ノックの音にすぐさま、どうぞ、とフロゥが入室を許可する。

「お邪魔します」
「あっ、真司さんに岳里さん!」

 開いた扉から顔を出した真司と岳人に、フロゥは満面の笑みを見せた。
 つられるよう真司も顔を綻ばせるが、続いてぬっと現れた岳人は相変わらずの無表情だ。

「ハヤテが休養しているって聞いたから、来たついでに寄ってみたんだ。これ、よかったら食べて。向こうの世界の果物」
「わー、ありがとうございます! あっ、みかんがある、やった! ――ほら、ハヤテもお礼を言って!」

 フロゥに袖を引かれるが、あえて正反対の窓の方へと顔を背ける。

「ハヤテっ!」
「いいよ、フロゥ。おれたちが勝手に持ってきただけなんだから」

 ふん、と鼻を鳴らすと、フロゥに小突かれる。成長期からか、最近は力も増しているようで、脇腹に入った肘はそれなりに痛い。
 見たこともない果物の盛り合わせが乗る籠を机の上に置いて、フロゥに勧められるがまま二人は中央の席へと腰を下ろした。
 いつもなら客人が訪れた際、フロゥも席へ移動するが、今日はハヤテと同じ寝台に乗ったままだ。真司たちは慣れた相手であり、それほどまでに気遣わなくてもいいからだ。むしろ移動しようとすれば先に真司たちがそのままで構わない、と言うのが常であった。

「今日はりゅう、一緒じゃないんですか?」
「ああ。今はネルに捕まっているんだ。他の隊長たちにも遊んでもらっている」

 ネルは真司と岳里の息子であるりゅうを誰よりも溺愛していた。大好きな真司に容姿がとても似ているし、素直でりゅうもネルを慕っていることもあり余計に可愛いらしく、まさに目に入れても痛くないほどのかわいがりようだった。
 今頃わんさかおやつをもらっているよ、と真司は笑う。
 岳人もそうであるが、竜人は総じて大食漢らしく、まだ五歳のりゅうも成人男性以上に食べるのだと言う。そのため真司はいつも食費が嵩むと頭を抱えており、城を訪れた際にネルがおやつを大量に与えることを黙認していた。以前これで今日のおやつ分は浮いたな、と疲れたように笑う彼を見たら、なんだか少し気の毒に思えたものだ。

「ところでハヤテの調子はどうだ? 任務中に倒れたって聞いてさ。しかもしばらく休養するっていうから、心配してたんだ」

 真司の目がこちらを向いたのを気配で察する。それに、寝台から身を乗り出すようにしてフロゥが返した。

「真司さんからも言ってやってくださいよ! ハヤテったら、いつもの見回りだーとかいって本当は討伐任務だったことを隠して行ったんですよ。朝からとても体調が悪そうだったから、知っていたら、もっと強く引き留めていたのに……」
「だから何度も謝ったじゃねえか」
「反省が足りてないの!」

 ぴしゃりと言い返されて、溜め息混じりに肩を竦める。
 任務を失敗して医務室送りになってから、すでに一週間が経過している。その間にも散々フロゥに責められて、今回ばかりは分が悪いとハヤテもぶっきらぼうながら素直に謝罪を繰り返した。しかしフロゥの怒りは未だ収まりを見せず、事ある毎に掘り返してはくどくどと文句を言ってくる。
 その後は王から直々に休養して頭を冷やせと言い渡されてしまったし、その期間も王の許可が下りるまでと未確定とあって、苛立つ日々を送っていた。執務を放棄してもいいのは大いに助かるが、見回りに出られず、鍛練も行けないと言われてしまうと一切やることがなくなってしまう。
 仕方なく自室で勉学に励むフロゥの傍にいるものの、相変わらず眠ることもできず、さらにはふと思い出しては無茶したことを責められるので、かなり鬱屈していた日々を送っている。おかげで十分、忠告を聞かなかったことに懲りているが、それでも王からの許可は未だ下りずにいる。

「まあまあ、落ち着けよフロゥ」
「だって……」

 宥められて、まだ言い足りなさそうにするフロゥだったが渋々口を閉ざした。

「それにしても、思っていたより元気そうでよかったよ。みんなの話で、もっとつらそうかと思っていたから」
「ちゃんとご飯を食べさせていますし、夜はぼくが子守唄歌ってあげていますから!」
「くそ音痴のな」
「ハヤテ!」

 毎夜強引に添い寝をしてきて、傍らで余計寝付けなくなるような歌を歌い先に寝入るフロゥを思い出して鼻で笑う。
 音痴じゃないでしょ、と頬を膨らますフロゥの背後で、笑い声を上げないようにと真司が耐えていた。

