白い石鹸代わりの玉を手で転がし、泡ができあがれば岳里の髪につけ、少しずつ、魔物の血を落としていく。本当は血を触ることが怖かったけど、身を張って頑張ってくれた岳里に少しでも何かしてやりたかったから。
 何度もそれを繰り返し、ようやく全体の半分ぐらいの血を洗い落とせた。
 岳里は大人しく腕を下し、おれに任せていた。
 今度は耳の上あたりをやろうと岳里の後ろから少し立ち位置をずらして一房掬う。ふと、岳里の頭越しにとても高校生とは思えない割れた腹が見えた。実はさっきからちらちら見えてはいたんだけど、見ているということを岳里に知られたくなくて、すぐに目を逸らしてた。
 今なら見ていることがバレないと、おれは髪を洗う一方で、岳里の身体を上から眺める。
 首や、肩、腰、腕に足、全身にしなやかについた筋肉。こんなのを見せつけられれば、本当に男としての自分の身体が貧相に見える。
 ただでさえ女子にモテる岳里が、彼女たちの目の前で裸になったら、恥じらう乙女になるよりも先にきっとが獣に変わることだろう。
 自分で冗談のつもりで想像したけど、ありえなくはないと、岳里に気づかれないようおれは苦笑した。
 女子が獣に変わるかどうかはわからないけど、たくましいその身体がうらやましく思える半面、もうひとつの複雑な思いにおれは目を伏せる。すぐに口元の笑みも消え去った。
 ――岳里は、普通じゃないと思う。頭も運動神経よくて、おまけに顔もいい。男のおれが本気で暴れても余裕で抑えつけられるぐらいに力も異常なぐらい強い。
 確かにそれだけで十分次元の違うやつのように思えるけど、でも世界のどこかにいないわけじゃない。普通じゃないと思うのは、この世界に来てからの岳里の行動だった。
 いくら落ち着いているといっても、突然こんな世界に来たら混乱するのが普通だと思う。現におれは混乱して、騒いで、挙句には倒れてかけて熱まで出した。それぐらいに、精神的負担は大きいはずなんだ。決して、おれのこの反応は大げさなものじゃないと思う。なのに岳里は不安がるどころか、おれを支えてくれた。
 岳里は時々不思議な行動をする。夢を見て泣いていたおれの涙の舐めとったり、おれの手が震えてたからって握ってきたり。頭を撫でられたりもしたし、倒れかけた後には抱えたり。
 でも今思えば、あれはおれの不安を取り除くためだったんじゃないかな。余計なことを考えないようにとか、安心できるようにとか。そんなの自意識過剰ともいえるけど、そんな気がするんだ。

『大丈夫だ。おれが、おまえを兄のもとへ帰してやる』

 ふと、あの時の力強い岳里の言葉が、頭に思い浮かぶ。あの一言におれがどれほど救われたか、多分岳里は知らないだろう。あの言葉を糧に、この世界で頑張ろうっておれは決めたんだ。
 おれの気持ちが分かるやつがいる。
 おれを支えてくれるやつがいる。
 おれと一緒に頑張ってくれるやつがいる。
 この世界以外を求めるのは、おれだけじゃない。岳里がいた。一緒に帰るんだって約束したんだ。ひとりじゃなくて、ふたりで。
 きっと、岳里がいなければおれはとっくに頭がおかしくなってたと思う。他の人じゃ多分おれと同じく混乱して、駄目だ。どっしりと構えていられる岳里がいてくれたから、支えてくれたからこそ、おれはこうして落ち着いて考えられる。岳里は確かに普通じゃない。けどそれにおれは救われたんだ。
 岳里はどうしてそんなに、誰かを支えられるほど強いんだろうか。

