみればそれはどうやらおれと岳里、そしてセイミアの三人を囲うように円を作っていて、その外にいるエイリアスの影は薄白い壁に阻まれていた。
 先が手のような形をする影のひとつは何度も影に身体をぶつけて弾かれて、ひとつはかりかりと引っ掻き、ひとつは探るように触れている。でもどれも中までは入ってこれないようで、壁全体を黒で覆い尽くされてもそれでも何も起きない。

「これ、は……」

 思わず声を漏らせば、セイミアが振り返った。

「真司さん、岳里さんの身体の上にあるものを今すぐ飲ませてあげてください。ぼくが置きました。今身体を蝕んでいる薬に対して相反する、拮抗薬です」
「……っわかった!」

 その言葉を理解し、シャトゥーシェをその場に置いてまた岳里のもとへ戻る。その時壁の外からエイリアスの声が響いた。

「どういうことだ! その壁はなんだ、何故そのような薬をおまえが持っている!」
「――何故って、ジャスさんが教えてくれたんですよ。作った薬の効果を打ち消すためのものは、必ず用意すると」

 荒げられる声とは対照的に、落ち着いたセイミアの声。
 納得のいかないエイリアスがさらに声を上げ、それがどうしたと憤慨した様子で言う。それに返されたのはやっぱり冷静なものだった。

「忘れましたか? ジャスさんは研究成果をすべてぼくに話してくれていたこと。薬の制作過程は勿論のこと、それを解くためのもうひとつの薬まで、すべてです。ですから頭に残っていた記憶を頼りにジャスさんの部下の方々に協力していただき、もしものためにとあの薬を用意してきたんです」

 そう話すセイミアの後ろで、おれはまた岳里の頭を揃えた膝の上に乗せる。その腹辺りに乗っていた、ふたつの小瓶を手に取った。
 ひとつは薄青い液体が、もうひとつには薄赤い液体がそれぞれ入っている。まずは青い方の蓋を開けて岳里の口元へと持っていった。

「飲めるか?」
「……」

 もう話すのも辛いのか、けれど首を振るのも頷くのもままならない様子に。一度は口元に寄せた瓶を離し、それを今度は自分の口に寄せて一気に中身を煽った。
 口に広がる強い苦みに思わず顔を顰めるも、青の液体を含んだまま、岳里と唇を重ねる。閉じたそこをこじ開けて、生まれた隙間から中に少しずつ流し込んだ。舌も力を失い下がりかけるのを自分の舌を使って押さえつけながら飲ませていく。
 その間にもエイリアスたちの話は続けられていた。

「たとえあなたが拮抗薬の製造法が書かれた紙を処分しても、わたしの記憶に残っていたことまでは考えつかなかったのでしょう?」
「は、はははは……なるほど、そういうわけか。とんだ伏兵がいたものだ。まさかおまえがな」

 何がおかしいのか、エイリアスは笑い声をあげる。
 その間にも二本目の赤い方を同じように口移しで岳里に飲ませた。その時少し口の端から液体が零れたけれど、どうにかそれも飲み終える。
 口を離せばむせたのか、岳里は小さく咳をするも特に問題はないようだ。口の端に垂れてしまったものを指で拭いながらセイミアに振り返る。
 その時ちょうど、エイリアスがまた話し始めたところだった。

「それで。その壁――結界の一種だな。それはその剣が生み出しているのか」
「ええそうです。神さまから授けられた剣の力――ぼくのヴァイスは、他の人が持つ火の剣や、水の剣、重力の剣など、それらのように武器としての力は一切持ちません」

 そこで初めて、今背を向けるセイミアの手に剣が握られていることを知った。おれはそれを、この場所に来る前にちらりとだけ見せてもらっている。
 それは剣というほどの大きさはなく、短剣ぐらいのものだった。岳里の半透明な刀身のクラティオルとは違う、完全にすべてが白い剣。それが、セイミアが神から与えられた剣“ヴァイス”だ。
 ヴァイスを見せてくれながら、セイミアは岳里とおれにその剣についてこう言った。

『この剣は何も切れないので、やはりぼくは戦うことはできません。治癒術ばかりでしたから戦う術など学んできませんでしたし。ヴァイスができるのはただひとつ。覚えていてください、たった一度だけ、ぼくはこの剣の力を使って――』

 その後に続いた言葉を思い出して、ようやく今の状況を理解した。話は聞いていたはずなのにおれはすっかりそれを忘れてて、一人先走ってしまったんだ。
 きらきらと半透明に張られた、おれたちを囲う白い壁。それの正体をセイミアは口にした。

「ヴァイス、与えられた異名は“守りの剣”。その通りこの剣の力は守ること。ぼくの治癒力を著しく消耗する代わりに、それ尽きるまで、ありとあらゆるすべての攻撃を無効化する鉄壁を造ることができます。物理的な衝撃は勿論のこと魔術やあなたの影さえ遮断しますよ。この力が発動され続ける限りあなたはぼくたちに手出しできません」

