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魔術師アロゥの過去のお話。
※NLです。BL要素は一切出てきません。
また、世界ディザイアの女性の立場について書かれている場面もございます。差別や出産の道具のように扱われている等説明していることもありますので、ご注意ください。



 わたしの名をきみに託そう。
 どうかきみが、健やかに育つように。

 


 アロゥは深いため息をつきながら、同じ作りの扉が並ぶ長い廊下をひとり歩いていた。
 窓もなく壁ばかりに覆われた息苦しい暗い廊下を光玉の光はほのかに足元が狂わない程度に照らす。
 換気は苦労するがその分にと清潔に保たれる塵すら積もらぬ床を眺めながら、やはり進む足取りは重かった。
 それでもずるずると己の足を引きずり、目的の扉の前まで立つ。そこでまた息を吐いた。しかし、いつまでも二の足を踏んでいるわけにもいかない。
 これで最後だと息を吐き、意を決し目の前の扉を叩いた。
 少し遅れて声音がやや高い女の声が返事をし、小さな足音が扉に迫ってくる。それに無意識のうちに引け腰になりながら、アロゥはどうにかその場に立ち続ける。
 間もなく、扉が開かれた。
 薄く開いたそこからちょんと顔を出す少女に、今できる最大限の優しい笑顔を作り、小さく頭を下げた。

「はじめまして、ルーフィア殿。アロゥでございます」
「あっ、あの、わたしこそはじめましてっ! る、ルーフィアでございます、今宵は、よろしくお願い致しますっ」

 アロゥが顔を上げると、少女は目を合わすなり右へ左へと視線を泳がしながら、同じく頭を下げた。その小さな肩はあまりにも細く、聞かされていた十七という彼女の年齢よりも幼く見える。先ほど見た少女、ルーフィアの青い瞳もまた大きく、幼い顔立ち引き立たせていた。
 自分の相手なんぞがこの頼りない肩を震わす少女であることが、なんとも申し訳なく思えるが、これも仕事なのだと、アロゥは心中で首を振り邪念を払う。

「ルーフィア殿、お顔を上げなされ。まずは部屋に入れていただけませぬかな」

 できるだけ優しく、薄衣を身体に羽織わせてやるのを想像しながら、アロゥはそっと肩に手を置く。しかし彼女は大きく身体を震わせると、ばっと顔を上げ、涙の滲む青い瞳でアロゥを見た。
 丸いくりくりとした硝子細工のように透き通った瞳に見つめられ、アロゥは思わず彼女の肩から手を落とす。

「っ、あ……も、申し訳あり、ません。気が利かず……どうぞ、中へお入り、ください」

 アロゥから身を翻し、彼女は場所を移してアロゥが入りやすいように中から扉を大きく開ける。それに従い、アロゥも中に入った。
 部屋には、入って正面に大きな床に届くほどの窓がひとつに、右の壁には全身を映せる鏡、左の壁際には大の男二人が並んでもゆとりがあるほどの寝台、その脇に備え付けられた二段の引き出しがある棚の、それだけだった。
 アロゥの身の丈を超す窓からは、暗い室内に微かな月の光を呼ぶ。光玉をつけずとも、十分な明かりはすでにあった。
彼女はずっと、この薄暗い部屋で自分を待っていたのだろうか。
 三、四歩アロゥが歩み部屋の中心へ進むと、後ろでルーフィアが扉を閉める。アロゥが振り返ると、壁にぴとりと身を寄せるように小さくなった少女が、俯き服の裾を拳で握っていた。

