「ぐう……よもや岳里がここまでの策士であったとは思わんかったわ」
「ははは、やっぱ気づいてないと思ったんだよ。完全なる岳里の勝利だな、こりゃ」

 悔しそうにしながら土ぼこりを払うヴィルは、唇を尖らせた。それに追い打ちをかけるように、レードゥは岳里をさっきから褒めまくる。
 おかげで岳里はヴィルから嫉妬の眼差しを受けていた。
 勝敗の行方を左右したのは、岳里がヴィルに一本取られた後に地面につけた、木刀のめり込んだ跡だった。間合いを空けようとヴィルが動いた先にその溝があって、それに気付かなかったヴィルはそこへ足をとられてバランスを崩し、転倒。そして岳里に一本取られた、っていうわけだ。
 レードゥが言ってた気づくか気づかないか、ってのはこれのことだったらしい。おれはその存在すら忘れてて、ヴィルが倒れた時には本当に驚いた。
 はじめから岳里はあれを狙ってたのか? おれには偶然できた溝だとでも思ってたけど、岳里ならそれもありえなくはない。
 それに、岳里が策士と呼ばれるのは他にも理由があった。最後の岳里の連撃のはじめになった時の一振りだ。
 あのとき岳里はヴィルの頭を狙った。だから、簡単に仰け反られて避けられてしまったんだ。普通ならあの時点で狙うならむしろ頭から下らしい。そこを狙われては岳里の使った大剣の特徴のひとつでもある、長い刀身からは逃げるのは容易じゃない。それこそその時点で転びでもしなければ避けるのは難しかったらしいんだけど、でも岳里はあえて頭を狙ったんだ。
 岳里の予想通りヴィルは仰け反って刃から逃げた。そしてそこへ、追撃して体制を崩させると同時に余裕をはがして、焦らせた上であの溝へ誘った、というわけらしい。
 おれは改めて今隣に立つ男の凄さを知った。

「にしてもおまえ本当汚くなったな。岳里を見てみろ、土ぼこりなんざひとつもついてないぞ」
「うっ、しかたあるまい。わしは右手を封じられていたのだぞ? もう片方は剣を持ち、ならば避けるには転がったほうが早かったのだ……」

 確かに岳里は汚れてなかった。汗こそ滴りそうなぐらいには掻いているけど、そりゃあんなでっかいものぶんぶん振り回してたわけだし、当然だ。いくら岳里だからって、これで汗のひとつも掻かなければそれこそ本当に異常でしかない。
 一方のヴィルは髪にまで土をくっつけていた。ごろごろと転がったりなんだりした結果がそこに出てる。けれどヴィルの言った通り、片手が封じられてしかもバランスも悪くなってたんだし、仕方ないことなんだと思う。
 もちろん、そんなことはおれなんかよりもレードゥのほうがわかってるはずだ。

「まあ、最後まで右手を使わなったのだけは偉いな」
「であろう! 同じく剣士であるおぬしならば、あの本気の衝動がどれほど耐えがたいものかわかるだろう!?」
「ちょ、近い。寄るな」

 両手を前に出して接触を拒むレードゥに、ヴィルは近づきたそうにうずうずと身体を揺らしたけど、けれど結局は諦めて大人しくその隣に立つという妥協を見せていた。
 ――本気の衝動、っていうのは、本気を出したかったってことだろうな。それぐらい岳里は凄かったんだ。
 結果は岳里の勝利ではあるけど、それはあくまでヴィルにかなりの制限があったからだ。たぶん、せめてヴィルから攻撃していい状況だったら、全然結果は違ったんだろうな。
 それでもやっぱり技術やなんだらはヴィルのほうが勝ってたわけで、それなのに素人の岳里が勝てたのは奇跡なんだと思う。

「そう悔しがるなって、ヴィル。おまえも十分健闘したよ……」
「ぬっ、いくらわしが敗れたとて、健闘したというわれるのはおかしくはないか!?」
「おまえめんどくさい……」

 言い争うふたりから視線をそらし、おれは隣の岳里を見上げた。
 決着がついた頃にはまだ荒かった息も整ったみたいで、相変わらずの無表情で目の前のレードゥとヴィルの言い争いを眺めている。けれどおれの視線に気がついたみたいで、振り返ったやつと視線が合う。

