次に目を覚ました時にも、相変わらずおれは医務室のベッドに寝ていた。でも前と違うのは、傍らには岳里がいて、椅子に腰かけ本を読んでいるということだ。
 なんとなく、寝起きの霞みがかる頭の中それを眺める。静かにめくられるページの音になんだか安心した。おれにとってその音は結構親しみ深いからかもしれない。おれは大して本を読むわけじゃないけど、兄ちゃんが読書家で、昔から遊ぶおれの隣で本を読んでたからだ。
 懐かしさからしばらくそうしていると、おれの視線に気づいたのか、岳里はこっちへ目を向けた。

「してほしいことはあるか」
「あ……ちょっと、喉乾いたかな」

 おれの言葉に、ぱたんと本を閉じ、立ちあがって空いた席にそれを置く。それからベッドのすぐ脇にあったらしい机に向かうと、そこに置かれてた吸いのみを手にして、寝たままのおれの口元にそれを寄せてきた。
 長く細い注ぎ口を口の端に当ててから、岳里は視線で飲めとおれに訴える。素直に口を開けば、すっとそれが中に入れられ、吸いのみが傾けられた。

「ゆっくり飲め」

 岳里の言葉のあとに、口の中に少しずつ水が流れ込んでくる。それをおれはちょっとずつ飲みこんでいった。水はぬるかったけど、反対に冷えたものより飲みやすく、よく身体に沁み渡る気がする。
 途中岳里がもっと飲むかって聞いてきて、おれはそれに頷いた。そうして飲んでいくうちに、中に入っていた量の半分を飲み終える。
 もう大丈夫だと目で合図すれば、すっと口から注ぎ口を抜かれた。その時に少しだけ口の端が濡れて、おれが拭こうと布団の中から手を出す前に、岳里がそれを親指でぐいっと拭ってしまう。

「あんがと」

 何もそこまでしてくれなくても、となんだか気恥ずかしく思いながら、水を飲ましてくれたこと、口を拭いてくれたこと、二重の感謝を口にする。岳里は一度ちらりとおれに目を向けただけで特になにか返すわけでもなく、吸いのみをもとの場所に戻すと、その下にある引き出しから何かを取り出す。
 視線だけでその動作を追うと、岳里の掌に収まる小さなそれは何かの入れ物みたいだ。前にネルに借りた塗り薬の容器によく似ていた。
 岳里は本を持ち上げまた椅子に腰を下ろすと、膝の上に手にしたふたつを置くと、唐突に、何かクッションを置くでもなくおれにその事実を伝える。

「臀部の傷に、定期的に薬をぬらないといけない」

 手にした容器を見せながら、そう岳里は言った。薬には炎症を抑える成分だとか、鎮痛成分だとか、そんな効果があって、早く傷を治すためにも、そして悪化させないためにも絶対にしなくちゃいけないそうだ。

「それは……」
「傷口に直接だ」

 おれが聞こうとしたことを、全部聞かずとも岳里は答える。自然治癒で治すのは、放置するわけじゃないと言って、寝転がるおれの目の前に、恐らく薬が詰まってるんであろう容器を置いた。
 ――傷口に直接、っていうことは、つまり。触れずとも熱を持ち痛みを主張するそこに、直に薬を塗らなくちゃいけないということだ。
 思わず黙りこんだおれに、岳里はいつもと変わらない声音で続けた。

「眠る間に、とも考えたが、おまえの確認を取ってからでないと使うべきでないと思った。それに、これからしばらくはやらなければならないことだ。頻繁に塗る必要があるから、毎回おまえが寝ているうちにというわけにもいかない」
「うん……そっか。あんがと、おれのこと考えてくれて」

