それは予想通り、されど唐突に起こった。

「ぐっ――」

 これまで普段となんら変わらぬ様子で木刀を振るっていた岳人が、胸を押さえ大剣を模したそれを手から落とした。そのまま両膝を地に着け、うずくまる。
 その異変に、他の隊員の相手をしていたヤマトやコガネ、木陰で休んでいたヴィルハートが岳人へ駆け寄った。ヴィルハートに抱えられていたジィグンもまた彼の元へ同じく集う。

「岳里、どうした」

 ヤマトが岳人の肩に手を置き、顔を覗き込む。その顔を見た途端に、ヤマトは驚いて目を見開いた。
 ゆっくり挙げられた岳人の顔に、ジィグンも目を見張る。
 岳人の右の瞳が、金色に輝いていたのだ。獣化の影響なのか、まだ不安定らしく元の色に戻ったり、今度は左目が金に色を変えたりする。
 本来、獣化しようがしまいが、瞳の色が変わることはない。それなのに岳人はちらちらと安定することなく色を変えていた。それも、このディザイアではそう見ることのない金色に。
 だが、それに目を奪われているばかりではいられない。
 やはり岳人はジィグンや他の者が予想した通り、発作による獣化を拒否している。それが故の痛みに、顔色すらそう変えぬ岳人が苦痛をはっきりと表情としていた。
 脂汗が垂れた頬が、ぴきりと音を立て、色を変え始めた。それを確認したジィグンは、これは確かに獣人特有の発作とみて間違いないと判断し、自身の獣化を解く。

「岳里、おまえはやっぱり獣人だったんだな」
「――っ」

 人の声を失っている岳人は、突然姿を現したジィグンに驚く様子はなく、しかし強い眼差しを向けた。
 すでに両目は金色に変化していた。瞳孔も縦に裂けている。だが一度見たそこでなく、今度は岳人の頬へ注目せざるをえなかった。

「……おい、岳里おまえ」

 思わず、ジィグンの口から言葉が零れる。岳人はその理由にすでに見当がついているのか、彼は他の三人からも視線を注がれる、その頬に触れた。
 そこにあるのは、紺色の鱗。硬質だというのは一目でわかり、つるりとしたそこが日の光を映している。
 肌の変色はじわじわと侵食するように進み、ある程度広まるともう一枚鱗が浮き出た。
 それはどう見ても魚類の持つ鱗とは違う。恐らく、爬虫類のもの。

「おまえ、本当に獣人か……?」

 思わず声が震えたが、この場にいる誰一人としてジィグンの動揺を指摘する者はいなかった。
 ――獣人たちには誰一人として、爬虫類の者はいないはず。ならば、今岳人の頬に現れる獣化現象による、もうひとつの姿を現そうとするそれは、なんだと言うのだろう。
 獣人と一言に括られているが、実際は大まかに括って獣、鳥、魚の姿を持つ半人のことを総称して獣人と呼ぶ。獣人と呼ばれる理由が、一番獣の姿を持つ者が多いからだ。鳥と魚の半人は数が少ない。
 獣人はその三種のみで、他に自然界に存在する動物の爬虫類や、節足動物、魚と同じはずの水辺の生き物である軟体動物の姿を持つ者はいない。
 つまりは岳人も獣か、鳥か、魚の姿でなければならないのだ。ジィグンやヤマトが獣であるように、ハヤテが鳥であるように、ミズキが魚であるように。
 だが岳人の頬に現れたそれはどれにも含まれない種のもの。

「――今は岳里が優先だ。ここでは人目につく。こやつを二風(にかぜ)の庭へ運ぶ、ジィグン、ヤマト、手伝ってくれ」
「ならばおれは主を連れて来よう。……岳里、おまえの主は誰だ」