「なんだ」

 形のいい唇から程良い響きある声を出しながらそう問う岳里に、おれは言葉で答える代わりにその顔へ腕を伸ばした。
 岳里は予想通り逃げることなく、おれの行動を眺めている。

「――汗、すごいな」

 そう呟いてから、袖で未だ首筋を湿らせていた岳里の汗を拭ってやった。乾くのを待ってたら風邪ひいちゃいそうで、少し心配だ。
 さすがにこの行動には驚いたのか、岳里は僅かに肩を揺らした。けれど、すぐにおれが手を離したからか、それ以上の反応は示さない。

「岳里って、部活なんかやってたっけ?」
「いや、なにも」
「なんかここまですごいのに、もったいないな。なんでやらなかったんだ?」

 本当は、岳里が部活に入ってなかったのを、おれは知ってる。同じクラスだったんだし知っててもなにも問題ないんだけど。なんとなく、クッションが欲しかったから。
 岳里は部活に所属せず、いつも学校が終わればすぐに帰宅してしまうようなやつだった。けれど計算したうえでヴィルに勝利してしまうこの頭と、それだけの実力に目をつけない部活はないわけで。時々試合なんかのピンチヒッターを頼まれている姿も何度も見ている。
 はっきり言って岳里は協調性のないやつだから、例え泣きながら拝み倒されお願いされてもその申し出を受け入れることはしないんだけど、唯一、そんな鬼のような岳里を頷かせる方法がある。それが、餌でつろう作戦だ。
 もし何か岳里に頼みたいのなら、大量の貢物、つまりは食料を渡せば頷いてくれるってわけだ。……今思えば、岳里ってとっくに大食いだったんだな。

「――そういうおまえこそ、なぜ部活に入らなかったんだ」

 好き勝手に岳里の答えを想像したおれは、めんどくさいに一票を投じていたけど、逆にそう切り返されて返事に困った。
 岳里の言うように、おれも部活には入ってない。その理由は単純で、ただ家事に追われていたから。
 おれは両親が早くに亡くなってから、仕事で忙しい兄ちゃんの代わりに家事を担うことを自分から選んだ。兄ちゃんが父さんの代わりに頑張るなら、おれは母さんの代わりに頑張ろうって、決めたんだ。だから放課後は学校帰りの買い出しに、洗濯物をこんで畳んで夕飯作って、スーツなんかにアイロンかけて……日中できない分の仕事をやるから、結構忙しい。だから、やる暇なんかなかった。だから友達の遊ぶこともそうそうない。
 でもそれに不満を覚えたことは一度もない。だって、自分からやるって決めたんだから。それに兄ちゃんがいつもありがとうっていう言葉を決して忘れないでいてくれるから、だからおれもやってける。
 またも兄ちゃんのことを思い出して、悲しくなった。
 もう何日も家を空けてしまってる。仕事に追われる兄ちゃんが家のことに完全に手が回るわけもなく、きっと困ってるだろう。

「なんとなく、入りたい部活がなかったからさ」

 このままじゃ兄ちゃんのことばかりに頭が向かうと思って、おれは心の中で頭を振った。
 思えば思うほど悲しくて、苦しい気持ちになる。決して兄ちゃんのことを今だけでも忘れる、っていうわけじゃなくて、考えるのは今すべきじゃないからだ。
 逸らしていた視線を岳里へ向ければ、おれを見ていた。
 岳里はいつもまっすぐに人の顔を見てる。じっと、射抜くように。なんで恥ずかしげもなく、こんなことができるんだろう。
 耐えきれなくなったおれのほうから視線を逸らしたところで、レードゥとヴィルがおれたちを呼んでいた。
 それに助けを求めるような気持ちで、おれはふたりのもとへ歩いてく。すると、岳里も後をついてきた。
 ――そういえば、なんで岳里はおれが部活に入ってないこと知ってたんだろ? 同じクラスだからって、この世界に来た時には、おれの名前も知らなかったのに。
 けどその疑問を聞く気にもなれず、おれが振り返ることはなかった。

