しばらく木々の間縫うように歩くと突然道が開ける。その先には少し前に見たばかりのアモル・バロークがそびえたっていた。初めて見るセイミアはその白い姿に息を飲み、おれも、この木から今は卵となった宝種を手の中で撫でる。
 大樹の手前には、岳里の祖父であるカランドラさんがいた。根元近くに直接座り込み、胡坐を掻いて深く目を閉じている。
 おれたちの気配を察したのか、静かに金色の瞳が開かれた。その目はそれぞれの姿を確かめるように見据えると、ゆっくりと立ち上がり出迎えてくれる。

「よく戻ってきた、がくと、盟約者どの」

 おれが深く頭を下げると、それを見届けた後カランドラさんはセイミアを見て、治癒術師どのか、と疑問ではなく確定しているように言った。あらかじめ岳里が治癒術師をつれてくるというのを知ってたんだろう。
 自分へ向けられた目にセイミアは動じることなく名乗りそれにカランドラさんが返すと、一度沈黙が訪れる。カランドラさんの厳格さがそうさせるのか、それとも緊張が高まっているからなのか。
 決しておれじゃ口を開けないこの状況を、カランドラさんが静かに破った。

「盟約者どの。宝種を見せてもらえるか」
「は、はい」

 すうっとおれへ向けられた視線に、身体は頭で考えるよりも先に手にしていた宝種である卵を前に差し出していた。
 カランドラさんは摘まむように人差し指と中指、それと親指の三本でつかみ持ち上げ、改めて空いていた片方の手の平に卵を転がす。何度か手首を動かし、色んな角度から手の中のものを見つめ、しばらくそうしてからお礼を言っておれに返してくれた。
 両手で大切に包み直している内に、カランドラさんは相変わらず抑揚のない、けれど威厳ある声音をどこか少し和らげながら言った。

「これならば、良い子が生まれるだろう」
「ほっ本当ですか!」

 思わずおれが声をあげれば、カランドラさんは少しだけ目尻を下げた。
 その視線が少しだけ気恥ずかしく、つい手の中に納まる卵へ目を落としてしまう。けれど、下を向いたおれの顔は隠し切れずについ緩んでしまっていた。
 竜族の長である、カランドラさんがああ言ってくれたんだ。きっと岳里と同じでお世辞を言うような人じゃないから、あの言葉は本当だろう。だから嬉しかった。
 おれたちの子は良い子。なら、きっと元気に生まれてきてくれるはずだ。
 もうすぐ、もうすぐ会える。どんな顔をしるだろう、どんな声をしてるだろう。
 胸に巡る想いにいつの間にか妙な緊張は解けて、おれの心は体の中で静かに弾みだしていた。そんな風に一人喜んでいるうちに、普段の無表情へ戻ったカランドラさんはおれたちに背を向け歩き出す。

「――こちらだ。ついてこい」

 それはさっきの声とは打って変わってかたいものに変わっていた。それに浮ついた心もすぐに地に足をつけ、カランドラさんの後に続く。
 ほんの歩いて足を止めたのは、さっきいた場所とはちょうど反対くらいの大樹の根元だった。ちょうど太い幹を辿るように半周して、カランドラさんはおれたちに振り返り、視線で幹の傍らに置かれたものを示す。
 そこには、台座のようなものがあった。石で作られ、柱のよう細く長く、におれの腰程の高さまである。上には鳥の巣のように、たくさんのアモル・バロークの小枝を集めて作られた器のようなものが置いてあった。
 とくに装飾も彫り込まれてもなく、けれど白い巨大樹を背後にしても不思議と違和感のないような、そんなもの。
 カランドラさんはじっとそれを見た後、おれだけに向き直る。

「あそこに宝種を置いたと同時に、儀式は始まる。盟約者どの、儀式についてがくとからは何も聞かされていないな?」
「は、い。しきたりと言われ、何も教えてはくれませんでした」
「その通り。これは資格を問う、覚悟を問うもの。人はその現象に直面せねば己の出す行動はわからない。だから教えずにここまできてもらった。それを、今から説明しよう」