 ヴィルハートの指示に続き、コガネは未だ蹲り続ける岳人の隣に膝をつき、その顔を覗き込んだ。

「この世界の文字を知っているな? 話せないのなら名を書け」

 コガネに言われるも、岳人は動かなかった。

「岳里っ、早く答えてくれ! 君の主は誰だ、どこにいる?」

 岳人の発作の苦しみを知るヤマトが声を荒げ肩を揺するが、荒い息ばかり吐く岳人が答える素振りはない。
 まだ暴れださないにしても、その身に降りかかっている苦痛は決して軽いものでないのを、強く握りしめられ震える岳人の手が物語っていた。だがそのせいで地に文字が書けないわけでない。
 彼はここにいない自身の主を思うが故、答えられないのだろう。

「――恐らく、真司であろう」

 ヴィルハートの口から出た名に、確かに岳人の瞼がぴくりと動いた。

「こやつが異常なまでの執着を表すのは真司のみ。他に、真司以上の候補はいまい。いたとして一番可能性があるのは真司だ」
「……そう、だな。おれもそう思う。まずは真司を呼ぼう。違がかったとして、何かしらの手がかりを得ているかもしれないしな」

 コガネは岳人の傍らについていた膝を浮かせ、立ち上がる。彼もまた、岳人の些細な変化を見逃さなかったのだろう。しかしそれを確信することは避け、最後に岳人へ一度視線を向けてからすぐに駆け出した。
 その姿を見送ってから、次にヴィルハートが行動を起こす。

「わらしらもゆくぞ。早うせねば岳里とてこれ以上苦しみを抑え込めず暴れ出すやもしれん。とにかく他の者を遠ざけねば」

 ヴィルハートは溜息をひとつつくと、決して動じることなく己が率いる、その場の十三隊に所属する兵士に指示をした。
 このことはまだ他言せぬこと。これから岳人を二風の庭へ移る際の護衛、その後中庭の警備をし、人目に岳人を触れさせぬこと。とにかく、岳人の現状を何としても外に漏らすなというものである。
 だが、アロゥを早急に呼びだすことはしなければならない。また、王への報告も合わせ、何人かは別に動かす。
 指示を終え、岳人がまだ理性を残し自ら身体を動かせるうちにと、迅速に次の手順へと進む。
 岳人の両肩をヴィルハート、ヤマトの二人で支え、ジィグンは補助へ回る。
 十三番隊の者を先に据え、道を確保しながら少しずつ進んでいった。
 そうして無事、外部に漏れぬよう岳人を中庭に運び終えた時、岳人自身の緊張も解けてしまったのか。再び容態が急変した。
 獣のような雄たけびを喉から震わせると、それまで岳人を支えていた二人を突き飛ばした。自らは地に両膝を崩すと、そのまま頭を抱え振り乱す。その最中にも届く岳人の声はやはり人ならざるものであり、苦痛に暴れまわる。
 あまりのその苦しみからか、岳人は胸を押さえた。しかしそれでは収まらず、今感じるものを紛らわすためなのか、それとも他を傷つけようと暴れ出そうとしているからか、自らの左手に右手の爪を突き立て、その動きを制する素振りを見せた。
 爪にも獣化が始まっているのか、そこは黒く色を変え、少しずつ伸びて先が尖っていく。容赦なく人間の肌のままの、岳人の手の甲へと突き刺さり血を流させた。

「――っやめろ!」

 その姿を見ていられなくなったジィグンは、今の岳人へ近づくのは危険とわかっていても無意識のうちに身体を動かしていた。

「岳里、やめろ! やめんだ馬鹿!」

 岳人の右腕を掴み引き上げようとするが、恐ろしいまでの力で岳人自身も傷を与えているため、ジィグンの力では全く微動だにしない。
 だが体制を立て直したヴィルハートとヤマトが力をジィグンに貸せば、さすがの岳人といえども右手が左の甲から離れていく。その瞬間にずたずたに傷ついた岳人の左手の甲は鱗に覆われ、傷が見えなくなった。

