薄らと目を開けると、真っ白な天井が映る。それに加えて、少し鼻につく薬品臭さを感じて、一度嗅いだことのあるその匂いに何故だかほっとした。
 頬に触れてみると、痛みはない。唇をなぞれば一度は噛んだはずのそこは荒れていなくて、それから見た掌も手首にも、なんの跡もない。もう片方の手を仕舞われた布団の中から取り出しても何もなく、もう一度潜り込ませて腹をさすれば痛くない。
 おれから見えるところはすべて、いつもと変わらない。でも。
 近くの窓から、どんよりした空が見えていた。そしてそれを眺めているうちに、ぽつぽつと窓を叩くものがあって、次第にそれは激しくなっていき、大雨に姿を変える。ざあざあと城の中にまでその音が微かに届くほどに激しい。それに紛れるように、おれは布団をずり上げその暗闇の中で息を殺した。
 それでも、漏れ出る声に、雨がもっと激しくなって隠してくれるよう願う。自分自身にも、届かないくらいに。

「――ぅ、っ」

 身体を仰向けから背中を浮かせて寝がえりを打たせば襲う激痛に、シーツを掴んで耐えた。けれど常に熱を持ちじくじくと痛むそこにそれだけで気を紛らわすことができるわけもなく、身をよじりたくなる衝動に駆られる。だけど、そうすれば今以上に苦しむのはわかってるから、ただ奥歯を噛みしめた。
 よくこの痛みを抱えて今まで眠れてたな、なんて思いながら、おれは壊れたように目から溢れる熱い涙を手の甲で雑に拭った。それでも、止まらずすぐにおれの顔を濡らしてしまう。鼻が湿り、啜れば粘着質な音がくぐもる布団の中に響く。
 身体の傷は、おれの見える範囲なら治ってた。でも、見なくても動かなくてもわかる下半身の痛みはおれにあれを夢だと思わせる隙すら与えさせない。ただただ現実を突きつけ、何度でも頭の中にあの時の恐怖を思い出させる。
 あれからどうなったのかはわからない。でも、おれは助け出してもらえたようで、今いるのは多分医務室だ。前にも一度世話になったことがある場所だから覚えてる。
 情けなくも震える肩を今度こそ抱きしめてやりながら、おれはひたすら叫び出したくなるような、暴れたいような衝動を押し付けて、声も殺して、狭い毛布の中だけで様々な痛みに耐える。
 不意に、扉ががちゃりと音を立てて開き、誰かが中に入ってきたのがわかった。無意識のうちに大きく跳ねた肩を押さえながら、こっちへ歩いてくる人物が誰かわからず息を詰める。毛布をめくればいいだけの話なのに、それがとてつもなく怖かった。誰かわかってしまうより、恐ろしかった。

「――真司、わたしよ。ミズキ。覚えているかしら?」

 そっと、降りかかるようにかけられた声に、おれはそっと息を吐いた。男のものと違って高く柔らかい声音に少しばかり心が落ち着く。
 ミズキは獣人の女の子だ。確か、十番隊の隊長だったはず。
 おれは布団を上げないまま、覚えてる、と答えた。それは思った以上にかすれていて、喉の痛みも癒えていないこと今になって知った。またひとつ名残を見つけて、じわりとその思いが目の縁から零れる。

「他、には……?」
「他には誰もいないわ。わたしだけよ」

 いい歳した男が泣いているなんて事実を知られないよう、せめて掠れる声が震えないように注意しながら尋ねれば、落ち着きのある声音で返される。
 今部屋にはおれとミズキしかいない。他には誰も。いつもおれの傍にいた岳里も今はいないんだ。それに対して無性に心が不安に思う反面、安堵もした。
 本当だったら、傍に、いてほしい。ただ隣に座ってくれてるだけでいい。でもいないでくれてよかったとも思ってる。こうして布団の中で怖がる情けない姿を、弱い姿を――男が男に襲われた、その事実を、見ないでほしい。知られたくもないけど、きっとそれは叶わないことなんだろう。