 薬の入った容器に手を伸ばしながら、おれは岳里に笑って見せた。でも、上手く笑えたかはわからない。だけどおれのことを考えて、ちゃんと話してくれたことにどうにかして応えたかったんだ。
 今手にしたこの薬を塗ること自体がおれのためなのに、それでもおれに確認を取ろうとしてくれたのが、おれの意見を尊重してくれようとしていることが、素直に嬉しかったんだ。
 けれど、今のおれにとってその優しさは嬉しくとも悲しいものでもある。この薬もまた、少なからず憎く思えた。無理やりにでも浮かべた笑顔はすぐに消えていき、おれはじっと掌に収まるそれを眺める。
 おれが寝てる間にしようとも考えた、ってことは、なるべく早く使ったほうがいいんだろうな。――そう、わかってはいるんだ。でも、どうしてもこれを開ける気にはなれない。身体を動かすことが億劫なのもあるし、何より傷口に触らなくちゃいけない。それが、怖かった。
 確かに痛みは感じるし、そこが傷ついてることはわかる。でも触ればもっとそれの惨状がわかっちゃうんじゃないかって。実際見るわけじゃないけど、触るだけでもわかることはあるから。

「――――」
「岳里? ……ちょ、ん?」

 薬の容器をベッドの上に転がし指先でつついていると、不意にそれを眺めていた岳里がおれへと手を伸ばしてくる。なんだろうと思って視線を向ければ、その手はするりとおれの首を掌で触れてさすった。そっと触れて、それは首の裏にも滑って同じように弱い力で触れる。
 そのくすぐったさに思わず変な声を上げそうになり、やめてくれと思いを込めて岳里の顔を見るけど、そこには相変わらず無表情でおれを見つめるやつの顔。今こうしておれにくすぐるように触ってくるその真意はわからなかった。
 本格的に背筋までむずむずとしてきて、耳の裏を撫でられて限界を迎える。そうしておれがやめてくれって声に出して言う前に、思いの外あっさりと岳里の手は離れていった。

「岳里、何だったんだよ、さっきの?」
「布団が吹っ飛んだ」
「……は?」

 おれの言葉を完全に無視した岳里の口から出たのは、かの有名な、駄洒落の代名詞と言ってもいいそれで。おれの頭は一時停止する。
 すぐに意識は戻ったけど、それでもどうにか出たのは岳里の発した言葉に対する疑問ばかりで。
 え、なんで岳里は駄洒落言ってんの? あ、いや、岳里が駄洒落言うなんて……もしかして、話の流れに布団が吹っ飛んだっていう部分があった、とか……? ――なかったよな、確か。
 静かに混乱するおれを余所に、岳里は次々に駄洒落を連ねた。

「電話に出んわ。猫がロンドンで寝転んどん」
「…………」
「駄洒落ばかり言ってるのはだれじゃ」

 いやおまえだろ、っていう言葉をどうにか飲み込み、おれは突然出しはじめた岳里の駄洒落についてどうするべきなのか、悩んだ。
 そもそもなんで岳里は駄洒落を連発してるのか。しかも真顔で、なんで。
 さらにいつくか言ったところで、ようやく岳里は口を閉じた。その表情は心なしかむっとしたように見えて、おれは笑えばよかったのかとますます悩む。でも、今更笑ってもな……。
 駄洒落を言い続けた岳里が口を閉ざしてしばらく、おれたちの間には沈黙が訪れる。その間に岳里の眉間には薄らとではあるけど皺が寄って、ますます不機嫌そうな顔になってしまった。おれはそれをちらちらと見ながら、どうすれば笑わなかったことを許してもらえるだろうかと考える。だってまさかいきなり岳里が駄洒落言うとか、誰が予想できようか。今まで冗談もそう言わなかった岳里が、いきなり布団が吹っ飛んだって……。
 ここはおれも駄洒落を言い返すべきなのかと考えるが、残念ながらおれは岳里が既に言った布団が吹っ飛んだぐらいしか知らない。
 うんうんと頭の中で悩んでいると、突然岳里がまたおれの顔に手を伸ばし、頬にそれを添える。またくすぐられるのかと思って反射的に身をかためると、そうじゃなかったみたいで、ぐっと頬に添えられた手が無理矢理おれの顔を岳里へ向けさせた。
 じっと、おれの顔を覗きこむ岳里の目を、おれも見つめる。

