Desire



 満月のような金色の瞳に、柔らかそうな紺の髪というどこか現実場離れした色合いながら、写真で見た幼い頃の自分にそっくりな子供。
 じっとこちらを伺うような視線に戸惑いながらも、なにか行動しなければと目線を合わせるためにしゃがめば、しがみついてる長い足の後ろにさっと隠れてしまう。それでも目が逸らされないのは、おれたちが気になるからなのか、それとも強く警戒をしているからなのか。
 ――漠然と、再会は感動的なものになると思っていた。ドラマのように、大げさに騒ぎ抱き合い涙しあうような、そんな一場面になるかもしれないな、なんて想像していた。
 伝えたい言葉もたくさん用意して、たくさん話をしようと思ったのに。近づけない少年との距離が縮まらないように、積み重ねていた台詞は喉の奥から引きずり出せない。
 どうして、こんなことになっているんだろう。
 様々な感情が入り交じり、一度は潤んだ瞳が別の意味で涙を流したくなった。




 おれたちの世界と異世界ディザイアを繋ぐ扉。もともと道そのものはあったが、六度目の選択の時の報酬に岳里がそれを常時通れるように望み、神ディザイアはその願いを叶えるため尽力してくれた。
 当初は一年ほどで完成する予定だったけれど、思いの外作業が難航したらしく、実際に扉が出現したのはおれたちがもとの世界に戻ってから二年と半年が経ったときだった。
 ある夜、兄ちゃんと鍋をつつきつつ肉の奪い合いをしていたら、いきなり家の階段をヴィルが下りてきたときには、それはもう驚かされたものだ。
 それまで時折ディザイアから進捗の報告がおれの携帯電話にメールが届いていて、もうそろそろで扉ができるとは知っていたけれど、まさかのんきに鍋を食べているときに使者が来るなんて思わなかったし、なんといってもヴィルの体格の良さはこちらの世界には珍しく、兄ちゃんと二人で一瞬物取りかと思って本気で怯えた。
 すぐに懐かしい相手だと気がつき、安堵とともにやっぱり驚かされたものだったけれど、ついにこのときが来たのかとも思ったもんだ。
 すぐにでもみんなに会いに行きたかった。あの世界を離れて二年だ。ディザイアが頑張ってくれたのは知っているけれど、どれほどこの瞬間を待ちわびたかわからない。
 飛び出して、向こうに行って、ともに苦難を乗り越えた仲間たちの元気な姿を見たかった。けれども兄ちゃんとヴィル、岳里にも電話してみんなで相談し、ディザイアに行くのは翌日に決めた。同じ異世界ディザイアの関係者である岳里がこの場にいなかったし、時間も夜で、呼んだら来られるとしても今からとなると岳里の義両親が心配するだろうと思ったからだ。
 ヴィルも一刻も早く扉の完成を伝えるためにすぐに来てくれたらしく、向こうでも世界が繋がったことを知らない人も多いらしい。改めて出迎えの準備をしておくからと言われて、お互い都合がよかったんだ。 
 せっかくの再会なのに、ばたばたしてゆっくりできないのもいやだったし。幸い明日と明後日はおれと岳里の大学も、兄ちゃんの仕事も休みで、二日間は落ち着いて再会を祝えることがわかっていたし、これからはもう、いつだって向こうにいけるから、たった一晩のことを慌てる必要はない。
 そう言い聞かせて、ヴィルを帰らせていつもの違う一日を終わらせてベッドに入ったけれど。見慣れたクローゼットの奥が気になって仕方なかった。普段はおれの荷物が詰まっているが、それは外にはじかれて部屋の隅で山になっている。
 クローゼットを開けば、異世界への道があるんだ。その先でついに、みんなと会える。それが嬉しい。でもなにより、あいつに――息子にまた会えることがたまらなく待ち遠しい。
 二年半待ったのに、明日には会えるとわかっているのに、今感じる一分一秒がとても長く感じる。なかなか寝付けず、気づいたら手の甲の傷をさすっている自分に気がついて苦笑する。そして、こんな落ち着けない夜は自分だけじゃないと、この世界では見えなくなってしまう腰の証の熱が、繋がる相手の感情の高ぶりを教えてくれる。
 その熱に励まされながらも、しばらくは寝付けない時間をおれは過ごし、そして少し寝不足気味のまま翌朝に岳里と兄ちゃん、そして迎えに来たヴィルとレードゥとともに世界を渡った。
 異世界ディザイア側の扉は、なんと以前おれと岳里、そしてりゅうが使用していたあの部屋の衣装棚と繋がっていた。おれたちが去った後も、ディザイアから事情を聞いてずっとそのままとっておいてくれたらしい。
 部屋を見ただけで、いろんな想いがこみ上げた。当時の記憶は、嬉しいかったことも、楽しかったことも、苦しく悲しんだことも、よくも悪くもたくさんの感情を思い出に溢れているから。
 すごした部屋だけで言葉を詰まらすおれを、兄ちゃんは、今からそんなんで大丈夫か、と笑ったけれども。もちろん、大丈夫なわけがなかった。
 久しぶりに再会した懐かしい面々に、挨拶を告げる間もなくおれの涙腺は決壊した。どうやら、過去を振り返るあまりにその当時の泣き虫もよみがえってしまったようで……それはもう、嗚咽でまともに話せないくらい、わんわん泣いて、最終的にはその情けない顔を周りに見せたくないからと岳里に隠してもらうくらいには泣いた。
 みんなは変わりなく、常に危険に身をおきながらも誰も欠けることもなくおれたちを待ってくれていた。国の主要人物ばかりでみんな多忙だってのに、全員で出迎えてくれて、暖かい言葉をかけてくれて、想いがこみ上げないわけがなかったんだ。いくら脳内シュミレートしていても、直面した現実の威力はすさまじいもんだった。
 このときの大泣きの影響で、どうやらルカ国の上空からたくさんの花びらが降り注いようだった。それは以前おれがエイリアス戦の終結時に魔物の亡骸を花に変えてしまったときと同じものだったらしく、やはりめでたいと騒ぐ隊長たちに聞かされこのとき初めて、そのことが奇跡のひとつとして語り継がれていることを知った。しかもその花が今では丁寧に栽培され、国の花として愛されているのだとも知り、無意識とはいえ自分が生み出してしまったものに喜ぶべきか恥ずかしがっていいべきか。結局なんともいえない顔をしてしまって、みんなに大笑いされた。
 想い出話は尽きなくてなかなか話がとぎれることはなかった。けれどひとしきりそれぞれと再会の挨拶を終えた頃に、アロゥさんがそれとなく一区切りをつけ、その夜はみんなで宴をするから各自仕事に戻れと隊長たちを追い出す。
 残されたおれと岳里と兄ちゃんは、王さまの計らいで夜の宴まで竜族の里に行くことになった。お世話になった竜族のみんなに挨拶をするのはもちろんのこと、兄ちゃんの竜人であり岳里の実兄である十五さんと、そしておれとが岳里の息子であるりゅうに早く会いたいだろうからと。城のみんなとは改めて夜に祝い、それまでの日があるうちはまず竜族の里に行けばいいと言ってくれたんだ。
 竜族の里まで行くのに以前は竜体になった岳里に運んでもらっていたけれど、おれたちが不在であったうちにルカ国と竜族の里は個人的につながりを持ち、なんとおれたちの世界と繋がる部屋に、竜族の里に瞬時にいける魔法陣を用意してくれていた。おれたちはこれからも頻繁に竜族の里には用があるし、国としても交易として道が必要だからと、アロゥさんがわざわざ老体にむち打ち竜族の里に赴き、道をつなげてくれたんだそうだ。
 国としての利益を考えてもあるから、とは言ってくれたけれど。実際はおれたちのためであるということはこれまでの付き合いでじゅうぶん理解していた。そんな相変わらず優しい人たちのおかげで、おれたちはすぐに竜族の里へ行くことができた。
 昨日のうちにネルが十五さんに話をつけて、おれたちが向かうと言っておいてくれたらしい。
 それまで穏やかにしていた兄ちゃんが急にそわそわし出したのを見て、おれと岳里はこっそり顔を見合わせて笑い合った。時々、あいつ元気にしてるかな、なんてぼやいているのを聞いたことがあるからなおさらだ。誰とは言わなかったけど、たとえその心を読めなくたって兄ちゃんが思い浮かべる相手はすぐにわかった。
 王さまたちに見送られながら、おれたちは魔法陣の上に立つと、この時を待っていたと言わんばかりの光に足もとから包まれた。
 魔法陣を使ったときの、エレベーターに乗ったときのようなふわっとした浮遊を感じた後、すぐに自分の身体に重力が戻ってくる。実際に少しばかり浮いていた足が地面に着くと光は薄れ、これまた懐かしい、竜族の里におれたちはいた。
 ネルから話を聞いていたからなんだろう。竜族の入り口に付けられていた城へ通じる魔法陣の傍で、おれたちを出迎えるためにずっと待ってくれていたらしい人たちに、三人で、と言いたいところだけど、感動の再会でも表情筋の動かない岳里を抜かしたおれと兄ちゃんは笑顔を浮かべた。

