13


 セイミアが落ち着いた頃にジャスは眠るように気を失った。その身体を岳里に負ぶってもらい、おれは守りの剣ヴァイスの力を使ったために身体がふらついてしまうセイミアを支える。
 ようやく準備が整ったところであらかじめ用意していた転移玉で城へ一瞬にして帰れば、王さまたちがおれたちを出迎えてくれた。
 すぐにセイミアとジャスをそれぞれ医務室に運んでもらいながら、そこで、少し前から魔物たちが国の傍から離れ始めたことを教えてもらう。
 まだ残っているのが大半だから隊長のみんなや他の人たちは外にいるけれど、時期戻ってくるだろう、と。そしてありがとう、よくやったと興奮したように次々に声をかけられた。
 惜しみなく喜び合う城中の人たちに囲まれながら、王さまやネル、アロゥさん。初めて会う人たち、色々な人に感謝を伝えられる。でもどこかおれの心はくすぶっていた。
 みんなと同じように喜べず、ただ曖昧に笑って。そうしてれば、気づけば隣にディザイアがいた。
 騒ぎに驚いているりゅうを岳里に手渡しながら、楽しげに騒ぐみんなとは違う、けれどいつものように笑いながらおれたちに告げる。

「わたしの影は頑固だっただろう。だが確かに、きみたちに心を動かされ、だからこそ魔物たちを解放した。それと同時に、自身をも解き放ちながら――意地を張るあいつの代わりに言わせてくれ。ありがとう。わたしもやつも、そして我が友たちも。救われたよ」
「すくえ、たのか……?」
「ああ。もう心配はいらない。だからさあ、きみたちも笑っておくれ。自らが切り開いたこの今立つ未来に」

 その言葉におれは笑い、そして泣いた。
 嬉しくて、安心して、もうそれくらいしか言葉が出なくて。でも嬉し泣きとは違う涙を流して、笑ったんだ。
 ずっと心の中で引っかかっていた。
 エイリアスはもういいと、どこか投げやりにおれたちのもとから去っていった。こうして魔物も退いていき、通じるべきものは伝わったんだろう。でもわからなかったんだ。
 人を恨むエイリアスの心は軽くなったのか。結局やつの気持ちは、わからなくて。
 でもディザイアがそう言ってくれるのならそうなんだろう。何千年も続いたそれごと、この戦いは終わりにしたんだ。
 岳里に抱きしめられても涙は止まらなくて。それでも笑顔は消さなかった。
 しばらくすれば後を部下に任せた隊長のみんなも帰ってくる。誰もがあちこちを血や土に、魔物の返り血にと汚れていて、戦いの激しさを語らずとも教えてくれた。ただ足取りは確かで、それぞれ浮かべる笑みも本物で。
 それに遅れて、出迎えに行ってたたらしい兄ちゃんと戦い終えた十五さんがやってきた。
 部屋に足を踏み入れながら何故か兄ちゃんが十五さんに、珍しく不機嫌を露わに何かを一方的に話しかけている。それに耳を傾けてみればどうやら十五さんは無茶な戦い方をしていたらしく、自分の身体を大事にしろとか、無茶するなと言ったはずだと兄ちゃんは本気で怒って責めたてていた。
 返す言葉もないのか、ただ単に必死にたった一人の相手にしか聞こえない声で弁明しているのか。いつもの無表情を少し崩して戸惑いを持った表情で、とりつく島もなく説教する兄ちゃんを見つめていた。
 そしてそんな騒がしく戻ってきた二人の後に、岳里たちの祖父であり竜族の長でもあるカランドラさんとさらには他の金目を持つ人たち。つまり竜人たちがぞろぞろと現れた。戦いが始まる前にはいなかったはずの姿を見つけて、おれも岳里も目を丸くする。
 どうやら一族を引き連れ加勢に来てくれたらしい。ただ本格的に参戦する前に魔物が引き始めたから大したことはできなかったと、珍しくカランドラさんは顔を綻ばせながらおれたちに伝えた。
 そうして続々とみんなが集まり、一人一人の顔を見て安堵する。
 みんなにそれぞれ感謝と労いの言葉をかけてもらいながら、周りの人に埋もれるように小柄なネルが姿を現す。そして、嬉しそうに教えてくれた。

