端から端まで、天井までも隙間なくすべて本に埋め尽くされており、ここだけでは仕舞いきれないための書庫を別室に用意したほどだ。
 溢れるほどの蔵書のすべてにフェリクスは目を通しているという。昔から身体を動かせない代わりに本の世界を自由に歩きわたり、思考を巡らせて楽しんでいたのだという。健康になった今でも読書の習慣は残っていた。
 春一もそのおこぼれにあやかりよく本を借りているが、それでも常に増え続けている書物を読みきれる日がくるとは到底思えない。
 室内に備え付けられた棚に並ぶ本の題名は昔のものとは変わっていたが、持ち主の性格を表すようにきっちりと規則づけられて並べられた背表紙は見ていて気持ちがいい。侍女たちが丁寧に清掃をしているので埃もない。
 懐かしい部屋の中をついぐるりと見回すと、ふと中央のテーブルに目が留まる。
 春一には少しだけとフェリクスは答えていたが、習慣になっているのか、テーブルにはすでに酒の用意がされていた。半分ほど中身の減った蒸留酒の瓶と水差し、春一の参加は予定になかったのでグラスはひとつだけ。

「グラスをとってくるよ」

「春一さえ構わなければ一緒のものを使いましょう。それほど飲むわけではないですし」
「フェリクスがいいなら」
「もちろん、春一が相手なら構いません」
「はは、セオドアさんに見つかったら注意されそう」
「今はふたりきりですから。いくらセオドアでも、部屋の中にまでは目は届かないですよ」

 いつもはストレートで飲んでいるそうだが、今日は春一に合わせ水で薄めてくれた。

 さっそく受け取ったグラスから一口含むように飲んでみただけで、苦みのようなものを感じて思わず顔を顰めてしまう。ほんの少量のはずだが、喉から身体の奥へと熱を持つ液体が流れていくのがわかった。
 様子を見守っていたフェリクスは、小さく笑いながら春一からグラスを取り上げる。

「口に合いませんでしたか」

「うぅ……ごめん。少しならいけると思ったんだけど」

 下戸であるうえに、もともと酒の味が苦手だった。時々飲むことがあってもアルコールを感じることがあまりない甘い果実を使った酒ばかりで、どちらかといえばジュースに近い感覚のものにしか慣れていない。

 手にしたグラスに口をつけて傾けたフェリクスは、やはり美しいくらいに絵になる。
 王子という立場に見合う品位と人々を魅了する美貌は一日の終わりでも崩れることはない。もちろん、酒の味に顔を顰めることもなかった。
 水で薄まった酒を味わったフェリクスは、これ以上水を足したところで春一には合わないと判断したのだろう。取り上げたグラスを返してくれる気配はない。というより今でもかなり薄めているので、あとはもうほんのり酒の風味がするほぼ水でしかなくなる。

「明日からはいつものハーブティーを用意するようセオドアに頼みますので、そちらで付き合ってください」


 春一が眠る前には酒ではなく、セオドアが淹れてくれるハーブティーを飲んでいることを知っていたようだ。セオドアから報告を受けていたのだろう、あくまで彼の主人はフェリクスなのだから。


「……そうする」


 今味わったばかりのものより、よほどそちらのほうが美味しいと思えるので、今は素直に頷いた。


「フェリクスと同じので楽しみたかったんだけど、仕方ないな」

「私も同じものを飲みますよ」
「ハーブティーを? でも、酒は……」
「そろそろ控えようと思っていたんです。飲み過ぎてもよくないですし、ちょうどいい機会ですから」

 本当のことかも知れないが、もしかしたら春一に合わせてくれたのかもしれない。


「そっか。ならおれからセオドアさんに頼んでおくよ」

「お願いします」

 ありがたくフェリクスの気遣いを受け取ることにする。気にせず好きにしてくれてよかったが、自分を優先してくれたようで少し嬉しかった。


「でも寝酒って、けっこう憧れがあったんだけどなぁ」

「憧れが必ずしも自分に合うとは限りませんからね。お酒なら夕食に楽しみましょう。本当ならお腹に何か入れながらのほうがいいですし」
「じゃあ、そっちも付き合ってくれるんだよな?」
「ええ、もちろんお供させていただきます。春一が酔っぱらっても、ちゃんと介抱してあげますから安心してください。行く先は同じ寝台ですからね。抱っこして運んであげますよ」
「そこまで飲まないよ! 酒は飲んでも飲まれるなっていう諺がもとの世界にはあってだな。なにより、そんなことになったらセオドアさんに後でなんて言われるかわからないから……」
「確かに。私もまだ加減ができずに飲み過ぎた時には、セオドアに強引に対処されたことがあります」

