「――あっちからもうようよと来ているぞ。どうやら、予想よりはるかな量を差し向けてきたらしいな」

 顔には笑みを浮かばせながらも余裕は一切窺えない声音をするヴィルの言葉に今度は反対に目を向ければ、確かに同じように黒いものが何十体と見えた。それは海から這い出て、地面から湧きあがり、続々と数を増やしていく。
 どれもまだ、点のように遠い場所にいる。けれど恐ろしい勢いで城に向かってきているのか、見つめていればほんの数秒なのにただの点が次第に大きさを増していった。
 思わず息を飲むおれとは違い、みんなは余裕がないながらも動揺を見せない。

「ついにお出ましってわけだな」

 それよりかは今から起こる厄介事に面倒なものだと溜息をつくようにそう息を吐いたレードゥに、まったくだとヴィルが返す。
 魔物と戦うことが日常茶飯事の二人にとっては、数は問題だろうけれどそこに強い緊張はないのかもしれない。
 ただ、二人だけでなくみんなも心を隠すのは得意だ。特に肝心な場面では顔に出さないようにしているのを知っている。もし戦いにおいて、上に立つ隊長たちが揺らげばそれはすべての仲間にそれは広がってしまうからだ。

「ここへやってくるまで時間の問題だろう。早急に結界を張るよう、魔術師たちに伝えにいっておくれ、アヴィル。時はきたともな」
「……はい!」

 アロゥさんに指示され、アヴィルは躊躇うことなくこの場から離れて城の中へと走り出す。
 消えていく背中を見つめていれば、王さまから声がかけられた。

「さて――そろそろだ、岳里、真司。覚悟はいいか」

 それは、エイリアスのもとへ向かうという覚悟。
 魔物の姿が確認でき次第おれたちは行動を開始することになっていた。

「ああ」
「――――」

 確認の言葉に岳里は答える。けれど、おれは頷くことも声を出すこともできなかった。
 応えず口を閉じるおれに、どうしたものかと言ったような表情のライミィが名前を呼ぶ。けれどおれはそっちへは顔を向けず、一度はアヴィルを見送った城の入り口をまた見た。
 そこにはもう人影はない。

「もう少しだけ、待ってください」
「心が落ち着かないか」

 でもおれの視線の先は何を見るでもなく、ただ不安に逸らされたと思ったらしい王さまが優しい声を出す。
 それには首を振って応えた。城から目を離して、どう伝えるべきか悩みながら、青い目を見て口ごもる。

「違います。そうじゃなくて、その……」

 困るおれに王さまも同じように戸惑いを感じ始めた頃、城の方からまだ遠く、走る足音が聞こえてきた。それはさっき颯爽と風のように行ってしまったアヴィルのものよりはゆっくりで、でも懸命に向かってきている。
 またおれが城へ目を戻したところでこっちに走ってくる人影が見えた。それはすぐにおれたちのもとまでやってきて、到着した頃には肩で息をし、汗を掻きながらも声を上げる。

「っ、ぼくも、真司さんたちと一緒に行きます!」

 力強いその言葉におれは安心し、反対に王さまたちは顔を曇らせた。

「――今の状況を、わかっているのか」

 王さまの口から出てきたのは、おれが予想していたよりもずっと厳しい声で。すぐに安堵の表情をひっこめて、恐る恐る振り返る。
 すると声音通りの顔があって、その青い目はセイミアに向けられていた。けれどその視線を受けるセイミア自身はしっかりとそれを見返す。

「申し訳ありません。ですがどうしても、わたしはあの人のもとへ行かなければなりません」
「おまえが抜ける七番隊の穴はどう埋める。治癒術が一人でも欠けることがどれほどの痛手かわかっているのか。それがおまえであればなおさらだ」

 返されたかたい声音に、一度セイミアは深呼吸をして呼吸を整えた。

「――重々承知しております。ですから隊員たちには一人一人に頭を下げ、了承を得てきました。できる限りのことは指示し、準備もしました。それでも埋めることができないのはわかっています。ですが、わたしはどうしても行かなくてはならないんです!」

