医務室には幸い隊長のセイミアが在室していて、真司はすぐ彼に診てもらうことができた。異世界の住人ということを知らされていない他の隊員には診せられなかったので、運が良かったとネルは心底安堵する。
ベッドに横たわる真司の身体を前屈みになりつつ調べていたセイミアが、身体を起こした。
「うん、特に異常はないね。倒れる前に錯乱状態にあったようだし、精神的な何かかな……とりあえず今は休ませてあげて。この分だとすぐ目を覚ますと思うから。それから話を聞くべきだよ」
膝ほどまでにめくられていた毛布を引き上げ、肩まですっぽり埋まるようにかけながらセイミアは笑顔を見せる。
「ありがとうよう、セイミア」
「全然構わないよ。ぼくはすぐ隣の部屋にいるから、何かあったら呼んでね」
おう、とネルが返事をすると、セイミアは頭を下げ部屋を去った。
しんと静まり返る部屋に、眠る真司と、その傍らに付き添うように寝顔を見つめる岳人、そして同じくその姿を見つめるネルだけとなる。
王とアロゥは真司を医務室へ運ぶと、仕事が残っているからと、彼の安否を気にしながらも仕方なく部屋に戻っていた。
すうすうと、真司の寝息ばかりが響く部屋の中、ネルは慎重に、だが攻撃的に声を出す。
「なあ、聞いたでえ。おまえ、この世界に来てから真司と話すようになったっていうでねえかあ」
自分でも棘のある声に内心苦笑しつつ、岳人の様子をうかがう。しかし、彼はその横顔にまったく変化を見せない。その瞳はただじっと、石のように動くことなく真司へ注がれている。瞬きすら、していないように思えた。
まるでこちらの声が届いていないかの反応だ。だがそれはありえない。ネルは言葉を続ける。
「それなのに、どうしてそんなに独占欲丸出しなんだあよ? いくらなんでも短期間でそこまでなるとはあ、おれぁ思えねえんだがあよう」
「――――」
ほんの僅かだが、岳人の唇が動いたのをネルは見逃さなかった。
少しの間ではあるが彼が自ら語り出してくれるのを待ったが、しかし先程のことが見間違いだったかのように、もう一度動くことはない。
それが何を意味するのか、さっぱり見当もつかないネルは無意識のうちに拳を握った。もしくは、これから告げようとする言葉に、身体が勝手に力んでいるのかもしれない。誰しも、他人を否定すると言うのには苦痛が伴くものだから、その痛みに耐えるかもしれない。
「真司は言ってたでえ。真司にとっておまえの存在はでっけえそうだあよ。おまえがいないと心細いとよう。――だがなあ、勘違いすんなあよ。それはあくまでえ、おまえが真司と同じ世界から来たからだあ。共有するものが多いから、はじめからおまえが理解者なんだとでも思ってんだあよ。おまえだからじゃあねえ。“同じ世界から来た人間”、だからだあよ。そこを履き違えんじゃあねえぞう」
心の怯えが伝わり震えてしまうかもしれないと思いながらも発した声は、自分でも驚くほど表情がなかった。だがそれと同時に、自分は強いのだと暗示をかけ、安堵もした。
突然異世界に来てしまった真司の精神状態は、あまりにももろく不安定になってしまっている。そこへ自分と同じ世界から来て、同じ境遇の、しかし毅然とした態度を取る人間が傍にいたら、無意識に信頼を寄せてしまうのも無理はない。しかもその相手も自分を擁護するような態度を見せれば尚更。
彼だからこそ、彼でなくては、と勘違いすることは十分あり得るのだ。多少条件がそろえば、その彼が、何も岳人でなくてもいいのだから。
そこまで聞いて、不意に岳人が振り返った。そこにはどこか自嘲気味の、何かを悟った笑みを浮かべていた。
そんなこと、知っている。そう言われている気がした。
今思えば、これがネルの初めてみる彼の笑顔だが、ネルはそれに気がつくことなく、にっこりと嫌味なほどのそれを返す。
「真司はおまえを必要としてるがあよ、でもおれぁまだおまえを認めねえよう。おまえの匂いは人間の真司とはまったくちがあう。本質があ、まったくちがうんだあよう。でもおまえは普通の振りをする。普通じゃないのにい、普通の振りを――いいやあ、今はそんなこたぁどうだっていい。おれが言いたいのただひとつだあ」
がしっと、ネルは岳人の胸倉を掴む。身長に大きな差があるため、必然的に背の低いネルに引き寄せられた岳人の腰が曲がった。
抵抗は一切ない。ネルはそれが余計に気に食わなくて、心の底から吐きだした。