 

 

 

 おれたちはその後、本来の目的であったらしいこの世界の遊びをレードゥたちに教えてもらって大いに楽しんだ。というのも、サッカーのようなボールを追いかける遊びで、この世界ではキッカールっていうそうだ。
 四人だけで布をかたく丸めたものを奪い合うだけで、シュートとかそんなものはなかったけど十分それでも楽しかった。サッカーボールのような弾みはなくて。本当に蹴った分の力だけしか進まない布の球を転がすには案外力がいる。けれど逆にそれが有り余っていたおれの体力にはちょうど良くて、全力で蹴れるっていうのも案外心地よかった。それに、布だから下手な当たり方をしてもそんなに痛くないのがいい。
 頭を使うならチェギ、身体を動かすならキッカールというぐらいに、これもこの世界の人たちは幼い頃から慣れ親しんでいる遊びらしい。だからかレードゥは上手くて、大人げのない相手におれは何度もボールを取られた。けれどそれを岳里が奪え返しおれに回してきたりして、誰かが球を独占することなく、上手い具合に巡ってく。
 そして意外なことにヴィルはキッカールが下手だった。ボールを蹴ろうとして空ぶりしてその勢いにつられてこけたり、蹴れたはいいが余りに力み過ぎて遠くへ飛ばし過ぎたり。それがまたおもしろかったりはしたんだけど、本人はいたって本気らしく、なんで思ったようにいかないのか不思議なんだと頭を悩ましていた。
 そんな風に、今度はおれもレードゥも混ざって汗だくになりながらはしゃぎまくった。球を追うのに夢中になって、頭の中の占めていた兄ちゃんの困った顔も霞む。岳里へのもんもんとした疑問もいつのまにか吹き飛んでいた。
 そうして日が暮れはじめるまでどっぷりと動きまわったおれたちは、そのまま風呂へ向かうことになった。
 おれたちが貸してもらう王さまの浴場までレードゥたちに案内してもらって、ふたりも風呂に入るからと元来た道を戻いく。去り際に、帰りは他のやつを寄越すからと言ってった。
 脱衣所に向かい、相変わらず裸になるのが早い岳里はするすると服を籠の中へ脱ぎ捨てると、腰に布を巻いて中へ向かう。おれは岳里が去った後に脱いだままの形で放られた服を畳んで、改めて籠の中へ仕舞った。それから自分の服も脱ぎ、隣にあるもうひとつの籠へそれも畳んで置く。
 あまりに毎回岳里がぐちゃぐちゃのまま籠に放るもんだから、どうしても気になるんだ。おれたちの脱いだ服は風呂からあがった時にはなくなっていて、代わりに新しい服が用意されている。つまりは誰かがそれをしてくれているわけで、それなのに雑に脱いだ服を置いておくのはどうしても申し訳なく思った。でも言ったからって岳里はやりそうにないから、だったらおれがって、岳里の分もまとめて畳んでる。
 小さな仕事を終えて、おれも浴室内に入った。
互いに全身を洗い終えて、いつものように身体を並べておれたちは湯船に浸かった。
 汗でべたついた身体もさっぱりたし、湯船の少し熱いくらいの温度がいい感じだ。腕を上げて身体を伸ばすと尚更気持ちいい。
 やっぱ運動した後の風呂は最高だな、なんてことを考えていると、ふとあの時のことを思い出す。
 隣の岳里へ視線を向けてみれば、いつもしてるように、体制を崩して口元まで湯に浸かってた。それに構わず、おれは尋ねる。

「岳里、あの時――手合わせするって決める前に、ヴィルに何言われたんだ?」

 はじめはやらないと答えてた岳里が、ヴィルに耳元でささやかれて急に意見を変えた。つまり理由はヴィルの言葉にあるわけで、単純に気になったんだ。
 ――あのとき岳里、結構酷い顔したっけ。なんか強張ったような、少し怒ったような、そんな、見たことのない表情を。ヴィルを睨んだ目が怖いように思えたのは、おれだけだったんだろうか。
 ちゃぷんと音を立てて岳里は身体をずりあがらせた。晒された口から答えを言う。

