自室に戻った春一は読書の続きを楽しみ、夕食を済ませた後は湯船に浸かって身体を解きほぐす。
 いつもは緑の香りがするバスオイルを使用しているが、今日はフェリクスが好むというリラックス効果のあるものを用意してくれた。
 肩まで湯に浸かりゆっくりと深呼吸をすると、いつもとは違うラベンダーの香りで肺が満たされる。
 湯気に含まれてしっとりと春一を包む癒しに、ゆるゆると身体の力が抜けていく。ほう、と息をつくと、そのままとろりと湯の中にとろけていきそうな気分だ。
 身も心も温まったところで風呂から上がり、用意されていたタオルで水気を拭っていく。風呂の準備はしてもらうが、さすがに貴族のように他人に身体を洗ってもらったり、着替えを手伝ったりしてもらうことはしない。最初こそセオドアは浴室までついてこようとしたが、ただの一市民だった春一がそこまでは受け入れられないと固辞したために、浴室に入ってから着替え終わるまでは自らで行う。
 いつものように寝間着に着替えようと籠に手を突っ込んだ春一だったが、ふといつもとは違う手触りに首を傾げた。
 掴んだものを引き上げて、つかのま思考を停止する。そしてそれが何かを理解して、身体の温まりとは別に顔を赤くして大声で叫んだ。

「せ、セオドアさんっ!」

「はい、なんでしょう」

 すぐに扉からセオドアが顔を出す。

 春一がそろそろ出る頃を見計らっていたのか、それとも、呼ばれることが始めからわかっていたのか。
 近くに控えていたらしい侍従は呼ばれた勢いなど知らぬと言ったような涼しげな顔だ。

「な、なんでしょうじゃないですよ!」


 予想以上に早い登場に、慌てて腰にタオルを巻いてから手にしたものを突き出した。


「なんですかこれっ」

「今日の夜着でございます」
「いつものは!?」
「まさか。殿下とご一緒されるのですから、新調させていただきました」

 それはそうかもしれない。普段から着ているものが粗末だとか不潔だということはないが、今のものは春一が気に入って長く使用している。そろそろ新しくしませんか、と何度かセオドアからも声がかかっていたが、着慣れたものを手放す気にはなれなかったのだ。