「真司ィ! ようく聞けよう、驚けよう!」

 そう満面の笑みを浮かべながら伝えられたのは、この戦いで国が負った犠牲者の数だった。
 剣を取り魔物に立ち向かった者たちの全体で、おおよそ九割もの人が負傷者にあたるそうだ。そのうちのおよそ二割が生死をさまよう重傷を負い治癒術師の懸命な処置を受けているものの、しかし奇跡的なことに今のところ死者は誰一人として、出ていないそうだ。
 それにはみんなの頑張りは勿論のこと、何より竜人である十五さんの活躍が大きかったとネルは言った。
 十五さんは空の守りを一手に引き受けていただけでなく、地上の戦いにも常に気を配り、さらには特に危険な状態に陥った重傷者たちを安全な場所まで運ぶことまでしていたらしい。そのおかげでけが人の回収が迅速に行え、さらには援護にも回ってくれたから大量の魔物に攻められたにも関わらず陣形が保たれ、みんなも混乱が深まることなく冷静を保ち動けたという。
 そんな話をネルから聞かされている最中、隊長たちも今だと言わんばかりに十五さんにお礼の言葉をかけていく。さすがにそれには怒っていた兄ちゃんも口を噤むしかなく、さらにそんな話を聞かされてしまえば説教なんて続けられない。
 それでもきっと、とても心配しただろうから。不安が安堵に代わり、そしてその影響で出てきた理不尽にも似た怒りをついぶつけてしまってももう諦めたみたいだ。
 それまでの表情を崩し苦笑すると、今度は無事帰ってきてくれたことへの安心を静かに伝えていた。
 そんな二人をもう大丈夫そうだと見つめていたおれに、ネルはまだ終わってないと話を続ける。
 顔を戻せば嬉しげな顔をそのままに、重傷者たちは油断ならない状況が続いていた、と言った。
 あくまで死人は出ていない。けれど今後はわからない。もしかしたら、後々。
 言葉と表情がちぐはぐなネルにおれは顔を曇らすけれど、俯いたその瞬間にばしりと強く肩を叩かれた。
 吃驚してじんと痛む肩に手を置いて顔を上げれば、ネルは周りを見ろと笑った。

「重傷者がいても治癒術が間に合わねえから、油断ならない状態だったんでえ? それなのにほれ、見てみろよう。ここにいるやつらはみぃんなぴんぴんしてるだあろ? さっきまでふらふらだった隊長どももきったねえなりしてるけど傷はねえしよう、軽傷だったやつらまでみぃんな怪我が治っちまってる」

 言われてみれば確かに、戦い終えたはずの、実際魔物と対峙し合ってたはずのみんなの身体には汚れていても傷だけは見当たらなかった。
 軽傷者はまず、治癒術をかけるにしても後回しにされて、重傷者ほど優先される。全体の九割もけが人が出ていれば当然七番隊の治癒術師だけじゃ今日中に全員のすべての傷に治癒術をかけることは不可能だ。重傷者だけでも全員は、無理かもしれないのに。それなのに、誰も血を流したあとは残しても傷自体は消している。
 わけがわからなくなったおれとは違い、岳里は何かに気づいたらしい。思い当ったように意味ありげに小さく笑うと、それと同じように周りを囲うみんなもおれに笑いかけ。
 その答えを代表してネルが教えてくれた。

「どっかの誰かさんがよう、ついさっきまでけが人で溢れてたこの国全体にとんでもなく強力な治癒術をかけちまったんだよう! おかげで重傷者も全員命が保障されたどころか、軽傷のもんまでぜぇんぶ完治! もう死者が出るなんてことはねえ、だあれも欠けることもない、おれたちの完全勝利だあ!」
「――誰も、欠けない……? 強力な、治癒術って……でも、セイミアはヴァイスの影響でまだ」

 そんな大勢に治癒術を一斉に施せる人なんて、セイミアぐらいしか知らない。いや、セイミアでも無理かもしれない。なんにせよ今医務室に運ばれたセイミアは少なくともヴァイスで防壁を張った影響で歩くこともままならない。ましてや、到底治癒術をかけられるような状態じゃなかった。
 それなら、一体誰が。
 戸惑うおれに、ぽんと頭に手が乗せられる。そっとそこを撫でる手の持ち主に振り返れば、その金の目も優しげにおれを見ていて。

「よくやったな、真司」
「――おれ、が?」
「さっき、泣いただろう。それにおまえの力が呼応して、国全体に治癒術をかけたんだ。それにそんな並外れた奇跡を起こせるのはおまえぐらいだ」
「なら、本当に、誰も……」
「ああ、誰も死んでいないし、今は誰も苦しんでいない」