 そう声を強めたセイミアの視線がおれに向けられる。すると王さまの目も、様子を見守るみんなの目線も、全部が集まった。
 ただの七番隊の手伝いのおれと、隊長のセイミアが抜けることはまったく違う。代えのきかない立場だからこそ本当ならここに残って怪我人の治療に当たるべきなんだ。
 でも、おれはもう言ってしまった。だからセイミアもここにいるんだ。
 胸に抱く真意を伝えるべく、また王さまに顔を戻したセイミアは口を開いた。

「真司さんが、悩むわたしの背を押してくださりました。本音をぶつけてみろと。言いたいことがあるなら、まずは伝えてみろと。最後まで諦めるなと。そうおっしゃってくださったんです」

 何に悩み、誰に言いたいことがあるのか。それはこの場にいる誰もが知ることだ。だからこそそんなことを確認するためにと口を挟む人はいない。
 おれはセイミアに確かに言った。あくまで提案として、だけど――気持ちを伝えてみないか、って。
 あとはもうセイミアが並べてくれたように、そう持ちかけてみたんだ。
 もちろんそれは仕事を放棄してということだ。そして本当に思いをぶつけるべきなのかも考え込んだセイミアは、すぐには答えを出せないとその時はおれに返した。
 そしてずっと答えが出ないまま今日を迎えて。でも、セイミアはもう決めたんだ。
 自分の抱えた思いをエイリアスに伝えるということに。最後まで諦めないことに。
 重く口を閉ざしたままの王さまに、さらに続ける。

「王よ、どうかお願いです。このわがままをお許しください」
「……」

 懇願する声に、けれど口は開かない。

「――もし、お許しいただけないというのであれば。わたしは今この場で七番隊隊長の座を退いて、セイミア個人として向かいます」
「国を捨てる、と?」
「そう捉えられても仕方がないことだとはわかっています。ですが、今ここで向かわなければ生涯悔いが残り続けるでしょう。それがいつしか、溜めこんだ思いが鬱憤となり国へと向かってしまうかもしれません。そうなればそれこそわたしは故郷を捨てることになります。だからこそ行かなくてはならないのです」


 それ以上セイミアは言葉を重ねることなく、ただ静かに王さまと真っ向から向かい合った。
 ここまで強気に王さまに申し出るセイミアの姿を誰も見たことがないんだろう。それぞれ驚いた表情を浮かべながらも、なりゆきを外野から見守る。
おれもその中の一人になって、岳里に寄り添いながら王さまの出す答えを待った。けれど開かない口に焦れる思いばかりが積み重なれば、不意に明るい声が踊り出る。

「なあに、セイミアが抜けたって問題ねえよう。だあれも怪我しなきゃいい話だあろ?」

 そう言い出したのは王さまの隣にいるネルだった。なんてことないような言い草に、ふき出したレードゥが後に続く。

「ああ、そりゃあ違いないな」
「単純だが心理だな」
「それならむしろ、セイミアの治癒術なんていらないんじゃないかな」

 コガネに続きヤマトまでも言葉に笑みを滲ませれば、岳里までもそれもそうだと頷き出した。
 それにはさすがに王さまも表情を崩し、困ったように笑いながら改めてセイミアと向き合う。

「この国の未来におまえの存在は不可欠だ。それが危ぶまれると言われてしまうのであれば仕方がないな」
「で、では……!」

 期待に満ちた表情でセイミアが王さまを見つめれば、深い頷きが返された。

「ああ、岳里たちとともに行くことを許そう。補いきれぬ穴の分は、隊長どもに苦労してもらおうか。――なあ、おまえたち。これで一人でも負傷でもしてみろ。連帯責任として全員五年の減給だ」
「ごっ、五年!? それはちいっとばかり長すぎではありませぬか!」
「誰も怪我をしなければいい話だろう?」