「――どうかしたか」

 思わず手を止めてしまえば、岳里が泡だらけの頭を動かし隣に立つおれを見上げた。その目がまるですべてを見透かしているようにまっすぐで、一瞬、あの時見た金色に光る瞳を思い出させる。太陽の光を受けて輝く月のように、静かにあの闇夜で光を放っていた目。
 ――あれは見間違いだったんだ。人の目が光るわけないし、今こうして見る岳里の目は焦げ茶色だし。
 思い浮かんだことは勘違いだと否定し、それを振り払うためにもおれはついさっきまで考えていたことを尋ねるために、口を開いた。

「なあ、岳里。どうしておまえはそんなに、強いんだ?」

 本当は声に出すつもりなんてさらさらなかったその言葉を告げれば、岳里はその意味がわからない、といったように岳里は小さく眉を寄せた。おれは自分の言葉を補足するために、話を続ける。

「だって普通は怖いだろ? あんな、魔物なんて化け物。見たこともない剣を持ってさあ闘ってやろう、だなんて勇敢なこと、おれにはできない」

 そう言いがら、おれはユユさんの剣を手にして駆け出したあの時の岳里を思い出す。躊躇いを微塵も見せなかったあの足取りに、弱さは一切なかった。
 異世界に来ても取り乱さない精神と、魔物にも立ち向かえる勇気。その強さの理由が純粋に気になったんだ。それを知れば、おれも少しは岳里のようにたくましくなれるんじゃないかって。
 岳里は答えるよりも先に、振り向いていた頭を前に戻した。それに倣い、おれも髪の洗うのを再開する。
 それからほんと少しの間をおいてから、ぽつりと、岳里は言った。

「――おれは強いわけではないし、勇敢でもない。けど、おれにそれを与えてくれるやつがいるから、おれは強くなれるんだ」
「与えてくれる、やつ……?」
「ああ。だから、おれは戦えたんだ」

 いつも感情の起伏が感じられないように、平坦にことを話す岳里の声が、少しだけ柔らかくなった気がした。岳里が言った、強さを与えてくれるやつのことを思い出してるんだろうか。きっとそうなら、その人は岳里にとって本当に大切なんだろうな。こんなにもはっきりと、まっすぐとその人のことをおれに伝えるんだから。

「そいつはたくさんのことをおれに与え、教えてくれる。だからおれは強くなれる。恐れもしない。たとえ相手が危険なものだとしても立ち向かえる。剣を持てる。そいつがおれのすべてだからだ」

 恥ずかしげもなく、愛の告白とも思えるセリフを岳里は言ってみせる。もしこれが岳里じゃなくて別の友だちとかがが言ってたら、きっとおれは茶化してたと思う。でもそんな気はまったく起きず、素直にその言葉を受け止められた。
 だって、岳里の声は真剣だったから。本気で、その人が自分のすべてだって思ってるって伝わってくるんだ。
 その人のことが、本当に大切なんだなって思う反面、この動じない岳里がこれほどまでに想う相手が、ほんの少しだけ気になった。
 ――確か岳里は女子から告白されたら必ず、好きな人がいると言って断ってたんだっけな。そんなのしつこくされないための方便かと思ってたけど、こうして話を聞く限り、今岳里が話してくれるその人が、岳里の言う好きな人なんだろうな。
 きっとその人は岳里に会いたがってるはずだ。岳里だって口にはしないけど、そう思ってるに違いない。それに、おれだって早く帰りたい。
 ここのみんなは見ず知らずのおれたちにとても良くしてくれるけど、やっぱり元の世界に残してきてしまった兄ちゃんが心配でならないから。
 兄ちゃんもおれを、きっと心配してるんだろな……。
 そう思うと胸の奥がちくりと痛んだ。

「……岳里にとって、その人は大切なんだろ? なら、会いたいよな……尚更早く帰らなくちゃ」
「――ああ」

 おれと同じく待ってくれているはずのその人を思い出しているのか、それともただ元の世界が恋しいのか、返ってきた声は少し沈んでいるように思えた。

『――悲しいのは、痛いから』

 ふと、いつかの岳里の言葉が頭に浮かぶ。
 幼い子どもが言うような、何か達観した感じのある岳里には不釣り合いなあの言葉。あれは、どういう意味でおれに言ったんだろう?
 悲しいのは痛い。岳里もおれと同じで、大切な人に会えないことが、元の場所に帰れないことが悲しいのかな。だから、胸が痛んでいるのかな。
 いつもに比べ、やけに饒舌の今の岳里に尋ねてみれば、この言葉の真意が聞けるのかもしれない。けれどおれはそれができずに、丁寧に髪にこびりついた血を落としていった。
 それ以上岳里も何か言うこともせず、お互い口を閉ざした。