 そう切り出してから、カランドラさんは相変わらず静かな声で儀式の全容を教えてくれた。
 まず卵となった宝種を、アモル・バロークの枝で作られた、巣のような見た目をする台座の上に置く。それが儀式開始の合図だ。
 儀式とは、さっきもカランドラさんが言ったように、問いかけるもの。
 竜人は人間に比べて肉体の造りが優れている獣人のさらに上をゆく――この世界の上位に位置する種族だ。最強と謳われる竜の姿をも持つ竜人は、おれの乏しい想像力の遥か上をいく強さを持っているそうだ。でも、だからこそ親となる、育てる人の人格や素質が問われる。
 力が強ければ強いほど、それは絶対的なものとなる。竜人ならば人であろうが獣人であろうが、魔物であろうが。大抵の相手が敵わない存在。だからこそその力を悪用しようと考える人間が出てきてしまう。
 敵わない相手には端から抵抗する気は失せるし、例え反抗されても力でねじ伏せてしまえばどうとでもなる――それだけの力を、竜人は持っている。
 大人の竜人であれば悪事に加担するようにとささやかれても耳を貸すことすらしない。その精神力も、善悪を知る聡明さも竜人は持ち得るからだ。けれどもし、なんの分別もない赤子が幼い時からそれをささやかれていたら。ましてや、育ててくれた信頼をおく相手に言われたら。たとえ竜人といえども何も知らないまま安易に悪いことにも手を貸すだろう。
 だから親となる者は決して生まれてきた竜人の我が子に悪事の片棒を担がせない人である必要がある。それに、力を持つ我が子にその使い道を育てながら教えていくという役目もある。勿論育てる途中で何があるかもわからないし、ずっと善良な人間であり続ける保証はない。けれど初めから持っている、子が産まれてくる瞬間に持っている良心が大切なんだ。
 これは親となる人間、竜人どちらにも問われる資格だ。両親が竜人となる場合不要だが、相手が人間である竜人は盟約者を深く愛するあまりに誤った道にも踏み出すこともある。だから、たとえ愛する盟約者の言葉にも耳を傾けず、我が子を守れるか、と竜人は問われるんだ。
 つまり結局は、すべては人間側にかかっているということだ。人間側の心次第で儀式は大きく左右される。だからこそもうひとつの問いかけは、盟約者。人間側に求められるものになっていた。
 もうひとつの問いかけ。それは、生まれてくる我が子が自分と違う姿を持っていても、それを受け入れられるかというものだ。
 竜人は竜と人との混血児。竜の姿も持つし、人間の姿も持つ。獣人が獣と人の姿を持つのと一緒だ。
 混血児であろうともそれが友であれば、恋人であれば受け入れることができるかもしれない。だけどそれが血を分けた我が子となった場合、本当に自分とは異なる姿を持つ赤ん坊を愛し、育ててやれるのか。その姿を恐れないか、厭わないか。
 我が子の姿を心から受け入れる覚悟があるか、我が子の力を悪用しないと誓える心があるか。誕生の儀式は、それを問いかけるものなんだそうだ。
 そして。
 カランドラさんは大方を話し終え、最後にこう伝えてきた。

「宝種を台座へ置けば、その瞬間から目には見えぬ風の刃が発生する。それはおまえたちの肌を裂き、抉り、痛みを与えるだろう。最初に起こる風では誰も死にはしない。だが親となる二人の心が“問い”に応えられなければ卵はおまえたちを強く拒絶し、触れることを許さない。さらにより風は力を増してその身を傷つけ、最悪死すらもありえるだろう。たとえ応えるだけのものがあったとしても、卵に近づけばそれだけ風も力が高まる。しかしそれを乗り越え、痛みさえも振り切ることができれば。そうして宝種に触れることができればその時、子は生まれ、この世にその産声を響かせる」

 そう、岳里と同じ金色の瞳を逸らすことなく言葉を紡ぐ。そして静かに続けた。

「決して楽はない。むしろ強い苦しみがそこにあるだろう。死すらもありうるものであり、実際儀式によって命を落とした竜人、盟約者は数え切れぬ。それでもやるか。がくと、その盟約者、しんじよ」

