岳人から紡がれた真実に、王は額に手を添え、深く息をつく。机に両肘をつけたまましばらくそうしていたが、ようやく整理のついた頭で、言葉を選んだ。

「つまり、真司は選択者であり、闇齎らす者が真司の兄の悟史であるというのだな?」
「そうだ。おまえたちが頼ったこの手記に消されているのは選択者のことで、異世界から呼びだされる二人は選択者と闇の者だ。光の者はこの世界の、選択者のために喚ばれる獣人だ」

 岳人に預けたルカ国三代目国王サラヴィラージュの手記をこちらに返しながらも、淡々と答える彼に王は顔を上げる。しかし内心では頭を抱えたまま、混乱を解くこともできず疑問を口にした。

「だがおまえは、竜人であるのだろう? 確かに獣人と竜人は近い存在ではあるが、同じではないだろう。この世界に生を受け、なおかつ契約に縛られていないはずだ」

 獣人は異世界プレイから召喚し、初めてこの世界ディザイアに存在する。その生死を握るのは主であり、契約の上で成り立つ生を持つ。だが竜人は異なる。
 人と獣のふたつの姿を獣人が持つように、竜人は竜と人の二つの姿がある。だが竜人は異世界プレイから召喚されるわけではなく、人間の子どもが人と人との間に生まれるようにこの世に産まれてくる。獣人が子を成すことはなく、そこが決定的な違いだ。
 そして自然の形でこの世に現れる竜人たちは心血の契約という、獣人たちがこの世界に存在するにあたり不可欠な契約を必要とはしない。誰に従うでもなく、ただ己の人生を己の意志でのみ歩めるのだ。
 だからこそ、本来光の者として選ばれるのが獣人であるのに、今回は竜人である岳人であったことに疑問を抱いた。
 王の言葉を聞いた岳人は、すうっと目を細める。

「おまえたちが竜族をどれほど知っているというんだ」

 相変わらずの口調だというのに、王は息を飲む。底冷えする何かが見えた気がして、ただすまない、と一言詫びることで精いっぱいだった。
 確かに、竜人について謎とされていることのほうが多いのは事実だ。竜人は人里離れ、一族だけで秘境に隠れ住んでいる。ほとんど俗世との交流はなく、また彼らが住まう場所を知る者はいない。時折ふらりと町に下りてきては彼らが調合した特殊な薬草等を売る程度でしか姿を現さないのだ。

「なあ岳里よう。おまえは本当に真司と契約しているのかあ?」

 冷や汗を流す王を尻目に、ネルはその隣で佇んだまま岳人へ声をかけた。

「契約ではない。おれがあいつと交わしたのは、“心血の盟約”。契約でないから獣人ほど誓いに縛られはしない」
「盟約、か。――それは、かつて存在し、今では我らと獣人の間では失われた繋がりのことだね?」

 ネルと反対に立ち王を挟むアロゥが、重たい口を開いた。
 王には心血の盟約がどういったものであるか、覚えが一切ない。だがアロゥは何かを知っているように、じっと岳人を見つめる。
 答えを出そうと彼が口を開いたところで、激しい音がそれを遮るように部屋に響いた。
 振り返れば、ネルが机に手をつき岳人を睨んでいる。

「そんなこたぁどうでもいいだあよ。契約だろうが盟約だろうが……今真司がいる場所がわかるかどうかが聞きてえんだ! 真司と同じ証を持つおまえならわかんねえのか!」
「落ち着け、ネル。おまえが熱くなってどうする。真司を思う気持ちはわかるが、それは岳里とて、我らとて同じだ。冷静を欠くのであればこの部屋から出ていけ」
「……っ」