 いくら親しい間柄とはいえ、王族と枕を並べるのだし、新調する必要性は確かにあっただろう。

「でもだからって、これはないでしょうよ……」


 ここでようやく、セオドアが言っていた準備にとやらに思い当たった。

 春一のちっぽけな自尊心を守るために抱き枕を用意してくれていたわけではない。ただ、盛大にからかうための小道具の話だった。
 自分の手元にあるものを見て手負いの獣のように低く唸る。しかしどんなに睨んだところで見ているものが姿を変えることはない。
 この国では男女ともに一枚の布で作られる寝間着をしており、裾は絞られることもなくゆったりとしたくるぶし丈のスカート状になっている。男ものは飾り気が少なく深く落ち着いた色合いのものが多いが、女ものは華やかな色の布地で、刺繍も花柄や凝った装飾が施されている。
 春一が手にしているものも裾を一巡するように刺繍があるが、つた模様にまぎれるようささやかな小さい花がある程度で、一見して男女兼用程度ということはわかった。フリルもリボンもなく、今まで着ていたものは刺繍がないが形は大差はなく、ゆったりとしていて着やすそうではある。落ち着いた緑の色も春一の好みではある。
 しかし大事なことはそこではない。寝間着を持つ手が布地越しにうっすら透けていることが問題なのだ。
 だが大事なのはそこではない。寝間着を持つ手が生地越しに薄ら透けていることが問題なのだ。
 これを着ればはっきりと身体が透けてしまうほどあからさまではないが、月明かりのほんのわずかな明かりでも、身体の輪郭がぼんやりと映し出されるくらいには薄い絹で作られている。
 おそらくは、女が夜のお誘いをするときや、その気になってもらいたい相手に見せつけたり、喜ばせたりするためのものなのだろう。
 実際に女が透ける寝着を纏う姿を見たことがあるわけではないが、今までに自分が着ていたものや、これまで培った知識を寄せ集めればそのくらいは予想がつく。
 もといた世界ではもっと過激な露出もあった。同級生はスカートを短くして教師に注意されていたくらいだし、町を歩けば肩も足も剥き出しなのはそれほど珍しいものではない。それどころか水着姿だろうが下着姿だろうが、ネット上で画像も映像もいくらでも閲覧ができた。
 春一だって年頃だったので、こっそり検索しては誰に見られるわけでもないのにせっせと検索履歴を消したりしていたものである。
 こちらの世界の女はほとんど肌を見せない。年中肌寒い気候で、夏でもそれほど気温が上がることはないし、露出のし過ぎは男女ともにはしたないとされている。
 城下に出れば多少は服装のゆるみもあるが、少なくとも城内で働く女たちのお仕着せはきっちり首まで詰めている。時折見かける貴族などのドレス姿も首回りまで隠しているものがほとんどで、漫画で見かけたことがあるような柔らかそうな谷間が垣間見えることなど皆無だ。
 写真もなく、きっと公にされていないだけで存在しているはずのいやらしい絵はあるだろうが、まさか世話になっているみで興味を持つわけにもいかない。こっそり猥談しようにも下世話な話を振れる相手はいなかったし、そもそも馴染むのに精いっぱいで異性にうつつを抜かしている暇はまったくなかった。
 その結果、すっかり異性への免疫はおろか性への耐性も随分低くなってしまった。前の世界ではちょっとエロいかも、くらいだったものが、今ではなんと破廉恥な! くらいには意識が変わってしまった。
 ほんのり透ける寝間着は、今の春一にとってまさに、なんと破廉恥な! に部類されるものなのだ。
 しかも何が一番あり得ないかといえば、これを着たときの自分の姿だ。
 身体に柔らかな曲線のある女性ならともかく、ごくごく普通の三十路半ばの男が着るには滑稽にもほどがある。少なくとも顔立ちに華があるわけでもない自分に似合うはずがない。フェリクスだってそんなもの見せられても困らせてしまうだけだろう。

「大丈夫です。透けても恥ずかしくないよう、下着も新しいものをご用意しております」

「いや透けることが恥ずかしいんですけど!? ――って、新しい下着……?」

 セオドアの落ちた視線を辿ると、床に黒く小さな布が落ちていた。寝間着を引きずり出したときにでも一緒に飛び出してしまったのだろう、長い紐が絡まるように広がっているが、これはもしかしなくてもいわゆる紐パンではなかろうか。

 もしそうだとしても、隠せる面積は手のひらほどもあるかといったほどだったし、それも前面に当たる部分くらいしかない。後ろの防御力などゼロ、ただのひもだ。

「なな、なんですかこれっ? なにひとつ大丈夫じゃないですけど!? こんなの着ていったらどん引きされるじゃないですか!」

「殿下ならむしろお喜びになられるかと思いますが」
「フェリクスはそんな変態じゃないっ」

 駄々をこねるこどもを相手するように、やれやれと首を竦められる。

 まるで春一のほうこそ間違えているとでも言いたげな態度だが、いくらなんでも引き下がるつもりはない。
 受け入れてしまえば紐パンにうっすらと透けるやらしい寝間着だ。それを着る自分を想像しただけでぞっとするし、フェリクスの前に出るなんてむしろ彼の視界に殴りかかるようで申し訳ないどころの話ではない。