 

 

 

 おれと岳里ふたりでは広すぎる大きな湯船の中に入り、おれは手足をぐっと伸ばす。関節からぽきぽきと骨の爆ぜるどこか居心地のいい音が聞こえた。
 どっぷりと肩まで身体を沈ませると、無意識のうちにぶるりと震える。

「ふあ……」

 まるで全身の筋肉が一気に解れたように、骨抜きにされた気分だ。
 浴槽の中で伸ばしていた足を胡坐に直し、肩をや腕、足を揉んで軽くマッサージをする。今まで強張らせていたものまで、どろどろに溶けてしまった気分だ。

「湯加減はどうだ」
「ん、大丈夫。ちょうどいい感じ」

 また指をからませ腕を伸ばしながら、おれは答える。岳里はそうか、とだけ返すだけだった。
 こんなにも広い浴槽だけど、岳里はおれの隣に座っている。少し動いても肩がぶつからないくらいの距離だ。
 何十人も一度に入れそうな風呂なんだから、もっと好きなところに入ればいいのに。なんて思うけど、多分逆に広すぎておれの隣に来たんだと思う。
 ふと隣の気配が動き、ちらりと横を見てみれば、岳里はやけに湯船の中に沈んでいた。肩までどころか、唇が隠れるぐらいに浸かってる。目はじっと閉じたままだ。おれと同じように胡坐を掻いて座ってるけど、それとりも岳里の体制は随分崩れてる。
 なんだかそのいかにもリラックスしてる様子に、おれは思わず吹き出した。
 すると閉じていた岳里の目が開き、目線だけでおれを見上げてくる。でもそこに不愉快そうな感じはなくて、純粋になんでおれが吹き出したかを気にしてるようだった。

「悪い悪い。ところで岳里は、おれが寝てる間にもこの風呂使ったのか?」
「ああ」

 岳里はおれの言葉に答えるためか、少し身体をずり上げ、口元を外気に晒した。けどそれは最低限で、顎はまだお湯に入った状態だ。その姿がやっぱりでかい図体をする岳里に似合わなくて、でもどこか可愛い感じがする。……ギャップってやつ?
 なんとなくおれも、岳里の真似をして身体をずらし下げて、顎までお湯につかる。今度は胡坐を直して膝を抱えた。

「……なあ、おれってどのくらい寝てた?」
「丸二日間だ」
「そんなに……」

 長い時間眠ってたとは思っていたけど、まさか単位が日だとは……。精神的に参って熱出したぐらいで、それぐらい寝込むもんなんだろうか? そもそもこんなこと今までなかったから、基準がわからない。それでも十分、二日間も寝たきりとなったおれが岳里に迷惑をかけたのには間違いなかった。
 いつも目を覚ましたら岳里が傍にいてくれて、水はいるか、何か食べるか、寒くはないかと聞いてくれた。おれが寝ている間も額に乗せた濡れた布を取り替えてくれたし、服も制服から見慣れないこの世界の服に変わってたから、きっと岳里がやってくれたんだと思う。それにおれが知らないだけで、他にももっと沢山の面倒を岳里は見てくれたのかもしれない。

