「よし、今日の授業はここまで。明日は引き続きシャティフルのお話をします。ご家族にこの国について知っている人がいたら話を聞いてみてね」

「はあい」
「じゃあお昼の準備をするよ。当番の人は先生と一緒に食堂に、他のみんなはご飯を食べる準備をしておいてね」

 春一の付き人の一人に教室に残る子どもたちを任せ、配膳当番となる子どもと、決して傍を離れることはないセオドアを伴い部屋を後にした。


「ハルせんせ、おひるごはんなんだろね?」

「なんだろうね。楽しみだなあ」

 子どもたちの昼食は贅沢なことに、王弟の宮殿で働く料理人が調理してくれることになっている。

 当初は春一が厨房の片隅を借りて簡単なものを作る予定だったが、フェリクスが料理人たちに交渉をしてくれた。いわゆる給食を王族に食事を提供するような格式の高いプロにお願いするのは気が引けたが、子ども好きな料理長が快く引き受けてくれたことは助かった。

「セオドアさんはきょうのごはん知ってる?」

「わたくしも詳細までは聞き及んでおりませんが、お肉だそうですよ」
「お肉ならチンジャオロースがいいな」
「あれ野菜苦いからきらいっ。おれはハンバーグがいい!」

 春一が元の世界からの知識を提供して料理人が再現してくれたメニューはとくに子どもたちのお気に入りだ。


「先生はさっぱりおろし大根が乗った冷やし豚しゃぶとかがいいなあ」

「先生ってばいつもそういうのばっかじゃん!」

 春一がくるまで、薄切り肉と言うものがなかった。作って欲しいとねだったらこれが意外にも子どもなども食べやすいと人気になったが、やはり子どもはもう少し味付けが濃くがっつりしたものが食べたいらしい。

 各々好き勝手にお気に入りの料理を口にするが、次第におやつの話に脱線しているので思わず春一は笑い声をあげた。
 ただ歩いているだけなのに、食べたいものを想像してはしゃぐ子どもたちは子犬の群れのように時折ぶつかるように飛び跳ねる。囲まれて進みづらいものの、わいわいと騒がしいくらいの活気に春一の心も弾んだ。
 本当にいい子たちばかりだ。なかには癖がある子、ちょっと意地悪な子も、素直ではない子もいるが、春一にとってはみんなかわいい生徒たちに変わりない。
 この世界に来たのは、希望した大学に合格し、ようやく夢を叶えるためのスタート地点に立ったのだと気合いを入れた矢先のことだった。
 夢は、教師になることだった。奇しくもこの世界で春一は教師として子どもたちの面倒を見ている。異世界の人間だというのに、みんなそれを知ったうえで春一に教えを乞い、そして慕ってくれている。
 この世界に来たばかりの頃は、まさかこうなるとは思いもしなかったが、夢を叶えられた喜びは今のようなふとした瞬間に湧き上がった。
 春一は小学校に通いだしたばかりの頃、ささいなきっかけで仲たがいをした相手からいじめにあったことがある。
 当時気弱だった春一は抵抗もできず、かといって親や教師に告げることもできず、悲しい気持ちで不安な日々を過ごすしかなかった。
 いじめは徐々にエスカレートしていった。始めは無視やからかいだったが、次第に悪辣な言葉で心を刺され、何をするにしてもくすくすと笑われる。
 そしてある日、登校中にいじめっ子たちに見つかり小突かれて転んでしまった。教室に顔を出した当時の担当はすぐに春一の怪我に気がつき、朝のホームルームを中断して保健室に連れて行ってくれた。
 保健室の先生は不在にしており、担当がかわりに手当てをしてくれた。その時に椅子に座る春一の前に膝をつき目線を合わせて、いじめっ子たちとの最近のことを教えてほしいと言われた。教師の目を盗んで行われていたことだったので確実な場面を目撃したわけではなかったそうだが、薄々なにかあると勘付いていたらしい。
 春一はすぐに応えることができなかった。
 先生がとても真剣な表情で、大人と一対一で向き合うことなどまずなかったので戸惑ったということもある。だがなにより、触れては欲しくなかった話題に触れられて恐怖のような緊張感が全身に駆け抜けたからだ。
 自分がいじめられているのだという自覚はあった。でも言えなかったのは、言えば担任への告げ口をしたともっとひどいことをされるかもしれない恐怖もあったし、友達と仲良くできない自分を恥じる気持ちや、親を悲しませたくない想いもあった。いじめられていることを情けなくも思っていた。
 言えば、きっと誰もが困る。どうしたものか、と困った顔をされるのもいやだった。もしくはそんなことで、と呆れられるかもしれない。
 もしかしたら明日、このいじめは終わるかもしれない。明日でなくてももう少ししたら、自分があと少し我慢をしたら――そう思うと、余計に口はかたく閉じた。
 それでも担任は忍耐強く春一の言葉を待ち、彼女に励まされて少しずついじめの内容を語った。
 すべてを話し終えた後、先生は苦いものを飲んだような顔をして「もっと早くに聞いてあげなくてごめんね、たくさん我慢をさせてしまってごめんね」と何度も春一に謝った。
 すぐに相手の子たちにも話を聞き、そのうえで双方の両親にも事情を説明した。そして春一の望みを第一に考えてくれて、次年のクラスは別にすること、今回は謝罪だけで話を大きくしないことを約束して事を治めてくれたのだ。
 いじめっ子たちは自分たちの親と教師から叱られて深く反省したようで謝罪してきたが、傷ついた春一はすぐに許すことはできなかったし、それでいいと先生は言ってくれた。