「にこ」
「二個?」
「……違う」

 唐突に岳里が発した言葉に、おれは首を傾げる。二個、と聞こえた気がしたんだけどどうやらまったく違ったようで、岳里の眉間のしわはさらに寄ってしまう。
 もう一度岳里は、にこ、って言ってきたけど、その意味がわからない。おれが戸惑っていると、岳里はまた同じく繰り返す。
 相変わらず真顔で、その真意が窺えないように鉄壁だ。

「えっと……その、どういう……?」

 ここは素直に聞いておこう、と思って尋ねるが、岳里は教えてはくれない。頬に触れていた手も離れていき、窓の外へ目を向けてしまった。
 ますますおれはどうすればいいのかわからない。突然くすぐるように触ってきて、駄洒落を言って、にこって言って……にこ?
 そこでようやく、少し前の出来事を思い出す。岳里の目の前でした、ジィグンとの些細なやり取りを。
 まさか、と思いながら、岳里の名前を呼んでみた。すると、少しむっとしたその表情を崩さないまま、それでもおれに振り返ってくれた岳里に、半ば確信しながらそれを披露する。

「――にこ?」

 言葉にしながら、おれは岳里へ笑って見せる。でも、本当は言葉に出す前から堪え切れない笑顔が先走って、すでに顔に出ていた。だって、ようやく岳里の今までの行動の意味がわかって、おれのためを思ってやっててくれたことだって気がつけたから。凄く、うれしかったんだ。だから言葉に出すまでの間ですら我慢できなかった。それに、この意味が伝われば十分だから。
 照れくささを感じながらも笑うおれを見て、僅かに見開く岳里の目。けれどすぐに小さく口の端を上げて、おれに笑い返してくれる。前みたいに明らかに無理矢理作った笑顔じゃなくて、自然な岳里の笑顔。綺麗で、ますますおれの笑みは深まった。
 ――岳里はただ、おれを笑わそうとしてくれたんだ。最初に首に触ったのはくすぐるためで、次は駄洒落で、最後に自分が笑っておれの笑み誘うため。
 前に岳里を笑わすためにはどうすればいいか、とジィグンとで二人で話したことがある。その時のことを思い出して、岳里はおれを笑わすためにしてくれたんだ。
 そんな、おれのために色々なことをしてくれる岳里に、ひとつの決意をした。

「あの、さ、岳里。お願いが、あるんだ」
「なんだ」

 眉間のしわもなくなり、まだ少しほほ笑みの余韻を残し顔を柔らかくする岳里の声は相変わらず愛想はなかった。けれど前みたいにそれが怖いだとか、不機嫌そう、って思うことがなくなったおれにとってそれはいつもの岳里で、むしろその声音からそこそこ機嫌がいいことを窺い知れる。
 たとえこの世界にきてから話すようになって、一緒にいたのが十数日間だけだったとしても。四六時中傍にいたからか、岳里の些細な変化に気づけるようになってた。
 ――言うなら今しかない。
 毛布の中に隠れて握られた自分の掌に汗を掻くのを感じながら、意を決し、おれはその頼みごとを口にした。

「できればでいいんだけど、その……岳里が、塗ってくれないか?」

 何を、とは言わなくても岳里ならわかってくれると信じて、おれは目を合わせないまま、言い訳のように口早に続ける。

「自分でできるとは思えなくて、怖くて、さ……が、岳里なら大丈夫かなって。おれが暴れてもおまえの力なら抑えられるだろうし。勿論こんなこと頼まれて嫌だろうけど、頼む」