 問いかけるカランドラさんの言葉に、岳里はおれを見た。その腹はもう決まっているようで、あとはおれの意思に任せようとしてる。
 ここでおれがやっぱり怖いと、そう首を振ればきっと岳里はわかったと頷いてくれるだろう。ならばやめようと、子どもを、諦めるだろう。
 じっくり考える暇はない。そうさせないために、しきたりによって直前にこうして竜人の生まれを話されたんだ。その場で即決し出した答えが必要だから、だから。たとえここで子どもを諦めたとしても、カランドラさんも岳里もきっとおれを責めたりしない。むしろ脅しにかかってきてるんだ、今首を振っても納得さえしてみるかもしれない。
 風の刃、っていうものがどんなに痛いものかわからない。本当におれが親になるのか、なっていいのか、なれるのか。全部わからない。きっと口先だけで覚悟があると、資格はあると答えても意味はないだろう。だからこそわからないっていうのはとてもまずいことかもしれない。儀式が始まってからやっぱりおれは無理だってなっても駄目だ。でも、もうおれは決めたんだ。
 もうとっくに答えはある。カランドラさんの話を聞いても、変わらないもの。変わるわけがないもの。
 だっておれはもう、選んだんだ。
 声も出さず、頷きもせず、何も行動せず答えだけを胸に置き、ただカランドラさんを見つめる。岳里と同じ金色の瞳もおれを見返し、沈黙が訪れた。
 やがてカランドラさんは深くその目を閉じる。そしてまた開き、真横に結んだ口を重たく開いた。

「これより竜人生誕の儀を行う。竜人がくと、盟約者しんじ、台座の前へ立て」

 そこでおれはようやく頷き、岳里と顔を合わせてから一緒に台座の前へ向かった。
 その時、カランドラさんはそれまでおれたちの後ろで控えていたセイミアに声をかける。

「儀式を無事終えたとて、中断されたとて、二人は全身に傷を負っていることだろう」
「――わたしは、すべてを終えたお二人の回復に務めればよいのですね」
「そうだ。ただし、決してわしがいいというまで動くではないぞ。瞬間を誤れば治癒術師どのまで儀式の巻き添えを食うとも限らない」

 カランドラさんの忠告にセイミアは深く頷き、そのまま指定された場所まで離れていく。
 その間にも台座の前まで足を運んだおれたちは、互いに身を寄せ合いながら二人で卵を支えていた。小さな卵が、おれの手にころりと転がっている。その下を支えるように岳里の手が重なる。
 いつの間にか冷えていたおれの手は、こんな時でも温かい岳里の手からじわりと熱をもらった。

「おまえ似がいい」

 ふとそんなことを言う岳里に、すぐには理解できずに思わずその顔を見つめてしまう。けれどおれの方を向いて僅かに口元を綻ばせた岳里の顔を見て意味を悟り、気づけば同じ表情を返していた。

「岳里に似てくれた方がいいな。男でも女でも、きっと綺麗な顔だろうから」
「おまえに似たらどちらであろうがかわいい顔をしているだろうな」
「……いや、おれの顔は普通だから。てか、男で可愛いは可哀想だろ」

 そうか、と不服そうに言った岳里にそうだよ、と返しているうちに、いつの間にかおれの手は分けてもらった熱で温まっていた。それでもカランドラさんが傍らに来るまでずっと、二人で支え合いながらおれたちの子を持つ。
 それから少しして。セイミアのもとから戻ってきたカランドラさんは、台座の傍らに立った。

「儀式が中断となった場合、わしが宝種を叩き割る。よいな」
「――はい」

 つまりそれは、今おれたちの手の中の命をこの世から消すということ。
 そんなことをカランドラさんに、岳里のじいちゃんにはさせないと決意しながらおれは頷いた。
 おれの答えを聞いたカランドラさんはそのまま台座から離れる。空いた距離を埋めるように声を張り、伝えてくれた。