「カランドラさん、十五さん、お久しぶりです!」

 どうしても緩んでしまう締まりのない顔を晒しながら、待ってくれていた十五さんと、岳里たち兄弟の祖父のカランドラさんに弾む声で挨拶をした。

「ああ。息災であったか。盟約者どの――真司どの、悟史どの。がくとよ」
「はい。お二人もお元気そうで」

 さすがにおれほどのはしゃぎようは見せないまでも、兄ちゃんも顔をほころばせながら言葉を返す。その視線がカランドラさんからすぐに十五さんに移り、二人は無言で見つめ合う。
 ――けれどきっと、今この場で兄ちゃんしか聞けない言葉で、十五さんは再会の喜びを伝えているんだろう。兄ちゃんのじわじわ赤くなっていく顔を見れば、その言葉こそわからなくてもそこにある情熱は十分に伝わってくる。

「――……ん。おれも、会いたかったよ」

 兄ちゃんの返事に、岳里のように日頃表情の乏しい十五さんが嬉しそうに淡く微笑んだ。
 兄ちゃんと十五さんはエイリアスの件があり、それほどゆっくりと二人の時間は持てなかったし、帰るときもあくまで竜人とその盟約者であって、おれと岳里のようにつがいになったわけではなかった。それでも、竜人にとって盟約者はたとえ想いが返されずとも自分の伴侶も同然の相手であるし、兄ちゃんもあちらの世界でずっと十五さんのことを思い出しては寂しそうにしていた。離れていても二人は想い合ってたのを知っている。もうなにも二人を裂くものはなく、平和で、会いたければいつでも会えるのだから、きっと仲が進展するのもそう遠くはないだろう――と、おれは思っている。
 しばらく兄ちゃんと見つめ合っていた十五さんが、不意におれたちに目を向けた。ゆっくりと歩みより、両手をそれぞれおれと岳里に向けたかと思ったら、がしがしと髪をかき乱されるように頭を撫でられた。

「……ははっ、十五さんってば、変わらずだ」

 岳里と顔を見合わせ、お互いぐしゃぐしゃになった頭に笑いあう。十五さんは言葉が告げられないかわりというように、よくこうして頭を撫でくれていたから、ひどく懐かしい。

「おれたちももう十九だ。いつまでも子供扱いすることはないだろう」

 珍しい岳里のぼやき。たぶんきっと、照れくさいんだろうなと思う。岳里は幼い頃、自身の出生時の事件が理由で仲間の竜人たちと馴染めにずにいたし、あちらの世界で里親に引き取られてもなにせこの性格でかつ大抵のことは一人でできてしまうから、あまり子供扱いされることがなかったらしい。最終的にはあの岳里なら出来てあたり前と見られたり、この仏頂面に面と向かって褒めるのもはばかられてしまうらしく、実はそういう風にされるのが慣れてないんだ。それを知った兄ちゃんによくからかわれては、憮然とした表情に見えて単に身の置き場のなくどうしたものかとする岳里を思い出した。それが離れていてなかなか会えなかった実兄なら、なおのことなんだろう。
 弟から文句を言われた十五さんは、またぬっと手を延ばして岳里の頭を掻き撫でる。その様子におれや兄ちゃんだけでなく、珍しくカランドラさんまで小さいながらも声を上げて笑っていた。
 おれと岳里が髪を手櫛で戻し終え、改めてカランドラさんと十五さんたちに向かい直った。

「あの……ところで、ひとついいですか?」
「どうした、真司どの」

 それまでの和やかな気持ちが緊張に強ばり、表情に出てしまったのだろう。そこまでかしこまるつもりはなかったのに、気遣いからか優しくかかるカランドラさんの声音に宥められながら、岳里と兄ちゃんに励ますよう見守られながら、ようやくずっと気になっていたことを口にする。

「あのっ……りゅうは、元気ですか?」

 ずっと会いたいと願い、忘れた日は一日たりともない我が子の名を口にする。
 元の世界に戻るにあたって、連れて行くことが叶わなかったおれと岳里のかけがえのない息子は、十五さんたちが代わりに育ててくれると約束していた。だから、心残りはあっても安心して十五さんにりゅうを預けて、おれたちたちはこの世界を去ったんだ。
 竜人たちみんなで、りゅうを育ててくれると言った。だからきっとこの竜族の里にりゅうはいるはずだけど、まだ姿を見ていない。
 別れの日から二年半が経ったから、りゅうも三歳にまだ少し届かないくらいの年齢だ。もう人の姿をとることができるという。おれはまだその姿を見たことがないけれど、竜人の間では長らく赤子が産まれず、俺たちと別れた時点でりゅう以外に子供はいなかった。だから里来たとき姿を見れば、その子がりゅうだとすぐわかるつもりだったのに、小さな影はどこにもない。
 ディザイアから、りゅうになにかが遭ったという連絡はなく、不幸は心配していない。それでもてっきり十五さんたちといるものだとばかり思っていた姿がなくて、正直言えばずっと気になっていた。
 堪えきれず辺りを見回すおれに、カランドラさんは心得たというように浅く頷いた。
 背後に振り返り、一番近くの建物に声をかける。

「りゅう」

 落ち着いた声が呼びかけて数秒後、建物の影からちょこんと小さな頭が見えた。

「……っ」

 三歳くらいの幼い少年の姿に、無意識に握っていた拳に力が入る。
 少年は十五さんに手招かれて、とてとてと小走りに寄ってきた。見慣れないおれたちのほうを気にしつつ、十五さんの足にぎゅっとしがみつき、大人たちを見上げる。

「――おまえに、そっくりだな」

 ぽつりと岳里が言うものだから、ゆっくり頷いて応えた。
 なんとなく、小さな子がいればその子がりゅうだとわかると思っていた。けれど、姿を見て確信する。たとえたくさん子供たちがいても、おれも岳里もりゅうを見つけだすことができただろう。
 岳里とよく似た、けれどそれよりかはいくらか明るい紺色の髪に、竜族特有の金色の瞳。それは竜体の頃から変わっていない。だからきっと、岳里によく似た子になるんじゃないかなって思っていた。
 けれどりゅうの顔は、家にあるアルバムの中の幼いおれにそっくりだった。髪の色や瞳の色こそこの世界の、竜人そのものだけれど、美形の多い一族のなかで随分平凡的なその顔立ちがおれによく似ている。思わず、兄ちゃんが噴き出すほどに。