「真司を泣かすなよ。悲しませてみろ、おまえのその喉を引き裂いてやる」
低い、威嚇のようなうねり声を上げ、ぱっと手を離す。
岳人は静かに先程の体制に戻り、真司を見下げた。ネルの凄みなど、まったく効果をなしていないように見える。
何もかも気に食わない態度――ふん、と鼻を鳴らしながらも、ネルも視線を同じ場所へ向けた。
少し騒ぎすぎたか、ぴくぴくと真司の瞼が動いている。
もう言うべきことを告げたので、これ以上は大人しくしてようと、ネルは部屋の端にあった椅子を持ち出して、ベッドの傍らに置いてそこへ座った。
再びすうすうと真司が寝息を直したところで、今まで沈黙を貫いていたはずの岳人が唐突に声を出した。
「――おれも、同じ気持ちだ」
頭上から振る声に、ネルは視線を向ける。しかし、岳人の視線がネルへ向けられることはなく、ただじっと彼は真司を見守りながら続けた。
「おれもおまえと同じで、守りたいんだ。こいつを、苦しめるものから」
少し長い前髪からうかがえる瞳に、ネルはそっと目を背けた。それを見ただけで、燻っていた黒い心が溶けていく。そうして覗いたのは、本来のネルの心。
彼の言葉通り、同じだったのだ。その瞳に込められてた、想いの丈が。
守りたいのに、守りたかったのに、力がないからそれができない。力に、助けになってやりたいのに、自分じゃできない。そんな無力な己を嘆く色まで、自分と岳人はそっくりだった。
彼もまた、真司に告げられぬ何かを秘めているのだろうと、ネル自分のかつてを思い出し、苦しくなる。
不意に身を屈め、ベッドに眠る真司の頬を、岳人はそっと撫でた。
「――悲しいのは、痛い。痛くなくたって、痛いから」
頬を撫でる腕に巻かれた包帯が、真司が巻いた包帯が、結びが甘かったのかほころびはじめていた。
ネルは岳人が口にした言葉の真意を知りたかったが、今はその時でないと、一度は開いた口を閉じる。
けれど胸を締め付ける何かは、岳人の心と重なっているように悲鳴を上げた。
眠る真司の傍らに寄り添うように、苦しむ岳人とネルには聞こえぬ声が嘲笑う。
『きさまには渡さない。きさまがどう足掻こうが、闇との絆に入ることはない。かよわき光よ、はかなき光よ』
ふと目を開けると、そこには見知らぬ天井があった。真っ白で清潔なそこは黄ばみすら見当たらず、思わず眩しいんだと錯覚する。
「ん……?」
少し身体を動かすとそれにつられて、かけられていた布団が動く。そこでようやくおれは、今ベッドに寝かされていることに気がついた。けれどそのベッドの感触は、やはり覚えがない。おれが知ってるよりももっと深く身体がマッドに沈む。
え、おれ、なんでベッドに? ここは――
きょろきょろを辺りを見回すと、すぐ傍らに椅子に腰かける岳里がいた。おれが目が合うと、大丈夫か、と声をかけてくれる。状況は飲み込めないままだったけれど、すくなからず見知った顔が居て安心した。
「ん、大丈夫。でも、ここは……?」
「医務室だ」
せめて上半身だけでも起こそうと身体を動かすと、岳里がすかさず支えてくれる。
助けをかりながらも、その間に質問をすれば、すぐに返事はそっけなく来た。
「え、医務室? なんでそんなところに……」
ようやく身体を起こし、背中を壁に預ける。今まで眠っていたせいかわからないが、少し頭がぐらぐらと揺れ不安定な感じがした。けれど背後はおれ如きが寄りかかった程度で揺らぐはずもなく、しっかりと身体を支えてくれる。
岳里へ視線を向けてみれば、覚えていないのか、とでも言いたげにおれを見ていた。
そんな視線におれも困惑しているところに、医務室の扉が大きく音を立てて開け放たれる。そこから飛ぶように入ってきたのは、ネルだった。
一直線におれのもとへ駆けてくると、途中で止まることせずブレーキをかけるそぶりすらなく、そのままベッドの上にダイブしてきた。
「真司ィ!」
「わっ!」
咄嗟の事に身をかたくしたおれの腹に、ネルは頭から飛び込んできた。けれど思ったような強い衝撃は一切なく、反対にふわりと風が舞いこんできたかのように、そっとおれの布団越しの脚の上にネルは落ち着く。そして飛び込んだ大勢そのままにおれの腰に腕を巻き、腹に頬を擦りつけていた。
「このねぼすけめえ、ようやく起きたのかあよう!」
今度は頭を押し付けてくるネルに、おれはますます戸惑うばかりだ。
ようやく、と言われるほど、ねぼすけって言われるほど、おれは寝ていたいんだろうか。でもいつの間に眠ったんだろう?