 王の言葉に、ネルは一度顔を歪ましたが、素直に一歩後ろに下がった。
 内心で息をつき、改めて王は目の前に立つ男へ目を向ける。

「どうだ、岳里。真司の居場所はわかるか?」
「随分遠くにいるようだ。微かにしか気配を感じない」
「――それでも行く、と言った顔だな」

 ようやく、王の顔に笑みが浮かんだ。だが岳里はそれを一瞥するだけで、応えることはない。
 正体が明らかとなった今、恐らく岳人は人の姿でなく、竜で真司を探しに行くことだろう。竜ならば移動も早いが、しかしどれほどで真司が見つかるかはわからない。
 主である真司が、契約もとい盟約を交わした岳人の名を呼びさえすれば。岳人は誓いによってすぐさま現在真司のいる場所へと移転される。だが、真司は唐突に岳人の正体を知り、そしてずっと待ち望んでいた兄との再会を果たした。混乱を極めた状況で選んだのは兄であり、岳人に対しては裏切られたと感じていたそう。
 王はその場におらず、ただアロゥからの説明でしか彼らを取り巻く現状を知らないが、傷を負った真司がそうすぐに岳人を呼ぶとは到底思えない。だからこそ、ネルも、アロゥも、そのことには触れないのだろう。そして岳人自身も。
 真司を探しに行くために必要な道具を中で整理していると、不意に岳人が僅かに動く。俯かせていた顔を上げれば、岳人はただまっすぐに王を見ていた。

「ひとつ、約束をしろ」
「なんだ?」
「決して、闇の者を殺そうなどと思うな。選択者もだ」

 低くはあるが、響きありよく通る声は、王の胸に直接言葉をかけているような気がした。
 そこには苛立ちや不安や、怒り、一切窺えるものはない。だが彼が真にその約束を交わそうとしていることだけは十分過ぎるほど伝わってくる。
 だが、王は頷くことはできなかった。自分が切り開く道を辿る者たちが、後ろにいるからだ。
 しばらく沈黙した後、ようやく王は口を開く。

「……わたしには、この世界を、この国を守る――」
「たとえ誰かを殺したとして、結果が覆ることは決してありえない。むしろ、最悪の結末を誘うだけだ。悲劇を繰り返すつもりか」

 義務がある、と。そう王は言葉を続けるつもりだった。だが岳人がそれを遮る。
 彼の告げた言葉に、道を誤ることを許されはしない王はただ愕然とすした。

「何も……何も、変わらないというのか?」

 小さく頷いた岳人に、王は前に起こしていた身体をゆっくりと背もたれに預ける。空を仰ぎ、大きく息を吐いた。
 次に顔を前に戻した頃には、内心の戸惑いを打ち消すことはできなかったまでも、冷静を努める。

「わたしは道を誤ろうとしていたということか……岳里、君の言う悲劇とはいったいなんなんだ? 教えてくれ。もしかして、今のわたしと同じ考えを抱いていた者がかつてもいたのか? その人物は、誤ったというのか?」

 岳人は沈黙という答えを王に示した。しばらく彼の瞳を見つめたが、それでも何も返されるものはない。
 息をつき、王はゆっくりと目を閉ざした。

「わかった。とにかく、約束しよう。決して真司にも、真司の兄であり、闇の者である悟史にも危害は加えない。ルカ国当代国王、シュヴァルの名において誓う」
「――おまえにも、守るべき多くがあるということは理解しているつもりだ。下した決断も、熟考した上のものだと。……だからこそ、その誓いに感謝する」

 岳人が、初めて王に頭を下げた。深く腰から折り曲げ、少し長い髪を垂らす。
 その姿に少なからず王は面を食らわされたが、岳人にも岳人の複雑な事情がそこにあるのだとわかった。

「いい、顔を上げてくれ。感謝すべきはわたしのほうだ。おまえが教えてくれなければ正義を振り翳したつもりで、命を奪うことになっただろう。ありがとう」

 頭を上げた岳人は、ただ王の青い瞳をじっと見つめる。そう間もなく視線を逸らすと、岳人は早々に部屋から出て行こうとした。
 そんな岳人の背中に、王は声をかける。

「待ってくれ。最後に、ひとつだけ聞きたい」
「なんだ」

 王の声に足を止めた岳人は、身体を僅かにずらして顔だけを振り返させる。
 話すべきは話した、とでも言いたげな態度に王は憤るわけでもなく、早口に用件を静かに急く彼に告げた。

「あの、十五という男は何者だ?」

 自身の言葉に、岳人が僅かに顔色を変えたのを王は見逃さなかった。
 恐らく、いや確実に。岳人は“十五”という男について情報を得ているのだろう。それにアロゥも、十五が岳人の前に立ちはだかる際、彼が色濃く動揺を表したという。
 だがなにより二人の関係を怪しんだのは、十五が岳人と同じ顔を持つ男だったからだ。

「おまえのその顔、背格好まで瓜ふたつと聞いた。闇の者に従っていたというが、一体誰なんだ?」
「あい、つは――」

 珍しく口ごもった岳人から告げられた事実に、王はただ驚くことしかできなかった。

 