「――……」

 夜と言えど月光に照らされ十分端から端までを見渡せるこの部屋の中、少女の震える身体があまりにも痛ましく、見ていられなくなったアロゥは深く瞼を閉じた。
 怯えるのも無理はないだろう。なにせこの少女は今から、今日初めて会った自分と、交わらなければならないというのだから。ましてや彼女は十七。まだ男を一切知らない生娘だ。
 そもそも女は隔離されるこの世界で、この少女は物心ついた頃から今までずっと、男というものすら触れたことはないのだろう。いや、その機会すら、なかっただろう。
 まだ相手が年の近い若い男だったりすれば彼女も打ち解けやすく、また厚い胸板に、力強い腕に、心弾ませたかもしれない。だが生憎自分は既に四十を迎えついこの間四十三となった、いってしまえば枯れかけの男だ。十七歳という彼女の倍以上を生きている。それに魔術師という職業柄、決して身体も逞しくなく、脂っ気も搾り取られたような細い貧相な身体だ。そんな男としての魅力を感じることのできない自分に純潔を捧げることになる彼女は、男であるアロゥでは想像のつかないほど悲嘆しているに違いない。
 まず、そもそもが、だ。なぜ四十三を迎えたばかりの自分が、十七という年齢をおいても、女性と性交しなければならないというのか。――仕える王に、優秀な魔術師であるおまえの種を残さず枯らすにはもったいない、と下世話なことを言われたからではあるが、確かにあの時アロゥは、若い娘相手ならその気になるかもしれませぬ、と答えはした。しかし、あれはあくまで冗談のつもりだったのだ。長い付き合いになるヴァルヴァラゲーゼ王が本気でそう思っていないと判断したからこそ、そう言ったわけではあるが――
 どうもアロゥの見当は外れ、本当に若い娘が宛がわれたというわけだ。言わば彼女は、アロゥの不始末による犠牲者と言えよう。
 可哀想なことをしたと、身を強張らせる少女を見やり、胸中で項垂れる。
 これがまだ、幾人か出産経験のあるような肝の据わった女であるならこうも罪悪感に苛まれることはなかっただろうが、今の相手はまさに子供である。
 王がアロゥの種、つまりは血を継ぐ子が欲しいというのはわからないでもない。魔術師の血は受け継がれにくいが、もしうまくゆけば親となる者を超す魔力を持つ者が稀に生まれるからだ。アロゥが没したときのことを考え後釜が欲しいのであろうが、それほどの素質に恵まれた者はそういないのが現状だ。
 アロゥは自他共に認める強力な魔術を操ることができる魔術師だ。有する魔力の量も他の魔術師と比べれば歴然の差があり、膨大なものである。これまでにそれを利用し様々な功績を残してきた。そして現在も、アロゥの魔力を使い国を守る結界を張っている。もし自分がいなくなれば、この国が困窮することは目に見えていた。他にも魔術師はいるが、それほどまでにアロゥは突出して魔術師として優れていたのだ。だからこそ、王もこの血が続いてほしいと願うのであろう。
 そしてだからこそ、王自らが頭を下げて子を作れ、と。若い娘を用意したから、と言われてしまっては首を振ることはできなかった。ましてや、やはり若い娘でなくともいいとは今更言えず。
 アロゥも腹をくくりこうしてこの部屋に訪れたわけではあるが――いざ、実際相手となる、孕ませなければならない少女を目の前にして、震える彼女を前にして、良心が痛まずにはいれなかった。
 ついに耐えていた溜め息をひとつつき、アロゥは覚悟する。
吐いた息が彼女の耳にも届いてしまったのか、更にかたくなる小さな身体。
 アロゥは目を細め、茶色の前髪に隠される彼女の顔を見つめた。

「――ルーフィア殿、こちらへおいで」
「っは、はい……」

 びくりと肩を震わしながらも、彼女は俯いたまま歩み出した。しかし、足音の立たないその歩みにもまた、彼女の心が伝わってくるようだと、アロゥは苦く笑う。
 彼女はアロゥが導くままに歩み寄り、そのまま寝台の端へ腰掛けた。アロゥも彼女を座らせらせてから、その隣に腰を下ろす。
 その途端に、意を決したように少女はアロゥへ顔を上げた。くりくりとした、大きな瞳が僅かに湿りながらもアロゥに縋るよう見つめる。

「あ、あの、わたしっ! はじめて、なので……やさしく……」

 憐れなほど揺れ動き、戸惑いを正直に表す瞳を見返しながら、アロゥはにこりと微笑む。

「ルーフィア殿、そう気を張らなくてもいい。さあ、少し深呼吸をしてみるといい」

 吸って、とアロゥが指示すると、彼女は素直に息を吸い込み、そして吐き出す。それを数度繰り返させ、少し彼女が落ち着きを取り戻したところで、名前を読んでみた。
 すぐにアロゥの声に顔を向けたルーフィアの瞳は、まだ少し揺れている。

「……安心しなさい。わたしはきみに手を出さないよ」
「えっ」

 素直に驚いた声を上げる彼女に笑みを浮かべながら、言葉を付け足していく。

「だから、そうかたくならずともいいんだ。ただ夜が明けなければこの部屋からは出られないから、すまないがそれまでは耐えてくれるかい?」
「――……どうして、ですか?」
「なにがだい?」