「これは間違いなく、おまえと岳里の子供だな。真司の小さい頃にそっくりだ」
「ああ。愛らしい顔だ」

 恥ずかしいことをぬけぬけと言う岳里にいつもなら文句のひとつも飛ばすところだけれど、おれはりゅうから目を離せずにいた。

「……でも、鼻は岳里に似てる」

 ようやく絞り出せたのは、そんな言葉で。本心なのに、自分でもそこに気がつけることに思わず笑ってしまう。
 輪郭は子供らしく丸く、服から出る腕もふくふくとしている。これからどんどん成長していくうちに、顔つきも変わっていくだろう。それでもきっとおれに似た顔だちで、鼻だけ岳里に似ている、そんな子に育つ気がする。
 ――間違いない。この子が、りゅうなんだ。

「はは、でも本当に、おれそっくりだ」

 見つめていた幼い顔がじわりと滲む。鼻の奥のつんとした感覚をごまかすのに、思わず手の甲で鼻を押さえた。一度上を向いて震える吐息を吐き出し、気持ちを落ち着ける。
 よし、と自分に気合いを入れて、十五さんの足もとにいるりゅうを再び見下ろした。

「久しぶり、りゅう」

 声をかけると、びくっと驚いたような反応を見せて、十五さんの脚の後ろに隠れてしまう。その姿に、おれは戸惑った。
 まるで、怯えられているようだ。おれの知る産まれたばかりのりゅうは、手こそかからなかったけれどいつもおれか岳里の傍をあまり離れたがらない甘え方をする子だった。さすがにあれから時間も経っているし、忘れられていることは覚悟していたけれど、でもりゅうは周りに愛想のいい子で、だいたいの人には初対面でも懐いたそぶりも見せる愛嬌のよさがあったはず。
 りゅうとは城のみんなとも定期的に会っていて、よく遊んだりもするし、子供に似合わない配慮をするときがあるものの元気な子だとディザイアから報告も受けているし、さっきみんなと会ったときもそう言っていた。
 それなのに、隠れてしまうりゅうはそのイメージと噛み合わない。
 そろりと十五さんの足からまた顔を覗かせたりゅうは、なにも言ってこようとしないし、そこから離れようとするそぶりもない。
 一度十五さんとカランドラさんにどうしたものかと目配りしてみれば、表情の変化が乏しいながらも、二人して不思議がっていた。りゅうの反応が意外だとでも言いたげだ。
 とにかく、もう一度声をかけてみよう。そう思って、りゅうと目線を合わせるためにしゃがみ込むと、おれの行動に驚いたのかまた影に引っ込んでしまった。
 今度は脇から顔を出すわけではなく、十五さんの長い両脚の間から、覗くようにじっとこちらを伺うように見つめてくる。それは、まるで相手を警戒しているようにも見えた。
 再会した喜びに盲目的になっていたのか、今になってその目つきも少し険しく見えるような、そんな気がしなくもない。
 十五さんの脚を挟んで向かいあうおれとりゅうは、少なくとも予想していた再開の様子のどれでもなかった。熱烈な歓迎とまではいわなくても、なにかしらの深い感動があると思ったのに、確かにりゅうを見てこみ上げてくるものがあったのに、今では戸惑いばかりだ。
 このままじゃおれに見つめられてるのはりゅうがかわいそうだと、仕方なく膝を延ばした。

「十五が、りゅうが変だって言ってる。こんな反応を見せたのは初めてだって」
「りゅうは初対面の相手にもそう緊張を見せないのだが」

 りゅうを常日頃見ている二人にも、今のりゅうの反応は首をひねるものらしい。

「りゅうはまだ子供だから、心の声もうまく聞こえてこないからわからないな。ただ……漠然と、大きな戸惑いみないなのを感じる」
「戸惑い……」

 やっぱり、いきなり現れたおれたちに驚いているんだろうか。誰だかわからない人が、突然親しげに声をかけて怖がっている、とか。でもそれなら、今までそんな反応を見せなかったのに、なんでおれたちだけなんだろう。
 大人たちの疑問を知る由もないりゅうは、やはり黙って大人たちを、そのなかでもおれを見つめているような気がする。
 今度は岳里がしゃがみ、りゅうに声をかけた。

「おれたちのことを、まったく覚えてはいないのか」

 淡々とした話し方は、子供相手には随分と素っ気ない。表情もにこりともしにないし、体も大きい岳里は、本人がなんとも思っていなくても慣れていない人だと無言の圧力を覚えるものだ。それを受け止めるのがまだ幼児なら、いくら岳里の顔がよくても泣き出されてもおかしくないはずなのに、りゅうは目を逸らすこともなくじっと見上げる。

「りゅう。おれたちがわからないか」

 岳里は再度、我が子に問いかける。
 おれたちとりゅうと過ごしたのは、生まれからほんの数ヶ月ほどだ。通常なら覚えているはずもないものだけれど、そんな茶々は入れずに岳里たちの様子を見守っていると、不意にりゅうが十五さんから離れた。
 とてとてとまだ覚束ないように思える足取りで歩くと、岳里の手前で止まり、その首に抱きついた。
 成り行きを見ていた誰もが、突然の行動に驚く。珍しく岳里もわずかに目を開くが、すぐに平静を取り戻し、そうすることが当然のようにりゅうを抱え上げた。
 腕の中のりゅうと岳里が顔を合わせれば、幼い表情は途端に破顔する。それにつられて岳里も淡く口元を綻ばせた。
 もしかしたらりゅうは、岳里が何者であるかわかったのかもしれない。離れにないようになのか、しっかりと岳里の服をつかみ、安心しきっている表情はずっと見たかった親子の姿だった。
 岳里とりゅうが一緒にいる、そんな夢にも見た光景に再びこみ上げる安堵のような歓喜に瞳を潤ませつつ、そっとおれもその隣に行こうと一歩踏み出した、そのときだった。
 岳里の腕の中で笑顔を浮かべていたはずのりゅうは、おれのほうをみるなり色をなくし、ただ黙ってじっとこちらを見つめてきた。