 言葉が聞こえなかったように影は防壁全体を真っ黒に覆うけど、それでもヴァイスが造りだしたものは悲鳴すらあげない。
 やがてすべての攻撃が効かない、という確証を得たエイリアスは影を足元へと戻した。
 おれたちを守る壁は何も通さない。これがあり続ける限りはおれたちの安全は保障されたも同然だ。けれどそれだけ強力なものだともいえる。だからこそ、ヴァイスが壁を維持するために必要なセイミアの治癒力は激しく消耗されてしまうんだ。
 そう長くはもたないから、だからセイミアは戦いの中でたった一度だけしかこの剣をつかうことができないと言った。しかもその後には疲労と失った治癒力のせいで歩くのがやっとの状況になる上、力が枯渇した状況に近くなるから治癒術自体もほとんど使えなくなってしまう。だから下賜されてからこれまで、一度も使われたことのない力でもあったらしい。
 でもそれを悟られないように、少しでも長く岳里を休ませて回復させないとならないと思ったのに。
 エイリアスは、なるほど、と呟いた。

「これほどの強力な結界を維持するのは大変だろう。ましてやおまえの専門は治癒術、魔術に部類される結界は使い慣れず無駄に消費される力も多いはず。長くはもつまい。少なくとも、竜人に巡る薬を打ち消すまでは――」
「いいえ、もちますよ。この拮抗薬は即効性が上がるよう多少改良してあるので、あなたが知っているものより早く効果を現します。それまでは十分ヴァイスもぼくも持ちこたえられます」

 おれの湧きあがった心配を余所に、セイミアはやっぱり冷静なまま答える。その言葉に今度こそ小さな安心を覚え、堪らず詰めていた息を吐いた。
 すると、膝の上で岳里が身じろいだ。

「――動けるのか?」
「ああ、自由が戻ってきている。まだ完全ではないがあと少しもすれば問題なく動けるだろう」

 言葉もしっかりし、覚束なかった舌もちゃんと回っている。本人も言うように回復は進んでいるようだ。手も持ち上げられて、そこが拳を握ったり開いたりして感覚を確かめている。
 もうひとつの不安も和らいだところで、また壁が影に覆われた。光り輝くヴァイスの防壁のおかげで中まで影に染まらないけれど、それでも周りの景色は一切見えなくなる。
 黒に塗りつぶされた場所から、エイリアスの声がした。

「その邪魔な壁が消え去れば、影でおまえたちを押しつぶしてくれよう。どれほどそれがもとうがわたしには関係ない」

 影はおれたちを逃がさないように周りを埋めている。逃げ場はなかった。
 それでもどうにかしなくちゃとない知恵ふりしぼてって考えていれば、ヴァイスを床に置いたセイミアが傍らへとやってきた。

「調子は、どうです?」

 その声は震えて、肌には汗がにじんでいる。ヴァイスの力で治癒力を激しく消費してるからだ。

「大丈夫か、セイミア」
「ええ、お気になさらず。さっきも言いましたが岳里さんの回復までには確実にもちますから安心してください」

 笑みを浮かべる顔はけれどあまり余裕は見えず、息も荒くなっていく。でもそれに比例するようにどんどん岳里は動けるようになっていった。
 ついにはおれの膝から頭を上げて身体を起こす。その姿にもうすぐ立てるようにもなるだろうと思っていると、不意に岳里が床を黙ったまま指で叩いた。
 おれもセイミアもそこに視線を落とすけど、あるのは古びた赤い絨毯だけで。特に示されるようなものは見当たらない。
 思わず首を傾げそうになった時、岳里の指先はそこを辿ってこの世界の文字を描き始めた。おれでもわかるようにゆっくり一字一字を丁寧に書かれたその内容は、きっとこう。