 さっきの怯える様子とはまた違った雰囲気をまとい、ルーフィアの青い瞳は揺れていた。
 これまでのように素直に自分に従い、むしろこの申し出によろこんで頷いてくれると思っていたアロゥは思わず言葉を返してしまう。
 ルーフィアはどこか愕然としたように、薄暗い闇の中でもわかるように顔を青くしていた。
 わなわなと震える小さな唇から、まるで独り言のように、ぽつりと言葉を零す。

「どうして、抱いて下さらないのですか……?」
「……」
「わ、わたしは、偉大なる魔術師であるアロゥさまのややこを授かるためにここへ参りました。子が宿らない可能性もありますが、そ、それでも! 致さなければ、宿るものも宿りません!」

 あれほど、アロゥを目にした時からずっとおびえていたというのに。
 少女は立ち上がると、アロゥの肩を押してベッドへ押し倒した。被さった彼女の長い髪がアロゥの頬を撫でる。
 そのくすぐったさと、目の前に来た真剣な眼差しをする、焦りを瞳に抱く少女に、アロゥはついつい声を上げて笑ってしまった。

「な、なぜ笑うのですか? わたしではこの大任が務まりませんか……? こ、口淫についてなら多少は学んできました。ご気分が乗らないのであれば、わたし、頑張りますから――!」

 どうやらひとり早合点してしまったらしいルーフィアは、アロゥの服に手をかけた。
 さすがのアロゥもそれには慌て、彼女の手を掴んで動きを止める。すると、泣きたそうに濡れる青い瞳がアロゥを見つめた。
 アロゥが何も言わず身体を起こそうとすると、ルーフィアは自ら上に乗っていた身体を退かし、床に座り込んでしまった。
 あの瞳も、前髪に隠れ見えなくなってしまう。
 ベッドの端へ座り直したアロゥが声をかけようとしたところで、先に彼女の声がか細く響いた。

「わたしは、だめですか……? 見目が好みではありませんでしたか? ならば、今すぐ他の者に……」
「――落ち着きなさい。ほら、また深呼吸をしてみるといい」
「……」

 二度ほど彼女が深呼吸をしたことを確認してから、アロゥは立ち上がり、ルーフィアの隣に膝をついた。
 彼女の顔を隠す髪に触れ、それを耳にかけてやる。ルーフィアは前の床を見つめたまま、きゅっと唇を結んでいた。さらりとした髪は落ち、再び表情を隠してしまう。

「無理はしなくていいんだ。大丈夫、王にはわたしが腹を下してどうしても役に立たなかったとお伝えしておくから。そうすればきみが咎められることもない」
「無理、だなんて……そんなこと」

 下を見つめたままルーフィアは緩く首を振るった。
 アロゥはそっと、細い肩に手を置いてみる。びくりとそこが跳ね、内心で苦笑した。

「きみは若い。そして初心だ。それなのにはじめての相手にわたしのような枯れた男ではあまりに酷な話だろう。恥ずかしながら、これまで魔術の研究に明け暮れ、そういった技術もからきしでね。年齢を重ねていたとしてもきみを傷つけず抱くことができるかさえわからないのだよ」

 なるべく怯えぬよう、意味を取り違えられぬよう、慎重に言葉を選びながら、真実だけを話していく。
 民のため、国のため、この世のためにと、アロゥは日々働き詰めた。知識を蓄え、ときに王の相談にのり、ルカ国を影から支えてきた。そればかりをしてきた。だからこそ女性の扱いは愚か、恋人さえいたことがなかったのだ。
 経験がないとは言わない。だがそれも若かりし頃に溢れた性欲を同じく持て余していた者とともに解消しあっただけでそう数があったわけでもないし、もとより淡白なせいでこれまで支障も起きたことがなかった。相手などいなくともそもそも多忙のあまり余所見をしている余裕などなかったのだ。だが今それがあだとなっている。
 これで、性技にでも長けていたのであれば、彼女を悦ばしてやろうと自ら奮い立っていたかもしれない。だがそもそもまともに行為を終えられるかさえ、情けない話今のアロゥには怪しいものである。それに加えて相手は軽い接触でも怯えるまだ年若い少女だ。アロゥの生きた年の半分でさえ、まだ歩んできていない。

「安心しなさい。もとよりわたしはきみを抱くためにここに来たのではないのだ。ただ一晩、何事もせず過ごすために参ったのだ」
「なに、も……」
「そう、何もしない。隅で本でも読ませてもらう。だからきみは寝ていたって構わぬさ」

