ルーフィアとは口裏を合わせ、彼女を抱いたことにした。ヴァルヴァラゲーゼ王にはそう報告し、国王を騙ったこととその喜びを裏切ったことへの罪悪感を微笑の下にひた隠す。久しぶりであったから腰が重い。しばらくは休ませてほしいと王に願い出れば、機嫌のよかった彼はならば一週間後に、と頷いた。せめてもう一週間ほしい、とはとてもではないが言い出せなかった。
 とりあえず与えられた猶予に安堵の息を吐き、束の間の休息に心落ち着ける。その間にも仕事は次々舞い込み、日々は瞬く間に過ぎ去っていく。
 明後日には再び新たなる女性に会わなければならないという頃、アロゥはふらりととある場所を訪れた。それは女の園、バノン・ラーゲだ。
 一夜をともにしたルーフィアのことが、あの日以降どうも頭から離れずにいた。単に話が合い楽しかったということもある。もっと語らいたかったとも。だが何より、床にへたり込みなかなか顔を上げなかったあの姿が頭にちらつくのだ。手を置いただけで跳ね上がる肩。震える泣きそうな声に、大きな青い瞳。
 誰かに見つかってしまえば煩わしいことになりかねないと、自らに隠密の魔術をかけ、忍び足で彼女の姿を探す。以前に住んでいる区間を聞いていたため、運が良ければ見つけられるだろう。
 遠くから一目その姿を見るだけでよかった。元気な姿が見られればと。もし出会えなかったならばそれはそれでいいと思っていた。むしろバノン・ラーゲは広い。いくら住んでいる区間を知っているとしても、必ずしもそこにいるわけではないし、出会える可能性など限りなく低かった。
 そうとわかっていても、アロゥは仕事の合間を縫って訪れた。そしてあの夜の少女の姿をこっそりと探し、見つけてしまった。
 ちょうど角を曲がった先で老女と話しているルーフィアがいた。思いの外距離が近く、慌てて隠れてもなお角から彼女たちの会話が聞こえる。その内容を計らずして聞いてしまったアロゥは、それが終わる頃には顔色はすっかり曇ってしまっていた。
 結局見つけたルーフィアの姿をろくに見ることなく、声だけで城に帰還し、仕事を再開させた。だが手を動かしながらも頭に巡るのは、先程聞いてしまった老女とルーフィアの会話だった。
 どうやらルーフィアは、深くあの老女を信頼しているようだ。その証拠にアロゥのと夜の真実を話したようで、自身が抱かれていないことを老女は知っていた。その口ぶりからして誰かに話したというわけでもなさそうだ。
 老女はルーフィアに、次の相手となる男について話していた。次こそ初めての相手となるのだから、しっかり選びなさいと穏やかに諭す声があった。しかしそれに返されたのはまるで覇気のない声音だった。

「どなたでも、構いません……」

 そう、力なくルーフィアは答えていたのだ。
 正真正銘次に会うことになる男が初めて身体を開く相手となるのに、彼女の言葉は投げやりだった。
 何故、誰でもいいなどと言うのだろう。話した限りルーフィアは純朴な少女であり、ひ弱な身体であるアロゥにすら怯えるようだった。ならばこそ相手を慎重に選ぶはずだろう。そうする技量が彼女にあることをアロゥは知っている。だが、ルーフィアはそれをしようとしていない。
 いつまで経ってもルーフィアの言葉は頭から離れなかった。一晩が経ってもそれは変わらず、むしろ気がかりになるあまりに仕事がおろそかになる事態にまで発展してしまった。深刻なものでなものの珍しいアロゥの失態に、部下はおろかジィグンまで体調を心配した。
 息抜きを進められ、アロゥは城内をふらふら歩きながらやはりルーフィアを思う。そして決断し、王のもとを訪れた。
 書類に目を通していたヴァルヴァラゲーゼは知己であるアロゥの訪問であるからこそ紙面から顔を上げることなく口を開いた。

「どうした、アロゥ」
「陛下。頼みがございます。明日のことなのですが――」





 一週間前にも見たばかりの扉を叩けば、中からは以前と同じ顔がアロゥを出迎えた。以前は緊張に強張った表情を今回は戸惑うものに変え、ルーフィアはアロゥに挨拶をする。
 ゆとりがまったくなかった前回とは違い、今回はすぐに部屋への道を開けた。

「どうぞ、お入りください」
「ああ、すまない」

 今宵は光玉の明かりも柔らかに灯っている。前回の月明かりの中でしか見なかった少女がよりよく見え、やはり顔立ちにはまだ幼さが抜け切れていないことを知る。不安げな瞳がよりいっそう彼女を頼りなく見せていた。
 語り合った夜のように隣同士に寝台に腰かける。あのときと同じだけの距離をあけ、どう自身の抱える疑問をぶつけるべきか悩んでいるルーフィアにアロゥから声をかける。

