18

  

 微かに睫毛が動いた気がして顔を覗き込むと、ゆっくりと瞼が持ち上がる。


「フェリクス」


 しばしぼうっとしていたが、春一を認識したのか、何度か瞬くうちに次第に瞳の焦点が合っていくのがわかった。


「は、る……」

「そうだよ。無理に呼ばなくていい」

 ここにいると伝えるために、フェリクスの手をとりぎゅっと両手で握りしめた。

 素肌での接触は魔力が春一に流れてしまうため、それを防ぐために手袋をはめている。手袋越しでは熱を分けてやることはできないが、少しでも身体が温まるように手をそっと擦ってやった。

「お医者様の話では魔力不足だそうだ。おれから魔力は引き出せそうか?」


 詳しい話は後回しにして、端的に説明する。今はまず魔力を正常に戻すのが先決だ。

 春一から魔力を抜き出すことができればいいが、そのためにはある程度集中力がいると聞いている。平常時であれば問題ないが、意識の混濁がある今の状態ではその程度のことも難しいだろう。

「……っ」


 フェリクスは、一度首を振るだけでも精一杯の様子だった。

 自ら魔力を操作するのは、もう少し回復しないとできない。なら、そこまで自己回復を待つか、それかもうひとつの方法を試すか――

「フェリクス」


 名を呼べば、ひどく緩慢な動きではあるが春一に視線が向けられる。それだけの認知能力はあると把握したうえで、春一は両手の中のフェリクスの手をぎゅっと握りしめた。


「あの……あのな? おれの中にあるおまえの魔力を、少しでいいから返したいんだ。それで、その……いやだとは思うんだけど、水を口移しで渡してもいいかな」

「……口移し……口づけ?」

 どういうことかと聞かれたら、今のフェリクスが理解できるかはさておき、きちんと説明をするつもりだった。だがまさかそこを突っ込まれることは考えていなくて、直接的な物言いに思わず黙り込んでしまう。

 あくまで魔力譲渡も兼ねて水を飲ませてやるという口移しであり、結果として唇を合わせるのだから、それはまあ口づけだとも言える。だがそれを認めていいのか。春一としては口移しをさせてもらいたい立場だが、キスだと判断したフェリクスがいやがらないだろうか。
 ぐるぐると考えた末に、春一は小さく頷いた。

「まあ、そんなもの。なるべくさっと済ませるから、それで魔力が移せるか試してみたいんだ。いやかもしれないけど協力してくれないか?」


 夢うつつのようなぼんやりとしたフェリクスの様子は変わらない。ただ、視線だけが口元に落ちたことだけはわかった。

 何の変哲もないはずの唇をじっと見つめられて、視線に耐えきれずきゅっと力が入ってしまう。
 今から使う場所をそんなに意識させないでほしいし、せめて目線が向けられている意味がなんなのか知りたい。
 いやがられているというのなら、春一だって無理にしようとは思っていない。つらいのはかわいそうだが自然回復を待つだけだ。
 いたたまれず、もう一度名前を呼びかけてみようとしたとき、フェリクスが薄く口を開いた。

「水、ください」

「……ん、わかった。待ってろ」

 口移しで、と言葉にされなくても承諾されたことはわかった。

 枕元の机に置いていたグラスの水を一口含み、ぼんやりとその様子を見ているフェリクスの上に覆い被さる。
 そっと口を合わせると、受け入れるようにフェリクスは自ら唇を開いた。そこから、零さないように慎重に水を流し込んでいく。
 こくんとフェリクスの喉が上下に動いた気配を感じた。

「……どうだ?」


 様子を見るのに水は少量にしたが、それでもいくらか魔力を感じられただろうか。

 フェリクスは濡れた春一の唇を見つめて、わずかに口を開いた。

「もっと」


 求められるままに同じ動作を繰り返した。

 ずっと寝ていたので喉が乾いているだろうと思い、先ほどよりは水の量を多くしてみる。フェリクスは給餌される雛鳥のように春一から流れてくるものをこくこくと素直に飲み込んでいった。