 あまりの期間に絶句する隊長たちを代表してヴィルが声を張り上げれば、けれどさっきネルが言った言葉をそのままに王さまはさらりと流す。
 早まったかとそれぞれ項垂れる隊長たちを尻目に、王さまは珍しく声を上げて笑った。
 それに続きわざと暗い顔をしたみんなも笑い出し、おれや兄ちゃん、岳里に十五さんにも、そしてセイミアにも、みんなに広まっていく。岳里の肩に乗っていたりゅうまでも釣られて嬉しそうな鳴き声を上げた。

「――危険な場所だ。しっかり己を守れよ、セイミア。おまえを失うわけにはいかない」
「はいっ」

 話もまとまり、おれもようやく一安心して肩に入れていた力を抜く。その時セイミアはちらりとこっちに視線を向けて、嬉しそうに笑いながら軽く頭を下げた。その後すぐに傍に走り寄ったネルと何やら話始めて、すぐに目は逸らされる。
 きっと、その話が終わったら。今度こそおれたちは出発するんだろう。そう思いながら明るい声で話すセイミアたちを眺めていれば、不意に後ろから声がかけられた。

「真司」
「――兄ちゃん」

 振り返れば兄ちゃんと十五さんが並んで立っていて。
 目が合うと、困ったように微笑まれた。

「気を付けるんだぞ。おれはここで待ってるから」
「ああ、今日はそんなに遅くならずに帰ってくるから安心してくれな」

 そう返せば困ったようなそれがおれの見たかったものに変わり、表情が和らげられる。それに同じように頬を緩ませれば、不意に兄ちゃんが十五さんへと目を向けた。
 それからまたおれたちに向き直り声を出す。

「十五も十分気を付けるようにって。それと、無理はするなってさ」

 心配性だなあ、と自分のことは棚に上げる兄ちゃんはでもどこか嬉しそうで。また隣に立つ十五さんを見上げて笑った。
 十五さんは昔の怪我が原因で声を失っていて話すことができない。でも兄ちゃんの固有の力は読心であり、声が聞こえなくても心が語るものを知れるから、だから誰の耳にも届かない十五さんの言葉がわかる。
 まさに通訳をしてくれたんだろう。だからこそ無表情ながらに心配してくれていることを知ることができた。
 ありがとうという感謝の気持ちを二人に伝えれば、弟たちを心配するのは当たり前だろ、と十五さんにまで笑われてしまった。
 その時になり、王さまから声がかけられる。

「さあ、そろそろ岳里たちには出てもらおう」

 一度はばらついたみんなが王さまを囲うように輪に戻る。けれど王さまはそこから離れると、輪の一部になっていたディザイアを中心に引きずり出した。

「神よ、最後に我らにお言葉をください」
「困ったな。まさかこんなことが待っていようとは。準備するのを怠っていた」

 そうおどけたように言いながら、口元の笑みは相変わらず戻して、ディザイアは静かに口を開いた。

「エイリアスは魔物を操るため、集めた力の大半を消費してしまっただろう。あれほどの数だ、余力をそう残せているとは到底思えない。だからこそ好機。せいぜい人間が操れる範囲の魔術ほどしか使えないだろう。叩くのならば今しかない。だがこれをしくじれば後はないぞ。準備はいいか、みなの者」

 その言葉に、誰もが躊躇わず頷く。
 おれも同じように今度こそ覚悟を示してディザイアを見つめれば、その表情が不敵な笑みへと姿を変えた。
 そしてそのまま声高らかに、神として告げる。

「己が力でこの窮地を、未来を切り開いてみせよ、人の子らよ」

 

 

 

