かすかな衣擦れの音に気がつき、春一ははっと目を覚ました。
ベッドの縁に寄りかかっていた身体を起こしてフェリクスのほうへ顔を向けると、ゆっくり瞬きをしている青い瞳が見えた。
「フェリクス、よかった。起きたんだな」
「はる、いち……?」
フェリクスも目覚めたばかりなのか、まだぼんやりとしているようだった。声がかすれていたので、まずは助け起こして水を飲ませてやる。
フェリクスがまた横になっている間に、外にいる護衛に彼が目覚めたことを伝えた。
ようやく一息つけたような笑顔を見せた彼らにセオドアへの伝達を頼み、春一は再びフェリクスのもとに戻る。
「ずっと、私の傍にいてくれたのですか」
「そりゃな。もう自分で魔力を移せそうか?」
頷きで答えたフェリクスに、春一は右手の手袋を外してそっと彼の頬に手を添えた。やはりまだ魔力は十分とはいえないのだろう、素肌で触れるとまだ体温が低いのがわかる。
相変わらず春一は魔力の流れを知ることはできないが、それでもフェリクスの頬が徐々にぬくもりを取り戻していくのを掌で感じた。
これでもう大丈夫。順調に魔力を引き出していく様子にようやく確信を得て、知らず知らずのうちにほっと息が漏れていた。
「しっかり魔力を補充しておけよ」
「すみません、迷惑をかけてしまって」
「迷惑はないけど心配はした! みんな心配してたんだから、元気になったらあとでちゃんと顔を見せてやれよ」
フェリクスが倒れたという話は、彼の身の回りの世話をする王弟宮で働く者たちには伝わっている。邪魔になってはいけないと見舞いは控えているが、部屋の外では誰しもフェリクスを案じて彼の回復を心待ちにしていた。
本当は春一も部屋の外で待っているつもりだった。とにかく今は少しでも多く魔力を回復する必要があるが、特殊な体質の春一が近くにいるだけで何かしらの影響が出ないとも限らない。それなら傍にいないほうがいいと思った。
けれど、だめだった。
目を放している間に容態が急変したらどうしよう。何かしらの事情でさらに魔力が減ってしまったら――多少の魔力は渡せたのだから大事はないはずだと自分に言い聞かせても、悪い状況について考えることをやめることができない。
そんな不安からどうしてもフェリクスから離れがたく、一度は部屋の外に出たものの、扉の前から動けなくなってしまった。
そんな春一にフェリクスの隣にいるように勧めてくれたのは、セオドアをはじめとした周囲の人間だ。
目覚めた時、春一がいたらきっとフェリクスは喜ぶはず。皆が口々にそう言ってくれたが、きっと春一の拭いきれない恐れを理解してくれたのだろう。誰しも不安があっただろうに、傍で介抱する役目を譲ってくれたのだ。
周りの優しさのおかげでフェリクスの目覚めに一番に気がつくことができた。報告を聞いたみんなもきっと今頃胸を撫で下ろしていることだろう。
「それで、何をそんなに魔力を使ったんだ? あの騒ぎを収めるくらい、いつのものフェリクスなら余裕だったはずだろ?」
「それは――」
フェリクスは目線を逸らして明らかに言い淀む。
「もしかして……おれと一緒に寝ていたからか? 思っていた以上に、おれに魔力を渡しちゃってた?」
皮膚の接触からの移動は微々たる量だと聞かされていた。それでも幼いフェリクスには気休め程度でも必要で、少しでも体内の魔力を減らすための苦肉の策で手をつないで寝ていたと認識していたのだが、大人となっては勝手が違うのかもしれない。
「それは……っ」
顔色を変えた春一にフェリクスは咄嗟に身体を起こそうとしたが、まだ体調が万全でないせいで浮かしかけた背はふらりとベッドに戻る。
「な、なにやってんだ! おとなしくしてなきゃ――」
「ちがいます。春一のせいじゃありません」
思わず伸ばした春一の手を掴み、フェリクスは言った。