 その言葉に、一度は止まったはずの涙がまた溢れ出す。すると岳里はおれの身体を反転させ引き寄せると、ぎゅうっと抱きしめた。肩に乗っていたりゅうがちょこんとおれの頭の上に飛び乗り、甘えるようにそこに顔を擦り付ける。
 周りの賑やかな声は止まることなく、国のあちこちから湧きあがり続けた。
 ――あとあと分かった話ではあるけれど。おれのその二度目の涙で今度は国の外に放置されていた魔物の死骸はすべて消え去り、それが置かれていた場所には花が咲いたそうだ。
 後にルカ国の周りにだけに咲き誇り、それは国の花として長く愛されることになる。そのこともエイリアスとの戦いにおいて、壮絶なものであったにも関わらず死者が出なかったことと終えた後に起きたという大治癒に並ぶ奇跡のひとつとされ、末永く後世に語り継がれたそうだけど、さすがにそのことまではおれも岳里も知るよしもなかった。
 全部が、本当にすべてが終わったその日。
 街や城の人、偉い人、老いも若いも関係なく、王さま直々の無礼講のお達しのもと、国は大いに喜びに湧いての大宴会が行われた。 
 みんな誰しも疲れているのに食って飲んで、馬鹿のように騒いで陽気に笑って。日のあるうちから始まったそれは月が出て、それが大分傾いても一向に終わりを見せることはなかった。
 おれも岳里も眠らずそれに参加してみんなと思い出話に花を咲かせる。この世界に来てからの楽しかったことも、苦しかったことも、全部を掘り起こして。
 酒が入ってるからかみんなはひとつひとつを大げさにそれぞれ語る。笑っていたと思ったら涙を堪えたり、その時のことを思い出して怒りだしたり。
 おれたちと会う前の些細な喧嘩内容まで教えてもらっている時、ふとユユさんに声をかけられた。
 みんなには聞こえないようこっそり耳打ちされ、“選択者”として大切な話があるとディザイアが呼んでいる、と伝えられる。部屋にいるからすぐに来てほしいとのことだとまで言い終えると、ユユさんはおれの隣に座っていたネルに絡みつかれた。
 悪酔いしているネルはしつこくユユさんに酒を勧めて、それを手伝うように離れた場所に座っていたジィグンが真っ赤な顔してやってくる。
 後ろから羽交い絞めにされ瓶ごと口に突っ込まれて悶絶するユユさんを置いて、岳里に一度目を配らせてからおれはみんなの輪からこっそり外れた。
 いや、本当はみんな気づいていただろう。けれど見ないふりをして話し続けてくれたから、それに甘えて黙ってその場を後にした。
 岳里もつれず一人でディザイアが待つ部屋へと向かえば、扉を叩く前にそこは開けられた。

「さあ、入りたまえ。すまないな急に呼びだしたりなどして」

 そう言いながらおれに部屋への道を空けてくれる。頭を下げながら中はいればすぐに椅子を勧められ、促されるままそこに腰かけた。
 正面の席にディザイアも座りながら、いつもと変わらない笑顔を浮かべて改めて口を開く。

「率直に伝えよう。明後日だ。今日を含め三度の月が下りた後、この世界は選択の時を迎えるものとする」
「え……」

 何を言われるんだろう、と無意識に身をかたくして告げられたものを聞けば、頭が理解することを躊躇う。
 自分でもわけがわからないまま思わず漏れた声に、ディザイアは笑みを崩さないまま、おれがその言葉を飲み込む前に話を続けた。

「選択者よ。その時が訪れればきみにはその与えられた通りに役割を全うしてもらう。この世界に闇か光を選ぶんだ」
「……三度の、月が下りた後――」
「そう。本当ならばきみの心が覚悟をかためるのを待つべきなのだろう。しかし、きみたちはこの世界に長く留まりすぎた。選択の時とはすなわち、この世界との別れも意味する。その心にはすでに選択した答えがあるのだろう? ならば傷が少しでも深くなる前に」

 あまりの突然のことに、返す言葉は出てこなかった。
 ――いや、本当はわかっていたんだ。エイリアスとの決着がついた今、おれたちがあとこの世界でするのはそれだけだって。
 でもまさか、そんな間近に迫っていたことまでは想像してなくて。
 確かに、ディザイアの言う通り。おれはもう“選択”をしていた。誰に言ったわけでもない、自分の心の中だけでだ。それなのにそれを知るのはディザイアがやっぱり神さまだからなんだろうか。
 でも今はそんなことどうだっていい。
 選択の時を迎えれば、もとは別の世界に住んでいたおれはその場所に帰る。それはこの世界から去るという、ことで。

「きみはこれまでの選択者たちよりもより深く、この世界に関わってきた。それ故にこれ以上留まっただけ離れがたくなるだろう。ならばこそ選択の時は提示したその日に行う。覆しはしない。その短い時で人々との別れを済ますといい」
「――――」