自然とネルの頭に伸びた手が、よしよしとふわりとした髪の毛をすくように撫でた。ネルは驚いたように頭を押し付けるのをやめておれを見上げる。けれどすぐに、目を閉じてそれを受け入れた。
ネルを見てるとなんだか、昔飼っていた黒猫のルナを思い出すなあ、なんて懐かしみながら、ふと壁に四角く切り取られた窓が見えた。そこから覗く景色が夕焼け色に染まっていて、おれはようやく今のおおよその時刻を知る。
確か、ネルとふたりで歩いてたのが昼前だったはず、だよな……?
ごろんと伸ばした脚の上で丸くなったネルを撫でる手を止める。
集中して、記憶を辿ろうとすると、阻むようにつきんと小さな頭痛が頭を叩いた。
「いってて――あ」
けれどその痛みを糸口に、おれは思い出した。
確か、ネルと話してた途中で突然頭が割れるように痛くなって――そのまま気を失ったのか。
頭痛で気を失うなんてはじめてだ。というより、あんな激しい頭痛自体、体験したことがない。あれはなんだったんだろう……。
思い出し、深く考えだしたところで、ネルが開けっぱなしにした扉からセイミアが顔を出した。
相変わらず男とは思えないくらいに可愛い笑顔を浮かべている。
「ほらネル、少し離れてあげて」
その言葉にいやだと喚くネルを、セイミアは笑顔のまま引っぺがした。襟首をつかんでぐいっと。ネルは後ろに引っ張られ、そのままおれの足元にころんと転がる。
ネルが軽いっていうこともあるだろうけど、やっぱりそれなりに力は要る。それを平気な顔でやってる辺り、可愛い顔しててもやっぱり男なんだと感じた。
うー、だの、あー、だの言うネルを無視して、セイミアは質問をしてくる。
調子はどうだの、まだ眠たいかだの、倒れる直前のことについてだの、そんなことを。
その間中、ネルはぶうぶうとセイミアに文句を投げつけ、真司を返せえ、と言っていた。
ふとそこで疑問が浮かぶ。
……おれ、そんなにネルに好かれてたっけ?
まだ会ったのも数回だし、そこまでお互いを知るほど話したこともない。今のように抱きつかれてきたことさえ、間違いなく今がはじめてだ。本当、いつの間に?