 

 

 兄ちゃんから話を聞き終えたあの後、おれは部屋に籠って情報を整理した。整理、しようとした。けれどどうしてもまとまらなくて、ただぼうっと時を過ごす。
 夜が過ぎて、朝になっても状況は変わらなくて。なんでおれが選択者に選ばれたんだろう、とか。なんで兄ちゃんが闇の者なのか。選択の時っていうのはいつくるのか、とか、そんなことがただぐるぐると廻っただけだ。
 表面の意識では、そればかりを考えていた。でもその奥では、思い出すのはこの世界に来てから出会った人たちの顔だったり、あいつの、いつもの仏頂面だったり。どんなに見ないふりをしても、別の事を考えようとしても、気を抜けばすぐに思い出してしまう。
 ――岳里は、ずっとおれを騙していた。この世界の人間だったのに、ディザイアなんて知らないって言って。おれと、同じ世界から来たと言って、気持ちをわかるおれを頼れって。
 確かに、同じ世界から岳里は来た。でもおれはディザイアに召喚された立場であって、岳里は戻ってきたにすぎない。それは決して同じなんかじゃない。
 暗い色の鱗を生やした、金目の竜を思い出す。見上げるほど大きく、おれなんて踏みつぶされてしまうくらいだった。見たこともない空想上の生き物がそこにいた。でも、あれは岳里なんだ。あの輝く瞳は、紛れもなく岳里の目だったんだ。
 ずっと、ずっと岳里はおれを守ってくれていた。この世界に来てから言葉は足りなくても必ずおれの傍にいて、迷った時は道を示してくれた。あの言葉が、行動が、偽りだったとは思えない。思えないけど、岳里が竜族だと知って。すごく、悲しくなった。
 何が悲しいのか、それは自分でもよくわからない。嘘をつかれていたからなのか。竜族と明かされ、動揺したのか。
 なんで、岳里はおれに真実を隠していたんだろう。異世界に来て混乱するおれに負担をかけたくなかった、だなんて言ってたけど。でもずっと隠し通せるはずはなかったんだ。竜人である岳里は、獣人の人たちみたいに主の一部を食べなくちゃ生きていけない。でも岳里はなかなかそれをしようとしなかったから、今回発作が起きて人体を保てなくなった。そう、兄ちゃんから少しだけだけど話を聞いてる。
 主であるらしいおれの協力なしに生きていけないなら、絶対にいずれ正体はばれたはずだ。現に、おれは知った。それなのになんで嘘をついて、おれを守っていたんだろう。おれが、岳里の主だからこそ? でも、それだったらなんで元の世界では一切関わろうとしてこなかったのか。
 ふと、この世界に来たばかりのことを思い出す。岳里はおれのことを知らないと、そう言っていた。だからおれは名乗ったはずだ。今思い返せば、おれを主といい、この世界に来てから離れず傍にいた岳里が本当におれの名前を知らなかったとは思えない。それも嘘だったんだろう。
 転がったベッドの上で寝返りを打ち、腕に収めていた枕を強く抱きしめる。
 おれは一体いつ岳里をもといたあの世界に召喚したんだろう。
 岳里はおれが召喚したから向こうの世界にいたって言った。でもそんなもの一切覚えがない。岳里の存在を知ったのも高校に入ってからだ。岳里岳人という名を知っても、すごいやつが同じクラスにいる、程度。岳里の方からも話しかけてこようともしなかったから、言葉も交わしたことなかった。それなのにおれは岳里の主で、確かに発作がおれの血で止まって。
 でもそもそも、この世界に来るまで一切関わりなかった岳里はどうやってあの時みたいな発作を乗り越えたんだろう? おれのものでしか生きる術はないと聞いたし、一定期間、それも一か月とかそこらで食べていかないといけないのに。それとも岳里は竜人だから、獣人のものとは違うんだろうか。
 今度、もう少しおれの気持ちが落ち着いた時。兄ちゃんに聞いてみよう。少しはわかることがあるかもしれない。それに――
 兄ちゃんと岳里は、顔見知りのようだった。ただおれが忘れているだけで、本当は岳里と接点があったのかもしれない。
 そこまで考えて、おれはただぼうっと視線の先に見える床を眺めた。何を思うわけでもなく、枕を抱きしめたまま。
 不意に、ぽろりと涙が落ちた。一度流れると、次から次に溢れていく。
 しんとした部屋で、おれは枕に顔を押し付けて声を殺し、忘れるべきあの存在を求めそうになる自分を責めた。
 ――それから、大して時間も経たないうちにおれは顔を上げた。涙はすぐに止まって、多少目元が濡れはしているけど腫れることはないだろう。
 そう思いつつも身体を起こす。念のために冷やそうと、部屋から出て水が常時置かれている調理場へ向かう。
 けれどその途中、ばったりと兄ちゃんと会った。おれの顔を見て、少し驚いたように見開かれた目。けれど、そのことについて何か言うでもなく、ただ、笑った。