「いつでも始めるがよい」

 その言葉をしっかりと聞き届けてから、おれは岳里を見た。岳里もおれを見ていて、目が合うとどちらからともなく頷き合う。
 手にした卵を二人でそっと、台座の上に置いた。ころりとアモル・バロークの小枝に同じ白の卵が乗せられ、そっと置いたはずなのにゆらゆらとしばらくは揺れてから動きを止める。
 それから一拍置き突然、大樹アモル・バロークを背にするはずの台座の裏から風が吹き荒れた。
 卵を手放した瞬間から強張っていた身体は一気に吹き飛ばされ、台座から十メートルくらい離れた場所でようやく転がりながらもどうにかその動きは止まる。
 全身を打ち付けた痛みに顔を顰めながらも身体を起こして、未だ吹き荒れる風に耐えるために身を低くする。隣を見てみれば、岳里も同じくおれから少し離れた場所で強く風に打たれながら片膝をついて、薄目になりながらも台座へ目を向けていた。
 その姿を確認してから改めて顔を前に上げると、ひゅっ、と鋭い音が耳に届き、それから間を置かず頬に痛みが走る。

「――っ!」

 痛みを感じた場所に触れてみると、濡れていて。自分の指先を目先に持ってきてみれば感覚を辿った場所が赤く染まっていた。それに息を飲む間もなく次は右腕が服ごと裂かれ肌から血が噴き出す。
 鋭い刃物ですぱりと切られる感覚に、無意識に息が荒くなる。温めてもらったはずの手が先端から風に、身体の震えに冷たくなっていった。そんな指先の熱を逃がさないためにも、前へ進むためにも強く拳を握る。
 歯を食いしばって、先からくる風に抗い一歩を踏み出す。すると風がおれ拒むように、警告するように、身体に声なき声を刻んでいく。また一歩と踏み出すごとに与えられる傷はその度に深くなっていき、その分血も流れていった。すぐに服はぼろぼろになって、髪も切られて飛ばされていく。
 両腕で顔を覆い、隙間から目を細めながら少しずつ前に進んでいく。隣を見れば岳里も同じようにして傷を負いながらも歩いていた。その姿を見れば、ますますおれの一歩は力強くなる。
 痛みに耐えながら風に向かっていけば、距離を半分くらい詰めたあたりで不意に頭がねじれるように痛んだ。けれどそれはほんの一瞬ですぐに引いていく。
 思わず止めてしまった足をまた動かそうとした時、頭に直接声が響いた。

 ――あなたに、覚悟はありますか。

 それは子どもの声だった。幼くて、舌足らずで呂律もうまく回っていない。それなのにやけに落ち着いた、大人びたもの。初めて聞く声だった。
 いや、聞こえる、じゃない。伝わってくるんだ。頭に直接。でなければ風の音以外何も聞こえないのにこんなんなにはっきりと何を言ってるか、わかるわけがない。
 それに気づくと、これまで吹き荒れていた風の音が止んだ。でも風自体はまだ止まっていないし、おれの身体に傷を作り続ける。
 きっと何か関係があるんだろうその声は、応えずにいたおれに言葉を重ねた。

 ――親になるということ。
 ――竜人という、人とは異なる、自分の姿と異なる子を育てるということ。
 ――竜の力、道を違えることがないよう導くということ。
 ――愛する、ということ。