「でもやっぱり、顔色はあんまりよくないみたいだな」
「凶悪面も増しているな」
「が、岳里!」

 これまで沈黙を貫いていた岳人が不意に話に入ってきて、今度は真司が慌てて窘め、フロゥが忍び笑う。
 一気に騒々しくなった彼らを尻目に、ハヤテは自分は関係ないと再び窓の外を見た。
 空では二羽の鳥が自由に空を飛んでいる。そういえば、自分が最後に飛んだのはどれほど前だっただろうか。
 無意識に首の右側を擦っていると、それに真司が気づいた。

「首、痛むのか?」
「――なんでもねえよ」

 指摘されて初めて手が動いていたことに気がついて、膝の上に置く。
 それからはいつものようにフロゥと真司が中心となり、時折岳人が口を挟むようにして会話が弾んだ。
 互いの近況が主で、フロゥは真司たちの世界にとても興味を持っていた。いつかハヤテと一緒に行くんだ、と意気込んでいるが、今はまだ口伝えで知識を蓄えることで満足しているようだ。
 真司たちから渡された、林檎という名の赤い実をそのまま齧っているとき、話題は近々数名が新たな獣人を呼び出す話になる。
 そこで、それまで和やかな談笑に穏やかな顔をしていた真司がふと口を閉ざして考え込んだ。
 その変化にフロゥも気がついたようで、不思議そうに名を呼ぶ。

「どうかしましたか?」
「あ、いや――その、ちょっとジィグンを思い出しちゃって」

 真司の口からその名を聞いて、ハヤテは一瞬林檎を噛み砕いていた顎を止めた。すぐに咀嚼を再開したので、岳人以外はその些細な変化に気がつくことはなく、話を続ける。

「……ジィグンがいなくなって、もう三週間も経つんですよね。なんだか今でも、ふらっと顔を出しそうだなって思うんです。そう考えるたび、会いたいなあって思っちゃって……へへ、ぼくもまだまだ未熟です。いい加減受け入れなくちゃいけないのに」

 無理をして笑うフロゥに、真司は自分の息子に接するよう、慈愛に満ちた顔で頭を撫でた。

「ジィグンはただプレイに返還されただけだもんな。ならもしかしたらまたいつか会えるかもしれないし、夢はとっておいてもいいんじゃないか?」
「でも……もしそんな奇跡が起きても、ぼくたちと過ごしたジィグンの記憶はないから……。きっと、寂しくて、虚しくなってしまうかも」

 主が死に獣人界プレイに送還された者は皆記憶が消えて、まったく新しい自分として再びこちらの世界に呼ばれるのを待つとされている。
 アロゥが死去してプレイに戻ることになったジィグンにも待ち受けている現実だった。
 もともとは異世界の人間である真司は知らなかったのだろうか。そう思ってなんとなく彼に振り返ると、真司はフロゥの言葉に困惑しているようだった。
 やはり教わったことがなかったか、とハヤテが再び窓に視線を戻したところで、真司は戸惑いの意味を口にした。

「ジィグンは、記憶を持ったままでいられるんじゃないのか?」
「え?」
「おい、どういうことだ」

 もう一度真司に顔を向けて、ハヤテは低く唸るよう問いかけた。
 最近ではハヤテの強面に慣れていた真司だが、凄まれてびくりと肩を震わせる。それでも二人が答えを強く望んでいることを知ると、意を決したように話し始めた。

「その、前にジィグンが言ってたんだよ。普通は記憶が消えてしまうけれど、自分は覚えているって。それで、プレイがどんなに冷たく暗い世界だって教えてくれたよ。主に呼び出されたとき、日の光を浴びてどれだけ感動したかも。――極稀に、記憶を保持している獣人はいるってジィグンは言っていた。自分もそうだって」

 真司の証言に、岳人も自分も聞いた、と擁護する。

「プレイにいたときの記憶がある――」

 無意識に、ハヤテは呟いていた。
 そんなことがあるのだろうか。記憶とは、呼び出されたあの瞬間から記録されていくものではないのか。
 それ以前を知る獣人がいるなど、自分を含めて聞いたこともない。
 真司によるとその話を聞いたのは、彼らがこちらの世界に訪れたばかりのときだったという。冗談が通じる相手でないのだからわざわざそんな出まかせを言う必要がないし、そもそもジィグンがそんな嘘をつくとも思えなかった。
 ならば本当に、ジィグンを以前の記憶を保持したまま、再び召喚することが可能だというのか。
 本当にもう一度、あのジィグンに会えるというのか――。