「なあ真司。おまえ、チェギを知ってるんだって?」
「うん、教えてもらったよ。大してうまくはないけど、やり方は十分覚えてる」

 少し掠れた声で答えれば、兄ちゃんは笑みを深くして頷くと、おれの腕をとった。

「なら今からやらないか? 退屈してるだろうと思って用意したんだ」

 問いかけておきながらもう歩き出しておれを引っ張る。そんな兄ちゃんに苦笑しながら、おれはありがとう、と小さく呟いた。
 連れて行かれたのは予想通り兄ちゃんの部屋で、けれどそこに十五さんがいた。床に直接座り込み、積み上げられた本の間で読書をしている。おれが部屋に入った時、一度だけこっちを見たけど何を言うでもなく、すぐに本に目を戻す。
 兄ちゃんはおれの腕を離すと、どこかにしまったらしいチェギの駒と盤を探し始めた。その間に、気づかれないよう本に目を落とす十五さんを見る。
 遠目でもわかる長いまつげを伏せながら、静かに本を読み進めていた。その姿があいつと重なって、そっと目を逸らす。

「あ、あったあった」

 奥の方に行っていた兄ちゃんは手にした盤をおれに見せ、にっと笑った。おれも笑顔を返しながら、無意識に端に置かれた兄ちゃんのベッドへ行こうとして、慌てて向きを変えて机に向かった。
 ――チェギをやってみてわかったのは、おれと兄ちゃんの腕は五分五分だということ。若干、兄ちゃんのほうが上手くらい。でも十分おれの頭でも勝てそうで、考え事を振り払うかのようにおれはチェギに夢中になった。
 三局目に入ろうとした時、兄ちゃんが盤から目を逸らし、おれの後ろにいる十五さんに声をかけた。

「十五、何か飲み物を持ってこい」

 読みかけの本をすぐに閉じた十五さんは立ち上がり、座っていた場所に本を置いて歩き出す。その姿を見送りながら、おれはただ、兄ちゃんの言葉に驚いていた。
 まるで――いや、紛れもなくさっきの言葉は、十五さんに命令していた。あの、兄ちゃんが。
 兄ちゃんは料理というか、家事全般が苦手で、お茶すら自分でまともに淹れることができない不器用さだ。でも、できなくてもおれがやるって言って自分でやろうとしていた。まずいと言いながら、いつかはうまくなっておいしいお茶飲ませてやるからなって、おれに言って。
 それなのに、今は何でも十五さんに頼り切りだ。料理も準備もやらせて、片付けもしない。おれと一緒に暮らしてた時は、おれが休んでていいと言わなければ必ず後片付けだけでもやろうとしていたのに。
 ――変わった、のかもしれない。この世界にきてまだ日は浅いとはいえ、おれにも色々なことがあった。兄ちゃんも何かしらあっておかしくない。それが、兄ちゃんを変えてしまったのかも。
 今回の一言だけが、おれの胸にひっかかってるわけじゃなかった。ふとした時、兄ちゃんに違和感を覚えていた。何がそう思わせるのか、それまではわからないけど、仕方ないとは思っても。それでもなんだか、嫌な感じに胸がざわつく。
 顔を上げて兄ちゃんを見ると、なんだ、とでも言いたげに小首を傾げた。