「別に。ただ、臆病者と言われただけだ」
「……へえ、案外岳里も負けず嫌いなんだな」

 淡々とした声音に、おれは意味もなく笑顔を浮かべた。
 臆病者。確かにそう言われたら黙っていられないかもしれないけど、でも、岳里がその一言で動くとも思えなかった。岳里なら、周りの目なんて気にしない。たとえ臆病者と言われてもそんなの言わせておけって態度をとりそうなのに。
 けれどそう答えたってことは、そういうことなんだろうな。言いたくないのに無理に聞き出すなんて気は起きずに、おれはそれが事実だったんだって受け止める。
 上っ面だけの平たい笑顔のまま、おれはもうひとつ、気になったことを岳里へ尋ねた。

「岳里はさ、今回も怖くなかった? ヴィルの手合わせすること」

 手加減されているとはいえ、向こうは本物の剣士で、いくら岳里が凄かろうが所詮は素人で。そんな言葉を付け加えなくても岳里には通じるって知ってて、おれはあえて声には出さず心の中で呟いた。
 自分で口に出しながら思い出すのは、はじめて岳里が剣を握った姿。以前――なんていってもたった四日前の、魔物が襲撃したあの夜。岳里はジィグンに手を貸すためその凶器を手にした。躊躇いもなく、恐怖もなく、あの化け物みたいなやつの前に立ちはばかった。あの時の岳里は恐れを否定した。
 その時みたいに、怖くなかったんだろうか。

「――べつに」

 さっきの答えよりもさらに素っ気なく、岳里はそう呟くように返すとまた口元まで湯に浸かってしまった。
 これ以上は答えるつもりはない、っていう合図なのか。そう受け取れる意思表示をされたからにはおれもそれ以上は何も言えなくなった。
 岳里の真似をし、おれも口元まで沈む。

『――おれは強いわけではないし、勇敢でもない。けど、おれにそれを与えてくれるやつがいるから、おれは強くなれるんだ』

 あの時は一緒になってそう返ってきた。岳里が強くいれるのは、その“それを与えてくれるやつ”がいるから。
 おれも、おれにも、そんな相手ができたら。岳里とまではいかなくても、おれも強い人になれるんだろうか。誰かに憧れてもらえるような、後姿を持てるんだろうか。
 おれは決して非力なわけじゃない。だから弱くはないはず。でも、おれこそが臆病者だ。岳里と比べるほうが間違えてるってのはわかるけど、おれは剣が怖かった。あの鈍く光る刃が恐ろしくてたまらなかった。ぞっとしたんだ。
 本当は、心の底に突き刺さる一言がある。

『こいつらの世界には剣はいらなかったんだ、なのに教え込む必要はない』

 岳里がヴィルの申し出を受け入れた時、それを反対したレードゥが言った言葉だ。
 おれたちの世界には、正確にはおれたちの住んでいた国には少なくとも武器はいらなかった。平和だったんだ。でもこの世界、ディザイアは違う。周りには魔物がいる。ここはひとつの国で、この国を守る隊長がいて、その下にも大勢の兵士がいる。戦ってる人がいる。
 この世界には武器が必要なんだ。おれたちの世界ではいらなくても、この世界では重要なもの。
 もとの世界に帰れる保証はない。もしかしたら一生をこの世界で生きることになるかもしれない。そんな時おれには、何ができるんだろ。この世界に必要なものを怖がって怯える情けないおれは、どう生きていけばいいんだろう。
 ――これ以上は考えたくなくて、おれはずるずると腰を滑らせて頭まで湯船にどっぷりと浸かった。

 

 

 

 風呂からあがると、そこにはジィグンがいた。
 脱衣所から出たおれたちと目が合うと、片手を上げて出迎えてくれた。いつものように、人のよさげな笑顔が浮かんでる。それを見ると少し安心する気がした。
 いつものように先をジィグンが歩き、その後をおれたちがついていく。それはどの人に案内される時も変わらない。だから必然的におれは誰かの背中を眺めながら歩いた。
 おれよりも背が低いジィグンだけど、その体つきはがっちりしていてやっぱり鍛えている人の姿だ。今まで気にしてなかったから気づかなかったけど、その耳にはコハク色をした小さな玉のピアスがついてる。確か、副隊長にも王様から剣が与えられているわけだから、それも本当の姿は飾りものなんかじゃなくて、武器なんだろう。魔物が襲ってきた時にジィグンが手にしてたのは剣だったけな。