 言ってから、怯える相手を前にして眠ることなどできないか、と気が付いた。だが言葉は撤回しないまま、アロゥは膝をついたルーフィアの傍らから立ち上がり、宣言通り部屋の隅に行こうとする。
 一歩踏み出したところですぐに足を止める。振り返り、長衣の裾を恐れながらも掴んだ少女を見下ろした。彼女はまだ俯いたままだ。

「――わ、わたしは、ヴァルヴァラゲーゼ王から、直接申しつけられまし、た。身に余るような大任ではございますが……まだ、わたしは未熟、ですが。どうか、アロゥさまの、お相手をさせてください」

 ルーフィアの目が向けられていないことをいいことに、アロゥは手を顔に宛て項垂れた。彼女がこうも食い下がらぬ理由を知ってしまったからだ。
 国王であるヴァルヴァラゲーゼに直接面会し、そこでアロゥの子を産めと言われてしまえば、それは必死にならざるをえないだろう。それだけ彼が急いているという証でもある。
 現国王ヴァルヴァラゲーゼの跡を継ぐ王が、未だ生まれてきていない。それも王直々にルーフィアにアロゥの夜伽を命じた理由に含まれているのであろう。
 ルカ国の王になるには、識別の瞳という特殊な能力を持った人物でなくてはならない。その能力を持った現国王がその力を用い国で生まれた赤子一人一人を確認し、力を持った子を見つけ出し次期国王とすべく育てるのだ。もし見つかるまでに能力を持った王が死去してしまった場合、一時的ではあるが力もたぬ者が王となる。それだけならばまだいいが、力持たぬ者では識別の瞳を持った赤子を見つけられないのだ。それでも後に能力が発覚すればいいが、生涯自分が王たる器があると知らぬままに死んでいってしまった者がいたこともこれまでの歴史の中にはあった。それが続き、最大で二百年間ほど能力を持った王が王座につけなかった時代もあった。
 なるべく能力を持った次期国王を生み出すため、現国王は識別の瞳を持つ赤子の発見がひとつの重大な仕事となっている。ヴァルヴァラゲーゼはもう間もなく壮年に差し掛かるが、未だ待ち望む王の卵が見つかっていない。さらには昨年、それほど重大でないまでも病が見つかってしまった。このままヴァルヴァラゲーゼが逝去してしまえば暗澹たる時代が幕あけてしまうかもしれないのだ。
 それが何故アロゥが子を成さねばならぬことに繋がるのか。それは、やはりアロゥが偉大なる魔術師であるからだった。
 識別の瞳は同じ能力を持った血筋から必ずしも生まれるわけではない。国政とはなんのゆかりもなかった一般人の男性と女性の間に生まれることさえあるのだ。だが比較的親となる人物は有能な者が多く、だからこそ王はアロゥの子に期待をしているのだ。
 もしかしたならばアロゥの跡を継ぐ魔術師になるかもしれない。もしかしたならば、今後の国を背負って立つ王になるかもしれない、と。
 勿論魔力も並、識別の瞳も持たぬ子である確率の方が圧倒的に高い。ほんの一握りの可能性でしかないのだ。だがそれにすらヴァルヴァラゲーゼは縋りたいのだろう。
 アロゥが自身の国の行く末を、仕える主を憂いていると、震える声に思考を呼び戻される。

「たとえ、わたしと、しなくても。それでもアロゥさまは幾人の方と、その……ならばわたしもその一人とさせてください」

 床の上できゅうっと握られる小さな左の拳に、一体どんな気持ちが宿っているのだろうか。
 ルーフィアの言う通りだった。たとえ今を逃れたとしても、アロゥには既に次の相手が決められている。その次、さらにその後にも幾人もの女性たちが。それも当然だ。あくまでアロゥは種である。種はまかねば生まれぬのだから。
 確かに、これから多くの女性を抱かねばいけないのなら、今ルーフィアとの行為を逃れたところで変わりないのだろう。なぜなら今後も待つのは若い女性ばかり。自分の冗談のせいとは言え、頭を悩ませていたことである。
 アロゥは目を瞑り、深く息を吐き出した。