「――そうか、そうだったんだ……アロゥさまのおっしゃっていたことは、このことだったんだ!」

 驚くべき事実にこれまでハヤテ同様口を閉ざして深く思案していたフロゥが、不意に大きく声を上げた。

「アロゥさんがなにか言っていたのか?」
「最後にぼくに言ったんです。〝寂しくなったら、ジィグンを呼んでごらん。きっとあいつは応えてくれるだろう〟って――それはぼくの心の中のジィグンを指していると思ったんです。でも、真司さんの話を聞いて違うってわかりました。アロゥさまはきっと、ジィグンを再びこの世界に呼び出せとおっしゃったんだ!」
「確かに……そう、だよな。ジィグンが記憶を保持したままなら、十分可能な話だ。ジィグンは死んだんじゃなくて、ただプレイに戻されただけ――なら、召喚さえできればまたここに戻って来られる……」

 自らが語ったことに秘められた可能性に改めて気づいた真司も、まるで希望を見出したかのように岳人と顔を合わせた。
 フロゥは振り返り、足の上においたハヤテの手に自分の手を重ねた。

「ハヤテ、もう一度ジィグンに会えるんだよ!」
「もう一度、会える……?」

 降ってわいた希望に興奮するフロゥを前にして、ハヤテは困惑に沈黙するしかなかった。

 

 

 

 ハヤテと相談したい、と言ったフロゥの意向をくんで、真司と岳人は部屋を後にした。
 音もなく静かに扉が閉められて、フロゥがハヤテの顔を覗き込んだ。

「……ハヤテはジィグンに会いたくない?」

 真っ直ぐな眼差しを向けられて、ハヤテは迷いながらも口を開いた。

「――わからねえ。そもそもどうやってあいつを呼び出すんだよ。あのおやじがくるまで、何十人も契約させるつもりか」
「それは……」

 契約して呼び出す獣人とは、自らの意思で決められるものではない。
 獣人たちの中で契約者ともっとも相性がいいものが選出され、プレイより送り込まれるのだ。ジィグンを望んだところで、ジィグンでない獣人がくることの方がはるかに可能性は高かった。むしろ想い人が来るのは万に一つと言っても過言ではない。

「それに、本当に記憶が残っているとも限らねえだろ」

 ハヤテの言葉のひとつひとつに、輝いていた瞳が沈んでいく。興奮に力んでいた肩もすっかりしょぼくれて、フロゥは俯いた。

「――ぼくは、真司さんの話を信じるよ。それにもし記憶がなかったら……それでもジィグンはジィグンだ。本質が同じなら、きっとまた仲良くなれる。思い出はまた積み重ねればいいよ。これまでは勝手にもう会えないと思い込んでいた。でも、そうじゃないなら……」

 獣人は主が死ねば、ただプレイに戻るだけ。誰もがその事実を知ってはいるが、先程ハヤテが指摘した通り、再び呼び出そうとしても可能性は限りなくゼロに違い。そのため、初めからみな再びあいまみえることを不可能として斬り捨てていた。
 しかし一度提示されれば、それに縋りたくなるのもまた人というもの。 

「たとえ記憶がなくったって、ぼくはもう一度ジィグンに会いたい。また会いたいよ。可能性があるっていうなら、それに賭けたい。それに――ハヤテのためにも、ジィグンに戻ってきてほしい」
「おれのため?」

 何故ジィグンが戻ってくるのが自分のためになるのか、理解のできない言葉に眉を寄せると、フロゥは寂しそうに笑った。

「ハヤテは、気持ちに鈍いもんね。でもね、気がつかないだけで、ハヤテのここはずうっと泣いているよ」

 そっと、フロゥはハヤテの胸の上に掌を宛てる。

「会いたい、寂しいって、ずっと泣いている。わかるよ、ぼく。だってきみの契約者だもの」

 するりとてのひらは離れていき、再びハヤテの手の甲に重ねられた。その指先が微かに震えていることに気がつく。

「ごめんね。ごめんねハヤテ――ぼくはきみの契約者だけど、でもぼくにはきみの悲しいを取り除けないの。まだぼくじゃ支えきれない。ぼくじゃ、ぼくだけじゃできないの。きみにとってそれだけ、ジィグンは大きかったんだよ」

 大きな瞳からぽろりと涙がこぼれた。ハヤテを想って流れたそれは、けれど当人に理解されることはない。
 それを知ってもなお、ハヤテよりもハヤテを知る理解者である契約者は、自身の喪失に気がつけず、悲しむことも、泣くこともできずただ身体を壊していくばかりの獣人のために涙を流す。