「そういや岳里、おまえ今日ヴィル隊長と手合わせして勝っちまったんだって?」

 おれの考えを見抜いたかのようなジィグンの言葉だったけど、おれはその可能性にすぐに首を振る。
 ジィグンはおれたちの迎えをヴィルたちに頼まれたんだから、その時話したんだろうな。それにその手合わせの結果がヴィルでなくて岳里だったんだ、興味持たないはずがない。
 おれの予想通りジィグンは粗方あのふたりから聞いてたらしくて、いくらヴィルに制限をつけたといってもおまえは岳里は凄いと、まるで自分のことのように喜んで岳里を褒めた。
 岳里が大剣を扱ったことにも驚いていたようで、今日のジィグンはいつもよりさらに饒舌に語る。

「やっぱり岳里はなんつうか、すげえな。真司、おまえらの世界って岳里みたいなやつばっかいんのか?」

 確か、レードゥにもこんなこと聞かれたっけ。岳里がオンディヌを持ち上げた時だったか。おれたちの世界でも十分岳里みたいな化け物みたいなやつは珍しいけど、この世界もでもそうとれるみたいだ。
 ――そういえばヴィルが言ってたっけ。この世界の人たちと、おれたちと、そこには環境の違いがあっても、人体の違いはそうないって。

「岳里みたいなのが沢山いたらたまったもんじゃない」
「はは、そりゃそうだな」

 うんざり、なんて表情を浮かべたら、振り返ったジィグンが納得顔で頷いた。
 自分の言葉に、岳里みたいに凄いやつだらけの世界を想像してみる。けれどどんなに想像しても岳里の人数が増えるばかりで、そこは岳里だらけの世界になる。
 ……愛想のかけらもない世界だな。

「――そういやおれずっと気になってたんだけどさ」
「あ?」
「ジィグンてあの時……えっと馬みたいな魔物が襲って来た時、一度姿が見えなくなったけど、どうしてたんだ?」

 おれがそれを口に出せば、ジィグンはああ、と頷いた。
 話を逸らしたくなった、っていうのが尋ねた理由ではあるだけど、本当に気にはなってたんだ。あの時は魔物に焼かれて隠れられそうな場所はなかったし、いきなりジィグンは現れたし。
 折角だから、今のうちに聞いてしまおうと声に出したわけだ。

「それを説明するなら見せたほうが早いよな……おいふたりとも、ちょっと目をつむっててくれ」

 足を止めたジィグンは少しの間悩むと、そうおれたちに指示してきた。
 おれは素直に目を閉じ、見せたほうが早い、っていうその状況を待つ。その少しの間に、おれは自分なりにどう姿を消すか考えてみた。
 ――やっぱりアロゥさんの魔術か何かを使って、一時的に身体を透明にするとか? この世界ではなんでも魔術に通じてる所があるし、なくはないかも……もしそうなら、おれも一度でいいから透明人間になってみたいかも。いや待て……たとえ透明人間になれたとしても、岳里には場所勘づかれそうだな。
 すぐ後ろにいるはずの岳里ならあり得ない話じゃない。
 恐ろしいやつめなんてひとりで考えていると、ぽんっと軽快な音が聞こえた。
 思わずなんだなんだと開きそうになった瞼を抑え、ジィグンの合図を待つ。
 目をつむったまま動かずにいると、突然小さな何かが右足の上から這い上がってきた。