 今、岳里がどんな表情をしておれを見ているか、見返せない。だって、今おれが頼んでいることはつまり、怪我しているその場所に薬を塗ってくれってことだ。その場所は自分のだって触りたいとは思えないところで。
 自分でその薬を塗らなくちゃいけないのはわかってる。でも、やっぱり怖かった。裂けてるんであろうそこに触れる勇気はどうしても出ない。僅かに身動きするだけで全身を突き抜けるような痛みの程度で、そこがどれぐらい酷い状況なんか見当もつかず、ただ言いようのない不安のような恐怖があった。どうしてもおれ自身でできるとは思えない。
 それなら、自分でできないなら他人の力を借りるしかない。でも他の人にやってもらうのを考えたらどうしてもあの、拳を思い出しそうで。頼めそうにもなくて。――でも、岳里なら大丈夫だって、どうしてか思えたんだ。岳里になら任せても耐えられるって。
 だから、岳里に頼んだ。岳里のことだから、きっと嫌なら嫌ってはっきり言ってくれるだろうし、そんなことを頼んだおれを軽蔑なんてしない。もし駄目だって言われたら、あとはもうどうにかしてでも自力でやろう。怖いけど、他人にしてもらうよりは全然いい。
 そう、おれは覚悟したんだ。本音を言えば、ここで岳里に断ってもらえれば少しは自分で薬を塗る勇気もつくかなって。だって、このままはじめから自分でやるって言っても、おれの身体は満足に動いてくれない。やってみなくても臆病な自分の身体がどうなるかはわかっていた。だから自分でやるしかないって状況を作れば、いやでも行動しなくちゃいけないっていう意志が生まれるはずだと思ったんだ。
 正直な話、岳里が頷いてくれるとは思ってない。おれ自身がいやだと思うことを、どうして他人の岳里がしてくれるんだ。だからおれは、岳里の拒否を待った。けれど、おれの頭に手を触れ撫でたその大きくてあったかな手は、違う答えを出す。

「わかった」

 おれのことを思ってなのか。どこか優しい声音に、言葉に表し難い感情が胸の中で一気に膨れ上がって、涙が出そうになる。
 本当におれは、この世界に来てから涙もろくなったもんだ。でも、その弱さを支えてくれる岳里がいてくれてよかった。そう、心の底から思えてなおさら喉が震えた。

 

 

 

 重たい下半身を、岳里に手伝ってもらいながら腰だけをあげるような形で四つん這いになる。どうしても腕に手が入らなくて、おれは岳里の勧られたように胸はベッドに着けたままだ。
 服も下着ごと膝まで下げてるから、なんとも情けなく恥ずかしい格好に自然におれの顔には熱が集まる。いくらそれを隠すために上には毛布がかけられているとしても、直接肌に触れる柔らかく少し長い毛をした毛布がくすぐったくて、どうも落ち着かない。
 どうもそわそわして、それを落ち着かせるためにもシーツを握る。

「力を抜いてろ」
「……ん」

 塗り薬を人差し指と中指にたっぷりとつけた岳里が普段のものとは違い優しく声をかけてくれるが、緊張からか、身体はがちがちと強張ったままだった。
 折角岳里はおれのために手伝ってくれるんだから、そんな怖がるのは失礼だってわかってる。けれど、あの時の暴力を覚える身体は無意識に震えた。
 シーツを掴む指先からだんだん血の気が引いていき、気分が悪くなる。そんなおれの様子に岳里は気づいたんだろう。薬をつけていないもう片方の手で、おれの頭を撫でてくれた。

「大丈夫だ、なるべく痛まないようにする」

 ぽんぽんと小さい子どもをあやすように頭を軽く叩き、手の甲で頬を撫でる。温かい岳里の手に、ほんの少しだけ安心できた気がした。

「――岳里、手、握っててもいいか?」
「ああ。終わるまで好きにするといい」
「あんがと……」

 シーツを握っていた片手を離し、それで岳里の差し出された手を握った。同じ男のものなのに、おれより大きくて、それでいてあったかい手。冷えた指先が溶かされていくように、じんと熱く感じた。

