月夜

本編完結から数年後。
初夜を迎え、眠りについた後のこと。


 そっと瞼を持ち上げると、静寂に包まれた暗がりのなかにいた。
 何度かゆっくり瞬いた悟史は、窓の隙間から差し込む淡い月の光に照らされた世界を、微睡みからから抜け出せないままぼんやりと眺める。
 普段眼鏡をかけていなければぼやけるはずの視界の中でも、はっきりと顔がわかるほどに近くにいた男を見つめていると、眠る前――というよりも、気を失う直前まで行っていた事が次第によみがえってきた。
 自分でも知らなかった自分を引き出され、あらぬ醜態を晒してしまったあげく、どうやら後始末もすべて押しつけてしまったらしい。あれだけ濡れた身体はさらりとしており、脱ぎ捨てたはずのシャツと下着をまとっている。自分で動いた記憶はないし、それどころか指先ひとつさえ動かすのがひどく億劫に思えてしまうほど重たく疲れ切った身体を動かせたとはとうてい思えない。すべて十五がしてくれたのだろう。
 目の前にある端正な顔は、片目を裂いた大きな傷跡が時を経てもなお痛々しく見えるが、彫刻のように整った造形の顔立ちが損なわれることはなく、うすらと差し込む月の光を受けているその姿ですら、ただ寝ているだけのはずなのにまるで一枚の絵画のように美しい光景となっていた。
 どうやら本当に眠ってしまっているようで、心の声は一切聞こえない。寝ている人間でも、まるで寝言のように心の声が騒がしいということもあるが、熱心に悟史を求めていたから十五も疲れたのか、深く寝入っているようだ。
 いつからそうしていたのか、十五の腕がゆるく悟史の身体にのっていて、まるで重石のように寝返りを打つことができそうにない。本来ならばひしゃげた車内に閉じこめられた過去の事故を思い出してしまうため、身動きのできない状態を極端に恐れてしまうのだが、しかしその重みがどこか居心地がよかった。
 体温が低く冷え性でもある悟史は、ベッドの中にいても寝ている間に身体が冷えてしまっていることもままあったが、すっかりと十五の体温に染まり指先までぬくもりに満たされている。その重みとぬくもりに馴染み心落ち着けるほど、ずっと傍にいたのだという実感がじわりと心に染み込み、やがて悟史の瞳からぽろりと滴がこぼれた。

 ――いったい、いつ振りだろうか。人肌のぬくもりを感じる夜なんて。

 日中は常に人の気配に神経をとがらせ、聞こえてくる心の声を聞き流し、ときには実際の発言かどうかを探りながら続ける生活は悟史の精神をひどくすり減らしてきた。だからといって、自分一人きりになれる眠る間際の時間が穏やかであったかといえば、そうではなかった。
 目を閉じ眠る瞬間を待つ間、ふと自分しかいないはずの空間に他人の声が聞こえてくる。鬱屈する気持ち、誰かを呪う言葉、己を奮起させようと気合いをいれたり、心より楽しげに笑っていたり。その声が持つ感情はじつに様々である。
 耳をふさいでも、耳の奥の方からえんえんと聞こえてくるのだ。日中に常に身をおく声の波をリフレインしているだけの幻聴だとわかっていても自分の意志で止めることはできない。そのせいで眠りが浅く、肉体的な疲労も常にけだるくのしかかっていた。
 幻聴が聞こえなかったのは、弟の真司とともに眠る夜だった。
当時はまだ小学生だった真司は両親を失った事故を思い出し、時折夢にまで見て泣き出すことがあった。そんなときは兄弟で同じベッドで、悲しみを分かち合って眠りにつく。
 幼い真司の身体はあたたかく、また彼の心の声だけは聞こえないこともあってか、不思議とその時ばかりは幻聴もなく深く眠ることができたのだ。
 真司も成長して、自分だけで過去をやり過ごせるようになってきて、思春期を迎えたこともありともに眠ることはなくなった。一度だけともに眠れるような相手、恋人をとも考えたが、相手の心の声を聞こえてしまう負い目や、やはり内面を知っている上で親しくなることはできなかった。
 人工的なぬくもりで代用ができないかと試みたが、どうやらそれは身体のほうに合わず、ひどく乾燥してしまったり、気分が悪くなったりしてしまう。唯一湯たんぽは効果があったが、湯が冷めてしまった後に悪夢で飛び起きることもままあり結局使わなくなった。
 ふと名前を呼ばれて、記憶の中に飛び込ませていた意識を呼び戻す。
 気配に聡い彼のことだから、起こしてしまったのかと不安になったが、外で浮かんでいる満月のような金色の瞳は閉ざされたままだった。
 どうやら、寝言だったらしい。満ち足りた柔らかい声音で、どんな夢を見ているのかはわからないまでもきっとそれが幸福なものであることがうかがえた。
 思わずこぼれた自分の笑みに気がついたとき、ふと目の前の瞳が開き、悟史を捕らえた。