なんて考えているうちに、セイミアが離れていく。これみよがしにネルは這いつくばって、再びおれの膝の上に乗ってきた。ただし今度は抱きついてきたりはしない。
うつぶせに寝転がり、おれの膝の上からセイミアを見上げていた。
「大丈夫そうですね。とりあえず今日はこのままゆっくり休んでください。自室には戻れそうですか?」
ここでは落ち着かないでしょう、とセイミアはやっぱり愛らしく小首を傾げる。
少し身体の力は抜けたままであるけど、別に動けないほど消耗しているわけでもない。なんたって寝てただけだし。
健康そのものだと頷こうとした時、突然ぬっと岳里が立ち上がった。
「おれが運ぶ」
え、と小さく声を上げるよりも早く、岳里はおれの膝の上に乗っていたネルごと布団を引っぺがした。再びごろごろと転がったネル。非難しようとすると、おれの膝の裏と背中に岳里は手を回し、おれが反応するよりも先に身体が宙に浮く。
「うわっ」
突然のことにバランスを保てなかったおれは、つい岳里の首にしがみつく。けれど目の前にきた岳里の頬に驚いて、今度はそこを突っぱねる。
「お、おろせっ」
これで二度目になる岳里の膝抱えだが、当然慣れるわけもなく、おれは不安定な均等のまま暴れた。
こうも軽々と持ち上げられると、男としての何かが下ろしてほしいと頭に訴え、意識せずとも身体が動く。
しかし岳里の腕の力が緩むことも、支える芯が揺らぐこともない。
ただ一言、
「落とすぞ」
と呟くように告げられる。短いその言葉でも十分、おれの中の男としての何かはしゅんと身をひそめ、大人しくなる。それは身体も同じだった。
落とされたらたまったもんじゃないと、無意識に縮こまる。
結局おれはそのまま、セイミアとふくれっ面のネルに見守られながら、部屋までの道のりを岳里に運ばれ歩むのであった。
次の日になって、朝からネルとアロゥさん、そして王さま自らがおれたちの部屋へ足を運んでくれた。
「調子はどうだ」
「はい、もうすっかり良くなりました。自分としては、健康そのものと思います」
優しげに声をかけてくれる王さまに、おれは答える。
そもそも倒れたというのが嘘だったかのように、おれは本当に元気だった。昨夜は結局昼間にぐっすり眠ったせいでなかなか寝付けなかったし、食欲もむしろ普段よりも湧いてきてよく食べた。
そんな風に声をかけてもらうのが申し訳ないと思うが、ならよかったと三人がおのおの笑顔を見せてくれたので、冗談でも言えない。
「――その、すみません。ご迷惑をおかけして」
歯切れも悪く、おれは切り出した。
岳里に運ばれ部屋に戻ったあと詳しい事情を教えてもらったので、昨日自分の身に起こったことはちゃんと理解していた。その上で、その時一緒にいたネルは勿論、王さまとアロゥさんにも面倒をかけたと項垂れる。
「構わないさ。まだこちらの世界に来て日も浅いため、色々と不安定なのだろう。無理はしなくてもよいからな」
「そうだあよう、また何かあったらあ、すぐおれを呼べよう」
「ありがとうございます。ネルもありがとう」
社交辞令だっていうことはわかっていても、へへっと笑ったネルは年相応に見えた。いや、獣人は歳をとらないんだっけか。なら、姿相応、かな?
「とろこで、真司よ。少々尋ねたことがあるのだが、今、いいかね?」
「――はい、おれが答えられることであればなんでもお答えします」
アロゥさんの申し出に、おれは少しの間をおいて頷いて応えた。そもそもおれに拒否権なんてないのに、聞いてくれて、おれの意思を尊重しようとしてくれていることが素直に嬉しかったんだ。それに、その程度でしか恩を返す方法も今は浮かばないから。
おれの知ることなんて微々たるものだって知っていたけど、出来る限りのことをする。それが、おれの今しなくちゃいけないことなんだ。
「気を失ったあとのことではあるのだが、うわ言のように、声が、と言ったそうなのだよ。その声とは、どういう意味なのか覚えておるか? その時きみの名を呼んでいた、ネルの声か?」
「それは――」
言い淀み、視線を下げる。すぐに答えることはできなかったからだ。その時おれは気を失っていたわけで、勿論そう言っていた記憶すらなかったから。アロゥさんもそのことは重々承知の上ではあるんだろうけれど、念の為に尋ねてきたんだろう。