「ヤマト、ジィグン、おぬしらは右を押さえよ! 決して気を許すでないぞ!」

 ヴィルハートの怒号のように響く声に、ジィグンとヤマトは即座に従い岳人の身体を押さえつける。
 三人の力、うち一人は化け物と称される怪力の持ち主で、うち一人は獣人の中でも上位の実力を持つ者で、その間に挟まるジィグンもそこそこに腕力はある。
 しかし、その三人の力を持ってしても、上から岳人を抑えつけることで精いっぱいだった。半ば自我を失いかける岳人は普段ならば決して上げることのない唸り声を低く響かせ、抵抗する。
 生意気で、失敬な態度をとることもある岳人が、別人のように、暴れている。それほどまでに発作は強力であり、多大な苦しみを彼に与えているのだ。
 ジィグン自身は発作の経験がないまでも、これまで何人か発作に苦しむ獣人たちをみていた。皆同様に激しく暴れ苦しんでいたが、ここまで長く発作に耐えた者はいない。そして、こうまでに己の身の不安を感じることもなかった。
 今岳人を離してしまえば、殺される。そう、ジィグンは感じた。
 気を抜くこともできず、しかし常時全身に力を入れ岳人を抑えるのには著しく体力を消耗してしまう。顎の下からぽたりぽたりと、拭うことのできない汗が滴り落ちた。それはジィグンだけでなく、同じく岳人を抑える二人もで、ヴィルハートもヤマトも汗を流している。
 だが、一向に岳人の体力には衰えが見えない。むしろ、時間が経つごとにさらに抵抗する力が増しているように思えた。
 コガネは、真司はまだなのか。
 奥歯を噛みしめ、二人の登場を待つジィグンの体力はすでに限界に近かった。本当なら、もう手放してしまいたいとさえ思えるほど、感覚が麻痺し始めている。
 だが、耐えれぬはずの痛みにも屈せず獣化を拒む岳人を思えば、自然と心は奮い立つ。
 一体何が、彼をそこまでさせるのか。それはジィグンにはわからない。しかし、あの岳人がここまで苦しんでまで耐えているのだ。ならば、ジィグンとて諦めるわけにいかない。
 やがてコガネに連れられ現れた真司が浮かべた感情を、ジィグンは本格的に暴れ出そうとする岳人を押さえつけることに手一杯なのだと自身に言い聞かせ、見ることはなかった。

「っ岳里!」

 しかし、目を覆ったとして悲鳴のような、悲痛な真司の声は耳に届く。そしてすぐに変わった、戸惑う声。
 今岳人に起きている現象を、真司は知らないのだろう。
 当然といえば当然のことだ。本来真司の元いた世界に獣人はいないようであるし、ジィグンたちが教えた獣人に関することは随分と浅い知識に留めてある。発作のことなどは教えていない。
 何が起こっているのか。どうして岳人が苦しみ暴れているのか――その頬に暗い色をした鱗を生やしているのか。彼は、何一つとして知らないのだろう。
 真司を襲う動揺が、微かにもれるその声から十分窺うことができた。だが、今説明している暇などない。

「――っ!」

 岳人が低く唸ると同時に、さらにその身に変化が訪れる。これまで黒かったはずの髪色が、瞬時に根元から毛先へ色を変えたのだ。それは鱗と同じ色。
 発作に抵抗している岳人だが、着実に獣化は進んでいるのだ。

「が、くり……岳里」

 戸惑いを色濃く残しながらも、真司がこちらへ歩み寄ってくる。恐れを覗かせる声音を震わしながら、それでも懸命に岳人の元へ来ようとしていた。
 不意に、真司が駆け出し、そして苦しみにもがく岳人の傍らに膝をついた。

「岳里、どうしたんだよ、何があったんだよ!」

 その瞬間、ジィグンが触れる岳人の身体に変化を感じた。なんだ、と疑問に思うよりも先に、気づけば自分の身体が吹き飛ばされる。視界の端では同じように、彼を押さえつけていたはずのヴィルハートとヤマトがそれぞれ地を転がった。