「あ――悪い。起こしちゃったか」

 そうではないとゆるく首を振った十五は、悟史の身体に乗せていた腕を持ち上げる。
 十五の腕の分だけ軽くなり、離れてしまう寂しさを感じたのは一瞬のことで、その手は悟史のまなじりに触れた。

「……ちがうよ。悲しいわけじゃないんだ」

 心の中から問いかけられた言葉に微笑みで否定をする。

「おまえのおかげで、とても温かかったから。なんかぐっと、こみ上げてきちゃってさ」

 涙の跡を拭う優しい指先に顔を寄せると、手のひらが頬を包む。たったそれだけのことにひどく満たされ、より寄り添いたいと願い自分の手を重ねた。
 相手の心の声が聞こえてしまうのは、秘密ごとを盗み聞いてしまったような罪悪感があった。自分で操作できるものでないのだから仕方ないと割り切ることもできず、かといって人との縁を絶ちきり一人で生きていくこともできず、常に何故こんな力を得てしまったのかという疑問にさいなまれ続けてきたのだ。
 心の声が後ろ向きな言葉であったときはもちろんのこと、前向きなものであっても、やはり聞こえてしまうのは後ろめたい。この力が消えない限りは生涯つきまとう気持ちであると、そう思っていた。

「――うん。大丈夫だよ。ありがとう、十五」

 できることなら〝普通〟に戻りたいと、何度願ったことだろう。だが今、この力があることを心より感謝していた。
 声が聞こえていなければ、十五との交流はもっと困難であっただろう。筆談しようにも文化の違いによりその壁は高く、十五と岳人が独自に編み出した手話のような意志疎通の手段もあるが、それは悟史にとってあまりに複雑で理解することができない。かといって悟史と十五の世界の手話はそれぞれ異なるため、なにをするにしても基礎もなにもない状態でいちから学ぶ必要があった。それではお互いだけで会話をするのに、何年かかったかわからなかっただろう。
 それに――十五の心の声を聞くと、安心するのだ。
 すべてを包み隠さず聞いてしまうのに申し訳なく思う気持ちは完全になくなったわけではない。もう一度出会いをやり直す機会があれば、きっと自分は心読みの力を十五に隠すことだろう。それでも、心を読まれることを知ってもなお悟史の傍を選び、自ら心を開き語りかけてくれる十五の存在は、心を読めない弟以外を信頼することができなくなっていた悟史を慰め、勇気づけてくれた。この力は、あるべくして悟史のもとにあるのだと。決して苦しむためだけのものではないのだと。
 眠れぬほどの苦悩の日々を、すべて帳消しにしてくれるほど、聞こえてくれる十五の声は嬉しかったのだ。
 またじわりと滲んだ涙が十五の手を濡らす。
 それに気がついたのか、ただもう眠れと言いたかったのか。
 彼の心が歌う子守唄が聞こえてきた。
 今ではもう、悟史しか聞こえない美しい歌声。潰れた喉でなく、心で奏でるそれは慈愛に満ちている。恋人に向けるより、親が子に唄ってやっているとうほうがしっくりとくる気がした。
 子供じゃないんだから子守唄なんて、という照れる言葉もなく、悟史は目を閉じて耳を傾ける。
 竜族に伝わるものであるだろうか。聞き慣れないそれはゆったりと紡がれて、いつしか悟史は再び温かな眠りついた。

 おしまい

2019.4.17

main 戻る