「いいから、いつものを持ってきてください。新品じゃなきゃだめっていうなら、普通の新品をお願いします!」

「承知しました。籠の底にご用意しております」

 やはりからかわれていたらしく、春一の抵抗を見越して準備されていた着替えを受け取る。

 それも新しいものらしく見覚えはなかったが、いつも着ているものに近い。色も落ち着いた紺色だ。
 生地も厚すぎず薄すぎず眠りの妨げにはならなそうだが、本当になんの問題もないかひっくり返しながらよく点検する。
 今度こそ何事にもならないことを確認して、セオドアには退出してもらった。安心して着替えて、最後にガウンを羽織る。
 外で待機していたセオドアを伴いフェリクスの部屋に辿り着き、一人で入室した。
 大人になってからも時折招かれては談笑している部屋の中は勝手知ったるものだ。王弟の居室といっても萎縮することはなく、窓辺に置かれた長椅子に腰を下ろす。読書好きな春一がこの部屋でゆっくり過ごすためにフェリクスが用意してくれた、春一専用の場所だ。
 多忙なフェリクスに合わせるため部屋で待たせてもらうことも多く、その時には大抵この長椅子で寛がせてもらう。昼には温かな陽射しが差し込み、昼寝をするにも丁度よい。窓を開ければそよ風とともに、テラスの下に広がる庭園に咲き誇る花の香りが舞い込む。そのなかでうとうとと微睡むのが好きだった。
 そのうちフェリクスがやってきて、しばし春一の寝顔を眺めるのには困ってしまうが。
 気にせず起こしてくれと言っても、春一の寝顔は癒しだからなどと冗談を言われてなかなか聞き入れてもらえず、ふと目を開けるとフェリクスが覗き込んでいることも珍しくはなかった。
 そもそも居眠りしなければいいのだろうが、春一の好みのクッションやひざ掛けまで完備され、快適に整えられている場所で訪れる睡魔に抗うのはなかなかに厳しい。
 今も温まった身体でうっかりそのまま横たわりそうになって、慌てて身体を伸ばして腕を大きく伸ばした。
 お気に入りの長椅子の上で肩を回したり伸ばしていると、扉が開く音がする。

「おかえり、フェリクス」


 真っ直ぐに窓辺に向かってくるフェリクスを出迎えるべく、春一も立ち上がる。


「ただいま、春一」


 側にいけば、風呂上がりらしいフェリクスから暖かな湿気を含んだ空気と香油が香る。春一のものと同じだ。セオドアが同じオイルを提案すると言っていたので、そのためだろう。

 同じ香油を使っているはずなのに、フェリクスのほうが甘さが少し濃いような気がする。完璧な王子のような外見の相乗効果なのだろうか、よりいい匂いに思えた。
 風呂上がりでしっとりと濡れた肌と上気した頬の赤み、それにまだ湿り気を残す髪を掻き上げる姿は同じ男でも色気を感じさせ、思わず見とれそうになってしまった。

「今は何をしていたんですか?」

「身体を解してたんだよ。風呂上りはやるようにしてるんだ。セオドアさんに勧められて始めたんだけど、すっかり習慣になっちゃって。やらないとなんだかしっかり寝られた気がしなくてさ。おかげで快眠だし、身体も結構柔らかくなったよ」

 もとは身体がかたいほうを自覚していたが、セオドアの指導のたまものか、長年の習慣として続けたこともあり、今では真横に一直線になるよう開脚するのも問題ない。

 自慢できるほどでもないが、健やかな日々を送るためには十分効果的だ。

「将来絶対に役に立つって言われてさ。確かに身体が柔らかいほうが怪我も少ないし、肩こりとかの解消にもなるしいいことづくしだよ。フェリクスもやってみる?」

「ぜひ」

 先程まで春一がやっていたような肩回しや肩甲骨を動かすストレッチを教えてやる。

 日頃から現役の騎士に混じって訓練に参加しているフェリクスは可動域が広く、見ている側も心地よいほどに気持ちよさそうに身体を伸ばしていた。

「これなら一人でも手軽にできますし、寝る前にも丁度いいですね」

「いつもはベッドの上でやってるんだ。股関節とかも動かすと気持ちいいぞ」
「今日はやりましたか?」
「まだだけど、椅子の上でもできるのはやったよ」
「なら、次から気にせずベッドでやってください。そのほうが身体も伸ばしやすいでしょうから」
「ありがとう。それなら遠慮なくさせてもらうよ。フェリクスにもまた教えてやるな」
「楽しみにしています」
「あ、一人でももちろんいいんだけど、人の手を借りたほうがもっと深く身体を動かせるから、フェリクスはそっちのほうがいいかも」