どうにか思い出せないかと、おれももしかしたら片隅に隠れているかもしれない記憶をただろうと、そのまま口を閉ざした。誰もそのことを咎めることなく、静かにおれの続きを待ってくれた。
声、声――立つことすらままならなかったあの頭痛。波のように、波紋を広げるような痛みは辛かったけど、なんだかそれ以外にもなにかあった気がする。
……ああ、そうだ。あの頭痛は、声だった。正確には頭に直接響く声があったわけだけど、まるでそれは痛みと呼応するように痛んだんで、あの頭痛が声のように聞こえたんだっけ。
あの時おれに向かって何か叫んでいたネルもいた。けれど頭の直に届いたあれは――ネルの声じゃない。
「違います。ネルの声ではありませんでした」
きっぱりとした声で、おれは答える。忘れていたはずなのに、頭痛をきっかけにはっきりとあの時を思い出したんだ。とは言っても、それを“声”として扱っていいのかわからない。
というのも、その声は男のものだというのはわかった。けれどその声の低さだったり、話し方だとか、そういうものがまるっきり思い出せなかったんだ。どちらかというと、その声が言っていた言葉を思い出しかけた、って感じだ。だから聞き覚えがある声かすらもわからない。その旨も付け加えて伝えた。
「ふむ。ではその声に、なんと言われたかは覚えているかな。ああ、無理はせんでよいぞ。思い出せる限りでよい」
つけたされた言葉に、おれの胸はじんわり温かくなる。些細な優しさに、飢えているように心が喜んだ。
どうにかそれに応えたくて、おれは再び思い起こしかけている記憶を引っ張り上げる。頭の中に直接響くような、ダイレクトに伝わったあの声は、言葉は――
思い出そうとする度、おれの身体も応えようとしているのか、あの時のことが少しずつ蘇ってくる。
あの激しい頭痛の感触まで思い出して、まだ頭が痛む気がしたけれど、耐えて意識を集中させる。
すると、頭の中に言葉が浮かんだ。あの声が文字に変わったかのようにぱっと思い出す。
「……――『傾いてはいけないよ』。そう、言ってました」
「傾いてはいけないィ?」
反芻したネルの声が耳に届くよりも先に、また言葉を思い出す。
おれはそれをよく考えもせず、浮かんだ通りに口にした。
「や、みが――『深い闇が、おれたちを――我らを救ってくれるんだよ』……?」
倒れる寸前に聞いた言葉だと、思う。確か、そう言っていた。でもさっきみたいなはっきりした自信はなくて、声に出した途端急に不安になった。
それも伝えようと、おれは顔を上げる。するとどこか表情をかたくしたネルと目が合い、続けて眉をひそめる王さまが、瞳を深く閉ざしたアロゥさんが目に映る。
傍らの岳里を見ると、普段と変わらない無表情で窓の外に目を向けていた。でもそこには我関せず、という感じではなくて、思想に耽っているように見える。
みんな、明らかに様子が変わっていた。でも明らかにというのは間違いかもしれない。変化はわかるけど、誰しもよくする表情だ。おれの思いすごしだと指摘されれば、ああそうかって頷けそうな。それでも、胸はざわつく。たまらずおれは声を出した。
「あ、あの……」
途端にみんなの表情が戻った。ネルもさっき見たのは嘘だったかのように、普段の笑みを浮かべている。王さまの眉間にはしわなんてないし、アロゥさんはゆったりと瞬きをする。
岳里の瞳も、まっすぐおれを見ていた。
「――思い出したのはそれだけです」
おれの知らない何かを、周りは共有しているような気がした。そう思うとおれが部外者のように思えて、無意識に声が縮こまる。
そもそも初めから部外者であったし、信頼されているつもりもなかった。だから、王さまたちがおれに何かを隠して、その上で助けてくれていても何にも異論はない。むしろ、何かあったほうが納得できる。でも――岳里にまでそんな態度を取られると、なんだか苦しかった。
王さまたちはあれからすぐに、おれに礼を言うと揃って部屋を後にした。その時なんだかみんなの態度が急に戸惑いを混ぜたものになった気がして、理解はしているけど、やっぱり辛いものがあった。