「すまない。再びきみを呼びだしてしまって」
「いえ……あの、でもなぜ、わたしなのでしょうか。今宵は別の女性が宛がわれるとお聞きしておりましたが」
「ああ、そうだったのだがな」

 本来であれば、アロゥとルーフィアの関係は一週間前の一夜だけに終わったはずだった。そうあるべきだったのだ。だが昨日聞いたルーフィアの台詞がどうしても頭から離れなかったアロゥは、その真意を問うべく、王に頼み込み再び彼女を夜伽の相手としてもらった。
 ヴァルヴァラゲーゼ王は、アロゥがルーフィアのことを気に入ったのだと喜んでいた。彼女が確実にアロゥの子を孕むまで、ルーフィアだけを相手にしてもいいとさえ告げられたのにはさすがに苦笑いを返したが、深くは追及してこなかったのには安堵した。それにどう応えればいいか、アロゥ自身がよくわからないからだ。
 しばしの沈黙後、ようやくアロゥは重たい口を動かし、昨日の老婆とルーフィアの会話について触れた。まず先に盗み聞きしてしまったことを謝罪して、そして耳にしてしまったあの投げやりな台詞を問う。
 ルーフィアは最初アロゥの顔を見て話を聞いていたが、いつしか膝の上に重ねた己の手に目線を落としていた。

「……いらしたのですね、あのとき」

 ぽつりと呟かれた言葉に、まるで責められているような気がしてアロゥは再度謝る。ルーフィアにその意思がないことはわかっていた。だが、秘めたる内容を勝手に暴いたことに引け目を感じているからこそそう思えてしまうのだ。
 ルーフィアは小さく息を吐き出す。

「――わたしは、あの夜。アロゥさまにこの身のすべてを、捧げるつもりでした。でもアロゥさまはそれをなさりませんでした」

 そのために用意された場でふたりがなしたのは、ただの心地よく過ぎる会話だけだ。そこに生命を育むことを、互いの血を残す行為などしなかった。健全な夜明けを迎えたのだ。
 ルーフィアはもとよりあの部屋で待つときよりもずっと前に、もう逃れられぬさだめだと思っていたに違いない。だからこそ覚悟したが、だがそれはアロゥ自身によって実に呆気なくないものとされた。

「この国で女は、十七になればいずれは誰か選ばねばなりません。それが、ここで生きるわたしたちの義務なのです」

 これまで自分が生きた時の半分も生きていないまだ年若き少女。バノン・ラーゲという籠の中で今後も過ごしていくしかない。そしてここで暮らしていくには避けては通れぬ道がある。彼女は性別が女というだけで、生まれながらに国から与えられたものを受け入れざるをえないのだ。
 彼女たちは子を産むための道具などではない、とアロゥは思っている。だが結果としてそう扱わざるをえない現状を、今この時ルーフィアの台詞で改めて突きつけられたような気がした。
 女性は基本的にバノン・ラーゲの外に出されることはない。出られるとすればいくつもの制約がなされ、先の長い若い女にまず許可は下りないのだ。稀に安全を約束された城勤めをする若い女もいるが、それは身体的理由で子を成せぬ者であった。
 ルーフィアは、まさに強制的に義務を負わされたバノン・ラーゲで生きねばならぬ者。だからこそ相手を選ぶ権利はあれどもすべてを拒否することは許されず、やがては誰かを決めなければならぬ者である。
 少女の置かれた立場を、アロゥは国の中枢に立つ者だからこそよりよく理解していた。それでも納得ができない。