「岳里、ありがとな。それと、寝込んでる間迷惑かけてごめん」

 これで何度目かになるお礼と謝罪を言えば、岳里は再び目を閉じた。

「気にするな。他にすることもなかったからな」
「……うん。ありがと」

 前にも一度聞いたような言葉を岳里は口にした。言葉こそ素っ気ないけど、そこには確かに岳里の優しさが見えて、心があったかくなる。
 いつも本当無表情で、口数も少ないし愛想も見えないけど、岳里は決して冷たい人間じゃない。むしろいいやつだと思う。
 まだ会って三日、まあおれは二日間寝てたわけだから実質一日だけだけど、それでも十分岳が悪い奴じゃないってことと、うわさ通りの超人ということだけはわかった。まだ完全に岳里がどういうやつかわからないし、何が好きで何が苦手かとかすら全く知らない。けど、今異世界にいる非現実的日常に身を置いて、そんな特殊な環境になっても自分を保てる岳里に確かな憧れを感じた。
 顔よし、頭よし、運動神経よし、身体付きよし、精神的にも大人で頼りになって、おまけに自由でもそれが身勝手じゃなくて、それでいてその格好よさを鼻につかず、女子にはモテモテ……こんな完璧な人間、そうそういない。多少愛想の面で問題があるような気はしないけど、それぐらい十分カバーしてのける要素ばかりで。
 こんなやつがいて、憧れないわけがない。本当羨ましい……妬ましい気持ちが起きないぐらいに羨ましすぎる……。
 はあ、とため息をつき、おれは自分の腹を見た。見慣れたそこは何度見ても割れてなんかいない。
 今度は視線を隣の岳里の腹へ向ければ、何度見てもそこは六つ……。ムキムキじゃなくて、しなやかに付いているところがなんとも言えない。
 自分の二の腕をつまんでみても、ぷにぷにはしないものの隣の人物に比べれば細いのなんの。

「おれも岳里ぐらいに鍛えたら、少しは強くなれるかなあ……」

 ぽつりとつぶやけば、岳里は目を開けた。

「鍛えてないぞ」
「え、嘘、何もやってないのか?」
「特には」
「…………」

 予想外の答えに、おれは絶句する。
 鍛えてない……? その腹筋で? 嘘としか思えない。
 そうは思うも、岳里に嘘をついた様子はないし、そもそもつくとも思えない。見栄を張るタイプじゃないから。
 でもそうすると、特に何もしてないのに自然とその肉体が出来あがったというわけで。

「理不尽だ」
「…………」

 素直な言葉をおれは口にする。岳里は何も言わなかった。
 鍛えてもないのにその身体とか、どんだけだよ。誰だよ天は人に二持つ与えずって言ったのは! こいつどんだけ神様に愛されてるのさ! ……うう、騒ぐだけむなしくなる。
 はあ、とため息をつき、頭を浴槽の縁に預けた。上を見上げれば、光玉と、黒い玉が見える。

「――なあ、岳里」

 何気なしに岳里を呼ぶと、目の端でこちらを向いたのがわかった。けれどおれはそっちに向く気にはなれず、宙を仰いだまま素直な疑問を声に出す。

「おまえって、人間?」

 言ってしまった後に、おれはしまった、と岳里に振り返る。いくら気を抜いていたとして、思わず口を滑らせてしまった。岳里の目は、まっすぐおれを見ていた。
 その目に、すぐに謝ろうとしたのに言葉が詰まる。そんなおれを尻目に、先に岳里が声を出した。

「おまえの目には何に見える」
「……にん、げん」
「そうだろうな」

 ふい、と逸らされる視線。おれはただ俯くことしかできなかった。

「――ごめん」
「別にかまわない」

 それ以上はないも言えず、おれも岳里のように災いのもとになりかねない自分の口をお湯で封じた。
 あまりにも無神経な言葉だった。人間か、だなんて、そんなの当たり前じゃないか。いくら岳里がすごいやつだからって、もしたとえそう思ったとして、口に出すべき言葉じゃなかった。
 心の中で、もう一度岳里に、ごめんと謝る。
 岳里の声はあくまでいつもと変わらなかったけど、ほんの少しだけ、寂しそうに聞こえた。

 

 

 