「詳しくは言えませんが、新しい研究をしています。それに使う魔力の消費量が多いせいです。ある程度は残していたつもりですが、見誤って魔力を枯渇させてしまっただけです。だから春一のせいじゃありません」
おそらく、ただ強盗に対処する程度なら問題がなかったのだろう。
しかし相手が魔法使いで、さらに魔力暴走という不測の事態に対応することになった。そうして想定していたよりも魔力を消費してしまい、春一から補給する間もなく倒れてしまったというのが事の真相らしい。
「難しい研究なのか?」
詳しくは言えないと言われたのに、思わず口から出ていた。
普段の春一ならきっと聞かなかった。
互いの領分を守り、線を引いてただその事実だけを受け入れていたことだろう。それでも今回尋ねてしまったのはきっと、それだけフェリクスが倒れたことが衝撃的だったから。
「おまえがそんなぎりぎりの状態になっているなんて……」
「どうしても、やりたくて。少しでも早く完成させたいと焦ってしまいました」
ようやく、ここ最近のフェリクスの不調に合点がいった。春一を帰すために魔力を溜めるほかに、その魔法研究に取り組んでいたせいだったのだ。
長年心血を注いできた異世界転移の魔法が完成したばかりというのに、まさに身を削るほどに熱を傾けている別の魔法研究があるとは知らなかった。
フェリクスのことだから、きっと何かのためになるような魔法なのだとは思う。仮にそうでなかったとしても、春一が口を挟むことではない。
それでも、いつもならきっと言えていたはずの「そっか」と受け入れる言葉が出てこない。
固く口を結ぶ春一に、掴んでいた手を放してその指先を顔に伸ばしてくる。
「でも、あなたを心配させてまですることではありませんでしたね」
「フェリクス……」
指先がするりと目元をなぞる。同じようにフェリクスの視線が動き、痛ましげに眉を寄せた。
きっと今、春一の目元は赤くなっているだろう。隈もできているかもしれない。
フェリクスが目覚める少し前まで、不安でずっとその寝顔を眺めていた。その目元に疲れが出ているのに気づいたのだ。
「ずっと見てくれていたんですね」
「……あたりまえだろ。倒れたんだぞ、おまえは」
「すみません」
再び春一の手を取ると、上掛けを持ち上げて中へと誘う。
「もう私なら大丈夫ですから、一緒に休みましょう」
「でも、魔力が」
「魔力なら十分補給させてもらいました。それに、ただ寝るだけですから」
身体をずらし、もう一人が入れる場所が作られる。
躊躇うが、どこか甘えがにじむ声音に名前を呼ばれて、そろそろとフェリクスの腕の中に入り込んだ。
いつものように背中を向けたところで、包み込む体温の暖かさに気づいてしまった。フェリクスが魔力を取り戻している証拠であるが、ずっと緊張状態にあった春一の身体は冷え切っていたのだ。
これではせっかく取り戻した体温を奪ってしまう。
「やっぱりおれ――わっ」
やはり駄目だと思って身体を起こしかけたが、つい数分前まで寝込んでいたとは思えない力でフェリクスの腕の中に引き戻された。
「春一も疲れているでしょう。私もまだ休まなければいけないし、一緒に寝ましょう」
「フェリクスがもう大丈夫ならおれも安心して休むよ。でも一人のほうがゆっくりできるだろう?」
本当は離れがたい。意識ははっきりしているし、魔力もしっかりと取り戻したので心配はいらないとわかっているのに、何故だか傍にいたいと思う。
だが春一がいてはフェリクスも安らげないだろう。自分がしたくて介抱していたが、それでやつれた姿を見せつけてしまっては、心優しい彼が気に病まないはずがない。
代わりにセオドアをつけようと再び離れようとするが、身体に回る腕がそれを許さなかった。
「――行かないで」
耳元に寄せられた唇が、かすれた声で囁く。
「傍にいてください。春一と一緒でないと、安心して眠れない」
「……甘えてるのか?」