 カランドラさんと十五さんだけの出迎えではあったけれど、どうやらそれは家族の再会だからと、竜族のみんなはそっとしておいてくれていたようだ。
 里でもっとも広い族長のカランドラさんの家に招かれると、すでに祝いの席が整えられ、里の竜人たちが多く集まっていた。みんなおれたちのことを聞きつけ、今日のために準備をしてくれていたらしい。
 竜人の翼でとりに行った世界各地の果物や、竜族伝統の料理が振る舞われ、おれたちを中心に置き、和やかな食事会が始まった。人数のわりには、用意された食料はとんでもないものだったが、なにせ竜人はみんな大食漢だからしかたない。岳里で慣れたつもりだったけれど、里のみんなの分を一気に見る機会はそうなく、おれも兄ちゃんもさすがに目を丸くしてしまった。しかも竜人は酒豪が多いらしく、酒も全員でお風呂に入れるくらいに用意されて、いろんなところが規格外な竜人たちに驚かされるばかりだ。中にはおれたち同様に竜人の盟約者である人間が二人いて、彼らは何度見てもすごいものだよ、と苦笑混じりに笑っていた。
 この世界にいた頃、りゅうを生むために二度ほどこの里を訪れたことはあるけれど、カランドラさんと話をしただけで、他の竜族の人たちは遠目で数人見たことがあるだけだった。エイリアス戦で手助けに来てくれて、その後の宴にも参加してくれていて、そのときに簡単な挨拶はしたけれど、他にも挨拶回りがあって忙しなく、会話という会話もできなかったのでまともに話すのは今回が初めてだ。
 竜人は基本的に穏やかで静かな人が多く、酒をのむものは一人あたりの量が樽ひとつ分かと思うほどのんでいるけど、城でやるような酔っぱらいの続出する騒がしいものでなく、かと言って粛々と行われる厳正なものでもなく、ほどほどのにぎやかさを見せる集まりになった。
 おれは相手のことをよく知らなくても、向こうとしてはかつてカルディドラという名前だった竜人岳里と、その盟約者であり、りゅうの片親であるおれと、次期長である十五さんの盟約者である兄ちゃんは十分知っているらしく、思いの外気さくに声をかけてくれてありがたかった。
 慎ましいながらもおいしい料理に舌鼓を打ちつつ、みんなの話に耳を傾け、ときどき自分も混じりながら笑っても、ふと隣の存在を見てしまう。
 おれと岳里の間に設けられた席に、本来はりゅうが座っているはずだった。けれどりゅうは一向におれに慣れる気配がなく、少しでも近づけばなにか訴えるような眼差しでただじっとこちらを見つめてくるばかり。触れたいのに、どんなに声をかけてもだめだった。机の果物に手を伸ばすだけでそれだから、どうしようもない。
 けれど岳里にはすでにべったりで、今も膝の上に座ってもりもりとみんなと同じ食事を楽しんでいる。時折岳里のそばを離れては、竜族のみんなのところを回るけれど、さならがらおじいちゃんおばあちゃんと孫のようにかわいがられていて、これまでも里のみんなでどれだけりゅうを大事に育ててくれたのかがよくわかった。
 そんなたくさんの人々に育てられたりゅうは、兄ちゃんにもすでに心を開いていた。おれのところにはこないのに、おれのとなりに座る兄ちゃんの脚の上によじり上っては、やっぱりそれを見つめるおれをじっと見返すばかり。

(――なんでおれだけ、なんだろう)

 せっかくの祝いの席を台無しにしたくなくて、なんとか笑顔を張り付けてはいるけれど、内心では相当落胆していた。
 なにしろ、ずっと会いたくてたまらなかった息子が、同じ親である岳里にも、久しぶりの再会になる兄ちゃんにも甘えるのに、条件が同じはずのおれにだけ近づいてこない。
 さすがにりゅうとおれの微妙な距離感と様子に気がついた里の人たちがなだめるように取り皿に食事を持ってくれるけれど、心はどんどんとしぼんでいく。
 みんなに会えたのはうれしいし、こうしてお祝いをしてくれるのもすごくありがたいし、この日を迎えられて幸せだと心から思う。けれども、もっとも重要なりゅうとの関係が自分だけ崩れているのは、相当に堪えるものだった。りゅうと一緒に暮らしている十五さんもカランドラさんもわからないというんだから、お手上げだ。
 あまりりゅうを見過ぎていると、向こうも気にするから時々盗み見る程度でこらえてはいるけれど、内心ではどうしたらおれにもなついてくれるか必死に考えていた。でも子供の扱いなんてまるでわからないこともあり、さっき食べ物でつろうとしても反応がなかったからお手上げだ。
 ずっとこのまま、距離があるままだったらどうしよう。
 押さえていた不安があふれて、思わずうつむくと、それに気がついた岳里が頬に触れた。

「――大丈夫だよ。これから少しずつ慣れてくれればいいし、ゆっくりやっていくよ」

 優しい手つきに導かれるように振り返り、笑顔を見せる。頬を撫でる指先は、本当は寂しいと思うおれの気持ちをしっかり見抜いているんだろう。でも、伝えた言葉も本音だ。
 すぐじゃなくても、いつかりゅうに認めてもらえたらいい。それで、これまで過ごせなかった親子の時間を過ごせたらと思う。

「これからはいつでも会える。焦る必要はない」
「ああ」

 おれとりゅうを見守ってくれることを決めたんだろう。いつも寄り添ってくれる岳里の優しさがうれしくて、心強くて。周りにだれもいなかったらきっと、広い胸に飛び込んでいただろう。
 でも今は周りにみんないて、今の行動ですら、気にしないふりをされているのがわかっているからぐっとこらえる。
 岳里の手が離れていき、今更こみ上げてきた羞恥を誤魔化すためにも肉を口いっぱいに頬張っていると、兄ちゃんに肩をたたかれた。

「真司」
「ん?」
「十五が、今夜は里に泊まらないかって言ってるけど、どうする?」

 振り返った先の兄ちゃんと、その後ろで答えを待つ十五さんを見比べて、ごくんと口の中のものを飲み込んだ。

「兄ちゃんはどうすんの?」
「おれはこっちにこようかなって。……なんだよ」

 にまーっと笑うおれを兄ちゃんはじろりと睨む。けれどそれが不機嫌からくるものでないと知っているから、笑顔を崩さないまままた肉を口に放りこんだ。

「そりゃそうだよなーって思って。兄ちゃんも、これでようやく十五さんに甘えられるんだもんな、ゆっくりするといいよ。よかった。向こうの世界じゃ月を見るたび寂しそうだったもんな」
「兄貴をからかうなっての。それで、おまえたちは? ――ちょ、十五。真司の話は、その……」

 十五さんの偽らない心を兄ちゃんは聞けるけれども、兄ちゃんの心は十五さんに聞かせることはできない。まだ再会したばかりで素直になりきれないらしい兄ちゃんはどこか十五さんによそよそしく、あちらの世界では兄ちゃんだってどれほどこの日を待っていたのか、教えてあげれば少しは二人の離れていた時間も報われるんじゃないかとちょっかいをかけたわけだけど、どうやら無事に成功したらしい。
 きっと、十五さんにいろいろ話かけられているんだろう兄ちゃんはそのままに、反対の方へ顔を向ける。
 話を聞いていたらしい岳里とすぐに目線がぶつかった。

「なあ、岳里。どうしようか?」

 夜になれば城にいき、みんなでどんちゃん騒ぎの宴の予定だ。どんなに遅くなっても城にはおれたちの部屋があるからそこに泊まらせてもらうでもいいし、クローゼットの奥の自分の部屋に戻ってもいい。魔法陣を使って竜族の里にくることもできるし、そのどれもがすぐに行ける場所にあるから、条件としてはどれも大差はない。
 だからこそ岳里の意見を、と思ったのに、なぜか岳里は口元をゆるめる。

「素直になればいい。いくらこれからの時間はたくさんあるとしても、今が大切なことに変わりないし、離れていた時間は長かった」
「……うん」

 すっかり見破られていた気持ちを指摘され、素直に頷いた。
 自分から問いかけておきながら、おれの心がどこに傾いているのか岳里はわかっているんだろう。
 たとえ近くにいけなくても、少しでもりゅうの傍にいたいって。今の様子からじゃ一緒に寝るなんて無理だろうけど、おやすみって挨拶をして、目が覚めたらおはようって声をかけて。そんな日常の一部を、これからいつだってできることをそれでもしたいと思ったんだ。
 りゅうに触れられないジレンマが積み重なる分、岳里に癒しを求めるように身を寄せたくなる。
 手を重ねるくらいなら、みんなに気づかれないかな……。
 そんなことを考えながらそっと身体を岳里に傾けようとしたとき、パリンと陶器が割れる音がした。
 驚いて振り返ると、三つほど離れた席でりゅうがまっぷたつに割れた杯を持って呆然としている。杯の中身がこぼれたんだろう、果物のジュースがりゅうの胸あたりから脚までびっしょりに濡らしていた。
 咄嗟に駆け寄ろうとして、岳里に腕をつかまれ引き留められた。