「……もっと」

「ん」

 三度目は少しだけこぼしてしまう。

 手袋をはめた指先で濡れた口の端をぬぐってやる。

「――どうだ? 少しは魔力、戻った感じするか?」

「もっと、ほしいです」

 それは魔力が戻った手ごたえを感じてなのか、それとも単に喉が乾いて水を欲しているだけなのか。

 聞きたい気持ちを押し殺して、春一は再び口移しで水を与える。
 さらに幾度か繰り返し、もういいかと思って身体を起こそうとしたときだった。
 離れようとした春一を追いかけるように軽く吸いついてきたフェリクスの唇が、離れる際にちゅっと小さな音を立てた。
 それを聞き、フェリクスと唇を合わせたことを急に意識してしまう。そうなるともうだめで、抑え込んでいた様々な感情が一気に溢れ出した。
 春一にとってはこれが初めてのキスだった。医療行為のようなものであり、フェリクスだってしたくてしているわけではないのだから意識するべきではない。そう自分に言い聞かせ、なるべく何も考えないよう心を無にしていたというのに、彼の薄い唇が見た目より柔らかいことや、その感触を思い返さずにいられない。
 吸いつかれた唇の感覚が頭から離れない。しかもあのささやかな刺激を、少しだけ気持ちいいと思ってしまった。
 苦しんでいる相手に、幼い頃から見守ってきていた相手に、何を考えているのだと思うのに顔が熱くなっていく。

「も、もう終わりでいいよな。少しは楽になったか?」

「――」 

 フェリクスが何かをつぶやいたが、聞こえなかった。

 口元に耳を寄せようとして再び顔を寄せようとしたところを、首裏に回った手に引き寄せられる。
 弱っているはずのフェリクスの力は強く、油断していたこともありろくな抵抗もできないまま導かれた先で再び唇を合わせた。

「ふぇ、り……んんっ!?」


 名を呼ぼうと開いた歯の隙間から、ぬるりと何かが入り込んでくる。

 強引にねじ込まれ、思わず奥に逃げた春一の舌先をちろちろと撫でてきた。

「ん……ふ、っ……」


 口内を探る動きをするのがフェリクスの舌だと、混乱する頭でようやく理解する。

 水がもっと欲しかったのだろうか。でも口の中は空だ。それがわからないほどに意識が混濁してしまっているのか。
 そのわりには春一を押さえつける力は強く、頭はしっかりと固定されている。もう片方の手が腰を引き寄せて、フェリクスに乗り上げる体勢をとらされた。
 フェリクスをつぶしてしまわないよう腕に力を入れるが、胸はぺとりと密着してそれ以上離れることができない。

「ふぇ……ぅ、ん、ん……ッ」


 再び名前を呼ぼうとしたが、発音しようと少し前に出した舌に吸いつかれ言葉を奪われた。

 頭の中ではひたすらに、なんで、どうして、どうなっている、と同じ疑問がぐるぐると巡るばかりで答えはでない。
 フェリクスは執拗に舌を絡めては上顎をくすぐり、春一の中を確かめるように動いていく。
 自分ではうまく飲み込めない唾液が流れ落ち、それを啜ったフェリクスがじゅるりと水音を立てた。

「ゃ……ら、め……っ」 


 いよいよ身体を支える腕も限界を迎える。

 このままではフェリクスを押し潰してしまうという不安が過ぎったその時、ようやくうなじを押さえていた圧が和らいだ。
 その瞬間を逃さずに弾けるように身体を起こすと、軽く息を弾ませながらじっとこちらを見るフェリクスと目が合う。
 先程まで血の気を失っていた肌には赤みが戻り、唇が艶やかに濡れているのを見てしまった。
 きっと、頬も同じように赤くなり、唇も同じように濡れているのだろう。
 しばしお互いに声もなく見つめていたが、やがてフェリクスがふわりと笑った。

「ごちそうさまでした」


 それだけ言うと目を閉じ、やがて安らかな寝息を立て始める。

 それからもしばらく呆然としていた春一は、ようやく我に返って寝台から降り、湿った自分の唇を袖で拭った。
 その顔が未だに赤いままであることに気がつかないまま、生気を取り戻した様子のフェリクスの寝顔を眺めて何度も瞬きする。
 やはり春一には魔力の流れは感じないが、容態が落ち着いたらしいフェリクスを見れば魔力の譲渡には成功したようだ。
 ようやく身体が動くようになり、そろそろと眠る彼に手を伸ばす。
 僅かに汗ばんだ肌に張りついている前髪を払ってやるが、起きる気配はなかった。

「……よかった」


 何がなんだかわからないままではあるけれど、フェリクスの苦痛が少しでも和らいだことに今はただ安堵する。

 少しでも気を抜くと、薄く開いた口元に目がいきそうになって、落ち着かない気持ちになりそうだった。まだ口の中に撫でられた感触も残っている。ここから出て、ひとまず大声で何か叫びたい気持ちだった。
 それでも目を離し難い。
 早く周囲にも報告をして安心させてやらなければいけないのはわかっていたが、春一はしばらく隣で寝顔を眺めた。


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