『合図をしたらセイミアは壁を消せ。真司は剣を振れ――』

 そこまで床に書くと岳里は置かれたままになっていたシャトゥーシェに手を伸ばし、それをおれへと渡してきた。剣を受け取ればまた文字が書かれていく。

『おれがおまえたちを抱え、真司が作る隙間から出る』

 顔を上げた岳里と目を合わせ、セイミアと三人で頷き合った。
 エイリアスは防壁がある今、何をしても無駄だと思ったのか。影で周りを覆う以上のことはせず静観しおれたちの限界を待っている。その間に黒に囲われた中で音を立てないよう準備をした。
 岳里自身がもう十分に動ける、と思えるようになった頃、セイミアは床に横に置いていたヴァイスを手に取り、エイリアスがいる側とは反対の少しでも遠くなる場所へ移動する。おれもシャトゥーシェを握り同じどころに向かい、岳里も落ちたままになっていたクラティオルを武玉の姿に戻りながら三人集まる。
 岳里は両脇にそれぞれおれとセイミアをうつ伏せになるような形で抱え込んだ。自分の体重に圧迫された腹が苦しいけどこの体勢しか取れないから我慢して、少しでも岳里が動きやすいように抱えられる側のおれたちはできるだけ身体を縮める。
 セイミアは荒い息を吐き、抱えられた圧迫からくるものとは別の苦しみにも耐えていた。それを一度見てから、岳里を見上げる。ちょうどこっちを見ていたらしく金色と目が合って、頷き合った。
 岳里はおれたちを両脇に抱えたまま、すぐに跳べるようぐっと腰を下す。そして腹に回された腕に一瞬力を込めて合図した。
 その瞬間におれは手にしていた剣を振り上げ、セイミアは防壁を解く。それとほぼ同時にシャトゥーシェは影をまるで水でも切るように手応えなく切り裂き、そこにできた隙間から岳里が飛び出した。
 おれたちが囲う影の中から飛び出せば、その直後轟音を立てながらすべてを叩き潰すよう黒が急速にしぼんで床に沈むよう消えていく。岳里はそれを確認する間もなくある程度離れ、そこでおれたちを下した。
 おれが手にするシャトゥーシェをもぎ取ると、そのまま踵替えして走り出す。向かう先にエイリアスがいた。
 向かってくる岳里にエイリアスは影を伸ばす。襲い掛かるそれをシャトゥーシェですべて薙ぎ払いながら進み続け、やがて再び、岳里のクラティオルとジャスのリィスが激しくぶつかり合った。
 少し前にも繰り広げた激しい剣戟でまた音を響かせて、その間にも無尽蔵に溢れる影をも相手に振るい続ける。
 疲れ果てその場に蹲ってしまったセイミアに手を添えながら、二人の姿をただ見つめるしかなかった。
 また傷を負うのは、岳里だけ。顔に手に次々赤が引かれていく。アロゥさんの魔術がかけられ丈夫になっている服も次第に綻び初めてしまっていた。
 それでも岳里は引かず、逆手に持つシャトゥーシェと右手に握ったクラティオルでエイリアスに対抗していた。大振りのふたつが振られる度に聞こえる風の唸りは低く、リィスと重なり合えばその度に火花が散っては重たい音を響かせる。
 普通の剣であれば規格外の大剣を相手にもう折れてしまっていてもおかしくないけど、リィスもまた神ディザイアの力が宿る剣。ただのそれとは違って丈夫で、砕ける気配はなかった。
 そうして互いに精神力と体力を削りあう中、ついに変化が訪れる。
岳里がやつの足を払った。均衡を崩し後ろに倒れたエイリアスに向かってシャトゥーシェを振り下ろされる。

「……!」

 エイリアスは目を見開くけれど、それは痛みによるものじゃなくて驚きで。影に支えられながら身体を起こし、一度岳里と距離を取った。
 顎に伝う汗を拭い軽くせき込みながら、薄く笑う。

「その剣、魔術を弾き影を斬っても、本来の剣にあるべき斬るための刃が欠けているようだな。そんなものただの模造の剣と大差ないではないか」

 シャトゥーシェがさっき当たった場所は切られていなくて、けれど打撲の痛みに少し顔を顰めながらエイリアスは言った。
 岳里はその言葉を聞き終えるとまた距離を詰めて再びやつへと襲い掛かる。
 繰り返される斬り合いに、影の存在によって優位に立つのは必ずエイリアスだ。ただし体力の面では岳里が圧倒していて、次第にジャスの身体で振るわれるリィスの動きが鈍くなっていく。それを補うように影の手の量が増えても、その分岳里がシャトゥーシェを空に滑らせ叩き斬っていった。
 相変わらずエイリアスに傷はつかないけれど、でも少しずつ、確かに状況は変わっていく。
 それをただただ手に汗握り、岳里が大きな怪我をしないよう祈りながら見つめた。
 腰にあるはずの、岳里との盟約の証が熱を孕んだように熱い。その場所だけは岳里の身体と同じ体温を抱いているのか、それとも気持ちの高ぶりか、それとも何か別の理由があるのか。それはわからないけれど、きっと岳里のそれも同じように熱くなっているんだろう。
 それが、おれたちが繋がっていることを教えてくれる。
 ただ見守っているだけで手を貸すことはできない。だけど不思議と、おれもあの場所でエイリアスと向き合っているようなそんな気持ちにさせられる。
 負けるな、負けるな。負けるな岳里、守りきれ――
 岳里の敗北はそれだけでもう、死を意味する。すぐに殺されなかったとしても動けないまでの大けがを負うということ。その後に待ち構えているものは変わらないんだから、結果として同じだ。
 だから負けないでほしい。これまでおれを守ってきてくれたように、今度は自分自身の身体を守り通してほしいんだ。それに勝てなきゃ、エイリアスとの間も変わることはできない。だからおれは願う。
 おれたちが、みんなが望む未来のために。