「ぐっ」

 背を地面に打ち付け、思わず呻いてしまう。勢いに数回身体を転がし、頬に小石が掠り、薄らと傷を作る。
 全身の鈍い痛みに顔をしかめるも、すぐに岳人へ顔を戻すと、彼は真司に迫っていた。鼻先が触れ合いそうなほど、間近まで顔を寄せる。
 そのまま、食らいつくのではないか。そんな不安をジィグンは抱いたが、触れる直前でぴたりと岳人は動きを止めると、歯を噛みしめる素振りを見せ、そのまま驚きに固まる真司を後ろへ突き飛ばした。
 その時、ジィグンの目に映るのは歪んだ岳人の顔。耐えがたき痛みに耐え、自ら突き放した真司を見つめていた。
 それは決して肉体の痛みではなく。精神が圧迫される痛みに苦しんでいるように、ジィグンには思えた。
 押された真司は多少後ろに転げただけで、すぐにコガネが助け起こす。
 岳人は苦しみを思い出したかのように、再び荒々しい声を上げたところを体制を立て直したヴィルハートが飛びかかり抑え込む。それに続きヤマト、ジィグンも岳人の元へ集まった。
 心なしか、先程よりも暴れる力が弱まった気がする。そして、頬から、手の先から徐々に皮膚が鱗に覆われる速度も上がっていく。
 これは、岳人が獣化への抵抗を弱めたからだろう。そして、先程真司に迫ったのは恐らく、“主”の身体を欲したが故。
 まだ証の確認もしておらず確証はないが、その二つを考えれば、岳人の主は決まったもう同然だ。

「この反応、やはり真司で間違いないみたいだ」
「ジィグン、アロゥはまだ来ぬか」

 ヤマトもヴィルハートもジィグンとは同じ考えらしく、ようやく言葉を交わす余裕を出した。それを確認したジィグンは岳人へ向ける力を弱め、己の左腕にある契約の証へ意識を集中させる。
 証を通じて、アロゥの居場所を探ろうとすると、確かな熱を証は伝えてきた。それを確認したうえで、ジィグンは疲れに枯れる声を絞り出す。

