「――あの、セオドアさん。話をしてもいいですか」
「もちろんです」
「できればその、フェリクスには秘密にしていただきたくて……」
「私には報告義務がありますので」
春一がナージルに説明したとおりだ。セオドアは春一についているが、雇用主はフェリクスである。
これから話すことはいつかはフェリクスにも告げるとしても、今ではない。でもできれば聡明なセオドアの冷静な意見を聞きたい。
その狭間に揺れる春一に、セオドアがくすりと笑った。
「ですからここからは、侍従としてではなく、あなたの友人としてお聞きましょう」
「いいんですか」
「あなたが私を友と思ってくださるのなら」
「もちろんです。ありがとうございます!」
やはり自分は人に恵まれている。来たのがこの世界で、この場所で本当によかった。
「感謝なんていいですよ。それで、話とは?」
セオドアに促され、春一はすぐに言葉にしようとした。けれどもすんなり声は出ず、自分が思っていた以上にまだ考えがまとまっていないことに気がつく。
それでもセオドアは急かすことなく、どこから話すべきか悩む春一を待ってくれた。
「――おれ、この世界に残ることにしました」
「それは……ついに、殿下に引き留められましたか?」
春一の篭絡作戦を知るセオドアが喜色を浮かべる様子に、慌てて首を振る。
「ま、まだです。フェリクスからは何も」
「そうですか。でも、作戦は継続されるのですよね?」
「いえ。フェリクスに引き留めてもらおうと望むこと自体やめます」
セオドアは片眉を上げ、どういうことだ、と表情で問いかける。
「フェリクスは責任を果たしてくれた。それなのに引き留めさせるなんて、また別の責任を負わせてしまうことに今更気づいたんです。だから自分の意思でこの世界に留まることをはっきり決めました」
「――そうですか。確かに、それがお二人にとってよいのかもしれませんね」
セオドアは春一の決断を受け入れてくれた。
聡い彼のことであるから、もしかしたら作戦を立てた当初から、その裏に隠れていた問題点に気がついていたのかもしれない。けれどフェリクスから言葉を欲しがったのも春一だ。それがなければ春一がここにいられないというのなら、それが必要と思い止めなかったのではないか。
「殿下にはいつお話に?」
「それなんですけど……おれ、旅に出ようと思うんです」
「旅に、ですか?」
予想外の言葉だったのか、僅かに目が見開かれる。
この世界に留まることを決めた。それは十七年間こちらで生活した日々の積み重ねがあってこその決断だ。
だが、その決断をフェリクスはどう思うだろう。
もっと早く魔法が完成していれば春一は戻ったかもしれない。待たせすぎてしまった自分のせいで――そんな風に考える可能性があった。
元の世界に未練はない。フェリクスが気に病む必要はまったくないが、本心を形に見せることができない以上、強がりな部分もあると思われてしまうだろう。本当は戻りたいのに、過ぎた歳月の長さが春一を臆病にさせているのではないか、と。
だからこそ、この世界を巡ろうと思った。
この世界を満喫している姿を見せていけば、きっとフェリクスも春一の決断が致し方ないものではないと理解してくれるだろうから。ここでなければできないことを進んでしていれば、未練がないという言葉も信じてもらえるだろう。
なにより自分たちは一度距離を置いたほうがいい。
出会ってからずっと、お互いを見てきた。だからこそ相手に対する思いやりが先にきてしまう。どうすれば喜ばれるのか、何を考えるのかを予想できてしまうから、先回りして相手が望むものを用意したくなってしまう。
近づきすぎてしまったのだろう。その思いやりがその人のためになるかわからなくなってしまっている。
過保護になりすぎていないのか、適切であるのか、必要とされているのか――春一が残ることでフェリクスが気に病むのではないか、という考えもまさにそうだ。
実際のところどう思うかなんてその時になってみないとわからないのに、少しでもフェリクスの負担を軽くしたいと考えてしまうとあらゆる可能性に目を向けてしまう。
これが他の人間が相手であれば、ここまで春一は思い悩むことはなかっただろう。相手の考えなど読めないのだから、深読みしたところでなるようにしかならないことがわかっているからだ。配慮を忘れるわけではないが、その距離感を保つのが本来の自分のはずだった。けれどフェリクス相手だとどうしても過保護になってしまう。
だから、旅に出て物理的に距離を置き、二人の適正な立ち位置を改めて決め直したかった。
自分でもまだとりとめのない気持ちをぽろぽろと独り言のようにこぼしていく。
「でも、旅に出るといっても拠点はオルデニアなので、時々戻ってくるつもりですよ。もちろん有事があれば保管庫として協力します。それにあちこち回って満足したら、やっぱりこの国に戻ってきたいと思ってますしね」
「それは、王弟宮にですか?」
セオドアの静かな問いかけに、思わず返す言葉を失う。
「……いえ。その時は城下町で家を探します。城内は分不相応ですから」
フェリクスと決別するつもりはない。ただ、適切な距離をとるだけだ。
これまでは勝手に保護者のつもりでいたが、もう彼に手を差し伸べてやる必要はない。ただせめて親しい友人くらいに思うのは許してほしいと思う。
「それで、旅先のひとつめはシャティフルにしようかなと思います。弟さんが本当に魔力過多症なのか現地で調べたほうが早いですし、事実ならすぐに対応できるでしょう? あ、もちろん真偽がわかるまで、おれが稀人の春一ってことは内緒にしますよ。もし仮におれをおびき寄せるための嘘だったとしたら全力で逃げるつもりですし!」
「うーん。どうにも危うい気がしますねぇ」