「うひゃ!?」

 それには堪らずおれは目を開け右足に視線を向けるけど、次の瞬間その何かは背中に回って自由に上ってくる。

「わ、わわっ」

 すばしっこいそれを捕まえようと背中に手を回すけど、それはちょこちょこと動いて捕まらない。小さな小さな足が服を踏んでく度にそれが肌に擦れてくすぐったい。
 おれがひとりで格闘してると、ふいにそのくすぐったさが消えた。後ろを振り返ってみると、岳里が相変わらずの無表情のまま、何かの首を指先でつまんでいた。
 ぷらんとぶら下りながら、チチッ、とそれは鳴いて、おれの顔を見上げてくる。鼻がぴくぴくと動く度にひげも小さく揺れた。
 おれの掌よりも小さいその姿は黒っぽい深い灰色の毛に覆われていて、身体に見合った大きさをする瞳も毛の色に似ていて――それは、紛れもなくねずみだった。
 おれの身体を走りまわっていたのは、この小さなねずみだったのか。
 なんでこんなところにねずみが、と思うよりも先に、はっとその本当の正体に気がつく。

「もしかして、ジィグン……?」

 ねずみはおれの出した名前に、一度瞬きをしてから頷いた。そして次の瞬間には、再び小さな軽い音が響いて、薄青くきらきらと輝く粉がジィグンであるらしいねずみを包む。煙は急速に大きくなり、人ひとり分ぐらいにまで膨らむと、次第にもやは薄まっていく。そして完全に晴れたそこから姿を現したのは、人間の姿のジィグンだった。さっきのねずみはいなくて、やっぱりあれはジィグンだったんだって受け止める。

「真司、おれは獣人だぞ? 獣人は人の姿だけじゃなくて獣にもなれること、忘れてたろ」

 はっはっと大口を開けて笑うジィグンに、おれはただただ頷いた。
 指摘された通り、おれは忘れてたんだ。ジィグンをはじめ、ネルやヤマト、ミズキにハヤテ――みんなが人間でないことを。獣人だってことを。
 だってあまりにもみんなの姿がおれたちと変わらなくて、どうしても獣人ってのがぴんとこなかったんだ。前に一度ネルが猫の耳としっぽだけを出してくれたけど、でもやっぱりその時のベースは人間だったから、驚きはしたけどそれでも獣人だということはよく理解できなかった。
 けど今回ははっきり見た。ジィグンがねずみになる姿は目をつぶってて見れはしなかったけど、ねずみがジィグンになる瞬間はばっちり。瞬きすら挟まずに、すべてを目の当たりにしたんだ。
 はじめから言われてたけど、やっぱりジィグンは人じゃない。もう何度も魔術の力を見たけど、ここは異世界だ。そんな衝撃がおれの頬をひっぱたく。

「それもおれはねずみだ。他の種よりも小さいからな。さっきみたいにねずみの姿になって移動すれば、案外気づかれないんだよ」
「あ、もしかして――あの時はねずみになって身体を小さくして動いてたのか?」
「そういうこった。まあそうでもしなきゃあの魔物の目からは逃げられなかったしな」

 やっぱりこの世界には、獣人って人たちがいるんだ。そう改めて認識しなくてはと思いながら、はっととある謎が頭を掠める。今目の前で見た現実がまさに答えなんじゃなかと思って口に出せば、ジィグンは頷いた。
 魔物と戦った時、ジィグンは密かにねずみに姿を変えて、小さなその身体で移動して、そして魔物の隙をついた、っていうことだったのか。だから突然姿が消えたようにも見えたし、現れたようにも見えたわけか……。正確には、消えたんじゃなくて小さくなって、現れたんじゃなくて元の大きさに戻っただけ。

「こんな風に、獣人は戦いに自分のもうひとつの姿を生かして戦うんだ。ねずみだったらおれみたいに見えなくなったように敵を欺いてな」

 他にも移動の時に姿を変えたりすると便利なやつもいるんだと、ジィグンは教えてくれたあと、再びおれたちは廊下を歩きだした。
 そこで獣人の話は終わりらしく、ジィグンはおれたちが今日体験したキッカールについて話題を向けた。
 ジィグンもキッカールが好きらしく、おれたちの世界にも似たスポーツがあることを教えれば、子供のように無邪気な目をしてどんなものなのかを尋ねてきた。軽くルールを説明して……といってもその役目は岳里だ。おれは無愛想な説明に少し付け加えたりして、世界的の大きな大会があることなんかを教える。それにもジィグンは食いついてきて、部屋に戻るまで、ずっとキッカールとサッカーの話で尽きることはなかった。

 

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