「……もうすぐ傍まで来ているようですが、岳里が人体を保つのはもう限界です。一度、姿を変えさせましょう」

 ジィグンの言葉に、一度ヴィルハートが真司へ視線を向けた。ジィグンもそこへ目を向ければ、呆然とした様子で岳人を見つめる彼がいる。

「これ以上長引かせてもただ苦しむだけ――岳里、聞こえているな。もう真司に隠し通すことはできぬ。不本意な傷を作りたくなければ、その本能に抗うな」

 その言葉を岳人へ告げると、ヴィルハートは岳里を押さえていた手をゆっくりと離した。それに続きジィグンも身体を離し、ヤマトも距離を置く。
 岳人はヴィルハートの言葉をきっかけに諦めたのか、ここから急速な獣化が始まった。
 それを眺めながら、ジィグンは疲れのあまりにその場に落ちるように腰を置く。息は整う様子を見せず、堪らず顔を下げ脱力した。流れる汗がぽつぽつと滴る。落ち着きを取り戻そうと深呼吸をしてる間にも思うは、やはりついに発作による獣化に身を任せた岳人のことだ。
 岳人が、ここまで獣化を拒んだ理由。それは間違いなく、主であろう真司を思ってのことだろう。もうどうあがいても真司に言い訳すらできないから、彼ももう一つの姿を拒む必要はなくなった。だから、諦めた。
 岳人が獣人と判明した以上、今後新たに様々な疑問が立ちふさがることになる。
 ――ともに異世界より出でたはずが、獣人は本来真司の世界にはいない存在。それなのに何故、彼は“獣人でありながら獣人の存在しない異世界から、獣人の存在するこの世界に訪れた”というのか。
 確かに初めから岳人は異質であり、匂いも人間らしくなく疑われることがあった。しかしそれが疑いから抜け出せなかったのは何より、真司がいたからだ。
 真司が岳人を同じ世界の者だと信じきっていて、一切の疑問も抱いてはいないようだった。だから本当に岳人は単なる人間で、人間の中での異質にすぎなかったのかと。
 ――ここを訪れた時に、困惑しながら岳人を呼んだ真司は、本当に彼が人間だと信じきっていたのだろう。疑う余地もないと言わんばかりに、同胞である岳里に多大な信頼を寄せていた。岳人自身もそんな真司を守るために、常に目を配らせていた。
 以前はどうして岳人が真司をそこまで守ろうと動くか、よくわからなかったが、今ならわかる。
 主は、獣人にとって身を挺しても守るべき存在。自分の命と同じ。獣人が主を守るのに特別な理由などいらない。
 だが、真司は何故岳人の主だというのに、岳人の正体を知らなかったのだろう。
 そんな当たり前に浮かぶ疑問に頭を捻らそうとしたジィグンの思考は、ジィグンの身体をすっぽりと覆ってしまうほどの巨大な影に遮られる。
 思わず顔を上げた先の視界に映ったのは、もう一つの岳人の姿。それを見て、ジィグンのみならず、すぐ脇で立っていたヤマトが息を飲む。
 見上げるほど大きなその姿は、獣人の括りに当てはまらぬ種であるはずの、“竜”だった。
 夜に二度会ったあの時の竜が、今おれの目の前にいた。暗い場所では黒く見えていたけど、その鱗は紺色で。でも、色は違く見えてもその姿は紛れもなくあの時の竜で。
 今までおれの目の前で苦しんでいたはずの岳里が、いつの間にか竜になってて。
 おれはただその姿を見上げるしかできない。吐く息が、無意識に震える。

「遅くなった。ヴィルハート、ヤマト、ジィグン。よく岳里のわがままに付き合ってやったな。あとはわたしが相手をしよう」

 いつの間にかおれの隣にアロゥさんが立っていた。普段はついていない杖をつきながら、目の前の巨体を見上げる。その目はいつもとなんら変わらず落ち着いていて、目の前の竜を見ても驚く素振りを一切見せない。
 竜もアロゥさんを見つめ返し、互いに視線を送りあう。まるで、目線で会話をするように。
 そこへ、ジィグンが駆け寄ってきた。

「アロゥ! これはさすがに聞いてねえぞ……!」

 落ち着くアロゥさんとは対象に、ひどく慌てた様子のジィグンは口早にアロゥさんに詰め寄る。
 けれどその姿を気に留めるようもなく、竜からゆっくりと視線を逸らしジィグンを見た。

「ジィグン、わたしは何も彼を“獣人”とは言っておらんぞ」
「獣人、じゃないだあ? なら、岳里は――」

 杖を手にしない空いた右手で長いあごひげを撫でるアロゥさんに、ジィグンは片眉をあげさらに言葉を続けようとして、ふとおれを見る。するとしまった、と言いたげに口を閉ざし視線を顔ごとそっぽ向く。

「――すまないが、あとはわたしとジィグン、真司と岳里だけにしておくれ。本件については後ほど、場を設けわたしから皆に話そう」
「承知した。コガネ、ヤマト。わしらは退くとしよう」

 いつの間にか周りに集まっていたヴィルたちは、アロゥの言葉に頷きすぐに中庭から離れていく。
 残されたおれは、もう一度竜へ目を向ける。竜の金色の目も同じようにおれを見ていた。

「真司。もうこの竜が誰なのか、わかっているね?」

 かけられる優しいアロゥさんの声。でも、その声に応えたくない。
 だって、全然違う。あいつは確かにでかいけど、でもこんな、周りの木々すら超すほど人間離れしてない。爪だって、歯だってあんなんじゃない。翼なんてないし、角だってないはず。目だって、金じゃない。
 何もかも、全然違う。違うんだ。そんなわけ、あるはずないんだ。