「ハヤテにはジィグンが必要なんだ。きみを失わないためにも、ジィグンを取り戻さなくちゃいけないんだよ」
「フロゥ……」

 いつも死に急ぐよう戦地に赴くハヤテに自身を忘れさせることなく、この場所に心を引き留めていたのは、他でもないジィグンだった。
 ハヤテは自らの深い悲しみがそこにあるのに、気がつけず、けれど身体は眠ることも食べることもできぬほどに衰弱をする。しかし気がつけないからこそ対処のしようもなく、自覚もなく無茶を重ねる。
 本当の限界でなければハヤテは邪魔されることに苛立ち、さらに無謀なことを起こそうとしてしまう。おれは大丈夫だ、なんともないんだと言って。だからこそ見極め、極限の限界を迎えそうになったときに引き留めてやらなければ素直には従ってくれない。それだって生半可な態度では突っぱねられてしまう。
 今回その見極めをフロゥが誤ったからこそ、ハヤテは負傷した。きっとジィグンであればあのとき無理にでも引き留めて、事故を未然に防いだことだろう。
 誰よりも周りに気を配り、状況を見る力があったからこそ、ジィグンは気難しいハヤテの手綱をどうにか握っていたのだ。しかし他の者にはハヤテは御しきれない。フロゥとてできぬことだ。
 ハヤテの強引さに巻き込まれ、いつも愚痴を零していたが、ハヤテの精神のもろさを知り、黙って受け入れてくれたよき理解者であったジィグン。
 時折ふと眠れなくなるハヤテを寝かしつけられるのもジィグンだけだった。時には自分の身体を差し出してまでハヤテが抱える解消できない衝動や想いを消化させた。自分で考えたり、何かで気を紛らわしたりということがハヤテはできなかったのだ。だからなにかものに当たりもするが、そうすれば周囲は怯えたり冷めた目を向けたりする。それに気づいてしまうからこそ苛立ちは増し、腹に巣食う暗黒は深くなるという悪循環が生まれる。しかしジィグンが受け入れたものだけは浄化されるように消えていくのだ。
 フロゥは何度か、抱き枕になって苦笑するジィグンを見かけたことがある。
 近づくと、いつもはむっつりと縦に刻んだ眉間の皺がないハヤテの寝顔が見えた。珍しいこともあるものだとつい笑いそうになると、ジィグンは指を口の前に持ってきて、しい、と合図するのだ。
 ちゃんと大人しくしていれば、隣で一緒に眠ることを許してくれた。子供のように今にも涎を垂らしそうなハヤテを真ん中にして、彼をジィグンと挟んで寝るあの一時が大好きだった。
 自他の感情に疎いハヤテは、しかし感受性は他人よりも強いくらいだった。
 本当は見知らぬ者の死を知るだけで食べ物が喉をつかえるようになるほどで、本来魔物討伐は最も彼に向かない仕事であった。しかし皮肉なことに彼の才はそちらの方面にしか伸びてはおらず、自分たちの都合で魔物の命を奪うことへの苦しみを感じているのに、自分はなにも感じていないと、なにをしても平気だと思い込んでいる。
 なんと生きにくい男なのだろうと、彼をよく知る者は同情をする。しかしハヤテはその同情の意味に気がつくこともできず、ただ憐れまれていることだけを感じて苛立つだけだ。
 いつだってジィグンは、ハヤテと喧嘩をしながらも、面倒見きれるかと文句を言いながらも、それでも見捨てず、勘違いされやすい不器用でとても脆いハヤテを守ってくれていた。周りからも、ハヤテ自身からも。
 ――その事実を、もっともジィグンに守られていたハヤテ自身は知らない。これから先も気がつくことはないだろう。だからこそそれがハヤテの弱点であった。
 主の心中など少しも知らないハヤテは、ただフロゥがまた自分のなにかで泣いてしまったな、と思っただけだ。
 その涙の理由を深く考えられぬまま、指先で拭ってやる。

「てめえはいつまでも泣き虫だな」

 背が大きくなっても、力がついてきても、甘ったれは相変わらずだ。それだけアロゥとジィグンに甘やかされ、そして大事に育ててこられたのだ。だからこそきっと自分なんぞのために涙するのだろう。
 涙を拭った指先で、ハヤテは乱雑に後ろ頭を掻いて、肺の中の空気をすべて吐き切るようはあと息を出す。
 寝台から軽やかに飛び降りると、まつ毛に雫をつけながらきょとんとするフロゥに手を差し出した。

「――行くぞフロゥ」
「ど、どこへ?」
「王のもとに。呼び出すんだろ、あいつを。おまえがなにを言いたいのかよくわからねえけど、それだけはわかったよ」
「……うん!」

 涙を袖で拭って、フロゥは差し出された手をとった。

 

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