 転移術で移動する前にりゅうをディザイアに預けた。十五さんは戦いに出なくちゃいけないから、竜人の赤ん坊を見てやれるのは神さまの他にいないからだ。
 不安げにおれたちを見つめるその姿に後ろ髪をひかれつつも、最後にそれぞれ一撫でして傍を離れる。
 そしておれと岳里、セイミアの三人はアロゥさんの魔術によって、みんなに見守られながらユグ国へと転移した。
 すうっと周りの景色が消えていき、みんなの顔も溶けていく。音も冷えた外の空気もすべてを感じなくなり何もかもが真っ黒に染まった。
 無重力に放り出されたような不思議な浮遊を感じたと思ったら、すべてが一気に戻ってくる。
 光が、色が、音が匂いが、それを感じながら、転移術によって感じた乗り物酔いのような気持ち悪さに蹲りそうになる。けれどそんな、集中力を一旦途切れさせたおれの耳に岳里の鋭い怒号にも似た声が響いた。

「竜体になる、おれの背に乗れ!」

 その言葉に咄嗟に顔を上げた頃にはもう、おれと隣にいたセイミアをすっぽりと覆いながらも膨れ続ける影の下にいた。
 目の前にいた岳里は宣言通りにすぐに竜の姿になる。よく状況が飲み込めないままどうにかその身体をよじ登り、セイミアと肩を並べて首の根辺りにしがみつく。
 柔らかに生える毛をぎゅっと握り締めれば、まるでそれを感じたように、確認することなく竜は飛び立った。
 一瞬、全身にのしかかる重力に息を飲む。でもそれからはすぐに解放されて、次には強い風に吹かれた。
 慌てて上げていた頭を低くすれば、その間にも後ろを振り返ったセイミアが声を上げる。

「これは……!」

 驚愕するそれにおれも振り返れば、恐らくさっきまでおれたちがいたであろう城下町の入り口に、黒い影が群がっている。――魔物だ。
 それぞれ動物のような形をした魔物たちは、飛び立った竜を物欲しげにじいっと見つめる。その目を見るだけでぞっと背筋が凍りつくような気がした。
 さらに強く、紺色の毛を握り締めたその時。岳里の身体が大きく揺れる。
 飛んだ時もおれたちを振り落とさないよう気をつかってくれているのはわかったけれど、その動きには一度、頭が激しく上下してしがみつく巨体に額を打ち付けてしまう。毛が分厚く生えている場所だから大した痛みはないけれど驚きは大きかった。

「真司さんっ! 尾の先に、魔物が!」

 セイミアの言葉にまた後ろを振り返れば、激しく振り回されているそこに確かに黒いみっつの影が見えた。
 よく目を凝らしてみれば、牛ほどの大きさがある狼のような姿をした同じ種の魔物が三体も、それぞれ強靭な顎で岳里の尾に食らいついては爪を立てては空の中で持ちこたえている。けれどそれを払うために岳里が左右に尾を振り続ければ、やがて耐え切れなくなったやつから宙に放り投げられていた。
 最後の一体まで引き剥がすと、岳里の身体は揺れるのを止めて静かに風に乗る。大きく旋回しながら、少しずつ上昇していった。
 そんななか、岳里の背中からおれたちは人の離れた、十四年前から廃墟として在り続ける国を上空から見つめる。
 ルカ国と似たような造りをした国だった。城となる場所が他より少し高い場所につくられていて、正門から一直線に道が伸びてそこには町がありたくさんの建物が並ぶ。けれどその半数以上が全壊に近い状態になっていて、残っている場所も屋根が落ちていたり壁が崩れていたり、遠目からでもわかるくらいに崩れていた。瓦礫は蹴散らされ。幅の広い大通りや建物の間にできた細道関係なく散乱し、そしてその上を魔物たちが我がもの顔で闊歩している。
 町中に見える、黒い点。それのひとつひとつが動いている。すべてが魔物だ。
 おれと同じくそれを見たセイミアが、風の音に負けないように声を張り上げる。

「どうやらやはり、自分の身を守るためにある程度魔物を手元に集めていたようですね」

 その言葉に息を飲んだ時、岳里が低い声で短く鳴いた。
 りゅうの上げる幼い鳴き声ではなく、成竜のそれは腹ばいになるおれたちの身体の芯まで響く。それを感じながら、咄嗟に指示した。