 すぐに、返事はできなかった。ディザイアの言葉の意味が理解できないわけじゃないし、ひどく落ち込んだわけでも、ない。
 ただ、驚いた。わかっていたことだからそれなりに覚悟はあったつもりだけど。でもエイリアスのことが終わってこんなすぐに、それが迎えられるなんて。
 戸惑いに考えることを阻まれながら、どうにか立ち上がった。

「わか、った。兄ちゃんと岳里にも、おれから言っておく」
「ああ頼む。それ以外にはわたしから話しておこう」

 それにお礼を言えないままディザイアに背を向ける。けれど咎められることはなくて、きっとこの胸中を悟ってくれているんだろう。
 それじゃあ、と掠れた声で何とか挨拶だけはしてまた一人で来た道を辿りみんながいる部屋へ戻ろうとする。でも近づけば近づくほど聞こえてくる賑やかな声に、その分足は重たくなって。
 ついには明かりが見えたところでおれはその場に蹲ってしまった。
 帰るんだ。
 ついにおれは、もとの世界に帰るんだ。
 エイリアスのことも解決して、あとはもうおれに与えられた本来の役割を果たせばそれでこの世界ですることはなくなる。また前みたいに高校に通って、家のことやって――
 でもそこには、もうみんなはいない。もとの世界に帰ればこのディザイアとの接点はなくなってしまうだろうから。なら、二度と会うこともないんだ。
 ふとその時、ぴぃ、と小さな鳴き声が聞こえた気がした。それに膝に埋めていた顔を上げれば、目の前にはいつの間にかりゅうを抱えた岳里が立っておれを見下ろしていた。
 あんな賑やかな中でも健やかに眠っていたりゅうはどうやら目が覚めてしまっていたらしい。岳里の手から身を乗り出して、嬉しそうにおれへと小さな手を伸ばす。
 それに無意識に応えようと自分からも手を出したところで、ふと、気がついた。
 おれたちはもとの世界に帰る。岳里も一緒に、あの場所へ。
 でも、そしたらりゅうはどうなんるんだ? おれたちが帰るならりゅうは、この子は――
 ようやく一番大切なことに気づけば顔が青ざめる。半端に伸ばした手を下して耐え切れず俯けば、頭に岳里の手がそっと乗った。
 おれが何を思ったのか悟ったのか、岳里は表情を変えないまま静かに口を開く。

「少し歩こう。夜風でも当たり気分を変えたい」

 言い終えると同時に手を退かして先に歩き出す。岳里が背中を向けたのを知って顔をそっと上げれば、腹のあたりに置かれた手の中のりゅうは見えなくなる。
 胸を締めつけられるような気分のままようやく立ち上がったおれは、とぼとぼと岳里の後に続いた。
 おれが追いつくと、前を向いたまま岳里は言った。

「いつだ」
「え……」
「選択の時は、いつに決まった」
「――なんだ、わかってたのか」

 岳里はなんでディザイアがおれを呼びだしたのか、もうすでに見当ついてたらしい。
 思わずそう呟きながらも、ディザイアが伝えてきた言葉通り教える。すると返ってきたのは、そうか、という短い言葉だけだった。
 それからしばらく、夜風に当たりたいという岳里の後に続いて歩いた。でもおれに合わせてゆっくりとした足取り。
 少し時間を置けばようやくおれも少しは落ち着いたのか、ずっと俯かせていた顔を上げて前を見る。するといつもは隣を歩く岳里の広い背が見えて、それを何だか寂しく思いながらそっと声をかけた。

「――なあ、岳里」
「なんだ」
「おれたちが帰えるとなったら、さ。りゅうは……りゅうは、どうなる?」

 今までエイリアスのことで手一杯で、いずれは帰るとわかっていたけど、そのことはそう深く考えられないままになっていた。
 選択をすればおれたちは帰れる、とだけ認識していて。みんなとの別れだとか、りゅうのこととか、よくわかってなくて。選択するかしないかで散々悩んで置きながら、もしそうなった時に選ぶものをどうしようと考えてたくせに。他の大切なことをまったく見てもいなかった。
 でももうエイリアスとは決着がついた。おれたちが望む形で終わりを迎えることができたんだ。
 だからこそ次に待ち構えていた選択の時が目前と迫れば、今更肝心なものを思い出して。でももう時間はなくて。
 ――いや、本当はただエイリアスのことばかりに夢中になっていただけだ。
 だっておれは、漠然と考えていたんだから。
 答えが返ってこないから、耐え切れなくなっておれはまた口を開く。