「力加減を間違えたんだろう。今はりゅうも驚いていて危ない。おまえも悟史も近づくな」
「あ……そっか、まだ力の制御が完全じゃないんだっけ……」

 浮きかけていた腰を下ろすと、岳里の手は離れていった。
 りゅうはまだ幼いながらに、竜人としての強すぎる膂力を持つ。それはすでに俺の力を軽く上回っているほどだが、その幼さからまだ完全に制御ができず、ふとしたときや咄嗟の動作のときなんかについ力みすぎてしまうようだった。
 食事会が始まる前に、カランドラさんからそのことについて注意を受けていた。同じ竜人ならなにかあっても対応できるけれど、ただの人間であるおれの兄ちゃんでは、りゅうの力で怪我をしてしまう恐れがあるから気をつけるようにと。
 りゅうも随分と力の制御がうまくなったらしいし、滅多なことではもうものを壊すこともなくなったそうだけれど、さっきのように杯を割ってしまうこともまだたまにあるらしい。そしてそういう後は、自分でも動揺してしまうらしく、力の制御が不安定になりやすいからりゅうが完全に落ち着くまでは絶対に近づかないようにとも言われていた。
 他の竜人たちになだめられているが、りゅうは落ち着いているようにも見える。びっくりして泣き出すこともなく、自分の身体を見下ろしてただぱちぱち瞬きをしているばかりだ。けれどカランドラさんも、そして岳里も忠告するくらいだから、幼い心はそのうちでひどく混乱しているのかもしれない。
 こういうときに、駆けつけるのが親だというのに。
 ただ眺めているしかできない自分が歯がゆい。けれどおれが無理に近づいてりゅうを怖がらせるのは本末転倒だし、それで怪我をしたらみんなに申し訳ないからこらえるしかなかった。
 飲み物で濡れた服を大人しく脱がれるりゅうの姿を離れた場所から見守っていると、脱いだ上着の下から現れた青い宝石のような鱗に思わず声を上げてしまった。

「あれは……」

 りゅうの胸元にあったのは、竜の鱗。おれが岳里からもらい、そしてこの世界を離れる間際にりゅうに託した、岳里の鱗で作られた首飾りだった。
 竜体の頃は首に通す輪が大きくてくぐれるほどだった。今のりゅうにだって大きいが、十五さんあたりが手を貸してくれたのか、余る部分は結ばれて長さが調整され、今のりゅうにちょうどいいくらいのサイズに変えられていた。

「そっか。ちゃんと、持っていてくれたんだ」

 小さい子供からすれば、大振りな首飾りなんて邪魔に思うだろう。けれどりゅうは再会してからも鬱陶しそうにすることもなく、そこにあるのが当たり前のように服の下にずっとしまっていた。

「大事にしてくれてたんだな。ありがとう」

 きっと本人に伝えようとしてもうまくいかないだろうから、離れた場所でぽつりとつぶやく。
 りゅうは首飾りのことなんて覚えてないだろう。でもそれは、間違いなくおれたちをつなぐものの一つだ。おれと岳里のつがいの証であって、今ではりゅうとの親子の証。それをずっと身につけてくれていたことが、ただただたまらなく嬉しかった。
 ――触れられなくてもいい。傍に行けなくても、近くからこうして見られるだけで、十分だ。
 これまではその成長を見ることが叶わなかった。初めて人の姿をとったその瞬間も、初めてあるいた時も、話すようになった頃も知らない。どんなことが、なにが好きのか。どんな困ったことをしてくれるのか。
 そんなものもまだなにも知らない。近づくことさえできない。でもそれそれでもやっぱり、おれたちは親子なんだ。
 少しずつ、本当の親子としての時間を取り戻せたらしい。でもできれば、早く抱きしめたい。会いたかったと、あの柔らかそうな肌に頬ずりをして、そして抱き返してもらいたい。 
 今の様子じゃずっと先のことになるだろうとわかっていても、願わずにはいられない。
 堪えきれずに顔を隠すように身を捩って岳里の肩に額を押しつけるおれは、りゅうがじっとこっちを見つめていたことに気がつかなかった。





 夜遅くまで続いた城での無礼講の宴が終わり、竜族の里に戻ってきたおれと岳里は、カランドラさんの家に泊まらせてもらうことにした。兄ちゃんはここから少し離れた十五さんの家に泊まるそうで、二人とは里の入り口のところで分かれる。
 騒ぎの中で早々に寝てしまったりゅうは、眠るとぐっすりなのは昔と変わらないようで一度も起きることはなった。普段は十五さんの家のほうで寝泊まりをしているというけれど、向こうの家には今夜兄ちゃんが泊まるということもあって、今日はりゅうもおれたちと一緒にカランドラさんの家に泊まることになった。ただまだおれに慣れていないことと、寝ているときは力の制御が曖昧になり、寝返りで振られた腕がぶつかっただけでおれのほうが骨折、なんてことも十分にあり得るから、一緒に寝ることはできない。
 おれたちは初めてこの家に案内されたときにも泊まった、二階にある一部屋を借りることになった。あのときは足下も覚束ないどこかろくに見えないほど真っ暗な夜だった。今も人工的な明かりはないけれど、月明かりがうっすらと差し込み、ぼんやりとするものの輪郭は見える。
 用意されていた布団をそれぞれ並べて敷いて寝転がっていたけれど、もぞもぞと身体の向きを岳里のほうに変える。

「――なあ、岳里」

 布団に入ったばかりで、いくら騒ぎ疲れていたとしてもまだ起きていると確信を持って声をかける。案の定眠ってはいなかった岳里は、仰向けの身体を動かしておれのほうを見た。

「どうした」
「その……一緒に寝ていいか?」

 この甘ったれな願いを言葉にするのは少し勇気が必要だったけれど、照れないように伝えれば岳里はすぐに招くよう自分の毛布を持ち上げた。
 布団から抜け出して、するりと岳里の懐に入り込む。肩までかけられた毛布と身体の上に乗せられた腕の重みに、密着する岳里の体温に安心して、ほうっと一息つく。
 こうして甘えてしまうのは、最後まで我慢しようと思ったけれど。でも二人きりになり、静まりかえった部屋ではつい今日のことを思い返してしまい、さらには今頃は一階のカランドラさんの部屋でりゅうも眠っているんだろうと考えてしまえば、耐えられなかった。
 もっとも安心できる場所で落ち着き、相手の体温にとろとろと気持ちが溶けていき、そしてその奥から一緒ににじみ出てきたのはどうしようもないおれ自身の本音だった。

「――ずるい、岳里」
「ああ、すまない」

 主語がなくても、なんのことかわかったんだろう。なにひとつ謝ることなんてないのに、素直に岳里は受け入れた。
 相変わらずのおれに対する懐の広さに、意地悪をする気にもなれず早々に白旗をあげた。

「謝んなよ。岳里は悪くないってわかってる。ただの嫉妬」

 愛するわが子に受け入れてもらえず、どうしようもなく寂しくて。それなのにみんなとは楽しそうに笑っているもんだから、僻んでしまうのも許してほしい。
 りゅうとの距離を感じるたびに、仕方のないことだとわかっていても、どうしてもなんでおれだけって思う気持ちが殺しきれないんだ。