 風呂からあがり、用意されていた新しいタオルで身体を拭いたおれたちは、同じくかごに入れられていたこの世界の服に袖を通す。
 サイズは不思議とぴったりだったけど、岳里とおれの服で明らかに大きさに違いがあって、その点だけは不服だった。
 そりゃ岳里のほうがでかいし服が大きいのは当然だけど、だけどさ……。
 そんなことを言える訳もなく。ただ岳里に理不尽だ、とまた呟き、それで一応満足した。
 それから部屋の外で待ってくれていたユユさんを先頭にして、おれたちは並んで部屋へと帰る道を歩いた。
 またあの中庭の見える廊下を通るのかな……。
 嫌だな、と心の中で思いながらも、ユユさんは確実に元来た道を辿ってるから、きっとあそこをまた通る羽目になるんだろう。
 知らず知らずのうちに進める足を鈍らせながらそれでも歩いていると、目の前から見覚えのあるふたり組が歩いてきた。
 ぴんと伸びた背中に流れる長い金の髪。その人物の一歩後ろを歩く大柄な男性。
 確か、名前は――

「コガネ隊長、ヤマト隊長、お疲れ様です」

 おれが思い出すよりも先に、ユユさんが答えを出した。立ち止まって前から来るふたりに頭を下げると、おれたちの目の前から退いて壁際に立った。
 ああ、おまえも、とシンプルに答える綺麗な顔立ちのその人が、確かコガネさんだ。コガネさんは、その名前がちょうど黄金と同じ発音で、しかも髪も金髪だから顔と名前が一致しやすい。レドさんやヴィルハートさん、ジィグンみたいに外国の響きのある名前じゃなくて、どこか和名のようにも聞こえて、親しみやすい名前だ。
 それに、コガネさんの獣人であるヤマトさんも同じく呼びやすい。ふと視線がかち合うと、小さくほほ笑んでくれた。おれはそれに慌てて小さく頭を下げて返す。

「風呂に入ってきたのか?」
「はい」

 コガネさんに問われ、おれは頷く。でも短く返事をしただけで、他に何も言えなかった。
 思わず下にずれていく視線。相手の目を見ず話すのは失礼だけど、どうしてもコガネさんの顔を見るのは難しい。
 初めて会ったときも思ったけど、コガネさんは本当に凄く綺麗な人なんだ。決して身体つきは女の人のように華奢でも丸みがあるわけでもなくて、細見ではあるけど骨ばった手とかはまぎれもなく男のものだ。顔だって、女性的だっていうより中性的な感じだ。そこだけ見れば、男と言われれば男に見えるし、反対に女だって言われたら女の人に見える。おまけにまつ毛はばさばさと音がしそうなくらい長いし、髪はさらさらしてて綺麗だし。肌も白くてすべすべてしてそうで。
 ……まあ、言ってしまえば耐性がないわけだ。
 岳里みたいな男前にならかっこいいとは思うけどドキドキするようなことはない。けど、男のコガネさんには失礼だけど、ここまで綺麗な人だと意識しなくてもドキドキする……。
 それにコガネさんにはどこか威圧感のようなものがあった。それは岳里や王さまなんかが持ってる、整いすぎた顔立ちの人特有のものだ。

「ところで、魔物の血の匂いがするんだけど、どうかしたのかな?」
「えっ」

 おれは思わず下げていた視線を上げて、ヤマトさんのほうを見た。
 魔物の血の匂いがすると、確かにヤマトさんは言った。あれだけ岳里も、おれも念入りに身体を洗ったのに、まだ臭うのか?
 おれの不安が顔に現れたのか、ヤマトさんは慌てた様子で首を振る。

「あ、おれね、狼の獣人だから鼻がいいんだ。だから、他の人では嗅ぎとれない匂いもわかるんだよ」
「おれはまったく、臭いなんてわからない。むしろ風呂上がりのいい匂いしかしないから、そう心配しなくていい」

 ヤマトさんの言葉に続き、コガネさんもフォローしてくれる。
 そういえばヤマトさんは獣人なんだっけ……こうしてみると、ジィグンもそうだけどヤマトさんも普通の人にしか見えない。獣人の人って、見た目じゃ区別つかないや。
 おれが不安そうな顔をしたばっかりにふたりに気を遣わせてしまった。