「もとの世界に帰れるってわかって、なんでかおれ、岳里も来れるなら当然りゅうも一緒だって……どこか、そう考えていたんだ。でもよくよく思い直してみればそれって当然なんかじゃ、ないんだよな」

 だってりゅうは、この世界の人間だ。岳里と同じ竜人で、竜の姿を持つ、厳密には人じゃない存在。でもまだそれだけだったらよかった。岳里と大差ない条件なら多少の問題はあったとしても、どうにかして連れていけたと思う。
 でも同じ竜人でも、岳里とりゅうは違う。りゅうはまだ赤ん坊だ。
 まだ力の制御を覚えていないし、もしそれをできるようになったとしてもまだ何年もっかかる。それに未だ人の姿はとらず竜体のままで、翼があるそれは明らかに地球上の生物じゃない。向こうの世界じゃ騒ぎのもとになるだろう。かといってずっと家に閉じ込めるのなんてできるわけがない。それにおれたちには学校があるし、留守の間面倒を見られる人もいない。
 向こうの世界でりゅうが暮らしていくには、問題が多すぎる。そのどれもが解決するには難しくて。
 ちゃんと考えればすぐにわかることだった。もっと早くに想像していれば、ひとつひとつ解決していく方法を考えられたかもしれない。それは無理でもせめて、まだしっかりと考える時間はあったはずだ。それをしなかったのは他でもない、おれ自身で。
 りゅうはどうなる? おれたちがもとの世界に帰る時、その時りゅうは――
 拳を握るおれに岳里は足を止め、背を向けたまま静かに答えた。

「りゅうは、この世界に置いていく」

 言葉を失うおれに、淡々と言葉は続く。

「連れていくには対処しきれない問題が多すぎる。りゅうのためにもならないだろう。だからこいつは竜族に預けるのが最善だ。――安心しろ。竜人たちは一族総出でこいつを育ててくれる。環境には何ら問題ない。少なくとも十五はおれたちの代わりに育ててくれると、そう誓ってくれた」
「もう、決まってたこと、だったんだな……」
「――ああ」

 短い返事を聞きながら、そっと岳里との距離を詰める。その背に額を預けて右手を添えながら、強く目を瞑った。
 岳里はわかってたんだ、りゅうをつれていけないこと。もうきっと、りゅうが生まれてくる時点で決まってたんだ。おれはともかく岳里がそんな大切なことを失念しているとは到底思えない。
 ならどうしてそう言ってくれなかったのか。――それはきっとおれのためだ。岳里の優しさなんだ。
 そして今、はっきり答えてくれたのもその優しさで。

「そっか、つれてけ、ないのか……」

 ぽつりと呟けば、岳里の身体を隔てた先にあるりゅうが鳴く。それは声が聞こえるけど姿の見えないおれを探すものだとわかっていながら、それでも顔を見せてやることができなかった。
 だってこんなひどい顔、見せられるわけない。りゅうを不安にさせるだけだ。岳里もそれをわかってくれるから、だからおれからりゅうを隠してくれている。
 諦めるしかない。それがすぐにわかってよかった。
 変に可能性を探して最後の時まで悩んで、りゅうと一緒の時間を削ってしまうより。それよりもうこれが最後なんだって、そうやって区切りをつけて過ごせた方がうんといい。
 わかった。りゅうはつれていけないこと。置いていくしかない、っていうこと。わかったよ、岳里。
 ――その成長をずっと見守れると思ってたんだ。未熟ながらも親として、みんなと一緒に。でもそれは初めから叶わない夢だった。
 竜族の人たちが、十五さんが面倒みてくれるっていうならよかった。十五さんになら力の制御がまだできないりゅうを安心して託せられる。だからそれだけでも、よかったとするしかない。
 それでも言いようのない何かに押しつぶされそうなこの胸を、どうすることもできなかった。
 こればっかりはしかたながないことだ。岳里が無理だと言うんだから、あの世界に送り返すディザイアも頷いてはくれないだろう。だから、諦めるしかない。
 わかってる。わかってるのに。

「りゅう」
「ぴぃ、うう、ぅ……」

 名前を呼ばれて嬉しそうに声を上げるも、それでも見えないおれの姿にすぐにそれは不安げなものに変わる。

「りゅう、ごめんな。ごめん、な」

 今すぐ顔を出して、おまえを撫でてやれないことを。
 傍に、いてやれないことを。置いてかなければならないことを。

「ごめんな、りゅう――」

 この夜が明けたら、ずっとずっとおまえと遊ぶから。岳里と一緒にくたくたになるまで構い倒してやるから。
 だから、今だけは。
 遠くで微かに聞こえるみんなの笑い声に。近くで小さく鳴く悲しげな声に。
 時間はあまり残されていないのに、おれはただ岳里の背に縋るようにその場から動けなかった。