「まあ、岳里は十五さんによく似ているし、同じように落ち着いているところとか、なじみやすかったんだろうなあ」

 おれたちの間にあった事情なんてわかるわけもないりゅうを責めるつもりは毛頭ない。おれたちが離れなければならなかったのは、誰も、この世界も、なにも悪くない。こうして隔てていた世界が繋がり再会できただけでも幸運だし、今のようにみんなでわらえるように考え願ってくれた岳里には感謝こそすれども恨むことは見当違いも甚だしいものだ。
 これから、これから。ゆっくり進めばいいとこれまでも何度も自分に言い聞かせ、周りにもそう言ってきた。けれどもにじみ出る焦りが、力の入る身体が、その緊張が、もしかしたらりゅうにも伝わっているのかもしれない。
 生まれたばかりのときから赤子と思えない気配り上手で手の掛からなかったりゅうは、それだけ周りを見ていたということだ。おれから妙に気合いを感じて、少し怖がっているのかもしれない。
 少しでも時間があれば、りゅうとの関係ばかり悩むおれは、いつのまにか眉間にしわが寄っていたんだろう。のびてきた岳里の手にそこをもみほぐされる。

「――戸惑っているのかもしれないぞ」
「戸惑う?」

 そういえば、兄ちゃんもりゅうから戸惑いを感じると言っていた。
 毛布のなかに手を戻した岳里は、ようやくほぐれたおれの眉間を満足に見つめながら言葉を続ける。

「りゅうはおれのところにいても、他の誰かのところにいても、常におまえを気にしている。だがそれは恐れや警戒ではない」
「そう……なのかな」

 岳里が言うように、りゅうは本当におれを気にしているんだろうか。離れていればおれに見向きもしなかったと記憶しているけれど。

「おまえがりゅうを見ていないとき、だいたいりゅうはおまえを見ているぞ」
「え、本当か?」
「ああ。だから戸惑いが解消されれば、自ずとあいつから寄ってくるだろう」
「――ん。岳里がそう言うなら、安心して待てる気がする」

 これから仲良くなればいいと唱え続けていても、心の片隅から、それはいつ? 本当になついてくれるのか? ずっとこのままだってあり得なくはないだろうと、と不安がってたおれ自身の声が、ふっと消える。その代わりににじみ出てきた温かな気持ちに、本当に奥底から力が抜けていった。
 いつも岳里の言葉には励まされる。岳里がそうだって言うなら、本当にそうなる気がする。だからもう焦らず、肩の力を抜いて、いつか迎えるその日を落ちついて待つ準備がようやくできた。

「それよりいまは、眠ってしまっているりゅうよりも、もう少しおれに構え」

 唐突な主張に、つい噴き出してしまう。

「構えって、今一緒に寝てるじゃん」
「久しぶりに悟史に邪魔されない夜なんだぞ」

 二十歳を超えるまでは清い交際をしなさい、と兄ちゃんに言い渡されたのは、家に遊びに来た岳里の心を読んだ兄ちゃんが記憶を取り戻してすぐのことだった。

『高校を卒業するまではキスまでで、二十歳になるまで多少の触れ合いには目をつむるけれど最後までするのは禁止だからな』

 きっぱり告げられたその線引きに、赤くなればいいのか笑っていいのか、本気でわからなかった。兄ちゃんとしては大真面目で、なんでも娘を嫁に出す父親の気分らしく……現実は兄ちゃんに育てられたとしてもおれは男で弟で、まあ嫁というか、すでに伴侶になってしまっているし、することはしちゃって子供までいるわけだけれど。岳里がそれを指摘してもそれでも駄目だ、の一点張りでとりつく島もなかった。
 だから岳里が家に泊まりに来ても、おれの部屋で寝ても同じベッドで寝ることすら許されず、なにしろおれの心の中はともかく岳里の方は兄ちゃんにまる聞こえなもので、いくら鉄仮面の岳里と行っても兄ちゃんを誤魔化すことはできずに、今のところ本当に清い関係が続いている。
 高校を卒業してからはそれなりに兄ちゃんの目を盗みながらもきちんと約束は守っているので、時々岳里からは欲求不満の声が挙がるのだ。

「兄ちゃんたち、ゆっくりできてるかな」

 おれたちみたく、今頃二人で話でもしているだろうか。
 一緒にあちらの世界に帰ることができたおれと岳里とは違い、兄ちゃんと十五さんは連絡さえとれない日々だった。再会してからも、他にも周りには大勢いたし、祝いだなんだとずっと騒ぎ通しだったので、ようやく二人きりになれた今なら、落ち着いてこれまでのことを話しあうことができているじゃないかな。

「ゆっくりかはわからないが……まあ、よい夜になっているだろうな」
「だよな。あの二人にも、ちゃんと幸せになってもらいたいよ」

 たとえ兄ちゃんとして話せた時間は短くても、離れていた距離のほうがうんと長くても。今はまだつがいじゃなかったとしても。
 おれにとって岳里がもう手放すことのできない片割れになってしまったように、きっと兄ちゃんも十五さんをそう思うようになると思う。

「――もしかしたら、もうなってるかもだけど」

 惜しげもない竜人の献身はあまりに一途で、まっすぐな彼らを愛さずにはいられない。身を持って与えられた愛情を知るからこそ、予感でなく確信がもてる。それはもう、そこまで来ているということも。
 ぽつりとつぶやいたおれの言葉に小さく笑んだ岳里は、そっと額に口づけてくれた。





 昨日の夜は岳里とじゃれ合いながらいつの間にか寝てしまったけれど、温かく過ごせたからか、不安が解消されたからかはわからないけれど、思いの外ぐっすりと熟睡できた。
 まだ日が出て間もない頃だというのにすっきりと目覚めてしまい、まだ目を開けられない岳里をおいて一人顔を洗いに、外の水場に出てきた。
 外には誰かしらいるだろうと思ったけれど、予想に反して人気はない。
 昨日は城の宴に竜族のみんなも招かれていた。昼間あれだけ酒を飲んでいたというのに、夜もしこたま飲んでいた竜人たちを思い出せば、まだ起き出してこないのも納得だ。さすがにあれだけ飲めば、竜人といっても翌日響かないわけはないだろう。
 ぱしゃぱしゃと顔を洗う。水は冷たかったけれど、すっきりとして心地良かった。
 濡れた顔を拭っていると、ふと笑い声が聞こえて顔を上げる。
 目を向けた先にはりゅうがいた。近くにカランドラさんの姿はないから、一人で起き出して来たんだろう。二羽の鳥と戯れて、まるで踊るようにくるくると動き回っていた。友達なんだろうか、鳥はりゅうの手の届かない遠くにいくことはなく、触れそうなぎりぎりを飛んだり、時には地面にとまりりゅうがおいかけてくるのを待ち、彼らもまた遊んでいるようだった。
 せっかくの楽しそうな雰囲気を邪魔しないように、気取られないようにあまり動かないで視線だけでその姿を追いかける。
 鳥を追いかけ飛び跳ね走り回る姿に成長を感じて感動しつつ、まだ幼いりゅうが一人でいることが心配になった。
 ここは竜人しかいないし、高い山の上だから危険な人物は入ってこられない。だから誘拐だとか物騒な心配はないにしても、転び怪我でもしたらどうしようと思ってしまう。いくら竜人の身体が丈夫であっても痛いものは痛い。なにかあればおれが治癒術をかけてあげればいいだろうけれど、まだりゅうの戸惑いは解かれていないから安易に傍には寄れないし。
 時々危うい動作が見えてしまい、いつのまにか盗み見も堂々とし始めたころ、りゅうが鳥を追いかけてまっすぐに走り出した。
 その背中を追いかけていると、ふとその先が切り立っている崖のようになっている場所なのを思い出す。
 竜族の里の周りには外敵もいないため囲いもなく、りゅうは鳥を見上げたまま気がつかず、止めるものもないままに崖のほうにつっこんでいく。
 気づいて足を止めるだろう、なんて。目の前のことに夢中でまだ危機感の薄い幼児が気がつくはずもない。りゅうが一切止まることも、道をそれる様子もないことに気がつき、さあっと血の気が引いた。