 淡々と連ねながら、幼い声は初めの言葉を繰り返す。

 ――あなたに覚悟はありますか。竜人を、子を、育てる覚悟が、責任が。まだ若いあなたにありますか。

 おれの口は閉じたまま、もう何度も考えてきた思いをまた胸に巡らせた。
 覚悟はあるか。幾度となく自問自答して、周りにも言われた言葉だ。実を言えば、あるって言えば嘘になるだろう。
 生む覚悟はした。でも、その先の覚悟はまだ確かなものにできてない。だって未来は些細なことで変わるもの。それをどんなに悩んだところでわからなかったから。
 本音を言えばおれは、おれと岳里で子を作るっていうのがまだよく理解しきれてないんだ。男同士だからなのかもしれないし、おれがまだ若いからなのかもしれない。高校生だし、十七だ。そんな、子どもができるなんて。これっぽっちも考えたことがなかった。いつかは、ぐらいは想像したけど、でもそれはまだずっと先の話だったんだ。
 おれがこんなだから、ちゃんと生まれてきてくれたおれたちの子が辛い思いをするかもしれない。おれ自身も悩むかもしれない。みんな苦しむかもしれない。
 止めていた足をまた踏み出して、また少しずつ前に進む。風は強く時々足が止まってしまうけど、ならまた踏み出せばいい。そうやって、確かに台座から距離を詰めていく。
 ――きっとおれ一人じゃ親になることも、子ども育てることもできないと思う。今のおれには自分でもわかるくらいに足りないものがいっぱいあるから。気づかないだけでもっとたくさんあるだろう。でも、おれは一人なんかじゃない。
 岳里が傍にいてくれるんだ、これ以上頼りになるやつなんてそういない。岳里ほど隣にいてくれて安心できるやつだっていない。そんな岳里が、おれと一緒に親になってくれる。それだけでも心強いけれど、みんなだっている。みんな、力を貸してくれるって言ってくれた。生まれてきた子を可愛がってくれるって、一緒に育ててくれるって。一緒に苦労しようって。
 おれは一人じゃないし、おれたちは二人だけじゃない。たくさんの人に支えられてここまでこれたんだ。だからこれから先も、どんな困難があろうと、みんなでならきっと乗り越えていけると思う。
 おれも岳里も未熟だ。でもそれを補ってくれる人たちがいてくれる。道を間違えそうになったら、みんなで道を正せばいい。
 姿が違うのは、最初は驚くかもしれない。でもそんなのすぐに慣れると思うんだ。この世界に来てから色々と鍛えてもらって、考えも大分柔軟になれた。この世界に少しずつだけど馴染んでいけた。すぐには難しかったとしても、きっと時間が解決してくれる。
 みんなに頼るばかりで、少ししかないおれの覚悟は本当にちっぽけなものかもしれない。無責任かもしれない。でもおれは、岳里とみんなと、おまえと。一緒に生きていきたいんだ。笑い合いたい。だから。
 ここに、おいで。おれたちはまだまだ頼りないけれど、でも今確かに生まれたおまえを抱きしめてやりたい。いっぱい、いっぱい愛してやりたい。
 だからおいで、ここにおいで。おれたちのところに。みんなのところに。
 台座の前にたどり着き、静かにその時を待つ卵へ手を伸ばす。ずっとおれに問いかけていた声は沈黙している。卵の方から聞こえていた声。おれの出した答えに、納得してくれたのかもしれない。それなら嬉しい。
 おれの右手の甲には風の刃で刻まれた大きな傷があった。だらだらと血が流れて、動かせばひどく傷んだ。それでも構わずさらに奥へ進めれば、隣からも手が出てくる。顔を見なくても誰のものかわかるその左手の甲には、おれの右手とそっくりに裂けていた。その手は疲れに震えるおれの指先に重なり絡まり、支えてくれながら一緒に卵を包む。
 卵に触れた瞬間、風はぴたりとやんだ。そっと卵を持ち上げ、岳里の手に下から支えられながら手の平に転がすと、すぐに殻の表面に亀裂が走った。
 右に左に揺れながら、少しずつ亀裂は広められていく。それをおれたちは互いに支え合うように立ちながら見守った。実際はおれだけがふらふらで、今にも足元から崩れてしまいそうな腰を支えてもらってどうにか立っている状態だ。でも確かに岳里もおれに身を預け、おれたちは二人でここに立っていた。
 しばらくして、ついに殻が押し出されひびになったところから欠けだした。

「がん、ばれ」
「あと少しだ」

 どうにか声を絞り出せば、岳里もそれに続き声をかける。二人で卵を励まし続け、そして。

「ぴぃ!」

 割れた隙間から、ぴょこっと小さな頭が飛び出した。身体は湿り、目も開いていない。けれど声だけは元気な、おれたちの子。おれとは違う、“竜”の姿で生まれた子。
 覚束ない足取りで完全に身体も殻から抜け出す。その足でふらふらとしながらおれの手を歩き、そして手首まで来るとぺろりとそこにあった小さな傷を舐めた。