「セイミア、しっかり岳里につかまるんだ!」

 竜になった岳里は人の言葉をしゃべれない。それなのに何故かさっきそう言われた気がして、迷うことなく顎までつけて隙間なくぴたりと巨体に寄り添う。セイミアもすぐに同じように行動して、二人で身をかたくしたその時。
 岳里の身体は頑丈に作り上げられた城に体当たりをした。
 轟音と一緒におれたちを襲った衝撃に耐えれば、崩れた壁の破片のいくつかが頭に降ってくる。でも岳里が翼を使っておれたちを守ってくれたから怪我をしそうな大きいものはなく、それはセイミアも同じようでお互い負傷することもなかった。
 中に滑り込むように入った岳里の身体は途中で横たわる形になりながら、しばらく床を進み、やがて止まった頃におれとセイミアは自分を支え切れずに二人して竜の身体から転げ落ちる。
 部屋の中は岳里が無理に押し入った衝撃で破壊された壁が巻き起こす砂煙が上がり、酷く視界が悪い。それを思いきり吸ってしまって、石畳に打ち付けた身体の痛みに構う間もなくおれたちは激しくせき込んだ。
 それでも辛うじてセイミアが隣にいることを確認して、次に岳里の姿を探す。けれどすぐ傍らにあった竜の巨体は姿を消していて、他の人影は煙に阻まれて何も見えない。呼ぼうにも咳は止まらなくて、言葉を出すにしても阻まれてしまう。
 それでもどうにか岳里を探そうと声を上げようとした時、視界が悪い中で甲高い金属音が響いた。
 それは一度だけでは終わらず立て続けに二度三度と鳴っては、舞い上がる視界を遮る砂埃の中できらりと何かが光る。
 目を凝らしてどうにか音がする度に見える輝きを見つめれば、やがて晴れてきた視界の中に二人の人影が確認できた。
 そして、ようやく見えた顔に息を飲む。セイミアも同じようにきつく唇を結んだ。
 そこにはジャスがいた。でもその中身はジャスじゃなくて、エイリアスで。やつは岳里と剣を交えていて、すでに戦いは始まっていた。
 岳里は初めから大剣を二本取り出し、右手に岳里の剣である白い刀身のクラティオルを。左手ではディザイアから受け取ったばかりのシャトゥーシェを逆手に握っている。それで迫りくる刃を受け止めては流していた。
 一方のジャスが握るのは一般的に兵たちが掴むものと似た剣だった。けれどいくらかは細身で、恐らくあれは、神から王へと、王から隊長へと下賜されるという神武玉から生まれるジャスの剣なんだろう。岳里の剣クラティオルと同等のものだ。ネルから名前を教えてもらったけれど、確かリィスっていったか。
 ジャスが戦う姿なんて見たことないから、当然おれも岳里もリィスを見るのは初めてだ。細身のそれは躊躇われることなく斬りかかっていく。
 リィスが何の力を持つ剣なのか。あらかじめ王さまたちから聞いていた。
 神武玉で生み出される武器は、持ち主の魔力治癒力に応じて特別な力が宿る。レードゥの剣イグニィスであれば炎の剣と呼ばれその名の通り火を纏っているし、ヴィルの剣オンディヌは水の剣と呼ばれ常に水を刀身に張っている。岳里のクラティオルにもそんな力があるように、リィスにも当然それは宿っているんだ。
 リィスの力。それは切りつけた部分を灰にしてしまうというもの。相手の剣は勿論、装備するものも身体も、地面も草木もすべてが対象だ。水でさえどういう原理でかは知らないが灰に姿を変えてしまうらしい。だから一度でも触れてしまえばとても危険なものだった。灰に変わってしまった身体には一切治癒術が効かない上に二度と回復することはないからだ。
 もし今岳里が腕を斬り落とされれば、ただの剣でやられたのならすぐに治癒術での処置を行えば接合は十分可能だけれど、リィスでの場合その瞬間に断面が灰になって細胞がすべて死ぬからそれができない。
 だけど、同じ神武玉で作られたクラティオルと、同じく神ディザイアの力が込められているシャトゥーシェにだけはすべてを灰に変えてしまう力は効かないからまだ攻略の手はある。その二本で確実に身体を守り抜けば問題はない。だけど振るう度に空気でさえ灰に変えるリィスに不安を覚えずにはいられなかった。
 不意に、それまで目の前の岳里だけを見つめていたエイリアスの緑の瞳がおれたちの方へ向けられる。ほんの一瞬、だけどその瞬間を岳里は見逃さない。
 右手で握られたクラティオルで大きくリィスを弾くとエイリアスは均等を崩し仰け反った。すると何がおかしいのか笑いながらその場から飛び退いて、シャトゥーシェの追撃から難なく逃れる。
 古びた王座の手前まで後ろ足で戻れば、おれとセイミアに目を向けひどく残酷な顔で口を開いた。