 それは春一にも心当たりがある。

 かなり酒に弱いという自覚がないうえに、果実酒は飲みやすいとあおり続けてしまった。気づかないうちにかなり酔いが回っていたらしく、気がついた時にはセオドアに世話をされながらけろけろと吐いていて、隣から延々と小言を言われたものだ。
 もちろん翌日は二日酔いだった。身体が楽になるお茶を淹れてくれたが、ちくちく響く嫌味は気分が収まるまで続いていた。
 きっとフェリクスも似たような経験をしたに違いない。

「そういうわけですから、寝る前のお酒は止めておきましょう」

「わかったよ、無理はしないようにする」

 思ったほど未練はなかった。寝酒を楽しみたかったというより、フェリクスと同じものを楽しみたかったからなのだと思う。

 自分には合わなかったと残念がるより、セオドアにどのハーブの組み合わせ淹れてもらおうか考えるだけで心が弾んでいる。
 それにこれまで時々しか同席できなかった夕飯も、おそらくフェリクスは時間を作ってくれるだろう気配を感じてむしろ心が浮足立つ気がした。
 夕食時なら甘い果実酒を飲んでも問題はないし、春一でも飲酒をほどほどに楽しむことができるだろう。

「あ、でも諦めないからな? またいつか再挑戦してやる」


 意気込む春一に、フェリクスはただ薄く笑うだけだった。

 いつもであれば「お付き合いします。飲めなければ私がまた処理しますから」など、そんな言葉をかけてくれるはずだった。
 曖昧な微笑の意味を考え、すぐに悟る。二人の間に未来がないからだ。
 またいつか、春一が示すそれは数日先の話ではない。少しずつ酒に慣れ、そして今よりも味覚が鈍くなっていく何年、何十年先の話だ。
 でももうじき春一はもとの世界に帰る。春一が過ごす未来は別の世界で、フェリクスがいるのはこの世界。一緒になって寝酒の時間を楽しむ夜などありはしない。
 それをわかっていて、優しいフェリクスははっきりと指摘はしないでくれている。今この時に寂しさを呼び込むのは無粋だともわかっているはずだ。
 だから春一も沈黙することにした。自分の言葉を撤回することでその優しい気遣いを跳ねのけるのはいやだったし、何より、まだ帰るという未来は決まっていないのだから。
 フェリクスと同じ酒を飲む日のためにも、やっぱり帰るわけにはいかない。
 決意を新たに、しかし今は久しぶりの二人の夜をただ純粋に楽しむことにした。
 それからしばらく他愛ない雑談をして、薄い酒をフェリクスがすべて飲み終えたところで二人は立ち上がる。
 脱いだガウンを椅子の背にかけたフェリクスにならい、春一も上を脱いだ。

「そういえば、風呂上りにセオドアさんがいたずらしてきてさ」


 あられもない寝間着事件を話しながらベッドに向かう。


「フェリクスならすけすけ喜ぶって言うもんだから、三十過ぎた男のそんな姿見て喜ぶ変態じゃないって訂正しておいてやったからな」


 そこまで言って、そういえば変態じゃないと反論したのは紐パンツの時だったか、なんてことを思い返していたら、隣でくすりと笑う気配がする。


「――春一のそんな姿なら、見たかったも」

「おまえまでからかうなって」

 先に春一がベッドに入り、フェリクスが後に続く。

 ベッドはお互いが大の字になっても問題ないくらい広々としていたが、二人は打ち合わせもなく当然のように身を寄せ合った。

「前はよく一緒に寝ていたのに、随分久しぶりだよな」

「そうですね。もう、大人ですから」

 魔力過多に苦しんでいた子どもはもういない。

 本来なら今のこの瞬間は不要な時間だが、それはどちらも言葉にしなかった。
 迫りくる永遠の別れまでの時間を二人で過ごすための、口実が欲しかったから。
 ただしフェリクスは思い出を語らい別れを惜しむため。
 春一は留まるための一言をもらうため。
 目的が違うことを思うと、少しだけ、胸の中をざらりとしたもので撫でられたような気持ちになる。

