部屋に戻った頃には春一もどうにか気を取り直し、お気に入りの長椅子に並んで座ってセオドアが淹れてくれたお茶で一息つく。
「でもせっかく早めに仕事が終わったってのに、おれと過ごすのいいの?」
「ご迷惑でしたか?」
「いやいや、おれは嬉しいけどさ」
僅かに下がった眉に慌てて否定する。
「でもそれなら、誰かに言伝でも頼んでくれれば、終わったらすぐ部屋に来たのに」
泥遊びを回避したものの、結局その後に追いかけっこが始まった。
花冠が完成した春一たちも合流して一緒になって走り回ることになったのだが、子どもの体力は底なしだ。
走って走って走って、休憩をほんの少し挟んでまた走って。結局フェリクスが来てからの時間は殆ど走り回った気がする。
いつもなら都合をつけるなりして適宜休憩を挟みながら相手をするところだが、王弟が子どもたちに付き合っている以上、春一が一人休んでいるわけにはいかなかった。
結果として最後は殆ど倒れ込むようにしてへたり込んでしまったが、研究でこもりきりのフェリクスは平然としていたし、子どもたちも久しぶりに根を上げずについてきてくれる大人に大喜びだった。
子どもたちにとっては楽しい思い出となっただろう。しかし折角の空いた時間に走り回らされ、却ってフェリクスを疲れさせてしまったのではと心配だった。
「いいんです。春一が子どもたちと触れ合っている姿を見たいとも思っていたので」
「ええ? そんな別にたいしたもんでもないのに」
「わたしも遊んでもらっていた身ですから。懐かしくなって」
「まあ、おまえがいいのならいいんだけど」
春一が子どもたちと過ごすことでフェリクスとの思い出を懐かしんだように、フェリクスもまた春一との過去を思い返していたのだろう。
それを思うと、じんわりと心にぬるま湯に浸かった時のような心地よいものが広がる気がする。
「ところで春一」
にやけそうになる頬を引き締めていると、フェリクスが顔を覗き込んできた。
「疲れたんじゃありませんか?」
「ぜんぜん」
「ハル先生が久しぶりに追いかけっこに付き合ってくれたってみんな喜んでましたよ? いつもすぐ休憩しちゃうのに、今日はいっぱい追いかけてくれるとも」
「う……」
強がりなどは最初から見抜かれていたらしい。いつの間にそんな情報収集を行っていたのか。
「殿下のご想像の通り、ハル様があれほど動き回るのは久方ぶりかと思われます。先程も足が少々震えていたので、しばらくは歩きたくないでしょう」
「せっ、セオドアさん!」
背後からの暴露に睨みつける。つんとそっぽ向けばまだ可愛げがあるものの、正面を向いたままいつものすまし顔だ。
それどころか「夕食までまだ時間があるので軽くつまめるものを取ってきます」とあっさり春一を見捨てて出て行ってしまった。
セオドアの言葉が嘘ではないだけに、弁解することもできない。実際に少しのあいだ走り回っただけで疲れ切っていて、その状態から休憩もなく部屋まで移動したので、長椅子に座れた時は本当に安心した。
「だって、王弟殿下を子どもの遊びに付き合わせておいて、一人だけへばっているわけにはいかないだろ……」
「別に気にしないですよ」
「わかってるよ。でも、おれにも意地があるんだ。体力はないほうだけど、まだそんな年じゃない」
もしかしたら筋肉痛になるかもしれない。なる時は翌日には感じるものの、日に日に痛みが強く出るまでの感覚が延びている気がするのは最近の密かな悩みだが、まだ目を逸らしていたい。
でもさすがに、健康のために何か運動でもやるべきだろうか。
「――揉みましょうか?」
「え?」
「つらそうですよ。いきなり走ることになったから強張ってしまったのでしょう。さあ、靴を脱いで足を出してください」
ぽんぽんと自分の腿を叩くフェリクスの手を思わず凝視してしまう。ここに足を置けということだ。
これが冗談でないことは長い付き合いでわかってる。本気で春一の疲れを癒すべく、足を揉んでやろうと思ってくれているのだ。
「いやいや、そんなことさせられるわけないだろっ! むしろ、おれがやるよ。フェリクスだって結構走らされていただろ」
「わたしは日頃鍛えていますから、あれくらいなら問題ありませんよ」
日頃のんびりと気ままに過ごしている春一と違って、フェリクスは体力づくりのための朝の鍛練を怠らない。動きたくても動けないつらさを知るからこそ、ちゃんと自分の身体を大切にしていた。言葉は謙遜ではなく真実のはずだ。
「でも、フェリクスにさせるなんて……」
「させてください。それで春一が楽になれるのなら、私は喜んでやりますよ」
それでも躊躇っていると、フェリクスはにっこりと笑ったまま床に下ろされる春一の片足を掬い上げた。
「ぎゃっ」
「脱がせますね」
思わず背もたれにしがみついて足を引こうとするが、足首をしっかりと掴んだフェリクスに阻まれてしまう。
器用に靴を脱がせて、腿の上に春一のかかとを置いた。靴下もするりと脱がされそうになり、慌てて身体を起こして抜かれそうになる靴下を引っ張り上げる。
「せ、せめて足を洗わせてくれ」
「別に気にしなくても」
「おれが気にするんだ!」
朝から履き続けているし、走り回ったせいで汗を掻いて蒸れていたのも感じていた。自室なら簡易的な靴に履きかえるものの、たとえそちらを履いていてもやはり気にしないでいられるわけがない。