はりきる姿に苦笑されるが、否定はできない。自分が呑気というか、うっかりしているというか。危機感が薄いという自覚があるし、セオドアも十分わかっている。
「そこでセオドアさんに、何か助言をいただけないかなあ、と。王族の身辺調査の方法だとか。護身術も教えてもらったから多少使えますけど、もう少し特訓もさせていただきたくて」
旅立つことを考えた時、セオドアにはすぐに伝えることに決めた。常に春一といるので、彼の目を盗んで準備できないということもあるが、何よりその知恵を借りたかったからだ。
「それなら教えるよりも、私を連れて行ったほうが早いですよ」
「え」
「腕っぷしにも自信がありますしね。調査要員でも、護衛でも、もちろん日常の補助にもなんにでも役立つと保証します」
「そ、それはもちろん、セオドアさんがついてきてくれるなら心強いですけど……」
「そうでしょう。ならばぜひ、ハル様の旅に私も連れて行ってください」
「でも、おれじゃセオドアさんのお賃金払えません」
旅にかかる費用については、国から支給されている給費から出すつもりだ。保護対象であり、また有事の際の協力者でもある春一には謝礼も出ているというが、国の税金から賄われているものであるので無駄遣いするつもりはなかった。
必要経費として最低限持ち出し、足りなければどこかで仕事も探すことも考えていたほどなので、人を雇う余裕はない。セオドアが今どれほどの給金をもらっているかは知らないが、王弟直属の配下である彼は高給取りであることは間違いないだろう。
「雇われるつもりはありませんよ。その時は友人としてついていくのですから。友の手助けをするのに対価はいりません」
「セオドアさん……」
「それにハル様と一緒にいたほうが面白いものを見られそうですからね。それだけで私には十分なのですよ」
ぱちんと片目をつぶる茶目っ気ある姿に、じわりと胸が熱くなる。
自分が思っていたよりもずっと、セオドアとの間には絆があった。それが素直に嬉しい。
「……へへ。ありがとうございます。セオドアさんが一緒なら百人力ですね!」
「任せてください。それで、いつごろ旅立つかもう決めているのですか?」
「はい。ナーシル殿下の弟さんのこともあるし、早めにしようかと。その前に情報が虚偽だとわかったなら、行き先を変えればいいだけですし、実際にどこにでも出られるように準備だけは進めておこうかなと」
具体的には春一を元の世界に帰そうとしている日にしようと考えていることを伝える。元々別れを迎える予定だったので、それが異国への旅立ちになるだけで周囲としても都合がいいと考えたからだ。
いつ元の世界に帰れるようになるかもわからない状態だったので、もとより荷物は持たないようにしていた。準備といっても新しく買い足す必要があるくらいでそれほど手間もないだろう。
セオドアのほうはそうもいかないだろうから、春一が先に出て、後から合流するのでもいいかもしれない。
「あ、そうだ。セオドアさんにお願いがあるんですけど、後で髪を切ってもらえませんか?」
「わかりました。いつものとおりでいいですか?」
普段は毛先を整える程度で、もう何年も長さは変えていない。
真っ黒な髪をひと房つまみ、指先でよじり遊ぶ。
「――今回はばっさりいきます」
春一の髪の手入れにこだわっていたセオドアは少し複雑そうにする。
許されるのなら旅の同行中も自分が整えたいと言いたげで、申し出がある前に先手を打った。
「セオドアさんがついてきてくれるとしても、自分のことは自分でしないと。短いほうが管理も楽ですしね」
「……殿下も残念がるでしょうね」
もとはフェリクスが気に入ってくれているから、なんとなく伸ばしていた髪だ。だがそれもただの物珍しい黒さに興味をひかれた程度なのだから、短髪姿に見慣れないことに戸惑うぐらいだろうと思うが。
――旅に出る。この国を離れ、新しいものを見に行く。
セオドアに話すことで、より気持ちが定まっていくのがわかる。
以前の春一は、いつ国王が心変わりして国を追われるかもしれないと思っていた時期もあり、ここから出て行っても暮らしていけるよう知識だけは蓄えていたことがあった。城内という贅沢な箱入りではあるし実地で学んでいるわけではないので不安もあるが、当時の自分の行動にこうしたかたちで助けられることになるのは、なんとも不思議な気分だ。
広い世界を思い胸を膨らますことで、ちらつくフェリクスの影を押しやる。でもふと気を抜けば、旅に同行しているフェリクスの姿を想像してしまった。
フェリクスと行けたのなら、どれだけ素晴らしい旅になるだろう。見聞を共有し、感情を分けあえたなら、きっとそれほど楽しいことはないと思う。その一方で、今の山も谷もない穏やかな暮らしが続いていくことも思い描いてしまう。
旅に出ても、たとえこの国に留まったとしても、どちらの道に進んでもそんなことはありえないのに、自分の本当の望みがどこにあるのか思い知らされる。
帰してやるというのがフェリクスの誓いなら、彼を手放すことがそれに対する春一の感謝だ。
これまで隣にいてくれたこと。心の支えになってくれていたこと。それが彼なりの責任だったとしても、自分はそれに確かに救われた。もう充分、フェリクスは春一に尽くしてくれたのだから解放してやらなくてはならない。
だから未練がましい望みも、この髪とともに断ち切ろう。せめてそれまでは、どんな未来にもフェリクスが傍にいる夢を見ることを許してほしい。
その時が早くくるべきだと思う反面、いつまでもやってきてくれるなと願う自分の声に蓋をする。
春一は本を抱えてフェリクスが待つ部屋へと足を向けた。
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