無言で後頭部に額を押しつけられる。
春一が身体を動かそうとすると、今度は拘束されなかった。ここまで言っても駄目なら諦めるという意思表示だろう。
居心地のいい腕の中から出ることなく、春一は身体を反転させた。向かい合ったフェリクスの顔を覗き込み、ふっと口元が緩む。
「本当はおれも、フェリクスと一緒じゃないと安心できない」
おいて行かれそうな子どものように心なさげだった顔が、春一とお揃いのように小さく綻んだ。
きっと体調不良で心細くなっているのだろう。
幼い頃から自制心が強かった彼は、余程のことがなくても周囲に甘えることはなかった。春一に対してさえもいつでも紳士然としているし、今ではすっかり大人になってしまって、もう聞くことはないかもしれないとさえ思っていたのに。
「おまえといるよ」
珍しいフェリクスのおねだりを突っぱねることなどできるわけがない。
自分よりも大きく成長したフェリクスがどうしようもなく可愛く見えて、よしよしと頭を撫でてやる。
少し驚いたようだったが、すぐに安堵したように目を細めた。
「春一」
「ん? 寝ていいんだぞ」
「――私たち、口づけ合いましたよね」
ゆっくりと毛並みを撫でるようにしていた手が思わず止まる。
無意識に身体が逃げうったが、フェリクスに掴まれて離れることは叶わなかった。
「そ、それは……っ」
フェリクスが無事に目を覚ましたことですっかり忘れていたが、魔力譲渡のためとはいえ口移しをした。唇を重ね合わせたことに間違いはない。
あの時はフェリクスも朦朧としているようだったし、悪い夢でも見たと思ってくれればいいと願っていたのに。
「あれは、治療で。セオドアさんから魔力を移す方法を聞いて、それで……で、でもちゃんとおまえに確認とってからやったからな!」
「なるほど。そういうことでしたか」
フェリクスも魔力譲渡の噂は知っていたらしい。探求心が疼くのか「迷信だと思っていたが、やはり相性次第であり得るのか。それともやはり自分の魔力だったから?」とつぶやく。
ひとまず嫌悪を感じている気配はないことに安堵した。
「確認をとったとはいえ、意識がはっきりしてなかったのにごめんな。でももうあれはやらなくていいから安心してくれ」
「あの、私は」
「というか、もうそんな事態を起こさないでくれよ! 本当に心配したんだから」
「……気をつけます」
妙に空いた間は、きっとフェリクスも重く受け止め反省してくれたからだろうと、春一は勝手に納得することにした。
「ありがとう、春一。私はいつだってあなたに助けてもらってばかりですね」
「そんなの、おれのほうが――」
本当に助けられているのは春一だというのに、その言葉を告げようとした唇をそっとフェリクスの指先がなぞった。
それ以上、春一に何も言わせるつもりがないからだろう。だがじっと口元を見つめられている気がして、その他の意図があるのではないかと勘ぐってしまう。
だってそこは、フェリクスと何度も――
下唇を撫でる指先を押しやって、ぐいっと毛布を引き上げた。
「ほら、いつまでもうだうだしないで寝る! まだ調子じゃないんだから」
「はい」
くすくすと笑ったフェリクスは、おやすみと言うと目を閉じた。
それからすぐに寝息が聞こえてくる。やはりまだ体力は回復しきっていなかったようだ。
あっさりと寝ついたフェリクスをしばらく眺めているうちに、どきどきと高鳴っていた心臓がゆっくりと落ち着いていく。
手を伸ばし、フェリクスの手をそっと握った。わずかに当たる膝や足先からもわかっていたが、やはりいつもの体温に戻っているのをしっかりと感じる。
――よかった。
倒れた時はどうなることかと思ったが、あれだけ会話もできたし、本当にもう大丈夫だと確信を持つ。
フェリクスが指摘したとおり、春一も疲れ切っていたのだろう。
目を閉じると、すぐにことりと眠りについた。
―――――