「春一、手を」


 右手をとられて、指を絡めるようにきゅっと握られた。


「冷えてしまっていますね。すみません、もう少し早く切り上げるべきでした」

「本当なら寝酒で温まってたはずなのに、飲めなかったのはおれだろ。フェリクスは何も悪くないよ。それに、この後はずっとおまえが温めてくれるだろ?」

 なにせ一晩中手を繋いでいるのだ。すでに春一の手は一回り大きな手に覆うように包まれ、体温が馴染み始めている。

 肌寒さを覚えていた身体が解れていき、力が抜けていくのが自分でもわかった。

「昔は逆だったのにな」


 体温が低いのはフェリクスのほうだった。そして震えそうになる少年を抱きしめ熱を分けてやるのが春一の役目だったはずなのに。

 歳月を経た今、すっかり立場は逆転してしまったようだ。

「足を挟んであげましょうか?」

「いいよ、そこまで冷え切っているわけじゃないってわかってるだろ」

 足の指先まで凍るように冷え切っていたフェリクスが可哀想で、春一はよく自分の足の間に細く頼りない彼の足を挟んで温めてやった。使用人が温石を用意してくれていたが、春一の体温を分けてやった方がフェリクスがよく眠れたからだ。

 フェリクスも当時のことを覚えていたようで嬉しくなる。

「一応、結んでおきますね」


 手を繋ぐことによって魔力を春一に移すが、眠ってしまって意識がない間も互いに手を離さずに一晩中過ごすのは不可能だ。だから眠る時にはいつも手を離してしまわないように柔らかいタオルで結んでいた。

 まだフェリクスが魔力過多に苦しんでいた時、寝ている間にうっかり離れてしまえば素肌が触れ合う面がなくなってしまって魔力の流れが途切れ、文字通り死活問題になる。当時は魔法で外れないようにがっちりと固定していたが、ある程度状況にゆとりができてからは、魔法での固定はせずにただ結ぶだけにした。
 フェリクスが魔法を使い、二人の重なる手にくるくると布を巻きつけていく。
 意思があるように動く布の様子は春一にとってはいつ見ても不思議な光景で、魔法のある世界に身を置いて長いが未だに慣れることがない。自分には使えないせいだろう。
 だからつい魔法が使われると魅入ってしまうのだが、不意に鼻がむずむずとしてくしゃみをしてしまった。

「大丈夫ですか?」

「ああ、うん。思ったよりも冷えてたのかな」

 まだむず痒さを感じる鼻を春一がすすっていると、フェリクスは魔法で結びかけていたタオルと、繋いでいた手を解いてしまった。


「どうかし――ぅわっ」


 身体を引き寄せられたかと思ったから、くるりと視界が回る。

 驚きに目を瞬かせているうちに目の前からフェリクスが消えて、その代わりに背中から温もりに包まれた。
 背後から回された手が、毛布の中に潜り込んでいた春一の手を見つけ出し指を絡めて握りしめる。
 すっぽりと背中から抱きしめて、フェリクスは耳元に吹き込むよう囁いた。

「私がとくに寒がっていた日に、春一はよくこうして抱きしめてくれましたよね」


 足を挟んで温めてもまだフェリクスが震えるようなら、後ろから抱きしめるようにして眠った夜も確かにあった。けれどまだフェリクスが春一の腕にすっぽりと収まるくらいの時の話だ。あっという間に背が抜かれてしまったので両手で足りるくらいの回数しかやっていない。