「……だがやはり、わたしはきみを――いや、きっと誰も抱くことなどできないだろう。たとえ王に頼まれても」

 たとえ、国の命運に触れていようとも、意に沿わぬ行為を女性に強要するなど。
 女性は国から子を産むことを義務付けられていると言っても過言ではない。なぜなら出生率はほぼ決まっており、女性は同じ数しか生まれてこない。そうなれば一向に人口は増えていかないのだ。だからこそ人を増やすためには一人の女性に何人もの子を産んでもらわねばならぬ状況にあった。そしてそれは強制的ではないにしろ、女性たちは事情を理解し、現状を受け入れてくれている。
 だが女性は子を産むための道具ではない。心ある人間なのだ。そのため子をなすための行為に及ぶ相手は候補の中から女性たちが好きな人物を決めていいという決まりがあった。候補となる男性は一月ごとに代わり、もしその時選ぶ相手がいなければ次回に持ち越してもいいのだ。それが国からのせめてもの詫びのようなものである。
 それ以外にも女性たちが隔離されたバノン・ラーゲには彼女たちが住みよいよう様々な工夫がされており、意見を聞き入れその都度手を入れ暮らしに不満がないよう改善していった。
 そう、女性にとて選ぶ権利が与えられている。自らの身体を晒さなければならず、なおかつその果てに待つのは命を懸けた試練。不本意な相手にそのための身体を一度でも預けるなどさせてはならない、そのはずだ。
 だがアロゥに宛がわれた女性たちは皆恐らく、ルーフィア同様王に命じられた面々なのだろう。魔術師アロゥの血を残せと、そなたらは選ばれた者なのだと。偉大な使命なのだと、だから全うせよと。たとえアロゥのような枯れた男だとしても、相手をしなければならないのだ。
 これでまだ生まれてくる子が望まれるような結果を出せるのであれば、それが高い確率であれば、彼女らに頭を下げて子を残そうとも思っただろう。しかしないにも等しい現状では女性たちに意にそぐわぬ相手に抱かれるという苦痛を強いるだけ。ただ善良な一市民であるだけの彼女たちにできるわけもない。
 今回のように、行為をせぬまま逃れ続けることはできるだろう。ルーフィアよりも押しの強い女性に巡り合ったとて、魔術で眠らせてしまえばそれまでだ。だがそれを延々と続けられるほど愛国心が低い訳でもない。たった一人を断るだけの今でも、応えられぬ王の逼迫した思いへの申し訳なさで心が満たされていた。かと言って、子を成すつもりはございませぬとさえ言うこともできない。いったい、こんなことをどれだけ続けなければならないのだろうか。
 アロゥは複雑に絡み合った国の事情は省き、ただ女性たちに無体な真似はできないとだけ、丁寧にルーフィアに説明をした。再び傍らに膝をついても彼女の顔は上がることはなかった。

「だからわたしは、きみを抱けぬのだ。たとえそれがきみの使命だと言われても、それだけではできない」

 まだ握ったままの服から手は放れない。これ以上どう伝えるべきかと悩んだところで、久方ぶりに少女の声が耳に届いた。

「――それ、なら」
「なんだい?」
「それ、なら。それなら今宵は、ただわたしと、お話してくださいませんか? もう、抱いてほしいなどとせがみませんから、ですから」

 その震える声の理由すらアロゥにはわからなかった。彼女はアロゥが恐ろしくて怯えているのだろうか。王の期待に応えられぬことか。それとも役目を免れた安堵からか、別の何かか。
 なんにせよ話すだけならばと、アロゥは何も見ていない彼女に対してゆっくり頷いた。

「ああ。それならば」

 返答を聞いたルーフィアの手がようやく緩まり、力なく落ちていくよう放れていった。服の皺を伸ばすよりも先にアロゥは立ち上がると、寝台の上に敷かれた薄い毛布を手に取る。

「そうと決まればちゃんと座ろう。そこでは身体が冷えてしまう」
「は、はい」

 ようやく立ち上がったルーフィアの方に手にした毛布を掛けてやる。彼女はそれをそっと手で押さえ、顔を上げた。
 ルーフィアの瞳はやや潤んでいるものの、もう揺れていることもなく、冷静を取り戻しつつあった。あまりに頼りない声に、泣いてしまっているのではないか、と不安だったがそれはなかったようで安堵する。
 椅子も何もない部屋だ。座るともなれば一カ所しかなく、悩んだ末にアロゥはルーフィアに寝台を示す。

「そこに座りなさい」

 指示された場所にルーフィアは腰かけ、ちらりとアロゥを見上げる。

「隣に座ってもいいかな」
「はい、どうぞ」

 ルーフィアが頷いたのを確認したアロゥは、距離をとって腰を下ろした。襲うつもりはないという意志表示のためだ。ルーフィアはそれをただ眺め、やがて自分の手元に手を落とした。