 

 


 しばらくして少し落ち着き、明後日のことを兄ちゃんに話すからと言って岳里の傍を離れた。
 終わったらまたみんなのもとに戻るからと約束をすれば、岳里は腕に抱えたりゅうがおれのことを見れないように目隠しをしながら見送ってくれた。
 その足で、十五さんの疲れのことも完治してない兄ちゃんの身体のこともあるからと一足先に部屋に戻って休む二人のもとへと向かう。
 もう遅い時間だし、二人が戻ってから大分立つ。もしかしたら寝てるかもしれないと思ったけれど、部屋から漏れる明かりに、とりあえず控えめに扉を叩いてみた。すると兄ちゃんの声が返され、取っ手に手をかける前にそこが動く。
 扉を開けたのは十五さんだった。脇に退きながら道を作り、手招いて中に入るよう伝えてくる。それにお礼を言ってから進めば、空いた窓からひやりとした夜風がちょうど一緒に入り込んだところだった。
 まだ十五さんと一緒に起きていたらしい兄ちゃんはベッドに腰掛けている。おれの顔を見るなり笑顔を浮かべた。

「どうした、こんな時間に」
「その、兄ちゃんに話があってさ」

 おれも歯切れ悪い言葉を出しながら笑えば、十五さんがそっと椅子を出してくれる。それにもお礼を言いながら用意されたものに腰かけた。
 十五さんはそのまま兄ちゃんがいるベッドの足元にあたる場所にあった椅子に座る。思わずそれを眺めてしまえば、申し訳なさそうな声がかけられた。

「すまない真司。十五がここにいたいと言うから、こいつも話を聞いてもいいか?」

 どうやらおれが十五さんを気にしてると思ったようだ。ただ何気なしに見ていただけだし、十五さん自身にも関わることだからと頷いた。
 十五さんからも頭を下げられたところで、一度おれが目を逸らすように顔を俯かせれば、優しげな兄ちゃんの言葉が肩を叩く。

「話って、もとの世界に帰ることか?」
「……うん。明後日の夜が明けた時、選択の時を迎えるってディザイアが言ってた」
「そうか、明後日か」

 噛みしめるように言葉を確かめた兄ちゃんに、やっぱりおれは顔を上げられなかった。十五さんに対しても。
 おれの心を汲み取ってくれたのか、またも兄ちゃんの方から声が上がる。

「十五のことを気にしてくれてるのか?」
「それも、ある」

 兄ちゃんがもとの世界に帰るということは、盟約を結んでいる二人は離れなくちゃならない。未だに二人がどれだけの仲なのかおれは知らないけれど、少なくとも十五さんにとっては、番と離れなくちゃいけないということ。
 そのことも心配のひとつだっていうのは確かだった。でもそれよりおれにとって大切なのは、兄ちゃんのことだ。
 竜人にとってどれだけ盟約者が大切な存在か知るからこその、それを一度置くことへの申し訳を感じながら、顔を上げて兄ちゃんを見る。

「それも、勿論あるけど……おれの一番の心配は、兄ちゃんの力のことだ」
「――エイリアスから、聞いたのか」
「うん」

 何を聞いたのか、そこまで詳しく言ってくれなくてもあえて隠されたものを知るおれは頷いた。兄ちゃんもそれを理解して頷いたのをわかってるんだろう。
 そうか、と天井を仰ぎながら深く息を吐く。深く閉じられた目を見つめながら、その胸の内で今何が考えられているのか怖くなった。
 これまで兄ちゃんはおれに、人の心の声が聞こえるだなんて言ったことはない。それどころかそう思わせることも一度もなく、今まで隠しながら一緒に暮らしてきたんだ。そこにはおれが読心の力が影響する対象外だからなのかもしれないけれど、それでそうだという素振りすら見せてこなかったんだから少なくとも知られたくはなかったはずだ。
 ましてや、その力のことで悩んでいただなんて。
 時々、ひどく疲れた様子で帰ってくることはあった。でもそれはただ仕事が立て込んでいたりして忙しかっただけだと、そうずっと思っていたんだ。でも今思い返せば、もしかしたらその時のどれかは兄ちゃんが持つことになってしまった力が関係していたのかもしれない。
 エイリアスは力のせいで兄ちゃんが追い詰められたと、そう言っていた。おれのことを責めるためだったとしてもそれは本当のことのはず。だから兄ちゃんも否定しようとしないまま、今ぼうっと天井を眺めているんだろう。
 不意に、そこを見つめたまま薄く口を開いた。