「――……おれ、手伝ってくるな」
「おまえはいい。十五にやらせておけ」
「でも、いつもやってもらってるし。すぐ戻ってくるよ」

 おれはさっと椅子から立ち上って、あまりいい顔をしなかった兄ちゃんにそう言い残して、早々と部屋から出て行った十五さんを追った。
 走ったからか、すぐに見つけた見慣れた背中。名前を呼べば十五さんは振り返った。けれど追いついたおれを一瞥するだけで、十五さんは何も言わずに歩みを進める。その後について行けばすぐに目的の調理場に着いた。
 おれはお湯でも用意しておこうと動こうとした時、突然十五さんが振り返る。
 どうしたのかと、おれは口を開いて十五さんの名前を呼ぼうとする。けれど、しい、とでも言うように、人差し指を立ててそれを口元に持っていき、静かに、と指示をしてきた。
 思わずおれは息を飲んで、一度開いた口を結ぶ。
 沈黙を確認した十五さんは、そっと懐から一枚の紙きれを取り出した。二回折られた、微かにインクの滲みが見えるそれをおれに押し付けるように渡してくる。ろくに言葉を返せないまま受け取ってしまうと、十五さんは何事もなかったかのようにおれから離れてお茶の準備を再会した。
 おれは渡された紙を開いて、きっと何か書いてあるそれをすぐに読むことはできなかった。
 何か、とても大切なことが書かれている気がする。そう思う。でも、だから怖かった。
 十五さんはそれを見ろ、という指示は一切しなかった。ただ握りしめているだけなのを知っているはずなのに。
 おれが紙を見つめているうちに、いつの間にか準備を終えた十五さんが、最後にちらりとおれに目を配ってから部屋への道のりを歩き始めた。その背中を少しの間だけ眺めて、それからおれは渡された紙を懐に仕舞って後を追いかける。
 戻った後に、兄ちゃんとのチェギを再開した。帰ってきてからも相変わらず隅のほうで胡坐を掻いて本を読んでいた十五さんだけど、不意に立ち上がるとふらりとどこかへ行ってしまう。
 音もなく静かに閉められた扉を横目で確認し、前に向き直と、目の前の兄ちゃんは次の手をどうしようか悩んでいるところだった。

「なあ、兄ちゃん。十五さんってどんな人?」
「十五? あのまんまだよ。そう騒がしいやつじゃなくて、料理と本が好きな」
「その……声が出せないのは、首にしてある包帯が理由?」

 本当に聞きたかったことに一間おいてから聞けば、兄ちゃんはあっさりと頷いた。

「ああ、そうらしい。おれも詳しくは聞いたことがないから知らないが、喉の傷と、あの左目にある傷の両方、子どもの頃に負ったものだそうだ」

 二度と声は出せないと教えてもらったと、兄ちゃんは最後にそう言った。
 十五さんは、話せない。それを知ったのは、十五さんがおれに伝えることがあり、紙切れに言葉を書いて渡してきた時だ。それは自分は話せないので筆談を許してほしいという謝罪と、用件だけが書かれたものだった。その後も十五さんから言葉を渡される時、必要最低限のことしか書かれていない。もともとそういう性分なんだろう。
 それが、あいつに似ているような気がした。あいつは声があっても無口で、時には必要なことさえ言おうとしない。
 悩むのを再開した兄ちゃんから目を逸らし、おれは胸に仕舞ったものばかりを気にした。
 チェギをそれから何戦かした後、少しばかりの会話をしておれは自室に戻った。
 戻ってすぐに、靴も脱がないままベッドに突っ伏す。身体を横にしながら靴を脱いで、適当に床に放り投げる。
 ごろごろと右に左にと寝返りを打って、居心地のいい体制を見つけて仰向けになってからようやく、そっと胸に手を置く。でもそれ以上身体は動かなくて、そこに仕舞われたものを取り出すことはできなかった。
 目を瞑って、ゆっくりと息を吸い、そして吐く。妙に高ぶった心が落ち着いたら、何が書かれているか、読もう。
 そう考えて深呼吸を続けると、いつの間におれは、誘われるように眠りについていた。

 

 

 