「だが、誰でもいいなど」

 ルーフィアは下を見つめながら、とても悲しげに微笑んだ。それが少女らしからぬ大人びた女性のもので、アロゥは思わず言葉の途中で口を閉ざす。

「――……わたし、は。わたしは、アロゥさまが、よかったんです。初めてはアロゥさまに託そうと、すべてを捧げようと、本当にそう、思っていました」
「わたし、に?」

 思いがけないルーフィアの言葉に、まるで別人のような女性の横顔をアロゥは見つめた。

「ずっと、アロゥさまに憧れていました。だかこそ、あの夜を命ぜられたときは本当に心臓が止まるかと思うほど驚き、そして喜びに震え上がりました」

 ゆっくりとルーフィアは語り出す。それは一週間前の夜ではない、それよりも以前の二人が初めて出会ったその日のことを。
 九年前のことだ。アロゥは視察にバノン・ラーゲに訪れたことがある。視察は三か月に一度行うためそれほど珍しいことでもなく、そのときアロゥは鼠の姿になったジィグンを一人護衛につけただけで園の中を歩いていた。案内役も不要なくらいにはバノン・ラーゲの地図も頭に入っていたため可能だったことだ。
 あのときもアロゥは隠匿の魔術を纏い人目を避け要所を見回っていた。単に誰かに捕まるのが煩わしかったからだ。バノン・ラーゲでもアロゥは大魔術師として名を馳せている有名人だった。一目に触れれば厄介事に巻き込まれそうになることも少なくはなく、それでなくとも女性たちの口が開けばそこから抜け出すことは困難となってしまう。そのとき隊の仕事が多忙であり、それほど視察に時間をかけられなった事情も単独行動の理由のひとつだった。
 足早に道を進んでいく中で、アロゥは当時八歳のルーフィアと出会ったのだった。
 ルーフィアは壁の隅で膝を抱え泣いていた。二人がいた場所はちょうど園の端に位置する場所で、まず普段であれば人は立ち入らぬような、道の入り組んだ何もない場所だった。だからこそ少女は迷い込み、帰れず隅で泣いていたのだ。
 事情を察したアロゥは隠匿の魔術を解き、さらには物体移転の魔術を用いてその手に四番隊執務室の自身の机に飾られていた花瓶から花を一輪転移させ、涙をこぼす少女に跪き差し出したのだった。
 花を受け取った少女は始めはきょとんとしていたが、恐る恐る花を受け取るとなみだをとめて幸福そうにほほ笑んだ。アロゥは少女を立たせて手を繋ぎ、人のいる場所まで彼女と一緒に歩いたのだった。
 その後は少女を探していた女に出会えただけでなくその他大勢に大魔術師アロゥと知られ、周囲を囲まれ握手だの成し遂げた事柄だの魔術についてだの、やはりそう簡単に放してはもらえないような事態に陥ってしまった。その間にも少女はいなくなっており、やがてアロゥが解放された頃には迫り来る時間に泣いていた幼い顔などすっかり吹き飛び大慌てで視察を終わらしたのだった。
 かつての話を聞きながら記憶を呼び覚ましたアロゥは、おぼろげながらにあの時の迷子がルーフィアであったことを知った。

「泣いているわたしに花をくださり、それだけでなく笑いかけてくれて、もう大丈夫だよっとおっしゃっていただいて。そして手を繋いで、人のいるところまで一緒に向ってくださいました」

 目じりが和らぎ、まるで慈しみを与える女神のような深き愛を見せるようルーフィアは微笑む。
 垢抜けない少女であると思っていたのに、今のルーフィアは大切な感情を知る一人の女であった。アロゥはただただその横顔に魅入らせられる。たとえそれが再び悲しげに曇ろうとも、それすらも目を離せずにいた。

「あのときからわたしはアロゥさまに憧れ、いつしかそれは――……ですが、あなたさまは偉大なる魔術師。所詮は叶わぬ願いであり、ただ時折、遠目から眺められるだけでも十分でした。ですが今回、奇跡が起きました」

 ようやくルーフィアが振り返り、青い瞳と視線が重なる。愁いを帯びたその目に、アロゥは言葉を挟めない。

「ですから、わたし……たとえ子が宿らずとも、初めてをアロゥさまに捧げることが出来ると、嬉しくて。――結局、叶いませんでしたが、ですが恨んでなどございません。わたしを想いしてくださったことです。その優しさは別の幸福をあの夜わたしに与えてくださりました。むしろよりアロゥさまを知ることができて嬉しかったです」

 アロゥはルーフィアを抱くことはなかった。彼女が真に望むものであったとも知らずに、純潔を自らの手で散らすのが惜しいと思い、それならばもっと相応しい相手がいいと考えて。
 本当は、一週間前のあの夜よりも以前に二人は出会っており、ルーフィアは当時の思い出を胸にアロゥへの想いを積み重ねてきていた。だが二人の立場はあまりに違い過ぎる。だからこそルーフィアは諦めていたが、ヴァルヴァラゲーゼ王の計らいによりアロゥにはうら若き女性が宛がわれることになった。それはルーフィアにとって千載一遇の好機であったのだ。結果として好機はアロゥの手によって逃されてしまったわけであるが。

「――ルーフィアどの。その話は、真だろうか」

 信じられないわけではなかった。これまでの話に矛盾はないし、何より彼女の表情が真実であると訴えている。だがアロゥは、それでも戸惑いに尋ねる。

「本当、です」

 ルーフィアは浅く頷くと、身体を捻り枕元に置いていた本を手に取る。目を向けてみれば、それは見覚えのある表紙だった。
 女神アルナの物語。あの夜に最初に触れた本がそこにあったのだ。
 アロゥの視線に気づきながら、ルーフィアはそれを膝の上に置いた。