「……真司。おまえが認めたくないのはわからないわけじゃない。だが否定しないでやってくれ」

 ジィグンのどこか辛そうな声に、おれは堪らず唇を噛みしめた。
 違う、はずなのに。姿は何一つ重なるところはないのに。でも昨日の夜に触れた熱は確かにあいつのもので。今おれを見る目も色は違くても、あいつのもので。
 俯き、少し伸びた爪が掌に食い込むくらいに強く、おれは拳を握った。
 ゆっくりと唇を開いて、認めたくないその事実を口にする。

「あの、竜は……岳里、なんですね」

 そろりとアロゥを見れば、頷いた。

「真司、手を貸してもらえないか」
「手を……?」
「ああ。指先に少し、傷をつけさせてもらいたい。きみの血が必要でな。許してくれるかな?」
「――岳里の、ため?」

 アロゥさんが頷いたのを見て、おれは握った拳を解いて、人差し指だけ立てて差し出した。
 後ろに控えていたジィグンが前に出て、おれの指先を掴み、胸元から短剣を取り出す。鞘を口にくわえ、そのまま刀身を抜き取り指先に刃がぴたりと宛がわれる。よく手入れされてるのか、日差しをも鋭く反射するそれを見て、無意識のうちに手が汗を掻く。
 ジィグンもおれの緊張を理解してくれてるのか、一言いくぞ、と言ってくれてからすぐに刃を滑らせた。

「……っ」

 短剣が離れ、おれの指先には赤い線がひかれる。ぷくりと小さな玉が浮かび、確かに血が溢れていた。
 でも身構えていたよりも痛みはなく、少し指先がじんと感じるくらいだ。

「真司、それを岳里へ」

 しばらく自分の指の血を見つめ、それから高くにある竜の姿をする岳里へ、その指先を差し出す。
 そこへ寄せられる、おれの身体ほどもある大きな顔。触れる寸前まで近づくと、僅かに口を開け、長い舌を伸ばしてきた。
 器用に指先を一舐めすると、すぐに首をひっこめる。おれも手を戻しもう一度指先に目を向ければ、そこに赤い色はなく、ただ薄らとひかれた傷跡が残っているだけだった。

「岳里。これでもう姿を変えられるだろう? 話がしたい。人体になってくれ」

 竜はアロゥさんの言葉を聞いて、一度おれに目を向ける。けれどすぐに逸らしてまたアロゥさんへ戻すと、ゆっくりを金色の瞳を閉ざした。
 畳んでいた翼を広げると、自分の身体を覆うようにまた前を隠す。
 竜に姿を変える時を巻き戻したように、翼に隠された部分が小さくなっているのかそれに合わせて高さが下がっていく。
 最後に翼が開かれて、そこにいたのはやっぱり岳里だった。相変わらずの読めない表情だけど、でも瞳は金で、髪もまだ伸びたままで色も紺のように黒でなく青みがかっていて。
 翼は音もなく薄青い小さな光となって消えていき、それと同時に岳里の髪も、目の色もいつもの姿に戻る。
 竜の姿はもうどこにもなくて、いつもの、いつもの姿となんら変わらない岳里がいた。

「岳里、もう苦しみはないな?」
「――ああ、発作は収まった」

 アロゥさんの問いかけに、岳里はあっさりと口を開いた。
久しぶりに聞く岳里の言葉を素直に喜べないのは、どうしてだろう。

「うむ、ならば場所を移すとしよう。――その前にまず、セイミアのもとかな」

 岳里へ向かっていたアロゥさんの視線が僅かに下がったのを見て、おれもつられるように目線を落とす。
 すると、アロゥさんの口からセイミアの名が出た理由が、すぐに分かった。岳里も視線に気づいたのか、僅かに注目の集まる左手を少し自分の後ろへ動かし隠す。