「すみません……」

 つい項垂れ、謝る。これじゃまた気を遣わせてしまうだなんてことはわかってたけど、かと言ってうまく気持ちを切り替えられない。
 そうやって俯いている間に頭上では視線という無言の会話が行われているとも知らず、おれはただ小さくなっていた。
 ふいに、岳里が話を元に戻す。

「今日、魔物とやらが現れた」
「――そうか、やはりな」

 その言葉を予想していたのか、大して驚くことなくコガネさんは頷いた。
 おれは顔を上げると、話題を変えた岳里に振り返る。するとちょうどおれに視線を向けようとしていた岳里とばちりと目が合ったけどすぐに向こうから背けられた。普段はおれから逸らすのに、岳里からなんて珍しい。
 そんなことを思っていると、コガネさんたちはいつの間にか隊長としての話をしていた。

「おれのところに連絡は来てませんが、コガネさんのほうは?」
「ああ、おれのとことにもない。恐らくアロゥのものもすり抜けたんだろう」
「これは今夜にでも召集がかけられそうですね……」

 すり抜けた、っていうのは、前に教えてもらった結界とか何とかのやつなんだろうか。
 でも勿論そんなことを聞ける雰囲気でもなく、ましてや口を挟めそうにもない。
 ただおれと岳里が二人のやりとりを見ていると、不意にコガネさんと目があった。

「――ヤマト、これ以上はここでする話ではない」

 すみません、とヤマトさんはコガネさんに頭を下げた。

「ユユ、おまえは現場にいたのか?」
「はい。わたくしが到着した際には既にジィグン副隊長が応戦していました」
「ジィグンとおまえで倒したのか?」

 不意に話を振られたユユさんは慌てることなく、尋ねられたことを正確に伝える。けれど、二度目の質問には言葉を詰まらせていた。
 どうした、と問うコガネさんの言葉に、観念したように、けれど躊躇いを残しながらユユさんは答える。

「わ、わたくしは参戦していません……魔物を退治したのは、ジィグン副隊長と、その……岳里さまです」
「岳里が?」

 驚いたふたりの視線が、一気に岳里へ向いた。

「そうか、だから君から特に強い血の臭いがするんだね……」

 唖然としたように口を小さく開けたヤマトさんは、どこか納得したように呟いた。
 コガネさんは少しの間だけ岳里を見つめただけで、すぐにユユさんに視線を戻す。けれど、さっきまでとは違い、どこか険のある目つきだ。

「ユユ、なぜおまえが戦わなかった」

 綺麗な顔には似つかわしくないその低い声に、思わずおれはびくっと身体が揺れる。けれどコガネさんは気がついてないようだ。ぎろりとした視線が、容赦なくユユさんを見る。

「申し訳、ありません……」

 小さな声で、悪くもないのに謝るユユさん。
 違う、戦わなかったんじゃない。戦えなかったんだ。岳里がユユさんの剣を勝手に抜き取って飛び出しただけで、ユユさんは悔しがってた。
 どうしてユユさんがその真実を言わないかわからないけど、このままコガネさんに勘違いされるのはいやだ。
 おれは、本当のことをコガネさんに伝えようと口を開く。けれど声を出すその前に、す、と岳里の手がおれに黙っていろと合図を送ってきた。
 どうして止めるんだ、と振り返ると、岳里はおれに代わって声を出した。

「違う。おれがそいつの剣を奪って勝手に飛び出したんだ」
「――剣を奪った? 本当か、ユユ」

 岳里の言葉を聞いて、ほんの少しだけコガネさんの鋭い眼光が和らぐ。
 問われてもユユさんは頷かなかったけど、今度はおれが代わりに声を上げた。

「ユユさんは悪くないですっ。岳里の言う通り、こいつが勝手に飛び出したんです」
「コガネさん、ふたりは嘘をついていません。早とちりはいけませんよ」

 続いたヤマトさんの言葉に、コガネさんは深く息を吐いた。そして一度自分の前髪を撫でる。

「――すまなかったな、ユユ」
「いっ、いえ、構いません。いくら武器を持たずとも、立ち向かわずに影に隠れていたのは事実です。今よりも、精進致します……」
「……おまえはまだ剣の腕前こそ未熟だが、その思慮深いところはいつかきっと素晴らしいものとなって返ってくるだろう。それを、おれも楽しみにしてる」