「――確かに、この力に悩まなかった、とは言えない。今でこそおまえにも言えるけどさ、散々苦しんだよ。力を得たのは突然だったし、事故の直後のことだったから。父さんたちのことが苦しいあまりに精神がおかしくなったのかと思った」

 だって人の心の声が聞こえるなんてありえないだろ、と苦く小さく笑う。
 その姿に耐え切れなくなってまた顔を下げたおれに、上を見ていた兄ちゃんの目が向けられた。
 自分の膝に置かれた手ばかり視界にいれるおれの知らないところで、おれをいつも見守ってくれた兄ちゃんの目は優しく、今も見つめてくれていて。

「でも、この力には悩まされたけど、おれにとってはありがたくもあったんだ。ほら仕事で自分とこの商品売り込みに行く時もさ、お客の心がわかっちゃうんだぞ? おかげでそれなりの営業成績を残せたし、そのおかげで高卒のおれでもおまえを育てることができたんだ。悪いことばっかりじゃなく、うまく付き合っていけばすごく役立ってくれるしさ」

 上司にも気に入られるし、対人関係は円滑に進むし、むしろいいことばかりだったと声に笑みが含まれる。
 それでも顔を上げられないおれに、兄ちゃんは静かに続けた。

「――なんて話されて、幻滅したか? 人の心をこっそり覗いて、そうやって相手の心を掴んでいって。そうして自分にとって有益になるように暮らしてきて」
「する、わけないだろ。力を向き合って、だからそういう風にそれを受け入れて過ごした結果じゃないか。おれは兄ちゃんが感じた辛いこと、全然わからないし今まで知らなかったけど――でも、それでも誰からも逃げずにいたなんて、すごいことなんだってそう思う」

 ようやく顔を上げれば笑っている兄ちゃんに。なんて言っていいかわからないまま、でも幻滅なんてしてないと精一杯まとまらない頭で言葉を並べた。
 話をされて、幻滅どころかもっと兄ちゃんを尊敬したんだ。まだ一人で生きてけなかったおれのためにも頑張ってくれて、耐えてくれて。そうやってここまで育ててくれた。
 ずっと悩み続けていただろうし苦しめられていたし、それはきっと今でも変わらないと思う。人の心が聞こえ続けて、エイリアスも言ってた通り良いことばかりじゃないって知ってるから。
 人の心を見て対応を変えられれば、確かに相手にとって兄ちゃんは気持ちをわかってくれる人になるだろう。でもそのことにあの兄ちゃんが罪悪感を覚えないとも思えないし、人は誰しも善良な心で生きてるわけじゃない。
 時には悪いことを考えたり、苛立っていたり。誰にも見せられないような時があって、でもそんな時でも相手の胸のうちをいやでも読心の力は見せてしまう。
 誰かに気軽に相談できることじゃないはずだ。向こうの世界でそれを打ち明けている人がいるかは知らないけれど、少なくとも兄ちゃんは一人でその悪い気持ちにあてられても、我慢してきたんじゃないだろうか。何かいい方に働く反面、誰も背負わなくていい苦痛を背負う羽目になったんじゃないのか。
 ――そしてその原因も、おれにある。

「兄ちゃんの力はおれの力に影響されて使えるようになったって、エイリアスから聞いたんだ……だから、おれのせいで兄ちゃんは大変な思いをしてきたんだ。どんな辛いことがあったかはわからないけど、全部それはおれが与えたんだよ」

 耐え切れず肩を震わせ、それ以上言葉ができずに口を閉じた。
 ここまで育ててきてくれた兄ちゃん。親代わりになって、大学も諦めて働いて。毎日くたくたになって帰ってきてもそれでもおれの相手までして。
 なのにおれが兄ちゃんにした仕打ちは、苦労を増させるばかりで。恨まれても、嫌いになられても、仕方なくて。