「痛みはない。それよりも早く――」

 それよりも早く、移動しよう。きっと岳里はそんな馬鹿なことを続けようとしたんだろう。けれどそれが途中で区切られたのはたぶん、おれが動いたから。
 おれは、岳里との間にある距離を一歩一歩踏みしめながら傍まで歩み寄った。すぐ傍らで足を止め、岳里が隠そうとする左腕に手を伸ばす。珍しく岳里が慌てたようにさらに腕を奥へやろうとしたけど、その前におれが捕えた。
 ぐっと前に引き出せば、観念したように素直に動きに従ってくれる。だからこそその手の甲に刻まれた傷が、すべておれの目に映しだされた。
 何かで、ずたずたに裂かれたようなそれ。今も血が流れて岳里の指先に流れてぽたぽたと落ちていく。
 岳里の右手を見てみれば、その指先が血に染まっていた。
 余程力を込めたのか、肌が、抉られていた。岳里の爪と同じ太さの線が数えられるだけで六本ある。少なくとも、二回は引っ掻いたんだ。
 おれがその傷を見つめるのを、岳里は何も言わなかった。アロゥさんも、ジィグンも。早く傷をセイミアに見せた方がいいとわかっているはずなのに、ただ様子を見守る。
 おれは目を閉じて、そっと、岳里の手の甲の上に自分の手を翳した。
 掠り傷とはかけ離れた程度の傷だから、おれでは完全に治すことはできない。でも、せめて。せめて止血ぐらいの役割を果たすことができれば。
 目を閉じても浮かぶ岳里の左手に唇を噛みながら、指先に、手に、腕に、全身に。ぎゅっと意識を集中する。
 じわりとおれの手が熱を帯び始めると、岳里の手が僅かに動いた。けれどそれに気づかないまま、おれはただひとつを、ひたすらに思う。

『――治癒術はとにかく、気持ちで扱うものです。治したいと、真に願う気持ちが大切です。どんな時でも、治癒術を扱うときはその気持ちを忘れないでくださいね』

 セイミアがおれに治癒術を教えてくれた時に一緒にくれた言葉。――治したいと、真に願う気持ち。
 手先の熱が徐々に収まってきたから、ゆっくりと目を開ける。そっと岳里の手の甲を覆っていた自分の手を退かし、傷の具合を確認してみた。

「……傷が」

 血が止まってるといいけど、と思ってそこを覗いたおれは、無意識に声をもらしていた。
 確かにひどい傷がそこにあって、だからおれは気休めにと治癒術をかけただけなのに。それなのに、傷は跡も残らず消えていた。おれの術はまだ、かすり傷程度しか治せないはず。
 けれど見間違いようがなく、確かに岳里の傷は消えていた。
 不意に岳里が左手を下し、変わりに右手を動かす。袖を引き上げると、そのままおれの顔に布地を触れさせる。

「っ、なに――」

 咄嗟に身体を引くと、それを見越したように岳里も動く。顔を上げると、そこには辛そうな顔をする岳里がいた。

「泣くな」

 目尻を拭かれ、そう言われて、おれはようやく自分の頬が濡れてることに気が付く。ぼろぼろと目から零れて、落ちていた。
 いつの間に、おれは泣いてたんだ?

「……離せっ」

 おれは岳里を突き飛ばすように離れて、自分の服でごしごしとそれを拭く。涙はすぐに止まった。
 最後に鼻を一度啜って、おれはアロゥさんの方へ向き直る。

「アロゥさん。おれは今すぐ、説明してほしい」
「――そうだな。岳里の傷も癒えたことだし、君が望むのであれば、この場で話そうか」

 おれの言葉にアロゥさんは穏やかに笑んで、ジィグンと一緒におれたちの傍まで歩みよる。
 それから、立ったままではわたしも歳で辛い、と言ったアロゥさんに合わせて、おれたちは円になるようにその場に直接座り込んだ。

「さて。まずどこから話そうか」
「いい、アロゥ。おれが話す」

 ううむ、とひげを撫でたアロゥさんに、岳里が言った。
 隣に座る岳里へ視線を映せば、岳里はおれを見返そうとはせず、前を少し俯きがちに見ながら、ゆっくりと口を開いた。

「おれは、この世界ディザイアの人間だ」

 

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