「――っ」

 気がつけば、無意識に身体が動いていた。
 慌てて追いかければ、短い足はまだ遅く、すぐに距離はつまっていく。このままだったら間に合う、と安堵したのもつかの間。おれたちに、びゅうと強い風が吹きつけた。
 思わず目を細めたおれの視界の先で、大きく傾くりゅうの身体。ぐらりと倒れたその小さな身は、そのまま転げるようにして崖から身が投げられた。

「りゅう!」

 考える間もなく地面を蹴って、ただひたすらに手を伸ばす。声に反応して振り返ったりゅうの驚いた顔ごと、捕まえた身体を引き寄せてぎゅうっと胸に抱きしめた。
 おれの足はすでに地面を蹴っていて、支えのない二人の身体は飛び込んだ形のままに重力に従い頭から落ちていく。
 どうしよう、なんて打開策を考える暇もなく、ただ腕にいるりゅうの無事だけを願った。

(絶対に、りゅうだけは助ける――!)

 たとえ、この身を犠牲にしても、必ずこの子だけは守らないといけない。
 恐ろしい早さで流れていく景色の先で、斜になる山肌が急速に迫ってく。このままでは衝突は避けられず、いっそう強くりゅうを抱きしめたそのときだった。

「真司!」

 なすすべもなく落下していた身体が包まれるように抱き留められて、動きを止める。
 ぎゅうっと閉じていた目を開けるよりも早く鼓膜に殴りかかってきた声に、びっくりしてますます瞼の力を強めた。
 それでもどうにかそろそろと目を開けると、声の主である岳里が、竜の翼を羽ばたかせながら厳しい表情をおれに向けていた。

「なにを考えている、死ぬ気だったのか!」

 本気で怒る岳里に、思わず首を竦める。
 なにか答えないといけないとわかっているのに、喉の送りに張り付いたように言葉が出てこない。
 そんなおれの様子に、徐々に岳里の表情は落ち着いていき、最後には深く息を吐き出した。
 おれを抱えたまま、近くに突き出た岩の上に腰を下ろす。岳里はおれの肩に額を押し当て、身体に回した腕の力を強めた。

「――無事で、よかった……」

 心底安堵したように吐き出されたその言葉が、どれだけの心配と恐怖を与えてしまったのか、胸に突き刺さる。
 岳里がいなければ、あのまま為すすべもなく身体を打って死んでしまっていた。身体は十分にその危機を理解していて、未だ警戒をするようにぎゅっと縮こまったままだったけれど、少しずつ岳里の熱にとかされ、こわばりがほどけていく。
 本来ならまだ安心できないはずの足場の不安定な小岩の上でも、岳里に抱き抱えられているだけで安心な場所へと変わっていった。

「……ご、ごめん、岳里……」

 ようやく絞り出した声は、まだ情けないほどにふるえていた。
 顔を起こした岳里は、今度は額通しをこつんとぶつける。
 鼻先がぶつかりそうなほどの距離で、感情の高ぶりから金に揺らめく瞳を見つめる。

「――怪我はないな?」
「ん……」
「そうか。よかった」

 もう一度息を吐き出した岳里は、力が抜けたように顔をすりあわせる。
 いつもならおれの無事にこんなにも力が抜けてしまうことはないけれど、それだけ岳里に緊張を与えてしまったということだ。

「ごめん、岳里」
「……二度とこんな真似はしないでくれ。今回は間に合ったが、助けられないこともある。――頼むから、無茶をしないでくれ」

 ただ謝ることしかできなかったおれは、顔を上げた岳里の目を見てしっかり頷いた。

「りゅうを心配したのか」
「うん……落ちたから、咄嗟に……あ、そうか。翼があるんだっけ」

 岳里の顔の顔越しに、立派な翼があるのを見て、ようやくいかに自分が無意味なことをしていしまったかに気がついた。
 竜の姿も持つ竜人は翼を持っている。だから岳里は今背中の一部を竜化させて生やした翼で空を飛び、落ちていったおれを助けてくれたんだ。つまりは、同じく竜族であるりゅうだって空を飛べるということ。
 本来なら崖から落ちたところで飛べるのだからなにも問題はない。でも助けるためだと出しゃばったおれが身体を押さえ込むよう抱きしめてしまったせいで、りゅうは竜体になって逃げ出すことも、翼だけ出すこともできずに、かえって危険な目に遭わせてしまったんだ。
 りゅうが外に飛び出さないように対策が必要なら、この子を大事にしてくれている竜族の人たちはなにかしら用意をしてくれていたはずだろう。それでも柵もなにもなかったのは、たとえ崖から落ちてもりゅうは飛べるからで、まだ幼くても竜人としてある程度自分で対応できるからなんだろうと、今更ながらに気づかされた。
 ついただの人間を基準に考えてしまうけれど、りゅうは竜人であって、必ずしもおれの心配が必要なわけでもないんだと思い知る。

「ごめんな、りゅう。余計なことして、逆に危ないめに……りゅう?」

 ずっと腕に抱き続けていたりゅうを見下ろし、そういえば随分と大人しいことに気がつく。りゅうもずっとおれの腹に顔を埋めたまま静かにしているものだから、もしかして強く抱きしめるあまりに怪我でもしたのかと慌てた。
 なにより、あれだけ近づこうともしてこなかったりゅうを無理矢理抱きしめたままだったことに気がつく。
 頬に手を添え、りゅうに顔を上げさせる。その表情を見て言葉を失った。

「ふえ、ぇ……っ」

 金色の瞳に今にも決壊しそうなほど涙が溜められていた。気がつけばおれの服を握りしめる手は力を込めるあまりに真っ白になっていて、肩は小刻みに震えている。
 そっと目尻溜まる涙に触れれば、冷えた指先にはひどく熱く感じた。

「……ごめん、ごめんな、りゅう。びっくりさせちゃったな」
「ひっ、ひっく……」

 か細くはじまった嗚咽に、耐えきれずにぎゅっとりゅうを抱きしめた。

「ごめんな……本当に――……ずっと……置いてっちゃって、ごめんな……っ」
「ぅあ……っ、うああんっ」

 服をつかんでいた手が痛いくらいにおれの身体にしがみつき、りゅうは大声を出して泣き始めた。子どものものとは思えないような強い力に身体が軋みそうに痛むが、心を満たす衝動のまま、おれも子ども相手には本来は使えないような力で強くりゅうを抱きとめた。
 うあーん、うあーんと上がる声は、かつての別れのときの鳴き声と重なる。

『ぴぃぎ、ぴぅ、ううう! ぴう、ぴいうぅっ――!』

 あのとき、すぐにでも駆け寄って抱きしめてやりかたった。どこにもいかないよ、ずっと傍にいるよって、言ってやりたかった。でもできなかった。もとの世界にどうしても帰らなくちゃならなかったから。
 でも今は違う。おれたちはいつだってこの世界に来られる。いつだってりゅうに会うことができる。いつだってこうして、抱きしめてやれるんだ。
 おれが助ける必要なんてないくらい、それくらい強くてしっかりしていたとしても。たとえみんなが守り、愛してくれていたんだとわかっていても。
 それでもおれはこの日を、この瞬間を。ずっと、ずっと待っていたんだ。