「ごめん、な……父さんも母さんもおれがいなかったら死ななかったのに。兄ちゃんだって、そんな苦労、感じなくてもよかったのに」

 何度だって胸が押しつぶされる。傷ついた国中の人を救えても、でも何よりも大切な人たちを傷つけたこの力。
 受け入れるしかないってわかっていても、そう決めても。それでもどうしようもない自責に襲われて。
 だからいっそのこと、責めてほしかったんだ。岳里も、誰もが受け入れてくれたこの力を。周りを巻き込むこの力を。兄ちゃんにこそ拒絶してもらいたかった。
 おまえのせいだって、おまえにそんな力があるから苦しんだんだって。このままただ受け入れていけばいいとそう思ってしまう気持ちを引き裂いてほしかったんだ。
 だってできないんだ。父さんたちまででなく、長年兄ちゃんのことまで苦しめ続けて。それなのにおれだけ何事もなくしたこと全部許されるなんて。できないんだ。
 だからいっそのこと責めてもらいたかったのに、頭を上げて兄ちゃんを見たのに、それでも兄ちゃんは笑ってて。

「言ったろ、力には悩まされたけど、ありがたくもあったって。これを手に入れたからって後悔だけはしたことないんだ」
「でも、苦しんだんだろ……!? エイリアスは、兄ちゃんがそうだったって――」
「ああ、だからそれは否定しない。でもこの力自身までも否定したわけじゃないぞ。ましてやこの力がおれに今あるのも、別におまえのせいなんかじゃないだろ」

 おれのせいだよと言おうと口を開いたところで、先に兄ちゃんが言った。

「おれはもともとこの力を持っていたんだ。ならそれが出てくる時期が遅いか早かの違いだ。悩むことがあったのには変わりないだろ」
「でも、でも……っ」
「そうだなあ。おまえが原因は自分だと思って責めるなら、それならもとを正せばそんな力を持たせておれたちを生んだ父さんたちが悪いってことになるな」

 その言葉に無意識に、けれど強く首を振る。

「違う! 父さんたちは何も――」
「ああそうだな、父さんたちよりも悪いのはそんな風になるよう血を繋いだご先祖たち、もとを辿ればあれもこれも。きりがないな。一体原因って、どこまでさかのぼっていけば出てくるだろうな?」

 その言葉にはっとし口を噤んだおれに、兄ちゃんは柔らかい表情を崩さない。
 なあ真司、といつものように呼ぶ。

「事故も、おれの力も。原因はおまえじゃないし、そもそも誰が悪いというわけでもない。だからそうまでして自分を責める必要はどこにもないんだよ。だっておまえ何も悪いことしてないじゃないか。万が一おまえに何か過失があったとして、ならそれをずっと引きずり続けるつもりか? どんなに振り返ったところで、過去は教訓にすることはできても変えることはできないんだぞ」

 十五さんとそして兄ちゃんに見守られながら、膝に置いた拳を少しだけ緩める。それに気づいた兄ちゃんはどこか安心したような顔をしながら続けた。

「もしおまえがおれの言葉に納得できなかったとしても、やっぱり前に進んでいくしかないんだよ。どうしても自分を責めてしまうならどこかでそれを帳消しにできるいいことをやっていけばいいんだ。――長く過去に捕らわれていたエイリアスが前に進めたように。おまえなら自分で進んで行けるだろ。それが難しいのならおれがいるし、もうおまえの隣には岳里もいるじゃないか」
「……」

 エイリアスの名前が出て、ようやく思い出す。
 おれはあいつに、今言われたことと似たことを言ったんだ。無我夢中であの時のことはそう鮮明に覚えてないけど、でも必死になって訴えていた。
 あいつが、過去あったことに縛られて動けなかったように。おれもまた過去を振りかえて足を止めてしまってる。でもそれでも、前に進むことを止めちゃいけないんだ。
 すとんと、胸に何かが落ちる。それはきっと探していた何かで、それで心にある穴がひとつ埋まった。
 顔を上げればおれを見ていた兄ちゃんと目が合って、その表情はいつものもので。一度も、煩わしいという目を向けたことはなくて。

「――ごめん、兄ちゃん。でもありがとう。もうおれ大丈夫そうだ」
「ならよかった。あまり根詰め過ぎるなよ」

 その言葉に頷き、ようやく小さくだけれど笑顔を返す。
 もうとっくに知っていたことなのに、自分のことになると何も見えなくなるから不思議だ。でもそうして見えなくなっても教えてもらえることもあるんだから、支えてもらえてるんだから。きっといつか、もっとちゃんとした形で乗り越えていけるんだろう。
 そう思うとなんだか岳里とりゅうが恋しくて。ようやく、顔を合わす勇気も生まれる。いてもたってもいられなくなり、おれは晴れた顔で立ち上がった。

「行くのか?」
「うん、岳里とりゅうのところに帰るよ。ありがと、兄ちゃん」
「どういたしまして」

 手を振ってくれた兄ちゃんにそれを返し、十五さんに軽く頭を下げて足早に部屋を後にした。

 

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