「ねえ、真司」

 顔を出さないおれに、ミズキは声をかけてくれる。そこにもまたおれの中に矛盾が生まれた。誰かにそこにいてもらいたいと思うのに、誰もおれに構わないでほしいなんていう横暴さ。
 きっと、ミズキも知ってるんだろう。おれに起きたこと。知ってるから、こうして気を使ってくれてるんだろう。
 呼ばれたからには返事をしたいのに、口を開いてもそこから声が出ない。喉が引くつき、溢れそうになるのはみじめに濡れる嗚咽ばかり。答えられたくても答えられず、おれはそのまま唇を噛みしめた。

「確か真司は猫が好きでしょう? この城で飼っているネーラ、知ってるわよね。あの子がこの部屋に入りたがってるの。入れてあげてもいいかしら」
「……ん」

 ネーラと、その名前を聞いたおれは、無意識のうちに短い返事をしていた。ありがとうと優しげなその笑顔が想像できるような色を言葉に滲ませながら、ミズキの足音が離れていくのを聞く。
 少し離れた場所で扉が開き、そして閉じられる音が聞こえたほんの少しあと、たん、と布団の上に軽やかに乗る重みを感じた。たぶん、ネーラだ。
 にゃあ、という鳴き声に呼ばれ、おれはおずおずと顔を出す。するとすぐそこにネーラの顔があって、まん丸い瞳がおれを見つめていた。
 ネーラ、と名前を呼ぶと、一鳴きしてからおれの顔へ身体を擦りつけてきた。くすぐったいと思いながらもその体温が心地よくて。知らず知らずのうちに冷たくなっていたおれの手を差し出すと、今度はそこへ身体をなすりつける柔らかい毛が気持ちよくて、気づけばおれは小さく笑っていた。いつの間にか涙も止まり、随分と穏やかな気持ちでネーラを見つめる。
 しばらくふわふわとした真っ黒な身体を眺めていると、ふとミズキがいないことに気がついた。視線を扉がある奥へ移してもそこに人影はない。
 ――気を、遣ってくれたんだろうか。
 正直申し訳ないと思いながらも、ありがたかった。

「おいで、ネーラ」

 毛布を持ち上げると、ネーラは素直に中へ入ってきた。そしておれの腹の辺りで何度かくるくる回ってから寝そべる。長い尻尾がたしたしと下を叩く。
 上げていた毛布を下げて、おれは中にいるネーラの身体を撫でた。温かい身体はじわりじわりと熱を移してくれる。
 そのぬくもりは、やっぱり昔飼っていたルナと似ていて、ひどく懐かしい気持ちになった。少し、感傷にひたってるのかもしれない。止まったはずの涙がまたぽろりと、目尻から流れた。
 何をしなくても感じる痛みは瞬きの間すら忘れることを許さない。ほんの僅かでも身動きすれば突き抜けるその苦痛に、いやでもあの時が思い浮かんだ。今でも聞こえてくるようだ。あの男たちの笑い声が。
 なんで、こんなことになったんだろ。なんで、この世界におれはいるんだろ。
 沢山の疑問がおれの中を巡っても、その答えはわからない。ただただ謎ばっかが積み重なって、不安定にぐらぐら揺れて、今でも倒れてしまいそうだ。それが倒れたら、もう何もかもが駄目になるような気がした。
 ――この世界に来て、おれは頑張ると決めた。前を向いて岳里と一緒に帰るために。早く兄ちゃんに会うために。
 この世界のみんなは異世界の人間というおれたちに良くしてくれて、優しい。おれは情けなくて何度も崩れそうになったけど、その度に周りの人たちが、岳里が、支えてくれた。だからやっていけたし、これからもきっと大丈夫だと思った。
 でも――今回のことについては、どうすればいい? どうすれば、また前を向けるようになる?
 頑張ると、そう決めたんだ。元の世界に帰るためにおれはおれのできることをして、現実を見て進もうって。けど、どうしても見たくない現実と、どう向き合えっていうんだ。どうこの事実を受け入れろっていうんだ。
 全身をがちがちにかためる戦慄は終わりを見せずに、痛む熱はまた眠ってしまうことすら許さずに、起きた現実にただただ泣いて。おれは、どうすればいい。
 堪え切れずに上げる嗚咽を認めたくなくて、拳を強く握り奥歯を噛みしめたその時、もぞもぞと毛布が動いた。