「っ、ふ……」

 会いたかったよ、りゅう。おれも岳里も、おまえを忘れた日はない。毎日のようにおまえのことを語り合って、手の甲に残された傷を確認して、会える日の待ち望んでいた。おまえの人の姿を想像しては、どっち似だろうって話をして。会えたらなにをしようかたくさん考えて、どうやったらすぐにおまえに気に入ってもらえるだろうかって、まだ会えてもいないのに悩んで。どうやったらたくさん笑ってくれるかなって、想像して。
 伝えたい言葉はたくさんあるのに、たくさん用意していたのに。りゅうの涙が伝染してしまって、泣き声を噛みしめるばかりでなにも言えない。りゅうもわんわんと泣いたままだ。
 二人して号泣するおれたちを、岳里はぎゅうっと抱きしめた。両手はおれを支えているからか、寄せ合うおれとりゅうに頭をぐりぐりと押しつけてくる。
 しばらく三人でぎゅうっと身を寄せ合っていたら、不意に岳里が空に飛び立った。
 泣きはらしていた顔を起こして振り返ると、壮大なディザイアの景色が広がっていた。山裾に広がる深い森に、竜族たちが眠るとされる大きな湖、城の方へと続く川にその周囲にある草原に、どこまでも自由な世界がそこにはあった。

「――しっかり掴まっていろよ」

 短い注意とともに、おれたちの返事も聞かずに岳里は大きく翼を動かした。
 びゅう、と感じる風に髪が流れていく。頬の涙なんてすぐに乾いてしまいそうだった。
 さっきまであれだけ大泣きしていたりゅうは、おれの腕のなかで今ではきゃっきゃっと笑い声を上げていた。目の回るような速度に、落とされないとわかっていても岳里にしがみついてしまうおれとは正反対の反応だ。
 ひきつっていた顔はりゅうの無邪気な笑顔にほぐされていき、気づけばおれも心から笑っていた。

「りゅう、おまえの父さん早いな! おまえも岳里なんかに負けない、いい男になれよ」
「あいっ」

 初めて返ってきたりゅうの言葉に、むずむずと緩まる口元がむず痒く、思わず柔らかい紺の髪に顔を押し付けた。りゅうの嫌がる素振りはなく、でもそれがくすぐったのか、いーや、と笑い声を上げながら自ら頭を押し付けてくる。そこに岳里の顔も寄せられるものだから、中心となったおれはもみくちゃにされてしまう。そんなくだらないことにたまらなく満たされた。
 ――まだ会えなかった日々が埋まりきったわけじゃない。でも、一歩ずつやっていこう。そして、父のように飛ぶようになるりゅうを見守ろう。
 今日も明日も、その先も。岳里とりゅうと、それとみんなで、こうしてこれからも笑って過ごしていこう。

 





 ――ずっと、ずっとまっていた。
 いつも首にぶら下がる、うろこの持ち主。これまでその匂いでりゅうを包み、守ってくれていたもの。
 だから会って、すぐにわかった。ずっと離れていたけれど、ずっと姿はなかったけれど、それでもいつもそばにいてくれていたのがこの人なんだと。
 でも、もうひとりいた。りゅうとおなじ鱗の人の匂いに守られている人。知らないはずなのに、知っている気がする人。こんなのは初めてだった。
 その人に声をかけられると、胸がざわざわした。そわそわ、かもしれない。くすぐったいのかもしれない。落ち着かなくて、飛び跳ねたくて、ぎゅうっと胸がいたくなって、でも動けなくて。
 カランドラにも、十五にも、里や城のみんなにも覚えたことのない感情。――いいや、鱗の相手にだけ、抱いていたものだ。少しずつ薄れていく鱗のにおいが寂しくて胸がぎゅうっとして、会いたくてそわそわして、会える瞬間を想像して飛び跳ねたくなって、でも会えないままにおいが消えたらと思うと胸がざわざわして。
 それをなぜか、初めて会うその人から感じるのだ。
 なんでだろう。誰なんだろう。なんで鱗の人のように、この人が気になるんだろう。
 ずっと、理由はわからなかった。みんなに囲まれて笑っている姿を見ても、鱗の人とくっついてどこか寂しそうにしている姿を見ても、りゅうを見て苦しげに微笑む姿を見ても、どうしてもわからない。
 ――本当は、傍に行ってみたいと思うのに。ぎゅっと抱きついて、思いきりお腹に鼻を押し付けて匂いを嗅いでみたいと思うのに。その人と目が合うと、泣きたそうな顔をされて、どうしたらいいかわからなくなって、やっぱり近くにはいけなかった。その人はりゅうが近づくと泣きそうになる。でも、りゅうは彼を泣かしたくはなかったのだ。
 でも、崖から飛び降りたりゅうを追いかけてきたその人に、ぎゅうっと抱きしめられて、ようやく思い出した。
 お守りの鱗の匂いのずっと奥のほうで、感じたことのあるもう一人の匂い。ずっとりゅうを守ってくれていた、もう一人。
 鱗の人にも、この人にも。りゅうはずっと守られていたのだ。ずっと会いたかった。ずっとぎゅうっとしたかった。
 疑問の答えを知った心からあふれ出す感情を言葉にするにはまだ幼くて、ようやく理由がわかって安心できて。
 りゅうはわんわんと泣いた。あの人も同じようにたくさん泣いて、鱗の人は抱きしめてくれた。
 いっぱい泣いたら、鱗の人が速く飛んだ。里で一番の十五よりもっと速くて、びゅんびゅんと感じる風が気持ち良くて笑っていたら、あの人も大声を上げて笑った。ぎゅうっと抱きしめて頭にぐりぐり顔を押し付けてきたから、りゅうも負けじとぐいぐい押し返していたら、反対側から鱗の人も顔をぎゅうぎゅう押し付けてきた。
 広い空の下で、三人でぎゅうぎゅうになって、それからたくさん笑った。途中であの人はまた泣いたけれど、でも不思議といやじゃなかった。りゅうが涙を舐めてやったら、くすぐったそうに笑い声をあげていた。
 三人でぐるぐる里の周辺を回って、一緒に里に帰って、一緒にお城に行ってみんなとご飯を食べて。一緒に里に戻って、そして夜は一緒に布団に入った。
 二人に挟まれて、頭を撫でられて、お腹をぽんぽんされて。それでも横になっても眠気は一向に訪れず、りゅうはたくさんおしゃべりして、二人はうんうんうなずいて聞いてくれた。
 ――明日も今日みたいな日がいいな。鱗の人も、あの人もいて。また二人といっぱい遊びたい。今度はりゅうのお気に入りの場所につれて行ってあげたい。そこで遊んで、隠している宝ものを見せてあげたい。
 りゅうの好きなごはんを二人と食べたい。十五のご飯はどれも美味しいから、きっとふたりだって気に入るはずだ。水浴びはちょっと苦手なのだけれど、魚を獲るのは得意だから、褒めてほしい。友達の小鳥たちだって紹介したい。
 まだまだ話したいことはたくさんあるし、教えたいこともまだまだ尽きない。約束もいっぱいしないといけないけれど。
 一日中はしゃいでいたりゅうの体力はもうからっぽで、いつの間にか眠りの中に誘われる。

「……あした、いる?」

 眠い目を擦りながらりゅうは尋ねると、二人はすぐに答えた。

「明日もいるよ。次の日も、その次の日も、毎日りゅうに会いにくるよ」
「ほんと?」
「ああ。約束だ」

 力強い鱗の人の声に、優しい表情のあの人の頷きに、約束してくれたなら安心だと、りゅうは目を閉じた。
 明日も、その次の日も、そのずうっと先も。毎日二人に会える。約束された未来を夢に見ながらふにゃりと笑ったりゅうの頬を、優しい指先が撫でていった。


おしまい