「――くっ!」

 激しい金属音が高鳴り、エイリアスは握るリィスを弾かれて手放してしまった。
 岳里の剣の勢いをそのままにそれは遠くへと飛んでしまい、宙で回転しながら床に突き刺さる。決して手を伸ばしただけじゃ到底届かない壁の際だ。
 咄嗟にリィスを目で追ったエイリアスの腹に、岳里のクラティオルが躊躇われることなく突き刺さる。刃は貫通して、背中から突き出てジャスの身体を串刺しにした。
 エイリアスは全身を震わしながら目を見開かせて、わななく唇を静かに開く。

「馬鹿、な……どういうことだ、どういうつもりだ。答えろ、竜人!」

 そこから零れた声は最初は震え、けれど途中から怒鳴り声に変わる。
 エイリアスは腹に剣を収めたままに、手が届く距離でじっと自分を見つめ動かずにいる岳里の肩を強く押した。突き飛ばされて後ろによろけた岳里と一緒にその手に握られるクラティオルはするりと、深々と貫いたはずの身体から抵抗なく抜けていく。
 現れたその刀身は相変わらず半透明に白く、血はついていなかった。剣が貫通したはずのジャスの身体にも一切の傷はなかったどころか服も破けてはいない。
 それを改めて目視で確認したエイリアスは、もう一度興奮したように声を張り上げる。

「何故その剣でこの身が傷つかない! 確かに貫かれたのに、痛みがない。傷がない。どういうわけか説明しろ!」

 それまで岳里を襲わせていた影たちを背後にただ揺らすだけにし、エイリアスは今にも詰め寄りそうな勢いで声を響かせる。
 それに、対極にいるよう岳里は静かに答えた。

「クラティオルは何ものも傷つけられない剣。いわばセイミアの守りの剣と似た立場にあるものだ。別名は癒しの剣であり、これは斬りつけた相手に傷を与えるのではなく、傷を癒す力を持った剣。痛みがないなど当然だろう」

 一度は人の身を貫いたはずのクラティオルを掲げ、一切の汚れを纏わないそれを見せつける。
 エイリアスはさっきまでの怒りにも似た、不安にも似た、謎に恐怖するような顔をすべて消して、呆然とした様子で癒しの剣を見つめた。
 そう、岳里の神から与えられた剣が持った力は、“癒し”。セイミアのヴァイスが一切の攻撃を弾く防壁を張る“守り”の力を与えられたように、人を傷つける力は持たないんだ。
 岳里はあえて剣の力を最小限の人しか知らないよう情報を留めていた。だから隊長の立場だとしてもクラティオルの力を知らない人はいるし、ジャスもまたそのうちの一人だった。だから例えジャスの記憶をエイリアスが覗けたとしても、クラティオルの力はジャスさえ知らなかったんだからやつがわかるはずもない。
 剣たるもの、触れたもの斬るための武器だ。だからこそエイリアスもクラティオルが剣本来の役割として扱われていると思ったろうし、だからこそさっき貫かれた時重傷を負ったと思っただろう。
 でも実際は、岳里の意思に関係なくクラティオルは何も傷つけることができない、剣の形をした別の何かだ。それどころか傷を癒してしまうという規格外の力を得ている。
 そんなものがここにあるとはさすがにエイリアスも予想していなかったのか、しばらく呆けたまま言葉を失っていた。
 ようやくクラティオルという癒しの剣を理解していったのか、小さく口が開く。

「つまり……おまえはわたしを、この身を傷つける武器を持たず、ここまできたということか……?」

 人を斬れない、癒しの剣。魔術を弾き影だけを斬る、影に触れる剣。それではどちらもエイリアスに乗っ取られたジャスの身体に、殺すどころか一切の傷つけることはできない。
 おれたちはそれを知ったうえで、クラティオルとシャトゥーシェで挑んでいたんだ。
 ようやくすべてを飲み込んだエイリアスは、全身から力が抜けたように覇気のない声で呟く。

「何故だ。何故殺さない。それほどまでにこいつの命が大切か」

 見下げたエイリアスの目に映るのは、自分が奪い取ったジャスの身体だ。おれたちの仲間の、国の大切な十二番隊隊長の、ジャンアフィスのもの。
 大切だ、大切に決まってる。傷つけられるわけない。でもそれだけじゃないんだよ。

「それもある。だが、それだけじゃない」

 心の中でエイリアスに語りかけた言葉と同じものを岳里は口にして、続く言葉を投げかけた。

 

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