「ルーフィア殿は、動物はお好きかな」

 アロゥから声をかけてやると、ぱっと顔が向けられる。

「は、はい。好きです。去年から猫を飼っております」
「ほお、猫か。名前はなんという?」
「セルスゥと申します」
「なるほど、では雌だな。よい名だ」

 ルーフィアはアロゥの言葉に目を瞬かせた。そして二度ぱちぱち瞼を動かすと、ぱあっと顔が明るくなる。

「名前だけで雌とおわかりになったということは、アロゥさまは妖精セルスゥをご存じなのですね!」
「うむ。いたずらずきの水滴の妖精、セルスゥだろう。ならばルーフィア殿のセルスゥもいたずらっこなのだろうな」

 ルカ国に伝わるとある物語に登場する、滝の女神アルナに従う妖精のセルスゥ。悪戯好きのセルスゥは人間を住まう滝に呼び出しては上から落とし、そして水面に叩きつけられる直前に助けてやるという遊びをよくやっていた。なんとも心臓に悪い話であるが、彼女を見守るアルナも微笑みその姿を眺めていたという。
 あまり有名な作ではないものの精霊や妖精たちが水辺で踊るような軽やかで楽しげなその物語がアロゥは好きだった。
 目じりを和らげれば、ルーフィアは嬉しそうに頷いた。

「そうです。出会ったときに早速垂れ幕に爪を引っ掻け遊びまわっていたので、ぱっとセルスゥのことが頭に浮かんで。それで名付けたんです」

 先程見せていた儚さは一変し、少女らしい笑みを浮かべるルーフィア。次第にアロゥが尋ねずとも自らセルスゥについて語るようになり、そこから妖精の登場する女神アルナの物語の内容についてに代わり、二人の会話は途切れることなく弾んでいた。
 ルーフィアは読書家らしく、年齢の割に多くの書物のことを知っていた。アロゥも長年本を読み続けていたこともあり、さらに趣味が似ていることが判明し、名が出た物語について様々に語り合った。
 そしていつしか話題は互いの容姿に切り替わる。それは盗賊王サザンが最後に盗んだとされる瑠璃色の瞳の少女の話をしたときだった。
 隣でアロゥを見上げるルーフィアの瞳をアロゥは覗き込んだ。

「きみはとても澄んだ目をしているな。こんなに美しい瞳をわたしは初めて見た。まさにサザンが求めた宝玉の瞳を持つサラナーナもきみのようなものを持っていたのだろう」

 ルーフィアは瞠目しアロゥに丸い瞳を一度晒し、ぱっと顔を前に向けてしまった。自身が発した言葉を深く考えていなかったアロゥは、見えなくなってしまった宝石を残念がる。だがほんの少しの間を置き、再びそろりと少女の顔は向けられた。
 これが夜の暗がりに隠れていなければ、ほんのり染まった赤い顔にアロゥとて気づいていたことだろう。だが、闇に隠され、聡明たる魔術師はこんなときばかりは鈍感となる。

「それをいうなら、アロゥさまのようなきらきらした銀の髪です。まるで星の煌めきのような、こんなにも見事な御髪見たことがございません」
「わたしのような男をからかってはいけないよ」

 アロゥが笑えば、ルーフィアは不服げにきゅっと唇に力を入れた。だがアロゥは気が付かない。

「折角褒めてもらったが、最近どうもくすみ始めている。やがて銀ではなく、灰色になってしまうことだろう」
「それはそれできっと素敵ですよ」
「そうだといいな」

 いつしか話は変わり、ルーフィアに求められるがままアロゥは己のことを話した。何故魔術師となったか。魔術師を統べる四番隊隊長となり、何を成したか。それだけでなく若かりし頃に心血の契約を結んだアロゥの獣人ジィグンのことも教えたし、まだ自分の弟子を持てていないこともぼやいた。魔術師は一人を決め、生涯その人物だけに己の持つ知識のすべてを授けるのだ。
 ときに少女に聞かせるには酷な内容もあったが、アロゥは包み隠さず話した。少女には興味がないであろうことも。何故そうしたのかわからない。だが、彼女であれば、ルーフィアであれば受け止めると思えたのだろう。
 語らううちにやがて夜が明け、話の区切りがついたところでアロゥはルーフィアと別れを告げ、彼女のいる部屋を立ち去った。
 その時胸にあったのは、部屋を訪れていたような重苦しいものではなくなっていた。ただ多くを語りあった満足感と一晩話してもまだ足りないと思う気持ちと、恐らく二度と会うことはないであろう彼女に対する微かに感じる寂寥感が心に降り積もっていた。

 

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