「――大丈夫、頼むな」
「ああ、すぐに終わる」

 その言葉を最後に、岳里もおれも口を閉じる。
 足元の毛布が少しだけ上げられ、岳里の手が入ってくるのがわかった。太もも近くを動く手に、思わず息を飲み握っていた岳里の手にぎゅっと力を込める。情けないことに微かに震えているのが、そのつがなりを伝って岳里に届いてることだろう。
 ごめん、と心の中で岳里に謝る。おれからやってほしいって言っときながら、こんなに怯えて。
 奥歯を噛みしめると、ぬるりとした感触が触れた。びくりと大げさに跳ねた身体は自然と呼吸は荒くなり、脂汗がどっと溢れる。それなのに手は、指先は冷えたままで。
 ――存分に鳴いてくれよ。
 あの時の男の言葉が、耳元でささやかれた気がした。

「っは、はぁっ」

 怖くて怖くて、これは岳里だってわかってるのに怖くて。傷に触ないように薬を塗り広めていく感覚が気持ち悪くて、痛くて熱くて。堪らず逃げ出したくなる。
 目の前が暗くなっていき、あと時の笑う男たちの声が耳を撫でた。
 癒されたはずの頬が、腹の殴られた痕が蘇った気がして、じくじくとそこが痛む。
 おれは、おれはまだ――

「真司」

 落ち着いた声音がおれの名を呼ぶ。おれが掴んでいたよりも強い力で握り返してくる、あったかい手。
 ああ、そうだよな。ここには岳里がいる。おれはまだまだ弱いけど、でもそれを補ってくれるやつがいるんだ。

「――っ、ふ」

 重なるふたつの手をぐいっと引き寄せ、それに顔を寄せた。血の気が失せる顔にも温もりが伝わり、少しずつ、心が落ち着いていく。岳里もおれが安定するのを待って、薬を塗る手を止めてくれた。
 浅い息を繰り返していたおれは、握る岳里の手を頬に寄せてから、しばらく目を閉じて少しずつ自分を取り戻していく。
 次に目を開けた時には、目の前に岳里の手があった。縋るように掴むおれの手をしっかりと握ってくれている。

「だい、じょうぶ……続けてくれ」

 大丈夫だ、岳里なら。岳里なら怖くない。
 ――そして、再開したそれに。今度は羞恥に耐えられなくなる。
 よくよく考えてみればやっぱり他人に塗らせているし、しかも場所が場所なだけに忘れていた熱が顔に集まった。それでも岳里の手を手放せなくて、変な汗を掻きながらもどうしてもかたく握ったままになってる。
 薬は厚めに塗ってるようで、今は塗り薬を容器から掬ってはしばらくは自分の手で温めて、それからおれの怪我するそこへ塗るという作業を四、五回ほど繰り返したところだった。
 すぐ終わる、と言ったのに全然すぐじゃない。あまりの恥ずかしさに、泣きべそを今にも掻きだそうとするおれに、突然岳里が、すまない、と一言詫びた。
 長く続いたことか、と思ったおれはようやく終わったのかと身体の力を抜こうとしたその瞬間、鋭い痛みが背筋を駆けた。

「ひっ……!」

 思わずその痛みに身体が大きく跳ね、無意識に岳里の手から逃れようと動く。けれど、岳里は重ねた手だけでおれの動きを止めて、さらに指を押し進めた。

「っ、いた、いっ……」
「耐えてくれ」

 浅く、そこに入れられた指を傷ついた縁が反射的に圧迫し、自分にさらなる衝撃となって返ってくる。どうにか堪えようとしても身体は無意識に反応し、おれは堪らず目の前のシーツに噛みついた。