それも理解しているうえで気にしないと言ってくれているのはわかっていたが、汚れた足に触れられることは絶対にいやだった。もし湿ってるとか、臭いとか、少しでも思われたらもう顔も見れなくなる。
激しい抵抗に春一が本気で嫌がっていることに気がついたフェリクスは、ようやく足を放してくれた。
「春一、素足になってくれますか?」
靴の脱げた片足の膝を立てて引き寄せながら、手負いの獣のように今にも唸り出しそうな春一に、フェリクスは穏やかに声をかける。
「だからやだって」
「洗ったら、触れてもいいのでしょう?」
「――まあ、それならいいけど……」
答えながら、ふと何かがおかしい気がする。そもそも王弟にマッサージさせるのはどうかと思っていたのに、いつの間にか問題点がすり替わっていないか。
「それなら春一の希望通りにしますから。ね?」
けれど宥めるような、それでいてどこか甘えるような声音に促され、自らそろそろと靴下を脱ぐ。
もう片方も素足になると、フェリクスがその場から動かないまま、魔法を使って洗浄をしてくれた。
空中に現れた球体の水は人肌ほどのぬくもりを持ち、春一の足を包んで水流で汚れを洗い出してくれる。気分はまるで足湯に浸かっているようで、その心地よさに思わずほうっと息がもれた。
温水が徐々に小さくなって消えてしまうと、今度は窓が開いていないはずの部屋のどこからともなく温風が吹き、濡れた肌を乾かしていく。
あっというまに風呂上りのようなさっぱりとした心地に洗い上げられた足を、フェリクスは掬い上げて自分の腿の上に導いた。それに抵抗することなく、力を抜いて身体を預ける。
完全に抵抗がなくなったわけではないが、洗ったら触れていいと言ったのは春一だ。汗を流すことができたばかりの足ならと諦めて、フェリクスの好きにさせてやることにした。上半身は長椅子の背もたれに寄りかからせて身体の力を抜いていく。
フェリクスはまるで貴婦人の手を取るように恭しくつま先に触れると、優しく揉みほぐしていった。
痛みはなく、むしろ少し強めにさするような感覚には少々物足りなさを感じないでもない。それでも続けていくうちに詰まったものが流れていくような心地よさがあり、時折強張った筋肉を指圧する動きもほどよい。
もとから常日頃からフェリクスが何事においても丁寧な動作であることはわかっている。だがこうも繊細なものを扱うように触れられると、自分がとても大切なものになったかのように感じてしまって少し照れ臭い。
そんな気恥ずかしさも、大きく温かな手に包まれるように触れられているうちに溶けていく。
洗浄の魔法でも感じた、思わず吐息がもれ出るような充足を感じた。
「血流がよくなっていますね。セオドアが戻ってきたら蒸しタオルでも頼みましょうか」
「うん……」
「きっといくらか筋肉痛が楽になりますよ」
なることは確定らしい。素直に頷くと、フェリクスは耐えかねたように小さく声を上げて笑った。
「そんなに気持ちいいですか?」
「気持ちいいよ。なんでもできるって知ってたけど、こういうのも上手なんだな」
「セオドアに教わりました。筋がいいと褒められましたよ」
奉仕されるだけの存在であるはずの王弟に、いったいなにを教えているのか。飄々とした侍従を思い起こしながら、同じようにフェリクスにしてやれたら、喜んでくれるだろうかと考える。
日頃鍛えているといっても、集中するとじっと動かなくなることもある研究職はつい姿勢をかためてしまって身体が強張りやすいだろう。慢性的な肩こりや腰痛はもはや職業病だとも聞いたことがあるし、いくら若くてもフェリクスだって疲れが溜まる日もあるはずだ。
そんなとき、一時の癒しを提供できないだろうか。こんなに気持ち良くはさせてやれないかもしれないが、揉みほぐされた先から血流がよくなったおかげかぽかぽかと温まっていく心地よさをフェリクスにも与えてやりたい。
ああでも、今はもう少しこの大きな手を堪能していたいかも――そこまで考えて、はっと気が付く。
今まさに癒しを与えられて蕩かされている春一こそ、まさに籠絡的なことをされているのではないだろうか。
フェリクスに春一の存在意義を訴えて必要としてもらいたいのに、逆に奉仕させて甘やかされている現状は理想と真逆だ。本当なら春一から働きかけ、手放すには惜しいと思ってもらうのが目的だというのに。
だが春一が口にした通り、フェリクスは有能な男でなんでもできてしまう。地位も財産も名声もあれば、それに見合うだけの才覚もある。しかも魔法でなんでもできてしまえるし、器用で物覚えもいいので大抵のことがそつなくこなせてしまうのだ。
今は立場があるから身の周りの世話を人に任せているが、やろうと思えば彼は一人でもつつがなく暮らしていけるだろう。
一方の春一はといえば、特筆するべきものは実感のない魔力の保管能力だけ。その他は可もなく不可もなくといった目立った才能はない凡庸さで、ただでさえフェリクスをサポートする優秀な人が多い中であえて春一が必要な場面というのはまったくない。
こうしたマッサージだって、やってみようという気にはなったが、春一よりもよほどうまい者が周りにごろごろいるはずだ。むしろ素人が王族の身体に触れて却って変に筋を痛めさせるのもよくないだろう。
思い出に訴えるしかないのだが、やはりそれ以外でもいてくれてよかったと思わせるポイントが必要だとは考えている。しかしだが妙案は浮かばないままだ。
「――んっ」
油断していると、フェリクスの指先が膝の裏を掠めて、思わず声がこぼれた。