『許していいと思える日が来たのなら、許してあげればいい。こなかったとしても、それだけ春一くんが傷ついたということなんだから、無理に今すぐに自分の気持ちを整理しなくていいんだよ』


 その言葉のおかげで、ありのままの気持ちを受け入れられるようになった気がする。

 教師の言葉に、どれだけ救われたかはわからない。
 春一の心は春一だけが決められるもので、たとえ常識や理性で抑えつけたとしても感じるものが消えるわけではない。傷ついたのなら、許さなくてもいい。でももういいかなと思えたら、許したっていい。
 教師の迅速な行動が、実は当たり前ではなくひたすらに幸運だったと知ったのは後になってからだった。
 いじめという悪質な行為に苦しめられる子が必ずしも助けてもらえるわけではない。ましてや周りの大人たちが被害者に寄り添うことなく、弱さを責めたり面倒を嫌って隠ぺいしようとすることもある。
 悲惨なそれは実のところ世の中にはありふれていて、春一がいた世界では常にどうあるべきか問題提起が投げかけられていた。
 でも表に出ているものがすべてではない。無事解決したことは話題性には欠けてそう話が広まるものではないから、春一のように早期に解決することもあれば、周りが親身になって被害者に寄り添うこともある。世の中は悲劇ばかりではないはずだ。
 春一は寄り添い、助けになれる人間になりたかった。
 周りの大人が助けてくれることは幸運ではなく当たり前のことにしたかったし、少なくとも自分だけは一人ひとりに向き合える人でありたかった。
 それはいじめられた子はもちろんのこと、いじめた子に対しても同じことだ。
 どうしてそうしてしまったのか、その子の背景に問題はなかったのか、理解したいと思う。環境次第で簡単に歪められるほど、子どもの芯は柔らかく、そしてなんでも吸収してしまう。環境ではなく本人の資質に問題がある場合も、今後そんな自分とどう向き合って生きていけばいいか一緒に考えてやりたいとも。
 子どもたちにはただ屈託なく、笑って日々を過ごして欲しいのだ。
 人には綺麗ごとだと言われたし、実際に自分でもそう思う。それでも春一の望みが変わることはなかったし、たとえ世界を渡った先でもその意思が揺らぐことはなかった。
 だからきっと、周囲に心配をさせないように気丈に振る舞っていたフェリクスの助けになりたいと強く感じたのだと思う。それはまるで使命のように、春一の胸に灯った願いであり、祈りでもあった。
 いじめを受けていた春一と、魔力過多に苦しんでいたフェリクスのつらさは異なるものだ。それでも心では誰かに助けてほしい、この状況を本当は変えてほしいのと願う気持ちがあったことに違いはない。
 結果として春一はフェリクスの命を救ったし、彼は立派な紳士に成長した。昔の虚弱だった様子は今や見る影もない。
 そして春一は思いがけず別の世界で教師になる夢を叶えることができた。
 思い描いていた形とは少々違うが、フェリクスをはじめとした子どもたちが健やかに成長していく手伝いができることが嬉しく、そして巣立っていく背を見ては誇らしいとも感じることができた。
 ありがたいことに衣食住は国に保障されているし、まだまだ改善の余地があるものの、やりがいのある仕事もあり日々充実している。ハル先生、と慕ってくれる子どもたちも可愛い。
 もとの世界ではきっと、今と同じ充足感を味わうことはできないだろう。年齢的に学び直せば向こうでも教師になることはできるだろうが、長年別世界で暮らしていた春一は一般常識から覚えなおしだし、そんな状況で子どもの味方になれるほどのゆとりがあるとも考えられない。
 単純にここにいたいと願う気持ちと、安定している今の生活から離れて元の世界で悠々自適に暮らせるはずがないと現実的に考える自分が心の隅から不安げに顔を出している。

「ねえハルせんせい?」


 腕を引かれて、いつのまにかまた考え込んでしまっていたことに気がついた。


「どうしたの、またぼーっとして」

「ごはん運ぶときは気をつけなきゃだめなんでしょ」
「ごめんなさい、そのとおりです。気をつけるね」
「なやみでもあるの? わたしにはなしてもいいのよ」

 七歳になる話好きの少女の優しさに春一はゆっくり目を細めた。


「ありがとう。昨日は何食べたっけなあって考えてたんだ」

「え、先生まさか思い出せないの」
「お昼ごはんはまだ食べてないよ、これからだからね。うちのおじいちゃん、よく食べたか食べてないか忘れちゃうの……」

 軽く告げた言葉に思いのほか深刻な表情をされて、慌てて取り繕う。それでも疑いの眼差しは消しきれなかったので、最後には厨房から漂う香りから今日のメニュー当てを再開させてなんとか子どもたちの笑顔を取り戻した。

 自分がうまく立ち回らなければ、この子たちとも離れることになる。
 フェリクスのことだから教師役の後釜をすぐに見つけてくれるだろう。子どもたちを残してしまうこと自体に不安はない。
 ただ、春一が寂しいだけだ。
 気を抜けばまた迫りくる帰郷について思いを馳せてしまいそうで、春一は足元に落ちる影を落とすように子どもたちの甲高い笑い声に耳を傾けた。


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