「っ、ぅっ――」

 ぐるりと縁をなぞるように回される岳里の指に、その分身体も悲鳴を上げた。溢れだしそうになる苦痛の声をシーツごと噛みしめると、飲みきれないよだれが顎を伝い垂れる。けれどそれすら気にできないほどの激痛におれは耐えるしかなかった。
 もう一度ぐるりと回ってから、岳里の指は引き抜かれた。それと同時におれの身体の力は抜け、ぐらりと腰が崩れて倒れそうになるも、岳里に受け止めてもらい、そっとベッドに横にされる。
 それから岳里は再び毛布の中に手を差し入れ、薬を塗ったそこに用意しておいた布を当てると、おれの身なりを整えてくれた。その間もおれは岳里の片手を握ったままで、やりづらかったに決まってるのに、おれの好きにさせてくれた。
 全部を終えた岳里が、おれの顔を覗きこむ。
 額に張り付いた髪をそっと分けてくれて、顎に伝ったよだれも服の端で拭いてくれた。

「いてえよ、ばか……」
「悪かった。だが、内側も傷ついている。これからもやらなければならない」

 ついでというように、額や首筋にも滲んだ汗を拭いてくれながら、相変わらずの無表情でおれに告げる。けれどそこに、少し傷ついてる岳里がいるのがわかった。

「――また、岳里にお願いしてもいい?」
「ああ、おまえがそれでいいのなら」
「なら、頼む……あんがとな」

 無意識のうちに空いた片手を宙へと伸ばし、感謝を口にしながらその頬へ触れたる岳里は少し驚いたように身じろいだけど、おれから離れることはせず、頬に触れる手を振り払うでもなく、好きにさせてくれた。
 ――本当は頭に触りたかったけど、でも寝ながらじゃ届かなくて、精一杯伸ばせる場所まで手を伸ばせばそれが岳里の頬だったから。だからそこを、よしよしと撫でる。

「あんがと、岳里」

 もう一度言うと、岳里は小さく笑ってくれた。

 

 

 

 国王自らが口にしたその事実に、レードゥのみならずその場にいた隊長の多くが息を飲んだ。
 発言の多いアヴィルが、挙手をし、驚愕した表情を浮かべながら、震える声で王に尋ねる。

「王、先程の話は真、ですか」
「――ああ。この手記は代々王となる者が受け継いできた、ルカ国三代目国王、サラヴィラージュの記したものである。それが今までわたしのもとまで受け継がれたこと自体が、これの真偽を示している」
「サラヴィラージュ本人のものでえ、魔術を用いて現存させてんだあよ」

 シュヴァルが持ち上げたのは、煤に汚れた一冊の書物であった。先程王が述べたように、長い時を経て現世に存在するそれの表紙は最早半分が失われていて、雑に扱えばすぐに破けてしまいそうに脆そうだ。それだけでなく、一度火が移ったのか、右端から一部分がなくその縁は炭と化している。
 唐突に突きつけられた事実に、それに信憑を持たせるものの存在に、レードゥはただ戸惑うばかりしかできずにいた。
 王の語った事実――それは、岳人と真司がこの世界へ訪れた理由であり、その存在意義である。

「信じられないのも無理はない。わたしとて、この手記が手元にあったとは言え、実際に真司たちがこの世界に訪れるまでは信じていなかった。しかし、彼らは来た。異世界から。そして真司と岳里、二人の背に現れた証を見て確信した。おまえたちも実際に見た者がいるだろう。あれがこの手記に記されている“証”だ」

 実際に見た者、その言葉にレードゥの胸は無意識のうちに高鳴った。そこに己が当てはまるからである。
 あの時、部屋を去る時に見た岳人の背中には確かに、王の言う証があったのだ。真司の方は確認していないが、報告された情報は嘘とは到底思えない。何よりもう岳人のものを見ていたから、否定はできなかった。