そんな数日でおれたちの事を信じてもらえるとは思ってはなかったけど、その理由がわからない分、余計に。
そんなおれの胸中を悟ってなのか、はじめから貸そうとしていたのか、ネルが去り際にこの世界のおもちゃをひとつ貸してくれた。
例のごとく玉に姿を変えていたそれを渡され、おれと岳里は早速遊びはじめる。
「えっと、これはチェギっていうんだっけか?」
「ああ」
岳里のベッドにふたりして乗り込み、四角い木の板で作られた盤を上から覗き込む。そこには縦横に線がまっすぐ引かれ、マスができている。その左と右の両端、向かい合ったおれと岳里の膝もとには同じ数の動物たちがそれぞれのマスに収まってる。まっ平らな板の大きさは、ちょうど大学ノートを二冊並べたぐらいだろうか。動物の形をした駒は、一般的なボールペンの半分ぐらいの高さで、指先でちょんと持てるくらいに軽い。これも木で作られていて、ポーズはそれぞれとっているけど塗装なんてものはされていないシンプルなできだ。
一番数が多いのは鼠で、猫、恐らく犬――じゃなくて狼に、熊に、馬、鳥、象、そして獅子。
何でもチェギっていうのは、日本で言う将棋のようなものらしい。なんでもこの世界では幼いうちに教育の一環としてチェギがあるらしく、今おれの目の前にある大きな盤でなくてもっと小さく簡略化されているものからはじめるそうだ。だからこの世界ではポピュラーなゲームらしくて、子供でもできるように簡単にも遊べるし、本格的な競技としても扱われるものらしい。――ってなことを、ネルが言ってた。
そもそも将棋にすら詳しくないけど、とりあえず王将ってのはお互いに一頭しかいない、百獣の王として名高い獅子、ライオンだってことはわかった。けど反対に言えば、それぐらいしかわからない。
他の動物にもそれぞれ役割があるんだが、今はそれを岳里に教わっている。
岳里が言うには、ほとんどが将棋と似たルールだそうなんだけど、象だけが本来将棋にいないメンバーらしい。よくよく見てみれば、象もお互いに一頭しかいなかった。
説明されも正直よくわからなかったけど、象は前後左右に一歩ずつしか進めない代わりに、決して取られない駒らしい。
なら象だけで進めればどうなるんだって聞いてみたら、象は何かを移動させた後じゃないと動かせないし、おまけにその機動力は一歩ときたもんだから、結局は移動するのにかなりの時間がかかるらしい。象にこだわっていたらその間に機動力の高い他の動物たちが陣に攻め込んできてしまう、と言われた。だが象の配置次第では絶対的窮地でも一発逆転が可能になるから、随分と戦略が広がるそうだ。ちなみに、息抜きとしてチェギをやる際は簡略化されることが多くて、真っ先に象の駒は外されるらしく、本格的にチェギをやる場合には象の駒を人員に入れるそうだ。
――と、こんな説明をされたが、将棋の知識がまったくないせいか、さっぱり理解できなかった。それぞれの駒がどう動くのかも、全部覚えている自信はすでにない。
そんなおれに対し、何故本来チェギという遊びを知らないはずの岳里が教える立場にいるかと言うと、なんでもおれが寝込んでるうちに見舞いに来てくれた隊長さんたちと指して暇を潰していたかららしい。
この世界に来てからというもの、おれはほとんど寝てた気がする……。思ったよりもチキンだったおれのハートは異世界に来てしまったと言う事実がかなりの負担で、体調なんか崩したりなんなりして――
おれと違って一度も寝込んでいない岳里が暇を持て余していたという話を聞いた時、申し訳ないと思った。いくらそんな仲良くなかったとしても、話し相手ぐらいにはおれだってなれる。けれど、岳里も退屈しまくってたわけじゃないってわかって少しだけ気が楽になった。
「んーと、まだよくわかんないけど……とりあえずやってみるか。ちゃんと教えてくれよな?」
「ああ」
どうやら岳里はこのチェギというものを気に入ってるらしくて、教えてくれと頼んだ時の反応はこいつには珍しく、少しうきうきしているように見えた。とは言っても声がほんの少し弾んでるように聞こえただけで、顔にはまったく何にも出てない。