「先日お話して、また読み返したいなと思って」

 くすりと笑ながら本を開き、そこから栞に使っていたらしい細長い白い紙を抜き取る。どうやらそれは折りたたんであるものらしく、栞を開くと、中から小さな白の花弁を持つ押し花が現れた。
 ルカ大陸の広くに群生する花であった。然程珍しくもなく、ここバノン・ラーゲにも咲いている手に入れやすい品種だ。だがアロゥはそれを見せることでルーフィアが伝えたいことを察する。それに加え微かに感じる魔力の気配も答えのような気がした。
 その花は、アロゥがかつて迷子になって泣いていたルーフィアに贈った花であるのだろう。そしてそれに現状を維持する魔術がかけられ、大事に保管されていたようだ。
 ルーフィアから言葉はない。だが、それを見せたことこそが彼女の心を教えている。

「たった一度しか接する機会はございませんでしたが、またお会いできて、あの夜お話できて、やっぱり想像通りの方だと思いました。恐らくこの先も、たとえ、誰かに抱かれなければならないとしても、きっとわたしはアロゥさまをお慕い続けることと思います。ご迷惑をおかけするつもりはありません。ただこの想いを抱え続けることは、どうかお許しください」
「ルーフィアどの……」

 ただ名前を呟くだけで、アロゥの口からはなかなか次の言葉が出てこなかった。しばしの沈黙を置き、ようやく続ける。

「その、もしきみの言葉が本当であるならば、これからもまた、わたしと会っては、くれままいか」

 不安定な声は、容易にアロゥの戸惑う心をルーフィアに想像させた。だからこそ彼女は微笑み、ゆるく首を振るう。

「――いいのです。こうして想いを伝えることもまた夢でしかありませんでした。アロゥさまの優しさが嬉しかったのは本当ですし、今もまたわたしを憐れんでくださっているのでしょう。ですから、そのお気持ちだけでいいのです」
「ルーフィアどの、わたしは……」
「アロゥさまはご自身がお気づきにならないだけで、わたしだけでなく多くの女性から慕われております。アロゥさまはとても素敵な方なのです。どうぞ卑下などなさらず、ありのままのあなたさまでいらしてください」

 言い切ったルーフィアの笑顔はいっそ清々しい。しかしアロゥの表情はますます困り顔になる。

「違う、そうではないのだ。あ、いや、卑下することはもうやめよう。ああいや、そうではなくて……その」

 歯切れ悪く言葉を羅列したアロゥは、一度咳払いをして心を落ち着かせる。一拍を置き、ようやく本来の自分を取り戻すと、隣で顔を向けるルーフィアの視線を交わらせた。

「――ルーフィアどの。わたしはきみのことがどうも気にかかるのだ。もしこのままわたしと別れても、きみはまたあんな声で、自らを投げ出そうとするのではないかと。わたしはそうなることがいやなのだ」
「それはアロゥさまがお優しいからです。わたしは投げやりになっているわけではないので、どうかお気になさらず」
「いや、そうではなくてだね……その、きみの笑顔が曇るのだと思うと、悲しくなる。陽の下の花のようにいてほしい。そしてきみに向けてもらえる好意がとても好ましいと思ったのだ。わたしが与えた花を今になっても大切に持っていてくれたことも嬉しかった。それに――きみに、他の男が触れていると考えると、胸が重たくなる」

 ルーフィアは大きな瞳を幾度も瞬かせた。純粋に、思いがけぬアロゥの言葉に驚いているのだろう。それがわかるからこそアロゥは気まずくなった。
 意を決し胸中で渦巻くまとまらぬ想いを言葉にしたとしても、どんどんと声音はしりすぼみになり、アロゥはいよいよ目を逸らしてしまった。正面を向いたアロゥは大魔術師としての立場など微塵も見せぬよう、組んだ両手を忙しなく動かした。
 傍らから、ルーフィアはじっと青い大きな瞳を向けている。

「わたしは、もっときみを、知りたいと。そう思った。もっときみと語り合いたいと、今だけでは終わらせたくないと。正直、どうしてそう思うのか、今わたしの胸に渦巻くこの感情が何であるのか、それはわからぬ。だがまた会いたいと思った。憐れみでもなんでもなく、このわたしが、そう願った」
「そ、れは……それは、本当ですか……? アロゥさまを想っているわたしをただ哀れに思ってなどではなく、本当に?」

 今度はルーフィアが疑う番となった。だがそこには微かな期待が滲み、二人の間に手をつき身を乗り出すよう、俯いたアロゥの顔を控えめに覗き込む。
 アロゥは前を向いたまま、ちらりと瞳だけを彼女に向けた。青く大きな瞳に自分だけが映っていることに気が付き、熱のこもるその視線にどきりとした。
 目線を前に戻し、年甲斐もなく微かに頬を色づかせながらゆっくりと頷く。
 アロゥの見えぬ場所で、小さな蕾はぱあっと花咲かせ輝き始めた。

 

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