 日頃から研究に集中しているので、身体が強張っていることもあるだろう。研究者たちの慢性的な肩こりや頭痛、腰痛などの訴えを聞いたことがあるので、いわゆる職業病というものだ。

 フェリクスから不調の話は聞かないが、今ないからと言って今後も問題ないとは限らない。若いうちから対策をとっておけるのであればしたほうがいいだろうが、春一がしているものではフェリクスにとって負荷が少なすぎるかもしれない。
 寝る前だけではなくもっと日常的に、休憩の合間にもこまめにストレッチをしてもらったほうがいいかとまで考えを飛ばしていると、ふとじっとこちらを見つめるフェリクスの眼差しに気がついた。

「春一も誰かに手伝ってもらったことが?」

「うん? ああ、時々セオドアさんに手伝ってもらうよ。思いっきりやりたい時とか助かるけど、なかなかに鬼教官だからもし頼むなら覚悟したほうがいい。限界を超えられるよ……でもセオドアさんは物知りだから頼りになるんだよね。身体って繋がっているから、たとえば肩がつらいからと言っても肩を動かすだけじゃ根本的な解決にはならないんだってさ。セオドアさんが言うには――」
「まあ、それは後々セオドアに聞いてみます。それより今は二人きりの時間を楽しみましょう」
「あ……うん。そうだな。ごめんついはしゃいじゃって」

 フェリクスと二人きりで話すのが久しぶりとあって、まるで日中の報告を親にする子どものような態度を見せてしまった。これではどちらが年上なのかわからない。

 かあっと頬が熱くなるのを感じる。すぐ隣に座るフェリクスが気づいていないわけはないだろうが、からかうこともなく、ただいつも浮かべている穏やかな笑みで春一を宥めてくれた。

「春一、よければ寝酒に付き合ってくれませんか」

「それはいいけど、フェリクスってばそんなことしてたんだ?」
「少しだけ」

 この国では成人とみなされる十六歳から酒は解禁される。フェリクスが酒を嗜むことは把握しているが、こうして眠る前に顔を合わせるのは一緒に寝ていた頃から初めてのことで、寝酒することは知らなかった。

 寝酒をする男にはちょっとした憧れがある。
 父と祖父がしていたのを見ていたからかもしれない。大人の楽しみという印象があって、未成年の頃は自分もいつか彼らと同じようにするのだと思っていた。
 しかし残念ながら春一は酒に弱く、一杯のアルコールでも程よく酔っ払ってしまう。下戸の身では憧れはあってもやろうとすら思いつかなかった。

「いいね、ぜひお付き合いさせていただきます」


 きっと一人でなら促されてもいいやと断っただろうが、フェリクスから誘われたとなれば前のめり気味に頷く。


「寝る前のお酒かあ。初めてだからちょっとわくわくするな」

「今日はほんの少しにして様子を見ましょう。睡眠に障りがあってはいけませんから、身体を温める程度で」
「わかってるって」

 春一の酒の限界量を知るフェリクスはしっかり先手を打ってくる。


「でもつい飲みすぎそうになったらフェリクスが止めてくれよ?」

「もちろん。あなたに無理はさせません」

 これでは本当にどちらが年上なのかわからないが、すっかり乗り気になった春一を見てどこか嬉しそうしている様子に、まだ一口も飲んでいないはずの酒を流し込んだかのようにほわりと胸が温かくなった気がした。

 じゃれあいのような会話をしながら続き部屋になっている寝室へと向かう。
 フェリクスの私室にはよく来るが、寝室に入るのは久しぶりだ。それこそ一緒に寝ていた時以来だろう。
 予想していた通り、部屋の内装にほとんど変わりはなかった。
 もともと身体の弱いフェリクスの邪魔にならないよう、調度品は品位を保てる最低限しかなかった。本人もそれほどものに興味がないらしく、その物欲は大人になってからも変わらなかったようで部屋が華美に飾り立てられることはなかったようだ。
 王族としては清貧ともいえるフェリクスの唯一のぜいたく品と言えるものが、壁の一面を覆い隠すように並ぶ本棚だった。
 

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