「にゃあ」
「ネー、ラ……っ」

 ちょこんと、小さな頭を毛布の中から出したネーラは一鳴きすると、おれの顔にその小さな鼻面を寄せて、涙で濡れる目元に舌を這わした。ざらざらとした小さな突起が並ぶ特徴的な猫の舌は、まるで明確な意思を持って涙を舐めているようだ。
 堪らずおれは腕を伸ばし、ネーラを抱きしめた。逃げられるかもしれないと思ったけど、ネーラは大人しく抱かれ、顔だけを伸ばし今度は顎をさりさりと舐める。それがおれの心へ何かを与え、弱さを吐き出させる。

「帰りたい、帰りたいよ、ネーラ……もう、いやだ――――」

 ネーラはただ静かに、おれの止まらない涙を掬ってくれた。
 ――それから、どれぐらい経っただろう。泣きすぎて腫れぼったい目を擦りながら、ぼうっとした頭で傍らで丸くなり眠るネーラを撫でながら、窓の外を見る。相変わらずどんよりとした雲が空を覆っていたけど、どうやら雨はやんだみたいだ。
 おれは泣いた名残の湿った鼻をすすりながら、小さく身動きしたネーラに視線を戻す。ぴくぴくと動く耳を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
 ――動物の力は偉大だって、いつも思う。ただ触れてるだけで、そのあったかさが伝わってくるようで、何をされたでもないのにほっとする。
 ネーラの寝息を聞き、腹が上下する姿を眺めていると、控え目に扉がノックされた。顎下を撫でていた手をぴたりととめ、無意識に早くなる胸に、止まったはずの身体の震えが蘇る。

「――おれだ」

 返事ができずに身動けずにいると、扉の外から言葉が先に部屋に入り込む。その声に、目の前が暗くなるような錯覚が起きた。
 名前を出さないその態度も、声も、まさしく岳里のもの。扉を隔てた先にいるのは、岳里だ。
 会いたくない。そう、思った。会いたいけど、会いたくない。矛盾した気持ちが心の中でぶつかり合い、答えを出すことができずにおれは黙ってしまう。
 音に目を覚ましたネーラが顔を上げ、おれの顔を見つめる。それからふい、と視線を逸らすと、ベッドの上から降りてしまった。そのままネーラは扉のほうへ向かい、かりかりとそこを引っ掻く。
 出たがる素振りを見せるネーラの行動が後押しし、一度詰めていた息を吐いてから、それから返事をする。

「――いいよ」

 応えてから、すぐに扉は開く。その隙間からネーラはさっさと身体を滑らし出て行ってしまった。それからネーラと代わるように入ってきた岳里を見て、また泣きたいような気持ちが膨れ上がる。
 現れた岳里はいつもと変わらなかった。相変わらず無表情で、何を考えてるかわからない顔をしてる。それに凄くおれは安心して、だから弱くなってしまいそうになる。
 岳里は何も言わず近くの椅子を引き寄せると、おれが横になるベッドの隣へ腰掛けた。

「身体の傷は、セイミアが治癒術で治した」
「……ああ」

 淡々と告げられる岳里の言葉に、おれはこれまでネーラが丸くなっていたところに置いた自分の手を見つめながら、なるべく岳里と目を合わせないようにする。
 けれど、岳里はおれをじっと見る。いつものように。あんまりに真っ直ぐおれを見てるから、まるで治された傷しか知らないんじゃないかって、そんな希望を無意識のうちにおれは抱いていた。
 ただ暴力を受けただけ。殴られ、蹴られただけ。そう岳里が思ってくれてるなら、おれはどんなに救われるだろうか。
 でも、現実はどこまでも酷だ。