「ぴぃぎっ」

 身体と同じくらい長い尾をおれの手首の下にある岳里の手首に絡め、おれたちの子はもう一度元気な声で鳴いた。

「――っ、はは……」

 ぺろぺろと手を舐めてくる小さな舌。竜の姿をしているといってもおれの手の平に収まるくらいの大きさだ。岳里の手ごと顔の前に引き寄せ、まじまじとその顔を覗き込む。
 気配を察したのか、まだ支えるには重たい頭をふらふらと持ち上げ、まるで見えていないはずの目でおれたちを探すようにきょろきょろ顔ごと動かす。

「はは、やっぱり、ちっちぇえなあ」

 重たい、自由なもう片方の腕を持ち上げ、そろりと小さな頭を撫でる。するとおれの指先を今度は舐めだして、心ごとくすぐられているような気持ちになった。
 そこでようやく、岳里に振り返る。視線の先の岳里はおれと同じように、けれど小さく笑っていた。でもおれはその顔を見て言葉を失う。
 おれの様子に気づいたのか、岳里は目をこっちに向けた。

「大丈夫だ。浅い傷だからすぐに治せる」

 岳里の左目の方が、額から頬にかけて斜めに一線、赤い血を浮き上がらせていた。そのせいで左目は閉じたままで、他の傷よりは出血が少ないけれど見ていて痛々しい。
 その姿は、岳里の兄ちゃんである十五さんを連想させた。十五さんもちょうど左目に大きな傷があって、ずっと瞑ったままだったから。顔も岳里ととても似ているから、嫌でも傷跡の消えない岳里が想像できる。
 でも、岳里が大丈夫って言ったんだから、本当に大丈夫なんだろう。おれから目を逸らしぴぃぴぃと鳴いている子へ向けた岳里の視線を辿るように、おれもまた自分の手の中へ顔を向ける。
 その姿はやっぱり元気そうで、どこも悪いところはなさそうだ。またふらふらと歩き、今度はおれの小指を咥えていた。

「腹、減ってるのかな」
「そうかもしれない。おれと同じでよく食うだろうな」

 岳里と同じ食欲なら大変だ、とおれは思わず小さく声をあげて笑ってしまった。
 この子の見た目は、岳里に似るかもしれない。だって竜の姿の岳里とそっくりだからだ。同じ紺色で、きっと目も竜族のものである金色だと思う。人の姿になったら、もっと岳里に似てるところが見つけられるだろう。おれにも少し似てる場所があると嬉しいな。
 ちゅうちゅうと吸い付く口はやっぱり小さくて、でも確かに自分の意思で動いている。自分から、おれの指を吸っている。岳里の手に尾を絡めている。
 気づけば、いつの間にか涙がこぼれていた。それに気づくと同時におれの身体はほのかに光り、岳里ごと包んでいく。
 自分でも何が起こったのかわからなくて戸惑っていると、ふと視界に入っていた岳里の腕の傷が塞がっていくのが見えた。他へ目を向けてみればおれの身体も、岳里の身体も、少しずつ傷が癒えていく。岳里の顔の傷も、痕を残さずに完全に消えた。そのおかげでしっかりと開いた両目が、おれを見る。
 いつの間にか金に輝いていた目は、優しい色をしていた。

「よくやったな」
「うん、岳里も」
「ああ。――あとのことは任せろ。もう、眠っていい」

 岳里も同じくらい疲れているだろうに。そんな風に言ってくれる。
 痛みはもうないはずなのに身体が自分で支えてられないくらいに重く、岳里の言葉に従うように、限界を訴えるようにそろそろと瞼が下がりだした。
 完全に眠ってしまう前にと、おれは岳里を見つめて口を開く。

「あん、がと」

 最後の力を振り絞るつもりで背を伸ばし、岳里の頬に口付けて。それからもう一度小指を吸い続ける小さな頭を一撫でする。
 その後にふっつりと糸を切れたかのように、おれは岳里の腕に支えられながら意識を手放した。

 

 

 

 深く落ちてしまう前、遠くで誰かの声が聞こえた。

「わたしが与えた不条理な痛みにもよく耐えた。ゆっくりとその身体を休めるといい」

 笑みの滲む声は続ける。

「新たな命に我が祝福を与えよう。幼き竜人の子よ、その生涯健やかなれ――」

 

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