 思いのほか弾力がある胸筋を後頭部で感じる。甘やかな顔立ちからは想像できないほど実用的に鍛えられている身体は全身が重たい筋肉で覆われており、春一の前に回された腕も骨太で逞しく、羨ましいほどだ。
 いつもなら男の理想のようなフェリクスの肉体を拝めるときには憧憬の眼差しを向けるものだが、こうして触れて感じることは殆どない。

「私が春一を温めてあげられるなんて、嬉しいです」


 同じ香油を馴染ませたはずの肌なのに、フェリクスのほうがなんだかいい匂いがする気がした。

 さっきから近くにいて、すっかり鼻が慣れたはずの匂いなのにまた嗅ぎとるだなんて、それだけ密着しているということだ。
 自分の嗅覚から事実を改めて突き付けられると、かっと顔が赤くなる。
 身体が冷えていたのなんてほんのわずかな間だった。
 心臓がどきどきと早鐘を打ち、全身に血液が巡っていく。すぐに指先まで熱がともり、むしろ肌が汗ばむ気配すらある。
 手汗を気にして繋がりを解こうとしても、フェリクスは応じてくれなかった。それどころか重なる手にタオルがぐるぐると巻きつけられてしまう。

「あの、もうそんな寒くないから、離れてもらっても……」


 まさかこのまま眠るつもりかと、ゆるりと拘束している腕のなかで春一は動揺してしまった。


「寝づらいですか?」

「そ、そういうわけじゃないけど。でも、フェリクスは邪魔だろ? ただでさえ手を繋いでるのに」
「いいえ、むしろ春一を抱えているほうが落ち着きます。嫌でないならこうしてくれませんか」

 ただ驚いて落ち着かないだけだ。そんな風に言われて嫌だと言えるほど、拒絶する気持ちはない。むしろフェリクスが望むのであれば春一の答えなど決まっている。


「べつに、いいけど。でも、寝苦しいとかあったら無理せずすぐに離せよ」

「はい。大丈夫だと思いますけどね」

 ふっと笑ったときに零れた吐息がつむじをくすぐる。思わずもぞりと身じろぎするが、やはりフェリクスの腕が開かれることない。


「おやすみなさい、春一」

「――おやすみ」

 フェリクスは本当にこのまま眠るつもりらしく、その後に語りかけてくるようなことはなかった。

 春一を抱いているほうが落ち着くと告げた言葉のとおりに、顔は見えないがリラックスした様子で、いつまでも混乱さめやらずにいるのが恥ずかしくなってくる。
 こうしで抱かれるのは初めてでも、同衾は毎晩のように繰り返していた時期があるし、春一から抱っこしてあげていたことだってあるのだ。いくら久しぶりとはいえただ寝るだけで、慌てることなど何もないはず。
 むしろ、こんなにも動揺しているほうがおかしい。
 以前からフェリクスの身体には男として見惚れていたのだから、今の状況は憧れた肉体に抱きしめられているようなものだ。それが突然のことだったから脳の処理が追いつかずに興奮してしまっただけのはず。
 フェリクスからすればただの親切心であって、なおかつ抱き枕の代わり程度なもの。それなのにいつまでも気にしていたら気まずい思いをさせてしまうかもしれない。
 フェリクスもまったく気にしていないとおり、なんてことはない。そう自分に言い聞かせているうちに、過剰に抱えた熱も鎮まり冷静さを取り戻していく。
 思い切って身体の力を抜くと、まだ起きていたらしいフェリクスに少しだけ身体を引き寄せられた。
 それにまた少しだけ鼓動が早くなる。どうかフェリクスには気づかれていないように願うばかりだった。
 こんな状態で眠れるだろうか。
 不安になったが、背中から包み込んでくれる人肌の温もりは思っていた以上に心地よかった。
 互いの体温が馴染むとまどろみがやってくる。意識が沈み込むほどにフェリクスとの境が曖昧になっていき、繋いだ手はまるでひとつになったように錯覚する。
 ――ああ、すごく安心する。あったかい。
 胸の中が優しいなにかで満たされると、やがて春一は深い眠りに誘われていった。

 ―――――
 

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