「――だが、臀部の傷は、治せないそうだ。治癒術をかけた箇所は一時的ではあるが皮膚がかたくなるらしい。そうなれば排便が困難になるから、自然治癒に任せるしかないそうだ」
「……わか、った」

 岳里は今どんな気持ちで、それを告げてるんだろうか。
 じくじくとうねる痛みは、治したくとも治せない傷。殴られた頬や腹よりも消えてほしいそればかりが残る。
 現実は現実だ。この世界にいることも現実で、治癒術もまた現実に存在してる。だからこそそれは便利というばかりではなくて、治せない傷も存在するわけだ。それが皮肉にも、今もおれを苦しめる熱で。これからも続く苦しみで。
 布団の影に隠れ唇を噛みしめるおれに、不意に岳里が手を伸ばしてきた。いつも突然な岳里の行動に、それが起きる度におれは驚いていたけど、今は違う。

「――っ」

 岳里の手が傍まで来ていると気づいた途端に、おれは息を飲み大きく肩を震わせた。それを知った手は宙で止まり、きゅっと拳を握る。岳里はかすかに眉をしかめた。

「あ……ご、ごめんっ、そんなつもりじゃ……おれはっ、ぅ……」

 無意識のうちに自分がした反応に、おれは顔を青くする。
 岳里を、岳里の手を拒否するつもりなんてなかった。なのに勝手に反応した身体に、それを見た岳里の顔に、嫌でも自分の身に起きたことを再確認した気になる。
 それを否定したってどうしようもないけど、でも岳里を拒否したと勘違いされたくなくて、咄嗟に身体を起こそうとした。けれど下半身を中心に息が詰むほどの衝撃を感じ、すぐにまた伏せてしまう。
 俯いた体制になり、岳里の顔が見えなくなり。おれはどうすればいいのかますますわからなくなって、シーツを握りしめた。
 寒くないのに、怖くないのに、拳を作るそこはぶるぶる震える。巻き込んだシーツが冷たく感じられて、おれの手首を掴んで走ったあの時の緑頭の男を思い出してしまう。そして青髪の嘲笑う声に、赤毛の拳に――
 はっ、はっ、と短く上がる呼吸に、じわりとシーツを握る掌が汗を掻く。額にも滲み、首筋にも、背中にも。自分の身体なのにどうしようもできなくて、目の前がちかちがした。全身から血の気が失せていき、指先の感覚がなくなっていく。
 ――怖い、怖い怖い怖い。いやだ、痛い。怖い助けて。助けて、――
 じわりと視界が濡れた、その時。おれの冷たくかたくなった手に重なるあったかくて大きな手があった。

「真司」
「いやだっ……!」

 咄嗟に振り払おうとしても、その力以上に強く抑えつけられ、そのままおれの手を握り込む。じわじわとその熱がおれへと移り、掌のシーツごと温めていく。
 けれど、おれを苦しめるものは止まらない。
 訳もわからず抵抗した。上にかけていた布団が大きくめくれる。感じる痛みにも大声を上げたくなりながら、それでも今すぐ逃げたくて。でも、どんなにおれが暴れても手は離れていかない。
 そっと、頬にも添えられる温かい手。その手は、導くようにおれの視線を前へと向けさせる。

「真司、落ち着け。ここにいるのはおれだ」
「――がく、り……」
「そうだ。おれと、おまえだけだ」

 視界には岳里しかいなかった。頬に触れる手も、おれの手に触れるのも、目の前にいるのも。全部岳里だ。岳里だけだ。
 椅子に下ろしていたはずの腰を上げ、中腰の状態でおれの顔を見つめいる。いつもと変わらないように見える表情。けれどそこは、確かに今苦しんでるように見えた。
 抵抗をやめたおれの身体から、そっと岳里が離れていく。熱が離れて冷える手は、すぐにそれを追っていた。