「“光降らす者”、“闇齎らす者”。それが本当に、真司たちとおっしゃるのですか。彼らが、この世界の命運を握ると――」

 自分でも声が震えるのに気づきながらも、レードゥは言葉を止めることはできなかった。
 シュヴァルも十分、レードゥの心情は察しているのだろう。彼は頷き、その真実を突き付けた。
 皆が沈黙し、思考する。レードゥもまた重く口を閉ざし、先程王自らが口にした事実に胸を騒がせた。
 ところどころが不自然に焼け、穴あきだらけの文章だと予め告げてからシュヴァルが読み上げた、その手記の中身。それはあまりにも受け入れがたいものであった。何度その言葉を思い起こしても、決して安易に信じられるものでもない。
 第三代目ルカ国国王サラヴィラージュは自身の日記に、こう記していた。

 

――異世界より、二人の人間がこの地へ召喚された。そして      った。我が君は    の一人を“光降らす者”と呼び、異世界から訪れた一人を“闇齎らす者”と呼   もうひと    。
我が君はおっしゃった。先のかのお方との争いにより、己の力が著しく消費され、それを取り戻すために眠りにつかねばならぬと。そうして回復に努める間、この世界は自由となる。だから、   人を使わす、と。
そし   、 者  の下す選択により、世界は存続されるか、やり直されるか、決まるという。
ふたつの選択肢に、無論わたしは我が君に異議を申し立てた。何故、そうも極端なのかと。ならば何故今までこの世界は成り行きに身を任せ存続されたのかと。
我が君はおっしゃった。成り行きに任せたからこそ、かのお方が産み落とされてしまったのだ、と。そして、こう続けた。
もう二度と同じ過ちを繰り返さぬようにするには、時には一度振り返る必要が、一部世界を元に戻す必要がある。そうしなければ、いずれは世界のすべてが滅ぶであろう。  は世界が翳った時に何度でも姿を現す。だから、そうならないためにも時期を見極め選択するのだ。これは最早、この世界の定めである、と。そうして語った後、我が君はわたしに問うた。
人間の王よ、おまえは我が新たに組み込んだこの世界の仕組みを拒むかと。
我が君はわたしの答えを聞く前に、続けた。この先、幾度も今回のように異世界より訪れる二人がいるだろう。そしてその度に選択されるだろうと。その時光降ら 者    に  が  闇  が選ばれたとしても、それは覆せない。その選ばれた結果に抗ってはならない。これがこの世界の運命だ。おまえは、“見守る者”になれるか――と。
わたしはこのお言葉に、我が君へ忠誠述べて頷いた。
我が君は最後にこう言い残していった。
異世界より訪れたものと、     には、証を授ける。それをしるべにするといい、と。
“光降らす者”には太陽の印。
“闇齎らす者”には月の印。
 “       は  と  ふた    を。
そして、我が君のおっしゃる通り、異世界より訪れた一人の  ーガ は月の証が。  者と盟約を  狐  人   コ ネ   には太    が。    の   者には    の があった。

 

――今のこの世界にふさわしいと選ばれたのは、闇齎らす者であった。
“神の使い”である彼はまさしく、人を凌駕する神の力を振るい、世界の半分近くが闇に飲まれた。滅んだ国や町は数知れず、また命を落とした者ももはや調査することすら不可能。まさしく、この世界には闇が齎らされたのだ。
そうした中、わたしの国がそれらの齎された闇から免れたのは、我が君の導きなのであろう。   が選択を下すまでの間彼らを保護し、そうしてこの世界の現状を包み隠さず見せること。それが、言われずとも神から命ぜられたこの国の、王であるわたしへの指名であるのだろう。
今回の     の者、闇の との間に起きた悲劇を繰り返さぬために、この日記をこれから先、この国の王となる者へ継いでゆく。
どうかこの世界の定めを受け入れてほしい。そして、同じ過ちを繰り返さないことを望む。か お方のことも、    た   も、すべて。

 

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