「お荷物がふたつもあるようだな。むざむざそこの竜人の足枷となりにきたか」

 そう薄く笑うと、岳里が壁に開けた大穴から冷たい風が入り込んでくる。今度はそこへ視線を向けて小さな溜息を吐いた。

「まったく、正面からくると思えばまさか脇からくるとはな。わたしは人の手で生み出されたとはいえ、この場所を存外気に入っている。少なくともすべてが終わるまでは使うのだからそうやすやすと壊さないでもらえるか」

 そう言いながら、穴に向かって手を翳す。
 何をするんだろうと警戒しながら見守っていれば、不意に床についた手元に落ちる壁の破片が揺れ始めた。
 気づけば他の破片だけじゃなく、おれの身体よりも大きい固まりさえも動きだし、それは決して中に入り込む風の仕業なんかじゃない。
 恐らくエイリアスがしているんだろうそれを見つめていれば、静かに破片たちが浮いた。重力も何も、大きいも小さいも関係なくひとりでにふわりと宙に持ち上がると、そのまま同じ方向にゆっくりと向かっていく。
 集まったそれらは、ひとつひとつ端から穴を埋め始めた。隙間なくぴとりとはまれば、そこから亀裂まで消えていく。破片が動き出してからそう時間もかかることなく穴は完全に消えて、崩れたはずの痕さえも跡形もなく消えてしまった。
 修復を終わらすとエイリアスは手を下して、また岳里に目を向ける。

「竜体で暴れようとは思うなよ、おまえやわたしはまだしも、巻き添えにはしたくないだろう」
「はなからそのつもりだ。おまえにはこの剣で立ち向かう」

 巻き添えにするというのは、おれたちのことだろう。
 何度でもおれとセイミアを邪魔者だと知らしめるためにあえてそう言い回しくつくつ笑うエイリアスに、岳里は静かにまた言葉を紡いだ。

「何故おまえはその魔術でおれを殺そうとしない」
「――何?」
「魔術の前では、竜人といえども、どんな強い肉体を持とうとも敵うわけがない。何故ならこの手で握れるだけの水を操ることができるだけで相手を殺すことができるからだ」

 笑みを消したエイリアスに、岳里はクラティオルを握る拳を突きつけ見せつける。

「気管を塞いでしまえば、息ができなければ人は死ぬ。そうだろうエイリアス。この手で掬えるだけの水だけでも十分だ。だから魔術は危険なものとされ、魔術を継ぐ者も厳選され正しい心の持ち主にしか継承されぬものとなったんだ」

 岳里は何度か、おれに魔術の危険性と可能性について教えてくれた。同じ姿を持つ竜人が決して竜たちに敵わないのはその差に魔術があるからとも言っていたんだ。
 魔術が使えるというだけで、その立場は圧倒的に有利になると。その力の前では強靭な肉体さえも時には無力になると、それほどの脅威となる力なんだとも。
 エイリアスは口を閉じたまま、普段は口数の少ない岳里が続ける。