「岳里、がくり……」

 おれは身体をベッドから乗り出し、離れようとする岳里の胸に飛び込む。
さすがにその行動を予想していなかったのか、岳里はおれを胸に抱いたまま椅子から転げてその場に尻もちをついた。けれどおれはそんなこと気にかけることもできずに、ただ岳里を呼び続け、その胸に顔をうずめる。
 肩に置かれた手から、またそのぬくもりが伝わり広まる。ゆっくりと、強張る身体から力が抜けていく。怯えていた心が溶かされて、残った悲しみがおれの思考を奪う。
 ネーラに吐きだしたはずの気持ちがまたこみ上げて、何度でもおれを苦しめる。自分の感情が制御できなくて、不安定なまでに高ぶって、どうすればいいのかわからない。
 今はただ、岳里を感じたかった。岳里はここにいるって、確かめ続けたかった。
 みじめに響くおれ自身の泣き声に、痛みに。おれは、無意識のうちに岳里へ救いを求めていたんだ。
 応えるように背中に回る手。やっぱり温かなその手に触れられて、耐えられるものはない。
 やっぱりおれは弱い。どうしてこんなに。ただ、痛い目に遭った、それだけだ。なのにどうして。女じゃあるまいし、そんなに苦しむことじゃないのに。なのに、胸が痛い。
 強くなりたいと思うのにいつまでもおれは弱いままで。おれは、初めてこの世界に来た時のままだ。何も変わってない。岳里の強さに甘えるばっかで、何も。
 はぁ、と詰めた息をそっと吐き出せば、一緒に頬に伝うものがあった。ぐずぐずと何度泣いてもなおも零れるそれに、ますます悔しさがおれを苛む。さっさと枯れてしまえ。そう思うのに、次々に溢れては目の前の服を湿らしてしまう。
 このままじゃ駄目だ。唇を噛みながら岳里の胸から顔を上げようとすると、背中に回されていた片手がぐっとおれの頭を掴みそこへ押し戻した。思わず胸板についた耳から聞こえる岳里の心臓の音に、その力強さに、力は抜けていく。
 頭に触れた手はそのまま髪を梳いた。その心地よさに、おれは完全に岳里に身体を預ける。