それでもその少しだけ感じたものを信じ、おれもルールを覚えて少しでも相手になりたいと思ったわけだが――なかなか、そうもいかないもんだから難しい。
なかなか各駒の移動がわからなかったり、とんちんかんな行動をしたり、はじめてだから仕方ないにせよ随分と岳里の手をてこずらせていた。
そもそも頭脳明晰完璧岳里さまがおれなんか相手にならないくらい強いであろうことは予想が簡単についてたけど、それでも暇つぶしは絶対に必要なわけだし……。
やる気はあるけど知識技術が追いつかず、もたもたと同じ間違いを繰り返してしまったりするおれ。けれど岳里は教えがいがある、なんて言って、うんざりするわけでもなく根気強く教えてくれながら、どうにかこうにか練習の一局を打つ。
時折のめり込んで盤面に集中するあまり、その盤の上で岳里の頭と衝突したりなんかして、なんだかんだで楽しかった。ルールは覚えてしまえば簡単だって言われても覚えるまでが大変で、何度やり方を説明してもらったかわからない。でも変わらず平坦な口調で説明する岳里の声が心地よくて、すっと頭の中に入ってきて、おれは少しずつチェギのルールを理解していく。
ムズカシイムズカシイ、とはじめは呻いていたおれも、だんだんその奥深さに気がついていった。自分で考えて駒を動かした時に、岳里をうかがってみれば頷いてくれて、それだけで楽しかった。
元いた世界でおれは結構賑やかにいろんなやつと遊んでいたけど、なんていうんだろう、こんな穏やかな気持ちはなかった。岳里はほとんど表情を出さないし口数も少ない、にこりともしない。部屋の中はおれの質問の声ばかり響くし、お互い集中すればそれすら途切れて静かになる。でもその沈黙は苦痛じゃなかった。気を使うことなんてなくて、会話はぽつりぽつりでも、すごく気持ちがぽかぽかとする。それは今までぎゃーぎゃー笑いあってた雰囲気とは全然違うのに、みんなで騒いだ時のわいわいとしたあの面白さはないのに、でも楽しい。なにがそう思わせるのか考えてはみたけどわからなくて、それが少し残念に思えた。
「――で、鼠をここまで移動させると、これからの動きは鳥と一緒になるんだよな?」
「ああ、その代わり鼠にはもう戻せない」
どうにかチェギなるものを自分の中に取り込んでいく。岳里に指示された通りに鼠の駒をひっくり返そうとしたら、鼠の形が徐々にへこんでいき、底から新しく鳥が出てくる。これも魔術を使ってるらしい。小さな鼠は、きりっと鋭いまなざしをする鳥へ姿を変える。
「……なんか、ジィグンがハヤテになるみたい」
駒の姿が変わるのをみて、おれはよく世話になってる鼠の獣人のジィグンと、目つきの悪い大柄な鳥の獣人ハヤテを思い出す。
よくよく見てみれば、駒の鳥の目つきがハヤテにそっくりに見えてきた。
「――なるほど」
おれの呟きに対して、珍しく岳里が返してくる。それに思わずおれが顔を上げると、岳里はじっと盤面の鳥を見ている。
おれが聞くよりも先に、岳里は続けた。
「あのふたりはつながりがある。鼠をジィグンに、鳥をハヤテに置き換えれば、鼠が何に変化するか覚えやすいだろう」
「あ、そっか。鼠は鳥に……ジィグンはハヤテに食われたって覚える!」
食べられたわけではないけど、それで覚えられるんだったらいいか、なんて考えつつ心の中ではジィグンに感謝する。
今は身近に動物に姿を変えられる獣人の人たちがいるから、動物の駒になんとなくその人を重ねて覚えることができた。猫はネルで、狼はヤマト。魚の駒はないからミズキがいないのは少し寂しく思えた。
新しい発見に、ますますおれの中の楽しい気持ちは膨らんでいく。
そんなこんなで一戦目をほとんど岳里に教わりながらも、おれは勝ちをもらった。四苦八苦の末、岳里の獅子を倒した時のあの小さな感動は、自分の力でやればもっと強烈なものになるだろうな。想像しただけで、もっと上手くなりたいと思った。
「にしても、頭使うからこれすっごい疲れるな」
眉間を揉みながら、いつの間にか随分集中して減っていた瞬きをして目を労わってやる。肩を回すと、ぼきっと骨の爆ぜる派手な音が響いた。でも、それはむしろ心地いい。