「おまえがおれを殺すことなど、本来は造作もないこと。たとえ今魔物を操るために力が大いに削がれていたとしてもそう難しいことにはならないはずだ。それになにも今でなくてもいつでも機会はあったはず――それなのに何故、おまえはそれをしなかった」

 疑問というより確信に近い言葉が投げかけてもエイリアスは答えないまま、ただじっと王座の傍らからおれたちを見下ろす。
 それに岳里は止まることなくさらに口を開いた。

「おれを邪魔者と思うのであればさっさと始末して真司を攫ってしまえばよかったろう。だがそれをしなかった。十五も生きたまま解放すればもし万が一悟史があの時死んでいたとしてもおれたち側につくということが予想できたはず。現に今仲間として、おまえの選んだ滅びに抗っているだろう。それだけでもおまえにとっては面倒が増えるだけであり、ならば去り際にでも死に向かう悟史の身体を酷使してでもおれたち二人をまとめて始末してしまえばよかったんだ。なのに何故おまえはおれを生かし続ける」

 その言葉に、ようやくエイリアスは反応を見せた。
 はっ、と嘲笑うように顔を歪ませて岳里から顔を逸らす。

「生かす? 馬鹿を言え、生かしてやっていたわけではない。おまえの運が良かっただけのことだろう。はたまたわたしの気分が乗らなかっただけか。その時のことなど覚えていないが、殺し損ねた理由など――」
「おれの目を見ろ、エイリアス」

 声を重ね、岳里はその名を呼んだ。
 エイリアスは言葉の途中だった口元を一度閉じると、嘲笑も消して素っ気なく答える。

「必要ない」
「おれの、竜から継いだこの目を見ろ。この金色の瞳を見るんだ」

 おれたちに背を向ける場所にいる岳里の表情は見えない。けれど今、竜人が持つ輝く瞳になっているんだろう。
 その光を思い出しながら、顔を逸らしたままのエイリアスを見つめた。
 果たして、この声は届いてくれるのか――祈るような気持ちで、続く岳里の言葉に耳を傾ける。

「見られないのであればそれでいい。おまえはまだ失った竜を愛している。だから竜の姿と彼らに重なる金目を持つおれたち竜人を殺すことに躊躇い、だからこそ憎しみも捨てきれずにいるのだろう」
「――それがなんだ、そうだとしてどうする。人間を滅ぼさんとするわたしをこれから説得でもする気か?」
「ああそうだ、そのつもりでおれたちはここまで来たんだ。おまえを止めるために――愛することを覚えているのならば、喪失の痛みを忘れてもないのだろう」

 ぴくりと、エイリアスが指先を動かしたところをおれは見逃さなかった。ならきっと岳里もわかっているはずだ。
 だからこそその声に、いつも隠れた感情が込められる。

「それの痛みは、少しでも減らしていくべきだ。喪失で得られるものもあるが失うものは遥かに大きい。守れなかった者の心も苦しめられるだろう。決して、故意に引き起こしてはならない悲しみなんだ。だから――」
「それはただ失った者の痛み、だろう。友を奪われ無残な姿に散らされた、このわたしの気持ちがおまえたちにわかるものか!」

 今度はエイリアスが、叫ぶように岳里の言葉を遮って手を向ける。そして顔を背けたまま出した手の平から魔術の風を生み出した。

「岳里っ!」

 最後まで見守ろうと決めていたはずの口から、咄嗟に声が飛び出る。けれどそれさえも掻き消すような音を立てながら恐るべき速度でいくつもの風の刃は岳里へと襲い掛かり、今度こそ容赦なく殺しにかかった。
 ――けれどおれたちを守るように立つ身体に傷が刻まれる前に、それらはすべて勢いを殺してただのそよ風となる。ただ少し長い岳里の黒髪をそよがしただけ。それはおれとセイミアの方にまでふわりと流れて、同じくおれたちの髪で遊んで消えていく。
 それに誰より驚いたのは、エイリアスだった。

 

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