 はじめ、おれもユユさんと一緒に頭上にはてなを浮かべた。けれどすぐにぱっと目を見開くと、ユユさんは勢いよく、深く頭を下げた。

「はっ! ありがとうございます!」

 さっきとは打って変わってはずんだ声に、おれの頭上ははてなが増える一方だ。そんなに喜ぶようなところ、あったかな……?
 おれが心の中で首をかしげていることに気がついたのか、ヤマトさんが苦笑いしながらおれに説明をしてくれる。

「コガネさんは素直じゃないからね。期待してるって、遠まわしに言ったんだよ」
「――黙れ、ヤマト」

 ああ、なるほど。だからあんなにユユさんは嬉しそうだったんだ。確かに、上の人に期待してるって言われたら嬉しいよな。
 そうおれが納得するよりも早く、コガネさんがぎろりとヤマトさんを睨みあげた。それが照れ隠しだったなんて、まだコガネさんとそう接したことのないおれはわからず、美人は怒るとこわい……なんて内心びくつく。……いやいや、いくら綺麗だからって男に美人はないよな。
 とっさに浮かんだ言葉に、心の中で頭を振って否定する。けれどそれが妙にしっくりくるもんだから、やっぱり心の中限定でコガネさんのことは美人って呼んでしまおう、だなんて考えているうちに、ヤマトさんがよどみない笑顔で言葉を返していた。

「いいじゃないですか、これくらい。……おれの敵を増やそうとするコガネさんが悪いんです」
「ただ励ましただけでなぜそうなるんだ」
「ほら、無自覚じゃないですか」

 ヤマトさんとコガネさんのやりとりを傍から見ていたおれは、ふとあることに気がつく。
 壁際に立っておれと同じようにふたりを見ているユユさんが笑ってるんだ。微笑ましそうに。
 その笑い方に、おれは見覚えがあった。

「ヤマト、おまえな……」
「コガネさんはただでさえ魅力的な人なんですから、これ以上おれの悩みを増やさないでくださいよ」
「……はあ」

 コガネさんは呆れたようにヤマトさんから目を逸らし溜め息をつく。けれどそれに不快感はまったく見受けられない。
 ――あ、思い出した。
 あのユユさんの笑い方。いつものことですから、と言ってハヤテさんとジィグンの喧嘩を止めなかった時の笑顔と一緒なんだ。つまりこんな会話も、このふたりや周りにとってはいつものこと、なのかもしれない。
 そこでなんとなく、おれは悟ってしまう。というより、ハヤテさんとジィグンのふたりを思い出すと、あの衝撃的なシーンが関連して思い出されるといいうか、なんというか……とにかく、だ。この世界の恋愛事情とやらはおれたちの世界とは違う。
 ……えっと、だから、コガネさんたちは……。

「――なら、今からおれの代わりにおまえがユユから話を聞いておけ。おれが真司たちを部屋まで連れて行くから」
「はい、了解しました。ちゃんと真司たちを送った後は、寄り道せず戻ってきてくださいね」
「わかったわかった。行くぞ、真司、岳里」

 ため息混じりの返事を返しながら、コガネさんは歩き出した。岳里はすぐに反応して後に付いていき、おれも慌てて後を追う。

「それじゃあまたね、真司、岳里」

 後ろから、軽く手を挙げてヤマトさんが笑っていた。ユユさんも頭を下げて見送ってくれる。

「はいっ、また!」

 おれもふたりを追いかけながら手を振って、別れの言葉を笑顔で口にした。

 

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