岳里はおれが一休みの柔軟をしている間に、第二戦目の準備のため、盤面に駒を並べていた。おれも軽いストレッチを終えて、ひっくり返されてハヤテになったジィグンを戻して手伝う。
さあ続きをはじめよう、というところで、こんこんと扉がノックされた。
おれは返事をしながら、今からまさに二度目の合戦を繰り広げる予定だった岳里のベッドから降りて、扉のほうへ向かいそこを開ける。
「よう」
「一昨日振りだのう」
そこにいたのはレードゥとヴィルだった。
「どうぞ」
おれはすぐに扉をさらに開けてふたりを中に招き入れた。
そのときちょうど岳里がチェギのセットを終えたところで、相変わらずの感情の読めない目でふたりを見ていた。
「ああ、チェギか」
「ふたりでやっておったのか?」
「うん。岳里にやり方教わってたとこ」
「なら頭使って疲れたろ」
レードゥの問いかけに、おれは素直に頷いた。
はじめてやるものだっていうこともあるんだろうけど、何より頭を使うチェギはそれなりに神経まで使う。そういうのが嫌いってわけじゃないけど、久しぶりに駆け引きをしたせいで、はじめてまだ一時間と少しぐらいしか経っていないはずなのに少しくらりとする。
それでもやっぱりおもしろいと思えたし、まだルールを覚えているうちに第二戦をやって、もう少し岳里の相手になりたいっていう思いもあった。
おれの回答を聞いたレードゥは、嬉しそうににかりと笑う。
「ならちょうどよかった。少し身体を動かしにいかないか?」
「おぬしらもずっと部屋に閉じ込められていては敵わんだろう。チェギはいつでもできるが、身体を動かすということは部屋の中でできるものも限られておるしのう」
そこでようやくふたりの来訪の意図を知ったおれは、おれたちを気遣ってくれたことを嬉しく思う反面、少しだけ戸惑ってしまう。
ちらりと、きっちりと駒が並べられた盤を見る。岳里が折角並べてくれたものだ。
「どうだ? 折角だし、いい体験させてやろうと思ってな」
相変わらず屈託のない笑顔を浮かべるレードゥに、おれは内心ではどうしようと困るばかりだ。
正直、身体を動かしたくはある。おれはこの世界に来てから倒れたりなんだりしてばかりで、安静にしていろと言われ続けてたわけで、ほとんど動いてない。軽いストレッチだのなんだのは風呂上がりにやったけど、そんぐらいだ。ヴィルの言う通り部屋の中でできることなんて限られてるわけだし。
でも、岳里とこのままチェギをやりたいって気持ちもあるんだ。チェギをしてると、岳里が説明してるわけだから自然と口数が多くなる。むしろ無口と言える岳里の声をここまで聞いたのも、チェギのお蔭とも言えるし。
だから、なんていえばいいのかな……チェギを通して、岳里と仲良くなれるチャンス、って言えばいいのかな。
この世界に来てからおれと岳里はいっつもセットで行動してて、風呂まで一緒だ。これから先も、元いた世界に戻るまでにもう少しかかるだろうからきっと一緒に行動することになるんだと思うんだ。だから、今のうちに仲良くなっておきたいな、なんて考えるわけで。
正直、おれは結構岳里に心を開いてるわけだが、岳里のほうはどうかわからない。別に嫌われてないと思うし、それなりにやってるとは思うけど……仲がいいとも言えない。しかたなく一緒にいるって感じが拭えない。
だから、ようやく岳里が少しでも楽しいと思えるやつを見つけられたから、そのチャンスを逃したくないって思うんだ。
――でも、そう思ってるのはおれだけなんだろうな、きっと。
「岳里はどうする? おれ、どっちもいいから選べないや」
部屋にこもっていて身体を動かせなかったのは岳里も同じで、ましてやおれよりもうんと暇を弄んでいたはずだ。
この短期間で散々岳里に世話になってきたおれが、このふたつのどっちがいいかなんて選べるわけがない。だから、岳里に主導権を渡した。
盤から目を離して岳里を見ると、岳里もおれを見た。けれどすぐに逸らされ、それはレードゥたちのほうへ向く。
「行く」
その短い返事は、レードゥたちについて行く、という意味だ。
おれは本当にどっちもいいと思えて選べないって言ったのは事実だったけど、ほんの少し残念に思った。