 ふと目を開けると、目の前に夢で見たいつかの少年がまた泣いていた。しゃがみ込み、小さくなって。声を懸命に殺して。
 だからこれは夢なんだ、と気が付いた。おれが見ている、夢。一人の少年がひたすらに泣く。そしておれはそれを眺めるだけの。
 でも、以前は真っ暗な、闇ばかりが広がる空間だったはず。それなのに今回は公園にいた。それも、おれが子どもの頃によく遊んだ、近所にある公園。少年は入り口から公園を囲むように生える植木の影に隠れるように、夕暮れ時のそこで膝を抱えていた。
 ふと、少年を見つめるおれの隣を小柄な影が通り過ぎる。思わず目で、突然視界に現れた小さな背中を追った。
 突然現れた少年は、膝を抱えてすすり泣く少年の前で立ち止まりしゃがみ込む。けれどおれは、おれに背を向ける子ばかりを見つめてしまう。
 髪が、髪の色が、紺色だったんだ。夕暮れと言っても世界が赤く染まるほどもない、もう黄昏の時は終わり、夜が訪れる、そんな時間。それが、確かな色をおれに見せている。
 この世界ならともかく、おれのもといた世界に紺色の髪はあり得ない。絶対に、自然で存在するはずがない。
 紺色の髪の少年は、泣き続ける少年に何か話しかけていた。その声はおれに届かない。
 顔を俯かせ続けていた少年が顔を上げようとした時、おれの意識は急速に上がっていった。

 

 

 

 ふと目を開けると、放り出されるように置かれた自分の手が見えた。むくりと身体を起こせば、少し頭がぼうっとする。
 窓の外を見れば、遠くに僅かに橙が溶けているだけで、もう夜の色に染まりつつあった。まるで、夢に出てきたあの時間と同じくらいの。
 身体を起こしたおれは、懐に仕舞ってある、十五さんから渡された一枚の紙切れを取り出した。
 おれにとって、大切なことが書かれているはずだと、そうわかるんだ。何の根拠もないけど、これを読まなくちゃいけない。
 微かに震える両手でそっとその紙を持ち、折り畳まれたそれを開いた。

【おまえは真実を見出す者。己の内にある心を偽るな。些細な違和感を、決して見逃すな】

「真実を、見出す者……」

 おれの中にある心。おれの中で、一秒たりとも消えなかった、あいつの顔。それがきっとすべての答えなんだ。――なら、行かなくちゃ。
 床に投げ捨ててあった靴を履いて、おれは走り出す。兄ちゃんの部屋に向かって、一切振り返らず。
 岳里と、話さないといけないんだ。なんでおれに嘘をついたのか。なんでおれが岳里の主なのか。なんで、おれを、おれなんかを、ずっと守ってくれてたのか。
 おれは、知らなくちゃいけないんだ。
 何も知ろうとしないで勝手に傷ついて、岳里さえも傷つけた。それで終わりなんて、絶対に間違ってる。
 廊下を走りながら、おれは確かめるように自分の心を口にする。

「会わないと、あいつに、岳里に。会って、話さないと……っ」

 ただそれだけを思い、ようやく兄ちゃんの部屋の前に辿り着いた。でもその頃にはろくに考えず走ったおれの息は上がっていて、それを落ち着かせるために、扉の前に立ったまま大きく息を吸う。
 深呼吸を何度か繰り返して、まだ呼吸は完全に整わないまでも、目の前の扉を叩いた。
 どうぞ、と帰ってきた兄ちゃんの言葉に、おれは取っ手に手をかける。そのまま押し開いて中を見ると、兄ちゃんはベッドに腰掛け本を読んでいるところだった。たくさん本があるからか、古い独特な匂いがする。決して嫌いな匂いじゃないけど、何かが胸にひっかかった。

「どうしたんだ、真司。何か用か?」

 すぐに笑顔を見せた兄ちゃんは、本を閉じてそれを傍らに置き、おれに向き合う。

「あ、その……」

 なんだろう。なんでこんなに胸がざわつくんだろう。
 わからないけど、何故か今すぐこの部屋から出ていきたいと思った。岳里に会いたい。その気持ちは消えない。でもおれの直感が、この場所を嫌がる。
 ふと、十五さんの声の代わりに書かれた言葉を思い出す。
 些細な違和感を、決して見逃すな。そう、あった。
 おれは窓のほうを見た。何度この部屋を訪れても閉めきっている、ひとつしかない窓。いつもしっかりと隙間なく閉じられている扉。本の匂いが籠る部屋。
 おれは、一歩後ずさった。それに気づいた兄ちゃんが立ち上がり傍に寄ってくる。それに、声を張り上げた。

「来るな!」
「……真司?」
「く、来るな、近づくな!」

 おれの言葉に足を止めた兄ちゃんは、戸惑ったような表情を浮かべ手を伸ばしてくる。それにすら反応を示したおれは、さらに後ろに下がった。
 震える声で、精一杯自分を保ちながら、目の前の男に言う。

 

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