本屋から出た途端、灰色のアスファルトにぽつりと小さな染みができる。それは次第に数を増やし、瞬く間に乾きの色を雨で塗り替えてしまった。
厚い雲に覆われた空を見上げて溜め息をひとつつく。
(やっぱり降り出したか)
家を出るときにはすでに雲行きは怪しかった。だけど、そのときはまだ雲間に青空も見えていたから、帰るまでは持ちこたえてくれるだろうと早計してしまった。しかし結果として雨は降り、足止めを食らう。
荷物が増えるのは面倒だからって傘も持たずに来てしまったため、どうしたものかと考える。
にわか雨ならこのまま待っててもいいんだけれども、そうでなかったときが困る。幸いそれほど激しい雨ではないから走って帰ることもできなくはないけれど、それはあまりしたくはなかった。
買ったばかりの本を思わず両腕に抱える。店のマークがプリントされたビニール袋に入っているから、端をしっかり折って抱えこめば中に雨が入り込むことはないだろう。けれど、万が一ってこともある。
とはいえ、いつまでもここで立ち往生するのもいかがなものだろう。
どうせ家は近いんだし、いっそのこと服の下に入れて走ろうか、とまで考えたとき、ふと前方に見知ったふたつの顔を見つけた。
まだ遠くであるのに、雨が降っていて視界が悪いのに、けれど長身の二人はよく目立つ。傘を差していてもぴんと伸びる背筋は見ている者も心地よく、すれ違う女性が思わず足を止めて魅入っていた。
なんとなくその姿を複雑な思いで見つめながら、辿り着いた二人に軽く手をあげた。
それに片方は応えて笑顔を見せてくれたが、もう片方はいつもの無愛想な面を隠すこともない。それはいつものことなので、今更おれも突っ掛かることはせずに素直に礼を言った。
「ありがとう、迎えに来てくれたんだな」
「うん。がっくんが迎えに行くっていうから、おれもついてきちゃった」
そう言ってりゅうは、持ってきてくれたおれの分の傘を手渡した。
「それに買いたい本もあったからさ」
「なんだ、それなら言っといてくれればおれが買っといてやったのに」
「雨が降って思い出したんだよ。その本、雨にまつわる話だったから」
ちょっと買ってくるから待ってて、と言って、りゅうは閉じた自分の傘をおれに預けて店内に入っていく。
その姿を見送り、傘を閉じて隣に立った岳人に目を向けた。
「岳人もあんがとな。迎えきてくれ」
「降りそうだと思っていたんなら傘を持っていけ」
「うっ……気を付けるよ」
降りそうだと思っていたんだ、とは一言も言っていないんだけれど、相変わらずのエスパーでしっかりと見抜かれていたらしい。
自覚があっただけに蔑ろにはできない忠告を、素直に受け取る。
「それに――」
「ん?」
「それに、おれの本ならば送られてきたものがあるだろう。読むのならわざわざ買う必要なないといつも言っている」
どうやら、腕に大事に抱えた本の内容もばれていたようだ。
「いいんだよ。おれは自分で手に入れて読みたいんだから」
「……物好きだな」
ぶっきらぼうな言葉に、小さな溜め息。けれどもそれは単に照れているだけだと知っているので、おれがあえて顔を覗き込むと、さすがの岳人もやや顔を顰めて鼻先を背けられてしまった。その反応に、素直じゃないなあとつい頬が緩んでしまう。
今日、岳人の執筆した新刊が発売された。おれはそれを目当てに本屋を訪れたのだ。
毎回本が出る度に発売日当日に本屋に買いに来ていたから、だからなにが目当てだったかわかってたんだろう。
岳人はおれが買いに行く都度、編集者さんから送ってもらった献本があるからそれを読めばいい、買わなくていいとは言ってくるが、おれがそれに従うことはない。
別に変に意地になっているわけじゃなく、義務感からでもなく、単純におれも岳人の書いた本のファンだからだ。一ファンとして好きな作家の本を発売日当日に手に入れたいという気持ちは当然のものだと思っている。
身内の贔屓目を抜きにして、さすがというべきか、岳人の書くものは面白い。ジャンルも幅広いが、ときに家族愛に泣かされ、ときに犯人の心理に戦慄し、ときに少年の勇気に感動して。いつだってその作品に心が入り込み、気がつけば登場人物たちと一緒に物語を追っている。
岳人の作品を初めて読んだ頃、なんだかすごいと思うばかりで、きっと自分が思っていた以上にその深くまでは理解できていなかったと思う。けれど自分が歳を重ねるごとに、より彼の作品の良さを見つけていっている気がする。それに岳人自身も磨きをかけていくから、作品そのものだけでなく洗練されていくものを追いかけていくのも楽しかった。
今日出た新刊は、作家岳里岳人が出した二冊目にあたる本の続刊でもあった。十数年の歳月を挟んでの続きということだが、どうあれだけ綺麗にまとまって終わった前作に絡めていくのかが楽しみなところだ。
この日のためにと読み返していた前作の内容をつい思い返していると、店の自動ドアが開いてりゅうが戻ってきた。
「お待たせー」
「よし、じゃあいくか」
「うん。あ、しんちゃん、それ読み終わったらおれにも貸してね」
「わかってるって」
どうやらりゅうも、しっかりとおれの抱える本がなんであるのか把握していたらしい。
そしてその後に次男坊にも流れていくのはもはや定番だ。まあ、あいつの場合は結局あとでおれやりゅうが改めて口頭でストーリーを教えてやらないとならないけど。
おれを真ん中に、男三人が横に並んで傘を差し歩き出す。ひとりは超絶なイケメンで、もうひとりは普通の顔立ちながらも長身で人のいい顔をしていて、そしてそいつにそっくりな普通のおれという組み合わせは、傍から見たらどう映るだろう、と時折考えることがある。きっとおれとりゅうは顔がそっくりだから親子に見られるだろうけれど、岳人はたまたま並んで歩いている赤の他人、とでも思われるだろうか。
それくらいに岳人は無口で、岳里岳人の出した本について盛り上がるおれたちとは温度差があるように見えるし、本人も間に入ってこようともしない。それはいつものことでもある。
内心では物好きな親子め、とでも、自分の血の繋がりを棚にあげて思っているのかもしれない。
でも実は、傍から見えれば無愛想な面でただ歩いているように思えても、わかりづらい照れ隠しを必死にしているのはおれたちにはもうばれている。
ときには理解されない関係に悩むことはあったけれど、でもそれ以上に、幸せだと思える瞬間が星の数のようにあってきらきらと輝いている。そんな一時に、今の時間も加わる。
今晩はオムライス。それも、岳人の本が出た日の定番だ。
そして風呂に入り、ベッドに入って。
嬉しいとは素直に言えない複雑そうな眼差しを受けながら、おれは岳人の隣で本を読むんだろう。
雨のあと、葉から滴る雫がとても美しいものに見えるように、大切な今この一瞬も、大事な宝物なんだ。
おしまい
補足
・岳里家では、お祝い事のときはだいたい真司のオムライス。
誕生日のときの必須は、岳里はオムライス、りゅうはドーナツ、竜司は肉。
真司のときはりゅうと竜司で作ってやる。
・次男竜司は頭の出来が残念な子なので、岳里の本を読んでも眠くなってしまって頭に入ってこない。そのため、後で真司とりゅうとで内容を教えてやっている。
2016.06.07