「すべて吐きだせ」

 頭の上から空気を伝うのと、胸から直接岳里の身体を響き届く声に、目を閉じる。

「たまったのならその分また出せばいい。何度繰り返そうが、それは弱さでない。当然のことだ。苦しむということは、それだけ強い証だ」

 岳里の言葉は時々難しい。苦しむのは弱いからなのに、なのに岳里はそれを強さだっていう。
 わかんない、と素直に声を出せば、岳里の手はうなじ辺りを撫でた。

「わからなくていい。おまえが知ればいいのはひとつだけだ。――ため込むな。辛いのならおれを頼れ。おれを使え」

 言いながら耳に触れ、頬を撫で、また髪を梳く。
 岳里の手に、あったかい体温に、嘘の混じらないその力強く響く言葉に。

「――こわ、かった……岳里、おれすごく、こわくて、痛くて、もう……」

 本当は奥底にしまおうとしていた、一人で抱えようとしていた気持ちを、気づけばもらしていた。
 この世界をおれは嫌いになりたくない。みんな、いい人だから。王さまだって偉い人なのにおれを気にかけてくれるし、レードゥやヴィルハート、ネルやジィグンや、コガネとヤマト、アロゥに、ミズキに――他にも兵士の人も、みんな優しくていい人だ。中にはおれたちの存在をよく思っていない人がいることも知ってる。アヴィルがおれに寄越す眼差しの意味を知らないわけでもない。でも、あれはこの世界が好きだからだ。だから、その安定を揺さぶる可能性があるおれたちを信用できないんだ。だから少しずつ理解してもらえれば仲良くなれるんじゃないかって思った。
 連れて行ってもらった町も賑やかで、みんな楽しそうだった。生き生きと飛び交う呼びこみの声に、会話に、おいしかったバラナンの実のジュースに、ひとつひとつを丁寧に教えてくれたレードゥに。相変わらず表情を変えない岳里の隣を歩きながら、おれも、楽しかった。
 少しずつ見えてくるこの世界。どこかおれたちと似通う部分があって、それを見つけりするのは案外楽しかった。そうやってちょっとずつ、好きになっていってたんだ。
 なのに今回のことだけで全てを否定したくなった。もといたおれたちの世界が懐かしくて、恋しくて、抑えていた気持ちが膨れ上がって。
 向こうに辛いことがないわけじゃない。むしろ、長く暮らしていた分悲しんだ量は遥かにもといた世界のほうがあった。でも向こうには兄ちゃんがいて、いつもおれを待っててくれてて。それだけで十分で。
 この世界のこと、嫌いじゃない。どっちかっていうと好きだったと思う。でも、あの時を思い出す度にこの世界が、ディザイア自体が怖くなっていく。
 ごちゃごちゃとまとまらない思考のまま、ぽつりぽつりとそれを岳里に伝えた。震える声に、抑えきれない嗚咽に、決して聞きとりやすくはなかっただろう。でも岳里はおれを胸に抱いたまま黙って話を聞いてくれた。言葉に詰まる度、そっと身体を撫でてくれた。
 すべてを言い終えると、岳里は、そうか、と応える。そして、何度もつまづくおれに呆れもせず、見放しもせず、示してくれた。進むべき道へと、導いてくれた。

「ならば、もっと見いだせばいい。この世界を愛せるようなものを。まだ元の世界には帰れない。それなのにこの世界を嫌っては苦しいだけだ。だから今よりも多くの好きになれるものを見つければいい。おれも手伝う」

 どうすればいいのかわからないおれに、岳里は簡単に答えをくれる。それはすんなりおれの胸に収まっていった。
 岳里の言う通りだ。嫌いになりそうなら、もっともっと沢山この世界のいいところを、好きなところを見つければいい。今回のことが埋もれるぐらいに、いっぱい。
 そんな、単純なことだったんだ。
 未だにじくじくと痛むそこに顔をしかめたくなりながら、でもおれはいつの間にか笑ってた。悲しい気持ちはある。苦しい気持ちも、悔しい気持ちも。でもそれ以上におれの心を穏やかにする何かが胸の中に広まって、気づけば自然と笑みがこぼれてた。
 この世界に兄ちゃんはいない。いつもおれを助けてくれてた兄ちゃんはいないんだ。けど岳里がいてくれた。岳里がおれを支えてくれる。おれの進むべき道がわからなくなったら、岳里が示してくれる。毒がたまったら吐き出させてくれる。そんな強くて頼りになる岳里と、この世界は引き合わせてくれたんだ。教えてもらわなきゃきっとおれは、もといた世界でずっと岳里と接点がないまま、この優しさを知らないまま、交わることなく過ごしていっただろう。
 早速この世界の愛すべきものが見つかったのが嬉しかった。嬉しくて、安心できて、落ち着いた感情に涙も止まる。
 岳里はおれに起きたことを否定もしなければ、慰めもしなかった。けれど話は聞いて、そうやっておれ自身にその事実を認めさせて、感じる痛みだったり、拭えない恐怖心だったり、それごと全部を受け止めてくれた。それがとてつもないことのように思えて、嬉しくて。

「岳里、あんがと。おれいっぱい見つけるよ、この世界のいいとこ。岳里が手伝ってくれんだから、きっとディザイアを大好きになれると思う」

 取り戻したおれの言葉で、おれの思いを口にする。
 まだ涙に濡れたままの顔で岳里を見上げた。すると岳里の手が頬に移って、親指でぐっとその痕を拭ってくれる。両方の目元をなぞってからおれの目を見た岳里は小さく笑った。整った顔のそれは、自然なそれは、おれを苦しめるものとはまったく違う感情で胸を締め付ける。でもそれに痛みは伴わなくて、説明しがたい心地よさがあった。
 おれは岳里の胸にまた顔をうずめて目をつむる。すぐに眠気が襲い、岳里に断るよりも早く気を失うようにおれは眠りについた。

 

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